【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第百八十八話 崩れた三分

第百八十八話 崩れた三分

 

 

許昌の夜は静かだった。

 

城壁の上に立つ張燕は、一人で夜空を見上げていた。

 

夏の風が吹いている。

 

遠くでは市場の灯りがまだ残っていた。

 

平和な光景だった。

 

しかし天下は平和ではない。

 

南では蜀と呉が激しく争っている。

 

交州は既に蜀の支配下へ入った。

 

荊州でも呉軍は後退を続けている。

 

そして今。

 

蜀軍は本格的に揚州へ侵攻を開始していた。

 

誰が見ても蜀優勢。

 

もはやそれは疑いようのない事実だった。

 

張燕は手に持った報告書を眺める。

 

そこには最新の戦況が記されている。

 

蜀軍前進。

 

呉軍後退。

 

城砦陥落。

 

補給線遮断。

 

次々と並ぶ文字。

 

その全てが同じ結果を示していた。

 

蜀が勝っている。

 

そして。

 

勝ちすぎている。

 

「……妙だな」

 

張燕は小さく呟いた。

 

その時だった。

 

後ろから足音が聞こえる。

 

振り返る。

 

荀彧だった。

 

「まだ起きていたのですか」

 

「考え事だ」

 

「またですか」

 

呆れた声だった。

 

だが張燕は珍しく真面目な顔をしている。

 

荀彧も気付く。

 

いつもの悪戯を考えている顔ではない。

 

「何を考えているのです?」

 

張燕はしばらく黙っていた。

 

そして。

 

「桃香だ」

 

そう答えた。

 

荀彧は少し意外そうな顔をした。

 

「蜀王ですか」

 

「ああ」

 

張燕は報告書を見つめる。

 

劉備。

 

桃香。

 

優しい王。

 

理想を追う王。

 

民を愛する王。

 

そして。

 

天下三分の計を語った王。

 

「昔な」

 

張燕が言う。

 

「桃香は言ってた」

 

「天下三分ですか」

 

「覚えてたか」

 

「当然です」

 

蜀。

 

呉。

 

燕。

 

三国で天下を分ける。

 

争いを終わらせる。

 

平和な時代を作る。

 

それが劉備の理想だった。

 

張燕もそう思っていた。

 

だから蜀と同盟した。

 

だから呉とも協力した。

 

だから三国で手を取り合えると信じていた。

 

だが。

 

今の状況は何だ。

 

張燕は再び地図を見る。

 

蜀軍の進路。

 

呉軍の後退。

 

その軌跡。

 

それを見ていると。

 

ある違和感が生まれる。

 

「桃香なら」

 

張燕が言う。

 

「ここまで攻めない」

 

荀彧も黙る。

 

その通りだった。

 

劉備の性格は知られている。

 

必要以上の戦を嫌う。

 

勝てるからといって滅ぼすような真似はしない。

 

なら。

 

なぜ蜀軍は進軍を続けるのか。

 

なぜ交州を取ったのか。

 

なぜ揚州まで狙うのか。

 

天下三分なら。

 

呉は必要な存在のはずだ。

 

それなのに。

 

今の蜀は明らかに呉を追い詰めている。

 

まるで。

 

最初から滅ぼすつもりだったかのように。

 

「……」

 

張燕の目が細くなる。

 

頭の中で様々な情報が繋がっていく。

 

天の御使い。

 

北郷一刀。

 

未来を知る男。

 

蜀躍進の立役者。

 

木牛流馬。

 

南蛮平定。

 

益州掌握。

 

荊州統治。

 

北伐。

 

全て。

 

全てが異常な速度だった。

 

普通ではない。

 

まるで最初から完成図を知っているようだった。

 

「時雨様?」

 

荀彧が声を掛ける。

 

張燕は答えない。

 

思考を続ける。

 

そして。

 

一つの結論へ辿り着く。

 

「そういうことか」

 

静かな声だった。

 

「何がです」

 

張燕は地図から目を離さない。

 

そして。

 

ゆっくりと言った。

 

「天下三分は桃香の夢だ」

 

荀彧が息を呑む。

 

「ですが」

 

「天の御使いの夢じゃない」

 

静寂。

 

風が吹く。

 

遠くで鐘が鳴った。

 

張燕は笑っていた。

 

だがその笑みはいつもの軽い笑みではない。

 

真実へ辿り着いた者の笑みだった。

 

「最初から違ったんだ」

 

蜀。

 

呉。

 

燕。

 

三国による平和。

 

それは劉備の理想。

 

劉備自身は本気だった。

 

今も本気だろう。

 

だが。

 

北郷一刀は違う。

 

あの男は現実を見ている。

 

理想ではない。

 

結果を見ている。

 

「呉を残す気がない」

 

張燕が断言する。

 

荀彧の表情も変わった。

 

その可能性に気付いたからだ。

 

もしそうなら。

 

全て説明できる。

 

今回の戦争も。

 

蜀の異常な準備も。

 

揚州侵攻も。

 

全て。

 

最初から呉を飲み込むためだった。

 

「孫権が攻めてきたのは偶然ですか」

 

荀彧が尋ねる。

 

張燕は首を振る。

 

「偶然じゃない」

 

「では」

 

「誘導された」

 

その言葉に荀彧も黙った。

 

確証はない。

 

だが。

 

北郷一刀ならできる。

 

人を動かす。

 

国を動かす。

 

流れを作る。

 

そして相手が自ら選んだと思わせながら。

 

望む方向へ導く。

 

恐ろしい話だった。

 

張燕は夜空を見上げる。

 

星が輝いている。

 

「天の御使い」

 

小さく呟く。

 

張牛角から聞いた話。

 

異世界の知識。

 

未来の歴史。

 

もし本当にそれを知っているなら。

 

北郷一刀が見ている景色は違う。

 

王達より遠くを見ている。

 

将軍達より先を見ている。

 

そして。

 

今の戦争も。

 

その未来へ向かう途中に過ぎない。

 

「危険だな」

 

張燕は笑う。

 

強いからではない。

 

賢いからでもない。

 

目的のためなら何十手も先を考える。

 

それが恐ろしい。

 

「天下三分」

 

張燕は呟く。

 

そして首を振った。

 

「最初から無かったのかもしれないな」

 

荀彧も反論できなかった。

 

南では蜀軍が進む。

 

呉軍は耐える。

 

だが戦局は傾いている。

 

もし呉が倒れれば。

 

天下は再び大きく変わる。

 

蜀。

 

燕。

 

魏。

 

三国。

 

いや。

 

その先にあるものを。

 

天の御使いは既に見ているのかもしれなかった。

 

張燕は報告書を畳む。

 

そしてゆっくりと歩き出した。

 

「面白くなってきた」

 

その言葉は本心だった。

 

乱世はまだ終わらない。

 

そして今。

 

張燕は初めて理解した。

 

天の御使い北郷一刀という男が、本当に何を目指しているのかを。

 




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