【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百七十五話 雪蓮の願い

第百七十五話 雪蓮の願い

 

 

許昌の街は今日も活気に満ちていた。蜀との同盟が成立し、木牛流馬の導入も順調に進み、燕国はかつてないほど安定した時期を迎えている。城下では商人達が行き交い、職人達は新たな工房を建て、兵士達もどこか余裕を取り戻していた。そんな平和な空気の中、張燕はいつものように政務から逃げようとしていた。

 

「時雨様」

 

背後から声が飛ぶ。

 

振り返るまでもない。

 

荀彧だった。

 

「どこへ行かれるのですか」

 

「散歩だ」

 

「政務です」

 

「散歩だ」

 

「政務です」

 

いつものやり取りだった。

 

荀彧は額を押さえる。

 

かつて曹操を支えた名軍師も、今では張燕の監視役のようになっていた。

 

「仕事が山積みです」

 

「明日やる」

 

「昨日も同じ事を言いました」

 

「明日やる」

 

「だから昨日も」

 

その時だった。

 

横から腕が伸びる。

 

張燕の腕へ抱きついた。

 

「時雨は私が借りるわ」

 

明るい声。

 

孫策だった。

 

長い桃色の髪を揺らしながら笑っている。

 

「雪蓮様!」

 

荀彧が抗議する。

 

しかし孫策はどこ吹く風だった。

 

「今日くらいいいじゃない」

 

「良くありません」

 

「いいの」

 

そしてそのまま張燕の腕を引っ張る。

 

「行くわよ」

 

「おう」

 

張燕も素直についていく。

 

荀彧の叫び声が背後から聞こえたが、二人は気にしなかった。

 

しばらくして。

 

二人は許昌郊外の丘へ来ていた。

 

風が心地良い。

 

遠くには城壁が見える。

 

穏やかな景色だった。

 

孫策は草原へ腰を下ろす。

 

そして張燕の肩へ寄り掛かった。

 

「平和ね」

 

「ああ」

 

「昔じゃ考えられないわ」

 

確かにそうだった。

 

黒山賊だった頃。

 

戦場を駆け回っていた頃。

 

今日を生きるだけで精一杯だった。

 

だが今は違う。

 

国がある。

 

仲間がいる。

 

守るべきものがある。

 

孫策は空を見上げた。

 

しばらく沈黙が続く。

 

珍しく静かだった。

 

張燕は少し不思議に思う。

 

普段の孫策ならもっと騒がしい。

 

何か考え事をしているようだった。

 

「どうした」

 

張燕が尋ねる。

 

孫策は少し笑った。

 

「ねえ時雨」

 

「何だ」

 

「一つお願いがあるの」

 

その声はいつもより柔らかかった。

 

張燕は首を傾げる。

 

「お願い?」

 

「ええ」

 

孫策はしばらく迷うように視線を落とした。

 

そして。

 

静かに口を開く。

 

「子供が欲しいの」

 

風が吹いた。

 

草原が揺れる。

 

張燕はしばらく何も言わなかった。

 

孫策も続けない。

 

ただ隣で空を見ている。

 

やがて張燕が口を開く。

 

「急だな」

 

「そうかしら」

 

「かなり急だ」

 

孫策はくすりと笑った。

 

だがその瞳は真剣だった。

 

「昔は考えたこともなかったの」

 

彼女は静かに語る。

 

「王になること」

 

「戦うこと」

 

「国を守ること」

 

「そればかりだった」

 

呉王として生きてきた。

 

戦乱の時代を駆け抜けてきた。

 

立ち止まる暇などなかった。

 

「でも今は違う」

 

王位は孫権へ譲った。

 

戦場の最前線に立つことも少なくなった。

 

そして。

 

隣には張燕がいる。

 

「家族が欲しいって思うようになったの」

 

その言葉に張燕は黙る。

 

孫策は笑った。

 

少し照れくさそうに。

 

「変かしら」

 

「いや」

 

張燕は首を振った。

 

「変じゃない」

 

それは自然な願いだった。

 

天下の英雄であろうと。

 

王であろうと。

 

一人の人間であることに変わりはない。

 

孫策は少し安心したようだった。

 

「良かった」

 

そして。

 

張燕の肩へ頭を預ける。

 

「時雨はどう思う?」

 

静かな問いだった。

 

張燕は空を見る。

 

青空が広がっている。

 

昔の自分なら考えもしなかった未来だった。

 

黒山賊の頭領。

 

賊として生きていた男。

 

そんな自分が国を持ち、仲間を持ち、未来を語る。

 

不思議なものだった。

 

「悪くない」

 

やがてそう答えた。

 

孫策が顔を上げる。

 

「本当?」

 

「ああ」

 

張燕は笑った。

 

「賑やかになりそうだ」

 

その瞬間。

 

孫策の表情がぱっと明るくなる。

 

「本当に?」

 

「本当だ」

 

「やった!」

 

次の瞬間には抱きついていた。

 

勢いよく。

 

張燕は思わず後ろへ倒れそうになる。

 

「おい」

 

「嬉しいんだから仕方ないじゃない!」

 

満面の笑みだった。

 

まるで子供のようだった。

 

その様子を見ながら張燕も苦笑する。

 

戦場では獅子のような女。

 

だが今は違う。

 

ただ未来を夢見る一人の女性だった。

 

夕日が少しずつ傾いていく。

 

二人は並んで座りながらその景色を眺めていた。

 

遠くには許昌の街が見える。

 

燕国の中心。

 

多くの人々が暮らす場所。

 

そして二人の帰る場所。

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「これからもよろしくね」

 

孫策が笑う。

 

張燕も小さく笑った。

 

「ああ」

 

短い返事だった。

 

だがそれで十分だった。

 

戦乱の世はまだ終わっていない。

 

魏も蜀も呉も燕も、それぞれの未来へ向かって進み続けている。

 

それでも。

 

この穏やかな時間だけは確かに存在していた。

 

二人は夕焼けに染まる空を見上げながら、静かに未来へ思いを馳せるのだった。

 




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