【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百八十話 揺らぐ心

第百八十話 揺らぐ心

 

 

建業の王城では、表向きには何も変わらない日々が続いていた。

 

呉王孫権は毎日政務をこなし、各地から届けられる報告書に目を通し、呉という大国を支えていた。

 

だが。

 

一つだけ以前と違うことがあった。

 

北郷一刀の存在である。

 

最初の会談からしばらくして、一刀は再び建業を訪れていた。

 

名目は同盟国同士の意見交換。

 

蜀と呉の協力体制の確認。

 

軍事や交易についての話し合い。

 

どれも王として必要な仕事だった。

 

誰も怪しむ者はいない。

 

だが孫権自身は気付いていた。

 

自分が以前よりもその会談を楽しみにしていることに。

 

執務室で書類を整理していたある日のことだった。

 

「呉王様」

 

侍女が頭を下げる。

 

「蜀より使者が到着いたしました」

 

「そう」

 

孫権は何気なく返事をした。

 

だが。

 

次の言葉で手が止まる。

 

「北郷一刀様です」

 

一瞬だけ。

 

本当に一瞬だけだった。

 

孫権の表情が和らぐ。

 

それを侍女は見逃さなかった。

 

「お通ししますか?」

 

「もちろんよ」

 

努めて平静に答える。

 

しかし心は少しだけ弾んでいた。

 

自分でも理由は分からない。

 

王として多くの人物と会ってきた。

 

英雄。

 

豪傑。

 

軍師。

 

将軍。

 

だが北郷一刀だけは少し違った。

 

やがて執務室の扉が開く。

 

「久しぶりだね」

 

穏やかな声。

 

一刀だった。

 

「ええ」

 

孫権も自然と微笑む。

 

「相変わらず忙しそうね」

 

「そっちこそ」

 

軽い挨拶。

 

だが不思議と心地良い。

 

堅苦しさがない。

 

王と王の側近。

 

本来ならもっと緊張する関係のはずだった。

 

しかし一刀と話していると、そんなことを忘れてしまう。

 

その日の会談も長く続いた。

 

交易路の整備。

 

河川輸送。

 

農業技術。

 

兵糧の管理。

 

話題は尽きない。

 

一刀は未来の知識を持っている。

 

だから発想が常人とは違った。

 

「なるほど……」

 

孫権は思わず感心する。

 

「そんな方法があるのね」

 

「民が豊かになるなら試す価値はあると思う」

 

一刀は笑う。

 

その笑顔が自然だった。

 

自慢げでもない。

 

恩着せがましくもない。

 

ただ本当に民の暮らしを良くしたいと考えている。

 

そこが孫権には眩しく見えた。

 

王という立場になると人は変わる。

 

権力に溺れる者もいる。

 

野心に飲まれる者もいる。

 

だが一刀は違った。

 

名声にも。

 

権力にも。

 

あまり執着しているように見えない。

 

それでいて天下へ大きな影響を与えている。

 

矛盾した存在だった。

 

「ねえ」

 

孫権がふと尋ねる。

 

「どうしてそこまで劉備に尽くせるの?」

 

一刀は少し驚いた。

 

そして小さく笑う。

 

「桃香だからかな」

 

その答えに偽りはなかった。

 

「桃香は本気で平和を信じている」

 

「だから手伝いたくなるんだ」

 

孫権は黙る。

 

劉備。

 

確かにあの王は不思議な人物だった。

 

理想家。

 

夢想家。

 

そう言われてもおかしくない。

 

だがその理想に人が集まる。

 

諸葛亮も。

 

関羽も。

 

張飛も。

 

そして北郷一刀も。

 

「羨ましいわね」

 

思わず口にしていた。

 

「え?」

 

「そんな風に信じてもらえるなんて」

 

一刀は少し考える。

 

そして言った。

 

「孫権も十分凄いと思うけど」

 

「私が?」

 

「うん」

 

迷いのない返答だった。

 

「呉をまとめているし」

 

「みんな信頼している」

 

「だから今の呉がある」

 

孫権は言葉を失う。

 

褒められることには慣れている。

 

王だからだ。

 

だが。

 

今の言葉は違った。

 

お世辞には聞こえなかった。

 

ただ純粋にそう思っている。

 

そんな響きがあった。

 

会談が終わる頃には日が傾いていた。

 

窓の外は夕焼けに染まっている。

 

「もうこんな時間か」

 

一刀が立ち上がる。

 

「今日はありがとう」

 

「こちらこそ」

 

孫権も席を立つ。

 

そして。

 

一刀が去っていく背中を見送った。

 

扉が閉まる。

 

部屋に静寂が戻る。

 

それなのに。

 

なぜか少し寂しい。

 

「私は何を考えているのかしら」

 

孫権は苦笑した。

 

王である自分が。

 

同盟国の使者が帰っただけで。

 

こんな気持ちになるなど。

 

以前なら考えられなかった。

 

だが。

 

それでも否定できない。

 

北郷一刀と話す時間は楽しい。

 

もっと話したいと思う。

 

もっと知りたいと思う。

 

それは確かな感情だった。

 

同じ頃。

 

遠く許昌では張燕が呉から届いた報告書を読んでいた。

 

「ふむ」

 

隣にいた趙雲が首を傾げる。

 

「どうした?」

 

「いや」

 

張燕は苦笑した。

 

「天の御使いは相変わらず凄いなと思ってな」

 

「北郷一刀か」

 

「ああ」

 

報告書には蜀と呉の交流が以前にも増して活発になっていると書かれていた。

 

同盟は順調。

 

関係も良好。

 

悪い話ではない。

 

だが張燕は何となく思う。

 

あの天の御使いは。

 

ただ同盟を結ぶだけでは終わらない男だと。

 

「まあいい」

 

張燕は報告書を畳む。

 

「今は平和ならそれでいい」

 

そう呟く。

 

だが天下は静かに動いていた。

 

蜀。

 

呉。

 

燕。

 

そして魏。

 

それぞれの思惑が交差する中で、天の御使いと呉王の距離もまた少しずつ近付いていくのだった。

 




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