第二百六話 黒山の牙
関中の朝は重かった。
夜明けを迎えたにもかかわらず、魏軍の陣営には疲労の色が濃く残っていた。
眠れなかった兵。
何度も叩き起こされた見張り。
夜通し走り回った伝令。
実害は少ない。
死者もほとんど出ていない。
だが確実に神経を削られていた。
それこそが張燕の狙いだった。
戦とは兵を殺すだけではない。
敵の心を折ること。
敵の判断を鈍らせること。
敵の集中力を奪うこと。
それもまた立派な戦だった。
そして何より。
黒山軍は昔からそうやって生き延びてきた。
正面から戦えば勝てない。
だから嫌がらせをする。
眠らせない。
疲れさせる。
怒らせる。
焦らせる。
それが黒山流だった。
黒山軍本陣。
張燕は朝飯を食べながら機嫌良く笑っていた。
隣では雪蓮が呆れている。
「敵を眠らせないくせに自分はしっかり寝るのね」
「当然だろ」
張燕は平然と答える。
「寝不足は体に悪い」
「言ってる事が酷いわ」
霞は大笑いしている。
星は額を押さえていた。
桂花は既に諦めている。
恋だけは焼いた肉を黙々と食べていた。
「時雨様」
桂花が地図を広げる。
「今日が勝負になります」
「だろうな」
張燕も頷く。
ここ数日の戦い。
互いに消耗した。
互いに疲れた。
だが決定打はない。
だからこそ。
今日。
何かが起きる。
そして。
張燕は笑った。
「じゃあ決めるか」
その笑みに全員が嫌な予感を覚えた。
その頃。
魏軍本陣。
曹操は静かに軍議を開いていた。
郭嘉。
夏侯惇。
夏侯淵。
主要な将達が集まっている。
だが全員疲れていた。
無理もない。
昨夜はまともに眠れていない。
「華琳様」
夏侯惇が言う。
「今日決めましょう」
曹操は頷いた。
そのつもりだった。
長引けば長引くほど張燕の土俵になる。
嫌がらせ。
奇策。
心理戦。
そういう戦いは張燕が得意だ。
だからこそ。
今日終わらせる。
覇王の瞳が細くなる。
「総攻撃よ」
その命令に全員が頷いた。
一方。
黒山軍。
張燕もまた命令を出していた。
「全軍配置完了」
「よし」
張燕は立ち上がる。
そして。
星を見る。
「星」
「何だ」
「敵が総攻撃してくる」
「だろうな」
「だから準備しろ」
星は嫌な予感しかしなかった。
「何の準備だ」
張燕は笑った。
その笑みを見た瞬間。
霞が吹き出した。
雪蓮も笑う。
桂花は頭を抱えた。
「まさか」
「そのまさかだ」
張燕は軍配を掲げる。
「黒山流最終段階だ」
その頃。
戦場では魏軍が動き始めていた。
全軍前進。
覇王の決断。
右翼。
左翼。
中央。
全ての軍勢が前へ出る。
大地が震える。
数万の足音。
数万の叫び。
圧倒的な迫力。
まさに王道。
まさに正攻法。
そして。
張燕はそれを見ながら笑った。
「来たな」
軍配が振られる。
その瞬間。
黒山軍後方で大量の煙が上がった。
魏軍は驚く。
燃えている。
黒山軍の後方が。
「自陣を焼いた!?」
夏侯淵が目を見開く。
あり得ない。
普通はあり得ない。
だが。
張燕ならあり得る。
実際には燃えていたのは空になった物資置き場だった。
既に運び出した後。
わざと燃やした。
その結果。
魏軍にはこう見える。
黒山軍が退却準備を始めた。
敗走する気だと。
「追撃だ!」
魏軍が勢い付く。
兵達も興奮する。
勝てる。
そう思う。
だが。
それこそが張燕の狙いだった。
「掛かったな」
張燕は笑う。
追撃。
勢い。
興奮。
勝利目前という錯覚。
その全てが判断を鈍らせる。
黒山軍が少しずつ後退する。
魏軍が追う。
さらに追う。
もっと追う。
そして。
戦場の中央が伸びる。
隊列が乱れる。
部隊同士の距離が離れる。
その瞬間だった。
張燕の軍配が振られる。
「今だ!」
轟音。
左右から黒山軍騎兵が飛び出す。
霞。
翠。
二人の騎兵隊。
さらに星の部隊も動く。
三方向からの突撃。
魏軍中央が揺れる。
「しまった!」
郭嘉が叫ぶ。
読めなかった。
いや。
読めても防げなかった。
張燕は勝ちを餌にした。
追えば勝てると思わせた。
だから突っ込ませた。
そして。
そこを叩く。
実に黒山らしい。
実に外道だった。
その様子を見た曹操は。
怒るどころか笑っていた。
「本当に」
大鎌を握る。
「最低ね」
だが。
その目は楽しそうだった。
遠く。
張燕も笑っている。
二人とも分かっていた。
決着が近い。
長く続いた戦い。
黒山軍と魏軍。
張燕と曹操。
その勝負はついに終盤へ入ろうとしていた。
次の一手。
その一手で。
戦場の流れは大きく変わる。
関中の風は強く吹いていた。
まるで。
これから訪れる決着の瞬間を待っているかのように。
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