第二話 狼と白銀の槍
山を下りてもなお、趙雲の胸中には黒山党の光景が残っていた。
痩せた子供たち。
配られる兵糧。
笑う村人。
そして、あの男。
張燕――時雨。
「……気に入らんな」
小さく呟き、趙雲は街道を歩く。
空は薄曇りだった。
春先だというのに風は冷たい。
道の脇には、飢えて倒れた流民が何人も蹲っている。
泣く子供。
虚ろな目をした老人。
死臭。
乱世の日常。
趙雲は足を止め、腰の袋から干し肉を取り出した。
「食べるといい」
少女が怯えたように見上げる。
「……いいの?」
「ああ」
少女は夢中で肉にかぶりついた。
その様子を見ながら、趙雲は静かに目を伏せる。
(これが、今の漢か……)
黄巾の乱以降、国は壊れ始めていた。
役人は賄賂に溺れ、地方豪族は民を搾り取り、官軍ですら村から食料を奪う。
守るべき者が、民を喰っている。
だからこそ山賊が増える。
黒山党のような存在が巨大化する。
本来ならあってはならないことだ。
だが。
(あの男は……)
趙雲は時雨の笑みを思い出す。
不愉快な男だった。
人を小馬鹿にしたような態度。
底知れぬ残酷さ。
それでいて、民にだけは妙に甘い。
まるで。
世界そのものを信用していないような目だった。
「――おい、姉ちゃん」
突然、前方から声が飛んだ。
趙雲が顔を上げる。
そこには武装した男たちがいた。
十数人。
鎧は粗悪だが剣や槍は持っている。
賊だ。
「随分と上玉じゃねぇか」
「一人旅か?」
「なら俺たちが守ってやるよ」
下卑た笑い。
趙雲は溜息をついた。
「どけ」
「あ?」
「今なら見逃してやる」
一瞬、空気が止まる。
次いで賊たちが爆笑した。
「聞いたかよ!」
「この女、自分が強ぇと思ってるぜ!」
「いいねぇ、そういう女は泣かせ甲斐が――」
ヒュン。
「……え?」
男の頬を何かが掠めた。
次の瞬間。
背後の木に槍が突き刺さる。
深々と。
まるで大木ごと貫くように。
賊たちの笑みが凍った。
趙雲は静かに構える。
「最後に言う。どけ」
殺気。
空気が震える。
賊たちは本能で理解した。
この女は化け物だと。
「っ、殺せ!!」
半ば悲鳴のような声で男たちが襲いかかる。
だが。
遅い。
趙雲の身体が風のように動く。
槍が閃いた。
ドッ――!!
「がぁっ!?」
一人が吹き飛ぶ。
返す穂先が別の男の腹を打つ。
骨が砕けた音。
さらに回転。
銀光。
槍の軌道が美しい。
まるで舞だ。
「ぐぁっ!!」
「ば、化け――」
趙雲は容赦なく賊たちを叩き伏せていく。
殺してはいない。
だが二度と逆らえぬほど徹底的に。
最後の男が腰を抜かした。
「ひ、ひぃ……!」
「失せろ」
低い声。
男は転がるように逃げていった。
静寂が戻る。
趙雲は槍を拾い、小さく息を吐いた。
「……弱い者を襲うだけの賊か」
その時だった。
パチ、パチ、と拍手が響く。
「いやぁ、強ぇな姉ちゃん」
趙雲の目が細まる。
木の上。
枝に腰掛け、一人の男が笑っていた。
黒い外套。
赤い目。
張燕――時雨。
「貴様……!」
「そんな睨むなよ」
時雨はひらりと飛び降りる。
「通りかかったら面白そうだったから見てた」
「助ける気はなかったのか」
「必要あったか?」
ケラケラ笑う。
「むしろあいつら可哀想だったぜ」
「……性格が悪いな」
「今さらだろ」
時雨は近くの岩に腰を下ろした。
まるで旧知の相手に接するような気軽さだった。
「で?」
「何だ」
「答え合わせだよ」
「……?」
時雨は口角を吊り上げる。
「黒山党より、今の連中の方がクソだったろ?」
趙雲は黙る。
事実だった。
先ほどの賊たちは、飢えた民からも平気で奪う類の人間だ。
だが黒山党は違う。
少なくとも、あの村では民を守っていた。
「だからといって、お前たちが正しいわけではない」
「正しい?」
時雨は笑った。
「まだそんな言葉信じてんのか」
「……」
「世の中な、“正しい奴”が勝つんじゃねぇ。“生き残った奴”が勝つんだよ」
風が吹く。
木々が揺れる。
時雨は空を見上げながら続けた。
「官軍は民を守らねぇ。豪族は民を食い物にする。だったら、奪う側になるしかねぇだろ?」
「弱者から奪う理由にはならん」
「だから俺は弱ぇ奴からは奪わねぇ」
即答だった。
そこに迷いはない。
「奪うなら、肥え太った奴からだ」
時雨の赤い目が細くなる。
「腐った役人、貴族、豪族……ああいう連中は面白ぇくらい金持ってる」
その口調は軽い。
だが、その奥には強烈な憎悪があった。
趙雲はそれを感じ取る。
「……何があった?」
「あ?」
「お前は、国そのものを憎んでいるように見える」
一瞬だった。
時雨の笑みが消えたのは。
だが次の瞬間には、またいつもの薄笑いに戻る。
「別に」
「……」
「昔、村が潰れただけだ」
それだけ言った。
だが、その短い言葉の中に全てが詰まっていた。
飢え。
圧政。
死。
見捨てられた過去。
趙雲はそれ以上聞かなかった。
聞くべきではない気がした。
「それより姉ちゃん」
時雨がニヤリと笑う。
「腹減ってねぇ?」
「……は?」
「飯だよ飯」
彼は立ち上がる。
「今日は猪が獲れたんだ。食ってけ」
「断る」
「警戒しすぎだろ」
「貴様は賊だ」
「アンタは堅ぇなぁ」
時雨は肩を竦める。
「じゃあこうしよう。食ったあと斬り合ってもいい」
「意味が分からん」
「飯は楽しく食うモンだろ?」
本気なのか冗談なのか分からない。
だが趙雲は気付いていた。
この男は、妙に人を自分の間合いへ引き込む。
気付けば会話の主導権を握られている。
「……少しだけだ」
「お、折れた」
「勘違いするな。話を聞くだけだ」
「はいはい」
時雨は楽しそうに笑った。
黒山党の野営地では、大鍋が煮えていた。
肉の匂い。
酒。
笑い声。
賊の集団とは思えぬほど活気がある。
「頭領ー! その姉ちゃん誰です?」
「拾った」
「犬猫じゃないんだぞ私は!」
周囲が爆笑した。
趙雲は額を押さえる。
時雨は腹を抱えて笑っていた。
「いい反応するなぁ姉ちゃん」
「……」
「そういや名前聞いてなかった」
「言わん」
「ケチ」
「真名を軽々しく許すほど愚かではない」
周囲が「おお」と感心した声を上げる。
時雨だけが笑っていた。
「なるほどねぇ」
「何がおかしい」
「いや、“ちゃんとした奴”なんだなって思ってよ」
「……?」
「今どき真名を大事にする奴なんざ減った」
時雨は酒を飲む。
「乱世じゃ名前なんて、いつ死ぬか分からねぇモンだからな」
その言葉に、趙雲は少しだけ眉を寄せた。
時雨は飄々としている。
だが時折、妙に達観したことを言う。
まるでずっと死と隣り合わせで生きてきたように。
「頭領!」
突然、一人の男が駆け込んできた。
「官軍です!」
空気が変わる。
「数は?」
「三百ほど! この山へ向かってます!」
黒山党たちの顔から笑みが消えた。
趙雲も目を細める。
三百。
小規模とはいえ討伐隊だ。
「……どうする?」
趙雲が問う。
時雨は酒を飲み干した。
そして。
獣のように笑う。
「決まってんだろ」
赤い目が愉悦に細まる。
「狩りの時間だ」
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