第百九十三話 黒山軍、西進
許昌の城門が開かれた。
まだ夜明け前。
空には薄く朝靄が漂い、東の空が僅かに白み始めている。
しかし城内は既に目を覚ましていた。
無数の兵士。
無数の馬。
無数の旗。
十万。
黒山軍十万が出陣の準備を終えていた。
かつて山賊と呼ばれた者達。
河北を駆け回った賊達。
今や天下有数の軍勢となった彼らが西へ向かおうとしていた。
目的地は長安。
目標はただ一つ。
魏王曹操との決戦。
城門の前に張燕は立っていた。
黒い外套を羽織り、巨大な軍勢を見渡している。
兵士達の顔には不安がない。
あるのは期待だけだった。
なぜなら今回の総大将は張燕だからである。
黒山軍の兵士達にとって張燕は王ではない。
頭領だ。
昔から変わらない。
自分達を率いてきた男。
その男が久しぶりに黒山軍だけを率いる。
それだけで兵達は燃えていた。
「盛り上がってるな」
張燕が呟く。
その隣には荀彧がいた。
「当然でしょう」
荀彧は苦笑する。
「黒山軍からすれば祭りみたいなものです」
その言葉通りだった。
兵士達は笑っている。
冗談を言い合っている。
普通の出陣前とは思えない。
だが。
それが黒山軍だった。
恐怖で戦う軍ではない。
張燕についていくために戦う軍である。
「頭領!」
「勝ちましょう!」
「覇王を驚かせましょうぜ!」
あちこちから声が飛ぶ。
張燕は手を振る。
それだけで歓声が上がる。
荀彧は呆れた。
「本当に人気ですね」
「そうか?」
「自覚が無いのですか」
全く無かった。
そこへ別の足音が近付く。
趙雲だった。
槍を背負い、いつものように堂々としている。
「準備は終わった」
「早いな」
「誰かさんと違ってな」
嫌味だった。
張燕は聞こえない振りをする。
すると今度は別方向から歓声が上がる。
兵士達が道を開く。
現れたのは呂布だった。
赤の髪。
圧倒的な存在感。
ただ歩くだけで周囲の空気が変わる。
「恋」
張燕が手を上げる。
呂布は静かに頷いた。
相変わらず口数は少ない。
だが兵士達の信頼は絶大だった。
そしてその後ろから現れるのは張遼。
「おーい時雨!」
元気な声だった。
「久しぶりの大戦やな!」
「楽しそうだな」
「当たり前や!」
張遼は豪快に笑う。
戦場が似合う女だった。
さらに。
「待たせた!」
馬超もやって来る。
長い髪を揺らしながら愛馬を引いていた。
相変わらず勢いがある。
「今回は思い切り暴れられるんだろ?」
「たぶんな」
「よし!」
単純だった。
だがそこが馬超らしい。
そして最後に。
美しい笑顔と共に孫策が現れる。
元呉王。
小覇王。
孫策。
その姿を見た黒山軍は再び盛り上がる。
「姉御!」
「頑張れー!」
「頭領を頼みます!」
孫策は笑顔で手を振った。
既に完全に黒山軍へ馴染んでいる。
「人気者ね」
「お前ほどじゃない」
張燕が言う。
孫策は満足そうだった。
やがて全員が揃う。
張燕。
荀彧。
趙雲。
呂布。
張遼。
馬超。
孫策。
黒山軍の主力が並ぶ。
壮観だった。
許昌の城壁からも無数の民が見守っている。
そして。
張燕は前へ出た。
兵士達の視線が集まる。
十万の軍勢が静まり返った。
「野郎共」
張燕が口を開く。
その声はよく通った。
「今回は領土のためじゃない」
兵士達が耳を傾ける。
「金のためでもない」
風が吹く。
黒山の旗が揺れる。
「俺達がどこまでやれるか試す戦いだ」
歓声が上がる。
「相手は曹操だ」
さらに歓声。
「天下最強の覇王だ」
兵士達の目が輝く。
「だから勝つぞ」
単純な言葉だった。
だが十分だった。
次の瞬間。
大地を揺るがすような叫びが響く。
「おおおおおおおおおおおおっ!!」
十万人の咆哮。
空が震える。
鳥達が飛び立つ。
張燕は笑った。
やはり黒山軍はいい。
余計な理屈がいらない。
戦う理由も簡単だ。
頭領が行く。
だから行く。
それだけだった。
「出陣!」
張燕が叫ぶ。
太鼓が鳴る。
角笛が響く。
巨大な軍勢が動き始める。
許昌の門を抜け。
西へ。
長安へ。
覇王の待つ地へ。
隊列の先頭を進みながら孫策が笑う。
「楽しそうね」
「楽しいぞ」
張燕も笑う。
「華琳も同じ顔してるだろうな」
その言葉に趙雲がため息を吐く。
確かにそうだ。
今頃長安でも曹操が笑っている気がした。
宿敵。
ライバル。
覇王。
そして未来の同盟者候補。
二人の怪物が再び戦場で相見える。
西へ進む十万の黒山軍。
東から迎え撃つ魏軍。
蜀と呉が争う天下の裏側で。
もう一つの大戦が始まろうとしていた。
それは覇王と黒山賊の誇りを懸けた戦い。
そして天の御使いという未来の脅威へ向けた第一歩となる戦いだった。
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