第十七話 理想の桃花、現実の黒狼
黒山の夜は賑やかだ。
昼間は畑を耕し、武器を整え、山道を警戒している者たちも、夜になれば酒を飲み、笑い、騒ぐ。
火の粉が舞う。
肉の焼ける匂い。
下品な笑い声。
賊崩れの集団らしく、品はない。
だが。
どこか温かい。
黒山には、不思議な空気があった。
奪うためだけの場所ではない。
生きるための場所。
帰る場所。
それを作ったのが、屋根の上で寝転がっている男だ。
「……眠ぃ」
時雨は酒瓶を抱えながら空を見ていた。
星が綺麗だった。
風が少し冷たい。
「またそんなところで寝てる」
柔らかな声。
時雨が片目だけ開ける。
「桃香か」
劉備――桃香は、困ったように笑っていた。
手には湯気の立つ茶。
「飲む?」
「お、気が利く」
時雨は起き上がり、茶を受け取った。
温かい。
「酒じゃなくて悪いけど」
「いや、今はこっちのがいい」
桃香は時雨の隣へ座る。
少し距離が近い。
だが本人は全く気にしていない。
「皆まだ飲んでるのか」
「うん。鈴々ちゃん元気すぎて大変」
「想像つく」
時雨は苦笑する。
遠くから。
「肉なのだぁー!」
「鈴々! それ私のだ!」
「姉者も落ち着いてください!」
騒がしい声が聞こえてくる。
愛紗が苦労しているのが容易に想像できた。
「平和だねぇ」
桃香がぽつりと呟く。
時雨は空を見る。
「……一瞬だけな」
「え?」
「今だけだ」
静かな声だった。
桃香が時雨を見る。
赤い目は、どこか冷たかった。
「黄巾は終わった。でも次が来る」
「……」
「諸侯同士の戦だ」
風が吹く。
焚火の火が揺れる。
桃香は少し黙った。
彼女も分かっている。
この平和は長くない。
乱世はまだ始まったばかりだ。
「時雨さんは」
桃香が静かに聞く。
「怖くないの?」
「あ?」
「これから、もっと沢山の人が死ぬかもしれない」
時雨は少し考えた。
そして。
「怖ぇよ」
あっさり答えた。
桃香が目を瞬かせる。
「意外……」
「何が」
「もっと“どうでもいい”って言うかと思った」
「言いてぇけどな」
時雨は苦笑する。
「でも現実はそうじゃねぇ」
人は死ぬ。
飢える。
裏切る。
奪う。
時雨は、それを嫌というほど見てきた。
「理想だけじゃ生き残れねぇ」
低い声。
桃香は静かに聞いていた。
「優しいだけじゃ駄目だ。綺麗事だけじゃ人は守れねぇ」
「……」
「時には奪うし、殺すし、切り捨てもする」
それが現実だ。
時雨は、それを知っている。
だからこそ、必要なら汚れる。
守るために。
「桃香」
「うん?」
「アンタ、甘いよ」
桃香は少し笑った。
「やっぱりそう思う?」
「思う」
即答だった。
「お人好しすぎる。騙されるタイプ」
「えへへ……よく言われる」
「笑い事じゃねぇ」
時雨は呆れたように茶を飲む。
「アンタみたいなのは、乱世じゃ食われるぞ」
桃香は夜空を見上げた。
「でも」
「あ?」
「私は、それでもいいかなって思う」
「は?」
「騙されても、失敗しても、それでも人を信じたい」
柔らかな声だった。
だけど。
不思議な強さがある。
「皆が笑って暮らせる場所を作りたいの」
桃香は微笑む。
「戦が無くて、お腹いっぱいご飯食べられて、安心して眠れる場所」
時雨は何も言わない。
「きっと難しいよ?」
桃香は苦笑する。
「私、そんなに頭良くないし、強くもないし」
「それは知ってる」
「ひどい!?」
時雨が吹き出す。
桃香も笑った。
だが。
彼女の目は真っ直ぐだった。
「でもね」
「……」
「愛紗ちゃんも、鈴々ちゃんも、皆そんな未来を信じてくれてる」
だから。
諦めたくない。
その言葉に、時雨は静かに目を細める。
「綺麗だな」
「え?」
「アンタの理想」
それは本音だった。
眩しいくらい真っ直ぐだ。
だからこそ。
「でも無理だ」
時雨は静かに言った。
桃香は驚かなかった。
「うん」
「否定しねぇのか」
「だって、本当に難しいと思うから」
桃香は苦笑する。
「人って、そんなに簡単に優しくなれないもん」
「……」
「でも」
彼女は時雨を見る。
「だからって諦めたくないの」
夜風が吹いた。
時雨はその顔を見る。
天然で。
危なっかしくて。
隙だらけで。
なのに。
誰より強い目をしている。
「アンタ変な奴」
「時雨さんに言われたくないなぁ」
「それもそう」
二人は少し笑う。
しばらく沈黙。
遠くで鈴々の声が響く。
「酒飲むのだー!」
「駄目だ鈴々ぃぃ!!」
愛紗の悲鳴も聞こえた。
時雨はケラケラ笑う。
「委員長苦労してんなぁ」
「愛紗ちゃん真面目だから」
「真面目すぎ」
「でも優しいよ?」
「知ってる」
即答だった。
桃香は少し嬉しそうに笑う。
「時雨さんって、ちゃんと見てるよね」
「あ?」
「皆のこと」
時雨は少し黙る。
そして鼻で笑った。
「……癖だ」
「癖?」
「人見ねぇと、生き残れなかった」
敵か。
味方か。
裏切るか。
死ぬか。
時雨はずっと人を観察して生きてきた。
「だから分かる」
「何が?」
「アンタは、本当に馬鹿みたいに優しい」
「馬鹿みたいは余計だよぉ」
「でも」
時雨は少し笑った。
「嫌いじゃねぇ」
桃香が目を丸くする。
そして。
ふわりと笑った。
「そっか」
「何だよ」
「嬉しいなって」
「……」
「時雨さんにそう言ってもらえるの」
その笑顔を見て。
時雨は少しだけ視線を逸らした。
眩しい。
本当に。
この少女は眩しすぎる。
「……アンタ」
「うん?」
「乱世向いてねぇよ」
桃香は笑った。
「時雨さんもだよ?」
「は?」
「だって本当は優しいもん」
「寝言は寝て言え」
「えへへ」
否定しながらも、時雨は少し笑っていた。
理想を語る少女。
現実を知る男。
本来なら、交わらない。
だが不思議と。
二人の会話は、どこか心地良かった。
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