第百七十六話 側室騒動
許昌の朝は今日も騒がしかった。燕国の都として急速に発展を続けるこの街には、各地から商人や職人が集まり、活気に満ちている。そんな中、王城の一角ではまた別の意味で騒がしい出来事が起きようとしていた。
原因は孫策だった。
「時雨には側室が必要よ!」
朝食の席で突然そう言い放ったのである。
張燕は飲んでいた茶を吹きそうになった。
「何を言い出す」
「真面目な話よ」
孫策は腕を組んだ。
その表情は本気だった。
冗談ではない。
本当に考えているらしい。
向かいに座る荀彧は額を押さえた。
また始まった。
そんな顔である。
「雪蓮様」
「何?」
「朝から何を仰っているのですか」
「だから側室よ」
孫策は当然のように言った。
「王族や豪族なら普通でしょ?」
「時雨は王ではない」
「でも実質それに近いじゃない」
反論できない部分があった。
燕国の王は公孫瓚だ。
だが誰もが知っている。
燕国最大の功臣。
黒山軍の頭領。
許昌攻略の立役者。
張燕の影響力は王にも匹敵している。
孫策は頷いた。
「それに」
「それに?」
「子供もたくさんいた方がいいでしょ」
張燕は頭を抱えた。
嫌な予感しかしない。
「誰か候補でもいるのか」
「もちろん」
孫策は即答した。
迷いがなかった。
そして。
満面の笑みで言った。
「星」
部屋が静まり返った。
張燕も。
荀彧も。
近くにいた侍女達も。
全員固まった。
「星よ」
孫策は堂々と言った。
「いや待て」
張燕が止める。
「本人の意思は」
「聞いてない」
「聞け」
即座に突っ込んだ。
しかし孫策は気にしない。
「でも星でしょ?」
「何がだ」
「どう考えても」
「どう考えた」
「昔から一緒にいるし」
「いるな」
「信頼してるし」
「してるな」
「美人だし」
「それはそうだ」
「強いし」
「強いな」
「時雨のこと好きそうだし」
そこで張燕は黙った。
孫策はにやりと笑った。
「ほら」
「ほらじゃない」
その時だった。
扉が開く。
当の本人が現れた。
趙雲である。
「呼んだか?」
爽やかな笑顔だった。
だが。
部屋の空気がおかしい。
全員が妙な顔をしている。
「どうした?」
趙雲は首を傾げた。
そして。
孫策が言った。
「ちょうどいいわ」
嫌な予感がした。
張燕も。
荀彧も。
全員がそう思った。
「星」
「何だ?」
「側室にならない?」
静寂。
見事なまでの静寂。
城中の時間が止まったようだった。
趙雲は固まった。
数秒。
十秒。
そして。
「は?」
ようやく声が出た。
当然だった。
朝から突然何を言われているのか分からない。
孫策は真面目だった。
「だから時雨の側室」
「何故そうなる」
「必要だから」
「何故必要なのだ」
「国のため」
「絶対違うだろう」
趙雲は頭を抱えた。
張燕も同じだった。
荀彧はもはや諦めている。
「雪蓮」
趙雲が真面目な顔になる。
「私は別に構わないが」
今度は張燕が固まった。
「待て」
思わず言う。
「構わないのか」
「いや」
趙雲は苦笑した。
「話を最後まで聞け」
そして続ける。
「構わないが」
「私一人で決めることではない」
当然だった。
そんな大事な話を即決できるわけがない。
孫策は頷く。
「つまり可能性はあるのね」
「そういう意味ではない」
「あるの?」
「……」
趙雲は黙った。
その沈黙がまずかった。
孫策の目が輝く。
「あるのね!」
「落ち着け」
張燕が止める。
しかしもう遅かった。
孫策の中では何かが始まっていた。
「やっぱり!」
「私は前から思ってたのよ!」
「何をだ」
「星は時雨のこと好きでしょ?」
直球だった。
趙雲は珍しく言葉に詰まった。
顔が少し赤い。
張燕も困る。
荀彧は面白そうに見ていた。
「星殿」
「荀彧まで何だ」
「否定しないのですか?」
「……」
「否定しないのですか?」
二度聞かれた。
趙雲は天井を見上げた。
逃げ道を探している。
しかし見つからない。
昔からそうだった。
黒山時代。
幽州時代。
官渡。
許昌。
どれだけ長い時間を共に過ごしただろう。
信頼している。
尊敬もしている。
好意があるかと問われれば。
それを完全に否定することも難しかった。
「やれやれ」
趙雲は苦笑した。
「面倒な話になったな」
その言葉に孫策は勝利を確信したようだった。
「つまり!」
「だからそういう話ではない」
趙雲は額を押さえる。
張燕もため息を吐く。
結局。
その日の会議は完全に崩壊した。
政務どころではなくなったのである。
午後になる頃には噂が城中へ広がっていた。
『趙雲殿が側室候補らしい』
『孫策様が言い出した』
『頭領が困っている』
黒山軍の兵士達は大盛り上がりだった。
「おお!」
「ついにか!」
「星様なら文句なし!」
好き勝手言っている。
張遼などは大笑いしていた。
「うちは前からそう思っとった!」
呂布もこくこく頷いている。
「お似合い」
馬超まで参加した。
「確かにな!」
事態はどんどん大きくなっていく。
そして。
夕方。
王城の庭園。
張燕は一人で空を見上げていた。
やっと静かになれたと思った。
だが。
足音が聞こえる。
振り返る。
そこには趙雲がいた。
「騒がしいな」
張燕が言う。
「全くだ」
趙雲も苦笑する。
二人は並んで座る。
しばらく沈黙。
心地良い静けさだった。
やがて。
趙雲が小さく笑った。
「雪蓮らしい」
「ああ」
「とんでもないことを言い出す」
「いつものことだ」
二人は笑う。
昔から変わらない。
騒がしくて。
自由で。
周囲を振り回す。
それが孫策だった。
風が吹く。
夕日が空を赤く染める。
趙雲はその景色を見ながら静かに呟いた。
「だが」
「ん?」
「少しだけ」
「少しだけ嬉しかったかもしれんな」
張燕は何も言わなかった。
趙雲もそれ以上は語らない。
ただ二人は並んで夕焼けを眺める。
遠くからはまた孫策の騒ぐ声が聞こえてきた。
おそらくまだ諦めていない。
許昌の平和な日常は、今日も騒がしく続いていくのだった。
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