第百九十六話 覇王の一手
戦場中央。
魏軍と黒山軍が激しくぶつかり合う中、張燕と曹操は互いの姿を確認していた。
遠い。
まだ馬を走らせればしばらく掛かる距離だ。
しかし不思議なものだった。
互いの考えていることが何となく分かる。
官渡。
許昌。
降伏。
裏切り。
再起。
長い年月の中で積み重なった因縁がある。
ただの敵ではない。
ただの友でもない。
説明の難しい関係だった。
「華琳」
張燕は小さく呟いた。
その頃。
魏軍本陣。
曹操は軍配を握ったまま黒山軍を見つめていた。
戦場全体を俯瞰している。
兵士の数。
将の動き。
士気。
補給。
地形。
全てを見ていた。
そして。
静かに笑う。
「本当に成長したわね」
官渡の頃なら考えられない。
張燕が正面決戦をしている。
それも堂々と。
逃げない。
隠れない。
正面から魏軍と殴り合っている。
曹操から見ても見事だった。
孫策から学んだ成果。
それを嫌というほど感じる。
「華琳様」
郭嘉が近付く。
「どう見ますか」
曹操は少し考えた。
そして答える。
「強い」
短い言葉だった。
だが。
それが最大級の評価だった。
「今の時雨には隙が少ない」
郭嘉も頷く。
同意見だった。
正面決戦ができる。
機動戦もできる。
奇襲もできる。
内政もできる。
外交もできる。
しかも発想が賊のまま。
敵に回したくない男だった。
「ならどうします?」
郭嘉が尋ねる。
曹操は笑った。
「簡単よ」
青い瞳が細くなる。
「弱点が無いなら作ればいい」
その言葉に郭嘉も笑った。
いかにも曹操らしい。
存在しないなら作る。
無ければ生み出す。
それが覇王だった。
一方。
黒山軍本陣。
荀彧が戦況を整理していた。
「右翼優勢」
「左翼五分」
「中央は拮抗」
悪くない。
むしろ良い。
魏軍相手に互角以上。
それだけで十分な成果だった。
しかし張燕は妙な違和感を覚えていた。
「静かだな」
「何がです?」
荀彧が尋ねる。
張燕は魏軍を見る。
夏侯惇は戦っている。
夏侯淵も戦っている。
兵達も戦っている。
だが。
何か足りない。
「華琳らしくない」
それだった。
曹操はもっと面倒な女だ。
もっと嫌なことをしてくる。
もっと厄介な策を打ってくる。
正面から殴り合うだけでは終わらない。
絶対に。
「警戒しろ」
張燕が言う。
荀彧も真顔になる。
「何か来る」
その予感は正しかった。
次の瞬間。
魏軍後方で旗が動いた。
新たな部隊が現れる。
数千。
いや一万近い騎兵。
それまで姿を見せていなかった予備兵力。
「伏せていたのか」
荀彧が目を見開く。
張燕は笑った。
「やっぱりな」
曹操らしい。
戦場へ出した兵が全てではない。
最初から隠していた。
しかも位置が嫌らしい。
黒山軍左翼後方。
補給線に近い位置だった。
「馬超!」
張燕が叫ぶ。
伝令が飛ぶ。
左翼を任されている馬超もすぐ理解した。
「ちっ!」
敵の狙いも分かる。
自分を釘付けにしたまま後方を突くつもりだ。
王道。
正攻法。
それを学んだ張燕。
だからこそ理解できる。
これは正しい一手だった。
そして。
同時に。
黒山流ならどうするかも理解できる。
張燕は笑った。
「面白い」
荀彧が嫌な顔をする。
この顔をした時の張燕はろくでもない。
案の定だった。
「桂花」
「嫌な予感しかしません」
「安心しろ」
「できません」
即答だった。
張燕は笑う。
そして地図を見る。
戦場を見る。
敵を見る。
全てが繋がる。
「華琳」
小さく呟く。
「お前も成長してるな」
官渡の頃とは違う。
敗北を経験した。
領土も失った。
都も失った。
だからこそ今の曹操はさらに強い。
だが。
張燕もまた同じだった。
孫策から王道を学んだ。
数多くの国を治めた。
人を見てきた。
戦を見てきた。
そして今。
覇王の一手に対して答えを返せる。
「雪蓮」
「何?」
「ちょっと行くぞ」
孫策の目が輝く。
その顔だけで分かる。
また何か企んでいる。
「正面から?」
「半分」
「半分?」
張燕は笑った。
「残り半分は黒山流だ」
荀彧が額を押さえる。
始まった。
やはりこうなる。
張燕は王道を覚えた。
だが。
賊を辞めたわけではない。
それどころか。
王道を覚えたことでさらに厄介になった。
正攻法も使える。
外道も使える。
どちらも理解している。
そして必要なら混ぜる。
それが今の張燕だった。
戦場では再び旗が動き始める。
魏軍も。
黒山軍も。
次の一手を打とうとしている。
覇王曹操。
黒山の頭領張燕。
二人の読み合いはまだ始まったばかりだった。
そして戦場の空気はさらに熱を帯びていく。
互いが互いを認めているからこそ。
この勝負は面白くなっていくのである。
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