第百七十話 新婚旅行の終わり
蜀軍本陣に滞在してから幾日もの時間が流れていた。
張燕にとって今回の旅は実に収穫の多いものだった。
北伐の最前線。
天の御使いと呼ばれる北郷一刀。
諸葛亮と龐統。
成長した劉備軍。
そして何より。
天下の流れそのものをこの目で見ることができた。
蜀は強い。
だが魏もまた強い。
曹操は健在だった。
覇王はまだ倒れていない。
だからこそ天下は面白い。
そんなことを考えながら張燕は蜀軍本陣を歩いていた。
その隣では孫策が当然のように腕へ抱きついている。
「そろそろ帰るの?」
孫策が尋ねた。
「そうだな」
張燕は頷く。
「十分見た」
北伐の現状。
蜀軍の強さ。
天の御使い。
目的は果たした。
そろそろ許昌へ戻る頃合いだった。
許昌には公務が山積みである。
袁紹。
袁術。
張勲。
荀彧。
様々な者達が待っている。
張燕がいない間も国は動いているのだ。
「少し寂しいですね」
後ろから声がした。
振り返る。
劉備だった。
桃色の髪を揺らしながら微笑んでいる。
その後ろには愛紗、鈴々、朱里、雛里、一刀達もいた。
「見送りか」
張燕が言う。
劉備は頷いた。
「はい」
「時雨さんには色々お世話になりましたから」
「何もしてないだろ」
「そんなことありません」
劉備は笑った。
確かに張燕は軍議に参加したわけではない。
戦に介入したわけでもない。
だが存在そのものが刺激になった。
蜀軍の将兵達もそう思っている。
天下を騒がせる黒山賊の頭領。
その男が戦を眺めながら何を考えているのか。
皆興味を持っていた。
愛紗が前へ出る。
「時雨」
「何だ」
「次に会う時は敵かもしれんな」
張燕は笑った。
「そうかもな」
天下は狭い。
いつ戦うことになるか分からない。
だが。
それでも不思議と険悪な空気はなかった。
鈴々が飛び出してくる。
「また来るのだ!」
「観光か?」
「観光なのだ!」
「戦場だぞ」
「細かいことは気にしないのだ!」
大笑いする鈴々。
張燕も笑う。
相変わらず元気だった。
そして。
朱里が少し緊張した様子で前へ出た。
「時雨さん」
「ん?」
「これを」
そう言って差し出したのは木製の模型だった。
いや。
模型ではない。
実物だった。
小型の木牛流馬。
張燕は目を丸くした。
「おい」
思わず声が出る。
その後ろで一刀が苦笑していた。
「結婚祝いだよ」
「結婚祝い?」
「ああ」
一刀は頷く。
「桃香達とも相談した」
張燕は固まった。
木牛流馬。
蜀軍最大級の兵站技術。
北伐を支える重要な発明。
それを渡すと言うのだ。
「正気か?」
張燕が尋ねる。
今度は諸葛亮が笑った。
「もちろん重要な技術です」
「ですが」
「友誼も大切ですから」
雛里も頷く。
「それに時雨さんなら、どうせ見ただけで真似しそうですし」
「失礼だな」
「否定できますか?」
張燕は黙った。
できなかった。
皆が笑う。
劉備も楽しそうだった。
「時雨さん」
「これは私達からの信頼の証です」
真っ直ぐな言葉だった。
蜀と燕。
未来は分からない。
敵になるかもしれない。
だが今は違う。
少なくとも劉備は友として接していた。
張燕はしばらく木牛流馬を見つめる。
やがて。
小さく笑った。
「ありがたく貰う」
その言葉に劉備達も嬉しそうに笑った。
出発の日。
蜀軍本陣の入口には多くの者達が集まっていた。
見送りである。
張燕と孫策は馬へ乗る。
荷物の中には木牛流馬も積まれている。
孫策は苦笑した。
「本当に貰っちゃったのね」
「ああ」
「嬉しそう」
「嬉しいからな」
即答だった。
孫策は吹き出した。
「子供みたい」
「否定しない」
実際嬉しい。
新しい技術。
新しい発想。
そういうものは大好きだった。
そして。
張燕は最後に振り返る。
そこには劉備達がいた。
桃香。
愛紗。
鈴々。
朱里。
雛里。
そして北郷一刀。
皆がこちらを見ている。
「時雨さん!」
劉備が呼ぶ。
「何だ」
「また会いましょう!」
張燕は笑った。
「ああ」
「またな」
短い言葉だった。
だが十分だった。
そして馬を進める。
孫策も続く。
蜀軍本陣が少しずつ遠ざかっていく。
北郷一刀がその背中を見送る。
「行っちゃったな」
一刀が呟く。
劉備も頷いた。
「そうですね」
不思議な男だった。
敵なのか味方なのか。
善人なのか悪人なのか。
最後までよく分からない。
だが。
確かなことがある。
張燕という男は天下を動かしている。
北郷一刀と同じように。
歴史の流れそのものを変えている存在なのだ。
一方。
街道を進む張燕達は上機嫌だった。
特に張燕である。
木牛流馬を何度も見ている。
「そんなに好き?」
孫策が呆れる。
「好きだな」
「戦より?」
「いい勝負だ」
「重症ね」
孫策は笑った。
だが張燕は真面目だった。
兵站は戦争そのものだ。
だから価値が分かる。
しばらく進む。
そして夕暮れ。
張燕は空を見上げた。
蜀。
魏。
呉。
燕。
天下は大きく動いている。
北郷一刀。
曹操。
劉備。
孫策。
公孫瓚。
様々な英雄達がそれぞれの未来を目指している。
そして自分もまたその一人だった。
「帰るか」
張燕が言う。
「許昌へ?」
「ああ」
今度は許昌が待っている。
燕国の新たな中心地。
袁紹達の統治状況。
荀彧の仕事。
山のような政務。
考えることはいくらでもある。
孫策は笑顔で頷いた。
「じゃあ帰りましょう」
「私達の国へ」
張燕も笑う。
そして二人の馬は西日を背に走り出した。
こうして戦場を巡る奇妙な新婚旅行は終わりを迎えた。
だが天下の動乱は終わらない。
むしろこれからが本番だった。
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