第百八十四話 蜀と呉
建業の空気は変わっていた。
それは誰の目にも明らかだった。
かつて慎重で思慮深い王として知られた孫権は、今や誰もが畏れる存在となっていた。
重臣達は逆らわない。
豪族達も従う。
軍も動く。
呉王の命令は絶対となっていた。
そしてある日。
建業王宮の大広間に呉の重臣達が集められた。
張昭。
周瑜。
魯粛。
呂蒙。
陸遜。
呉を支える名臣達である。
しかし誰一人として表情は明るくなかった。
嫌な予感がしていたからだ。
玉座に座る孫権は静かだった。
かつての迷いはない。
王としての威厳だけが存在している。
「蜀との同盟を破棄する」
その一言で空気が凍った。
誰も言葉を発しない。
発せなかった。
最初に立ち上がったのは魯粛だった。
「お待ちください」
慎重な声だった。
「同盟は我らの国益に繋がっております」
「分かっている」
孫権は即答する。
「ならば何故」
その問いに孫権は静かに立ち上がった。
視線は南ではない。
西を向いていた。
荊州。
蜀の支配地。
そして。
その先にいる男。
「北郷一刀を手に入れる」
誰もが息を呑んだ。
言葉の意味は理解できた。
だが理解したくなかった。
周瑜が目を閉じる。
張昭が額を押さえる。
陸遜も困惑していた。
だが孫権は続けた。
「蜀は強くなりすぎた」
それは事実だった。
天の御使い。
北郷一刀。
諸葛亮。
蜀の躍進は異常だった。
天下の均衡を揺るがしている。
「このままでは蜀が天下を取る」
誰も反論できない。
可能性はあった。
十分に。
「ならば先に動く」
孫権の決意は揺るがない。
やがて命令が下された。
荊州侵攻。
呉軍総動員。
十万を超える大軍。
呉の軍旗が次々と掲げられる。
戦の準備が始まった。
その報せは瞬く間に天下へ広がった。
成都。
蜀王宮。
報告を聞いた劉備は立ち上がった。
「そんな!」
桃色の髪が揺れる。
顔は青ざめていた。
「どうして……」
同盟国だった。
友だと思っていた。
互いに協力して平和を目指していた。
それが突然の侵攻。
理解できない。
諸葛亮も険しい顔をしていた。
「呉軍は本気です」
「既に国境を越えています」
軍議の空気は重い。
その中で。
北郷一刀だけが静かだった。
「来たか」
その呟きに諸葛亮が振り返る。
「ご主人様?」
一刀は目を閉じる。
複雑だった。
孫権のことは理解していた。
真面目で責任感が強い。
だからこそ極端な決断を下す時がある。
一度覚悟を決めれば止まらない。
「蓮華……」
小さく呟く。
だが感傷に浸る時間はない。
戦は始まってしまった。
そして。
許昌。
張燕もまた報告書を読んでいた。
「本当に始めたか」
隣には趙雲。
荀彧。
孫策もいた。
孫策は頭を抱えている。
「蓮華……」
実の妹である。
誰よりも性格を知っている。
真面目。
頑固。
融通が利かない。
そして。
一度決めたら絶対に曲げない。
「止められないな」
孫策が呟く。
張燕も頷いた。
「無理だろうな」
周囲が反対しても意味はない。
既に軍は動いている。
戦が始まっている。
「どうする?」
趙雲が尋ねる。
張燕は地図を見る。
蜀。
呉。
魏。
燕。
四国の勢力図。
そして笑った。
「面白くなった」
「面白くありません」
荀彧が即座に否定する。
だが張燕は真面目だった。
天下は再び動き出した。
蜀と呉の決裂。
それは同時に。
長安の曹操を喜ばせる出来事でもある。
敵同士が潰し合う。
覇王が見逃すはずがない。
「華琳も動くだろうな」
張燕はそう呟く。
天下は再び乱れる。
蜀と呉。
かつての同盟国同士の戦い。
そしてその裏で動き始める魏と燕。
新たな戦乱の幕が静かに上がろうとしていた。
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