第百八十六話 静観する黒山賊
許昌。
かつて魏の都だった巨大な城は、今では燕国の重要拠点となっていた。
張燕――時雨は城壁の上から西の空を眺めていた。
遠く。
遠く。
その先では天下を揺るがす大戦が始まっている。
蜀と呉。
かつて同盟を結び、共に魏へ対抗していた二国が今や激しく争っていた。
その報告は毎日のように許昌へ届いている。
荊州各地で戦闘。
長江沿岸で衝突。
双方の軍勢が激突。
天下の注目は完全に西と南へ向いていた。
だが。
張燕は動かなかった。
「静かだな」
誰に言うでもなく呟く。
隣には趙雲がいた。
「静かだから不気味なのだ」
星は腕を組んだ。
戦好きな武人としては落ち着かないらしい。
張燕は苦笑した。
「俺達には関係ない」
「本当にそうか?」
「少なくとも今はな」
事実だった。
燕国は蜀とも同盟している。
呉とも同盟している。
どちらかへ味方すればもう一方を敵に回す。
今の燕にそんな必要はなかった。
戦で疲弊するより。
国を豊かにする方が重要である。
許昌。
冀州。
幽州。
青州。
并州。
兗州。
豫州。
燕は巨大国家となっていた。
領土だけなら天下有数。
むしろ今は内政を優先すべき時期だった。
「白蓮は?」
張燕が尋ねる。
「河北へ戻った」
星が答える。
「最近は王らしくなってきたぞ」
「最初から王だろ」
「本人がそう思っていなかった」
張燕は笑った。
確かにそうだった。
燕王公孫瓚。
本人はいまだに将軍気質が抜けていない。
だが河北の統治は安定している。
民からの支持も高い。
優秀な王だった。
「平和が一番だな」
張燕は呟く。
星は呆れた顔をした。
「賊の頭領が言う言葉か?」
「だからだ」
張燕は笑う。
戦がどれほど人を殺すか知っている。
村が焼かれる光景も。
飢える民も。
死んでいく兵士も。
嫌というほど見てきた。
だから平和が好きだった。
その頃。
許昌城の奥。
広い庭園では孫策が昼寝をしていた。
暖かな陽射し。
穏やかな風。
戦乱の時代とは思えない光景だった。
「いたいた」
張燕が歩いてくる。
孫策は目を開いた。
「時雨?」
「暇そうだな」
「暇じゃないわよ」
言いながら再び寝転がる。
説得力がない。
張燕は苦笑した。
そして隣へ腰を下ろす。
しばらく沈黙。
穏やかな時間だった。
だが。
張燕はふと尋ねた。
「なあ」
「ん?」
「呉へ戻りたいか?」
孫策の表情が止まる。
風が吹く。
木々が揺れる。
静かな庭園だった。
「蓮華のことかしら」
「まあな」
今の呉王は孫権。
実の妹である。
そして今。
呉は蜀と戦争中。
姉として心配してもおかしくない。
だが。
孫策は少し考えた後。
首を横へ振った。
「戻らない」
即答だった。
迷いはなかった。
張燕は少し驚く。
「いいのか?」
「いいの」
孫策は空を見る。
青空だった。
「蓮華はもう王よ」
その声は優しかった。
「王になった以上、自分で決めなきゃいけない」
姉が助けるべきではない。
孫権はもう子供ではない。
一国の王である。
「私は王を辞めた」
孫策は続ける。
「なら口を出す資格もないわ」
張燕は黙って聞いていた。
それは簡単な決断ではない。
孫策も悩んでいるはずだ。
心配しているはずだ。
それでも干渉しない。
妹を信じているから。
「それに」
孫策は笑った。
「今の私は燕の人間だし」
「黒山軍にも人気だしな」
「当然よ」
自慢げだった。
実際。
黒山軍からの人気は凄まじい。
元呉王。
絶世の美女。
しかも気さく。
兵士達からの支持は高かった。
「時雨の嫁だし」
「そこは自分で言うのか」
「言う」
即答だった。
張燕は呆れる。
孫策は楽しそうに笑う。
昔から変わらない。
太陽のような笑顔だった。
「それにね」
「ん?」
「今さら呉へ帰ったら蓮華が困る」
確かにそうだ。
元王が戻れば政治的な火種になる。
派閥も生まれる。
余計な争いも起きる。
だから帰らない。
それが孫策の選んだ道だった。
「蓮華なら大丈夫よ」
「信頼してるんだな」
「当然」
迷いのない返答。
姉妹だからこそ分かる。
孫権は弱くない。
むしろ恐ろしいほど強い。
普段は目立たないだけだ。
覚悟を決めた孫権ほど怖いものはない。
「蜀も大変だな」
張燕が呟く。
「そうね」
孫策も苦笑した。
天の御使い。
北郷一刀。
孫権。
どちらも頑固者。
どちらも譲らない。
戦になるのも当然だった。
やがて夕方になる。
二人は並んで城壁へ向かった。
そこから見えるのは巨大な許昌の街。
市場は賑わっている。
商人が行き交う。
子供達が走り回る。
兵士達も笑っている。
平和だった。
少なくともここは。
「いい国になったな」
孫策が呟く。
張燕は少しだけ照れ臭そうな顔をした。
「まだまだだ」
「欲張り」
「賊だからな」
「それ関係ある?」
二人は笑った。
遠くでは蜀と呉が争っている。
長安では曹操が牙を研いでいる。
天下は再び乱れ始めていた。
だが張燕は焦らない。
今は静観。
今は待つ。
そして。
その視線は西へ向いていた。
蜀でも呉でもない。
長安。
魏王曹操。
かつて自分を捕らえた覇王。
何度も戦った宿敵。
「華琳」
張燕は小さく呟く。
「そろそろ何か企んでるだろ」
その予感は不思議と確信に近かった。
天下が乱れる時。
あの覇王が黙っているはずがない。
そして張燕もまた。
そんな乱世を楽しむように笑うのだった。
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