第百七十八話 黒山賊の悪知恵
蜀の北伐は終わった。
結果だけを見れば魏の勝利だった。
長安周辺で行われた幾度もの戦いの末、蜀軍は撤退を余儀なくされ、劉備と諸葛亮は成都への帰還を決断したのである。
その報告が許昌へ届いた日、燕国の重臣達は複雑な表情を浮かべていた。
蜀は同盟国。
敗北は決して喜べる話ではない。
だが同時に、曹操の底知れない強さを改めて思い知らされる結果でもあった。
許昌城の執務室。
張燕は一枚の報告書を眺めていた。
「負けたか」
短く呟く。
蜀軍は善戦した。
諸葛亮も北郷一刀も全力を尽くした。
それでも曹操は耐え切った。
むしろ途中から押し返したのである。
「やっぱり強いな」
張燕は椅子へ深く腰掛けた。
その向かいには荀彧がいる。
「当然です」
即答だった。
「華琳様を甘く見てはいけません」
元魏軍軍師らしい答えだった。
張燕も否定しない。
官渡。
許昌。
長安。
何度戦っても曹操は立ち上がる。
負けても終わらない。
追い詰められるほど強くなる。
まるで怪物だった。
「困ったな」
張燕は天井を見上げる。
「何がです?」
荀彧が尋ねる。
「華琳が元気そうだ」
「そこですか」
荀彧は頭を抱えた。
張燕は真面目だった。
本当に困っている。
曹操が弱れば天下の均衡も変わる。
だが現実は逆だった。
魏はしぶとく生き残っている。
「さて」
張燕は笑う。
その笑顔を見た瞬間。
荀彧は嫌な予感を覚えた。
非常に嫌な予感だった。
「何を考えているのですか」
「嫌がらせ」
「やめてください」
即答だった。
だが張燕は聞いていない。
「戦で勝つのは難しい」
「だから嫌がらせだ」
「子供ですか」
「賊だ」
「威張ることではありません」
張燕は机の上へ地図を広げた。
長安。
涼州。
雍州。
魏の支配地域。
じっと眺める。
そして。
黒い笑みを浮かべた。
「なるほど」
「何がなるほどですか」
「華琳が嫌がることが見えてきた」
荀彧は聞きたくなかった。
だが聞かないともっと危険だ。
「何ですか」
張燕は指を立てた。
「商人だ」
「商人?」
「商人」
意味が分からない。
荀彧は首を傾げる。
張燕は説明する。
「華琳は戦が強い」
「はい」
「軍も強い」
「はい」
「だから正面から戦わない」
「嫌な予感しかしません」
張燕は続けた。
「商人を集める」
「市場を育てる」
「税を下げる」
「人を呼ぶ」
荀彧は少し驚いた。
予想外だった。
もっと酷い案かと思っていた。
「つまり?」
「魏の商人を引き抜く」
静寂。
そして。
荀彧は理解した。
「……」
「嫌だろ?」
「嫌ですね」
心の底から嫌だった。
戦ではない。
略奪でもない。
だが確実に国力を削る。
商人が移る。
職人が移る。
税収が減る。
人材が流出する。
長期的には非常に痛い。
「華琳なら怒る」
張燕は断言した。
「凄く怒る」
「でしょうね」
荀彧も同意した。
間違いなく怒る。
「他には?」
「他にもある」
張燕は笑う。
その顔は黒山賊時代そのものだった。
「魏の近くに巨大市場を作る」
「交易路を押さえる」
「難民を保護する」
「技術者を集める」
「人材を集める」
荀彧は途中で気付いた。
これ。
嫌がらせというより国家戦略ではないか。
しかもかなり優秀な。
「時雨様」
「何だ」
「それは嫌がらせではありません」
「違うのか?」
「国力強化です」
張燕は少し考えた。
そして。
「華琳が嫌がるなら嫌がらせだろ」
「そういう理屈ですか」
荀彧はため息を吐いた。
だが間違ってもいない。
結局。
強い国を作ることが最大の圧力になる。
戦わずして相手を苦しめる。
実に張燕らしい発想だった。
その頃。
遠く長安。
勝利を収めた曹操は執務室で報告書を読んでいた。
「燕が市場整備?」
曹操が眉をひそめる。
「はい」
郭嘉が頷く。
「許昌周辺で大規模な商業政策が始まっています」
曹操は黙った。
嫌な予感がした。
何年も張燕と戦ってきた。
だから分かる。
あの男が大人しくしているはずがない。
「……また何か企んでいるわね」
「間違いなく」
郭嘉も断言した。
そして長安と許昌。
二つの都で。
覇王と黒山賊は再び見えない戦いを始めようとしていた。
剣でも槍でもない。
知恵と国力の戦いを。
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