第百八十九話 覇王を求める者
許昌の夜は静かだった。
城の最上階。
執務室の窓から張燕は天下の地図を見つめていた。
机の上には大量の報告書が積まれている。
蜀軍の戦況。
呉軍の敗北。
魏軍の動向。
各地の商業報告。
全てに目を通していた。
しかし今の張燕が考えているのは内政ではない。
もっと大きな問題だった。
天の御使い。
北郷一刀。
その存在である。
部屋には誰もいない。
趙雲も。
呂布も。
張遼も。
荀彧もいない。
本当に一人だった。
だからこそ考えることができる。
飾らない本音を。
「勝てるか」
張燕は小さく呟いた。
誰に聞くでもない。
自分自身への問いだった。
もし。
もし今後。
蜀と燕が敵になったら。
自分は北郷一刀に勝てるのか。
しばらく沈黙が続く。
そして張燕は苦笑した。
「厳しいな」
それが答えだった。
張燕は自信家ではない。
だからこそ自分を正しく評価できる。
武なら負けない。
奇襲も得意だ。
賊としての経験も豊富。
だが。
北郷一刀は違う。
あの男は戦場だけを見ていない。
十年先。
二十年先。
国そのものを動かしている。
交州攻略。
呉との戦争。
荊州支配。
その全てが繋がっている。
まるで未来を知っているように。
「未来を知ってるんだが」
張燕は頭を掻く。
反則だろ。
そう思った。
普通の軍師なら読み合いになる。
普通の王なら駆け引きになる。
だが相手は天の御使い。
未来を知る男。
最初から持っている情報量が違う。
「面倒だな」
本当に面倒だった。
もし戦うなら。
自分一人では足りない。
それだけは分かる。
張燕は立ち上がる。
そして窓の外を見る。
東ではない。
南でもない。
西。
遥か彼方。
長安の方向だった。
魏王曹操。
かつての宿敵。
官渡で戦った女王。
自分を捕らえた覇王。
そして。
自分が最も警戒している人物でもある。
「華琳か」
張燕は呟いた。
思い出す。
官渡。
敗北。
捕縛。
許昌での日々。
毎日のように口説いてきた曹操。
今思い返しても濃すぎる記憶だった。
だが。
だからこそ分かる。
北郷一刀が恐ろしいなら。
それに対抗できる人物もまた限られている。
「天下で一番面倒な女だ」
張燕は笑う。
曹操。
あの女は絶対に諦めない。
負けても立ち上がる。
失っても進み続ける。
何度叩いても終わらない。
まるで怪物だった。
そして何より。
頭が良い。
異常なほどに。
「未来を知る男」
「覇王」
張燕は二つの名前を思い浮かべる。
北郷一刀。
曹操。
どちらも怪物だった。
そして張燕は気付く。
もし天の御使いと本気で戦うなら。
必要なのは武将ではない。
兵力でもない。
未来を知る男へ対抗できる頭脳。
それが必要だった。
「欲しいな」
自然と口から漏れる。
「華琳が欲しい」
その瞬間。
後ろから声がした。
「何が欲しいって?」
張燕は固まった。
振り返る。
そこには孫策がいた。
いつの間にか部屋へ入ってきていたらしい。
「聞いてたのか」
「途中からね」
孫策はにやにやしている。
非常に面倒な顔だった。
「曹操が欲しいって?」
「そういう意味じゃない」
「どういう意味?」
「戦略的な意味だ」
「ふーん」
全く信じていない顔だった。
張燕はため息を吐く。
だが孫策もやがて真面目になる。
「北郷一刀のこと?」
「ああ」
それだけで通じた。
孫策も聡明な王だった。
今の天下情勢を理解している。
「確かにね」
珍しく真剣な声だった。
「今の蜀は怖い」
「だろ」
「呉が負けてるし」
張燕は頷く。
孫権は強い。
周瑜もいる。
陸遜もいる。
それでも押されている。
それが異常だった。
「蓮華が弱いんじゃない」
孫策が言う。
「相手が悪い」
その通りだった。
張燕もそう思う。
北郷一刀がいる蜀。
あれはもう昔の蜀ではない。
一つの巨大な怪物になり始めている。
「だから曹操か」
孫策は納得したように頷く。
「華琳なら対抗できる」
張燕も頷いた。
曹操は北郷一刀と同じく天下を見ている。
国を見ている。
人を見ている。
そして。
決して油断しない。
「でも」
孫策が笑う。
「華琳は時雨が大好きだからね」
「やめろ」
「事実でしょ」
「やめろ」
二度目だった。
孫策は大笑いする。
だが張燕は笑わなかった。
本気で考えているからだ。
もし。
本当に蜀が呉を滅ぼしたら。
次はどこを見る。
燕か。
魏か。
あるいは両方か。
その時。
天下はどうなる。
張燕は再び西を見る。
長安。
覇王のいる場所。
「会うべきか」
静かな声だった。
宿敵。
天敵。
そしてかつて自分を欲しがった女。
今もなお諦めていないであろう覇王。
「華琳」
張燕は小さく呟く。
もし天下が新たな時代へ進むなら。
もし天の御使いが本当に天下統一を目指しているなら。
その前に。
一度だけ話さなければならない相手がいる。
張燕の視線は長安へ向けられていた。
蜀と呉が戦う中。
燕の黒山賊は新たな一手を考え始めていたのである。
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