第百八十二話 夜の語らい
建業の夜は静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように消え、王城の回廊には柔らかな灯りだけが揺れている。
呉王孫権は自室で書類を整理していた。
蜀との交易。
燕との関係。
国内の政務。
王になってから仕事は尽きることがない。
ようやく一息ついた時だった。
侍女が部屋へ入ってくる。
「呉王様」
「何かしら?」
「蜀の北郷一刀様よりお手紙が届いております」
孫権の手が止まる。
北郷一刀。
最近ではその名前を聞くだけで少し胸がざわつくようになっていた。
侍女から書簡を受け取り、中を開く。
内容は簡潔だった。
今夜、少し話がしたい。
もし時間があるなら部屋へ来てほしい。
ただそれだけ。
政務の話なのか。
同盟の話なのか。
あるいは別の話なのか。
書簡からは分からない。
だが。
孫権はしばらく悩んだ末、小さく息を吐いた。
「……行こうかしら」
自分でも少し驚くほど自然な決断だった。
夜が更ける頃。
孫権は護衛を最小限にして客館へ向かっていた。
月明かりが庭園を照らしている。
不思議な緊張感があった。
戦場へ向かう時とは違う。
王として会談へ向かう時とも違う。
説明しにくい感情だった。
やがて客館へ到着する。
扉の前には侍女が立っていた。
「どうぞ」
案内されて部屋へ入る。
そこには一刀がいた。
「来てくれたんだね」
穏やかな笑顔だった。
孫権は軽く肩をすくめる。
「呼んだのはそっちでしょう」
「それもそうか」
二人は向かい合って座る。
卓上には茶が用意されていた。
最初はいつも通りだった。
政務の話。
天下の情勢。
魏の動き。
蜀と呉の今後。
話題はいくらでもある。
だが次第に話は変わっていく。
王としてではなく。
一人の人間としての話へ。
「疲れてない?」
一刀が尋ねた。
孫権は少し驚く。
そんなことを聞く者は少ない。
皆、呉王としての自分を見る。
だが一刀は違う。
「疲れているわ」
孫権は苦笑した。
「毎日大変よ」
「だろうね」
「姉様みたいにはいかないわ」
孫策は天性の英雄だった。
誰もが惹かれる太陽のような存在。
だが孫権は違う。
慎重で。
考え込む性格で。
いつも自分が正しいのか悩んでいる。
「でも」
一刀は静かに言った。
「今の呉には君が必要だと思う」
孫権は顔を上げる。
「私が?」
「うん」
迷いのない声だった。
「孫策には孫策の良さがある」
「でも孫権には孫権の良さがある」
「だから今の呉はまとまっているんじゃないかな」
しばらく言葉が出なかった。
王になってから。
褒められることはあった。
称賛されることもあった。
だが。
こういう言葉は初めてだった。
肩書きではなく。
自分自身を見てくれているような気がした。
気付けば二人の会話は深夜まで続いていた。
笑い合い。
時には真面目に語り。
気付けば時間を忘れていた。
窓の外を見る。
月は高く昇っている。
「もうこんな時間なのね」
孫権が呟く。
「ごめん」
「別にいいわ」
むしろ楽しかった。
そう思っている自分に気付く。
一刀も少し笑った。
「また話そう」
「ええ」
孫権は頷く。
自然と。
本当に自然と。
そう答えていた。
そして部屋を出る直前。
ふと振り返る。
一刀もこちらを見ていた。
言葉はない。
だが互いに理解していた。
以前よりも確実に距離が縮まっていることを。
王と使者。
同盟国同士。
そんな立場を越えて。
少しずつ。
確実に。
二人の関係は変わり始めていた。
夜の建業には静かな風が吹いていた。
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