【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第二百十三話 黒山への逃亡

第二百十三話 黒山への逃亡

 

 

許昌は今日も慌ただしかった。

 

燕国の領土は広い。

 

河北四州。

 

兗州。

 

豫州。

 

関中。

 

さらに各地との同盟や外交問題まで抱えている。

 

当然ながら処理すべき仕事は山のようにあった。

 

そして。

 

その仕事の大半はある男の机に積み上げられていた。

 

張燕。

 

黒山軍頭領。

 

燕国の中心人物。

 

もっとも。

 

本人は全くそんな自覚を持っていなかった。

 

「逃げるか」

 

朝一番。

 

執務室で張燕はそう呟いた。

 

目の前には書簡の山。

 

左を見ても書簡。

 

右を見ても書簡。

 

後ろを見ても書簡。

 

地獄だった。

 

「時雨様」

 

桂花が微笑む。

 

怖い笑顔だった。

 

「仕事です」

 

「後でやる」

 

「昨日も聞きました」

 

「明日やる」

 

「一昨日も聞きました」

 

張燕は窓を見る。

 

青空だった。

 

とても良い天気だった。

 

働くにはもったいない。

 

「時雨」

 

今度は華琳の声。

 

逃げ道が塞がる。

 

振り返ると曹操がいた。

 

美しい笑顔だった。

 

しかし目は笑っていない。

 

「何だ」

 

「政務をしなさい」

 

「嫌だ」

 

即答だった。

 

曹操はため息を吐く。

 

「あなたは本当に変わらないわね」

 

その時。

 

別の方向から足音が聞こえた。

 

雪蓮だった。

 

「時雨ー!」

 

元気いっぱいだった。

 

そして机を見る。

 

積み上がった書類を見る。

 

張燕を見る。

 

笑う。

 

「逃げようとしてるわね」

 

「まだしてない」

 

「まだ?」

 

「まだだ」

 

つまり予定はある。

 

雪蓮が吹き出した。

 

華琳は額を押さえる。

 

桂花は頭痛がしてきた。

 

こうして毎日が続いていた。

 

朝。

 

仕事から逃げる。

 

昼。

 

捕まる。

 

夕方。

 

また逃げる。

 

夜。

 

説教される。

 

翌日。

 

最初に戻る。

 

兵士達の間では既に有名だった。

 

「頭領また逃げたらしいぞ」

 

「今日はどこだ」

 

「厩舎らしい」

 

「昨日は倉庫だったな」

 

「その前は城壁だ」

 

皆慣れていた。

 

もはや日常だった。

 

だが。

 

張燕は本当に疲れていた。

 

戦なら良い。

 

馬に乗るのも好きだ。

 

酒も好きだ。

 

仲間と騒ぐのも好きだ。

 

しかし。

 

政務だけは駄目だった。

 

性に合わない。

 

昔からそうだった。

 

黒山賊だった頃もそうだ。

 

張燕は頭領だった。

 

だが統治者ではなかった。

 

好きなのは自由だった。

 

山だった。

 

風だった。

 

黒山だった。

 

そして。

 

ある夜。

 

張燕は一人で酒を飲んでいた。

 

庭で。

 

静かに。

 

誰もいない。

 

月だけが見ている。

 

「帰りたいな」

 

ぽつりと呟く。

 

許昌は立派だ。

 

栄えている。

 

人も多い。

 

だが。

 

時々思う。

 

黒山へ帰りたいと。

 

まだ何も持っていなかった頃。

 

賊だった頃。

 

仲間達と笑っていた頃。

 

あの頃が懐かしかった。

 

「決めた」

 

張燕は立ち上がった。

 

そして笑った。

 

昔と同じ笑みだった。

 

翌朝。

 

張燕はいなかった。

 

執務室にも。

 

屋敷にも。

 

訓練場にも。

 

どこにも。

 

最初に気付いたのは桂花だった。

 

「……?」

 

机を見る。

 

誰もいない。

 

珍しい事ではない。

 

十分後。

 

まだいない。

 

三十分後。

 

やはりいない。

 

一時間後。

 

嫌な予感がした。

 

そして。

 

机の上に紙がある事に気付く。

 

震える手で開く。

 

そこには一言。

 

『探さないでください』

 

桂花が固まった。

 

数秒後。

 

絶叫が響く。

 

「時雨様ぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

許昌中に響いた。

 

大騒ぎだった。

 

雪蓮が飛び起きる。

 

華琳が走ってくる。

 

白蓮も来る。

 

恋も来る。

 

皆集まる。

 

そして紙を見る。

 

沈黙。

 

「逃げたわね」

 

雪蓮が言った。

 

「逃げたわね」

 

華琳も言った。

 

「逃げたな」

 

白蓮が言った。

 

全員納得した。

 

間違いない。

 

逃亡だった。

 

その頃。

 

張燕は山道を歩いていた。

 

一人だった。

 

護衛もいない。

 

従者もいない。

 

気楽なものだった。

 

久しぶりだった。

 

こうして自由に歩くのは。

 

風が吹く。

 

木々が揺れる。

 

鳥が鳴く。

 

自然の音だけが聞こえる。

 

そして。

 

数日後。

 

張燕は目的地へ辿り着いた。

 

黒山。

 

故郷だった。

 

懐かしい景色。

 

懐かしい山々。

 

懐かしい空気。

 

張燕は深く息を吸う。

 

そして笑った。

 

「帰ってきた」

 

心の底から。

 

本当に嬉しそうだった。

 

だが。

 

張燕は知らなかった。

 

許昌では大騒ぎになっている事を。

 

雪蓮が激怒している事を。

 

華琳が静かに怒っている事を。

 

桂花が過労で倒れそうな事を。

 

そして。

 

大量の捜索隊が既に動き始めている事を。

 

黒山の頭領。

 

張燕。

 

現在行方不明。

 

しかし本人だけは。

 

久しぶりの自由を満喫していたのである。

 




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