第二百十四話 黒山の風
黒山の朝は早い。
山々の間から差し込む陽光。
鳥のさえずり。
木々を揺らす風。
どこまでも広がる自然。
許昌のような巨大な城もなければ、山積みの書簡もない。
あるのは黒山だけだった。
そして。
張燕は心の底から満喫していた。
「最高だな」
岩の上に寝転びながら空を見る。
青空だった。
雲がゆっくり流れている。
実に平和だった。
数日前まで関中で大戦をしていた男とは思えない。
近くでは昔から黒山に住む者達が働いている。
畑を耕す者。
薪を割る者。
山道を整備する者。
皆が笑顔だった。
「頭領!」
遠くから声が飛ぶ。
張燕が手を振る。
「元気そうだな」
「頭領こそ!」
笑い声が響く。
ここには王もいない。
覇王もいない。
国もない。
ただ黒山があるだけだった。
張燕はそれが好きだった。
もともと賊だった。
山で育った。
豪華な宮殿より山小屋の方が落ち着く。
政務より焚き火の方が好きだった。
だから。
久しぶりに帰ってきた黒山は居心地が良すぎた。
その頃。
許昌。
こちらは地獄だった。
「まだ見つからないの?」
曹操の声が響く。
静かな声だった。
だが恐ろしい。
周囲の者達は震えていた。
桂花も疲れ切っていた。
「見つかりません」
「そう」
短い返事。
だが空気が冷える。
誰もが理解していた。
華琳は怒っている。
かなり怒っている。
しかし。
怒鳴らない。
暴れない。
それが余計に怖かった。
桂花はため息を吐く。
「本当に困った人です」
その言葉に曹操がふと顔を上げた。
「変わったわね」
「え?」
「あなた」
桂花が首を傾げる。
曹操は少しだけ笑った。
「昔のあなたなら違ったでしょう」
桂花は黙る。
確かにそうだった。
昔の自分なら。
張燕を認めなかった。
敵だった。
許昌を奪った男だった。
華琳を苦しめた男だった。
だが。
今は違う。
いつからだろう。
気付けば変わっていた。
張燕の傍にいる事が当たり前になっていた。
無茶をする。
仕事をしない。
逃げる。
問題ばかり起こす。
それでも。
皆を守る。
仲間を大事にする。
だから。
いつの間にか認めていた。
「そうかもしれません」
桂花は小さく笑った。
曹操も頷く。
「昔なら私以上に怒っていたもの」
「今も怒っています」
「そうね」
二人は苦笑した。
だが。
どこか穏やかな空気だった。
その時。
白蓮が駆け込んでくる。
「情報だ!」
全員が顔を上げる。
「見つかったの?」
曹操が尋ねる。
白蓮は頷いた。
「いや」
そして続ける。
「見つけに行った」
「誰が?」
白蓮は答えた。
「星だ」
一瞬。
沈黙。
そして。
皆が納得した。
趙雲だった。
確かに適任だった。
その頃。
黒山。
張燕は山道を歩いていた。
久しぶりの故郷。
見たい場所がたくさんある。
昔の拠点。
見張り台。
古い訓練場。
どれも懐かしい。
そして。
そんな時だった。
「探したぞ」
聞き慣れた声。
張燕が振り返る。
そこにいたのは一人。
水色の髪。
長槍。
涼しげな笑み。
趙雲だった。
「星」
張燕は苦笑する。
「やっぱり来たか」
「当然だ」
星は肩を竦めた。
「誰も来ないと思ったのか」
「少しだけ」
「甘いな」
張燕は笑った。
確かに甘かった。
星なら来る。
絶対に来る。
昔からそうだ。
面倒見が良い。
そして。
何だかんだ言って放っておけない性格だった。
星は周囲を見回す。
黒山。
懐かしい景色。
かつて共に戦った場所。
そして。
張燕を見る。
岩の上に座り、のんびりしている。
完全に休暇だった。
「満喫しているな」
「してる」
「帰る気は?」
「ない」
即答だった。
星は吹き出した。
「正直だな」
「正直者だからな」
「自分で言うか」
二人は笑う。
風が吹く。
黒山の風だった。
懐かしい。
穏やかだ。
しばらく沈黙が続く。
やがて。
星が空を見る。
「皆心配している」
「だろうな」
「特に華琳殿と雪蓮殿は」
張燕は遠い目をした。
想像できた。
非常に想像できた。
そして怖かった。
「帰りたくなくなった」
「遅い」
星は呆れる。
だが。
その表情はどこか優しかった。
結局。
誰もが分かっていた。
張燕は逃げたのではない。
疲れたのだ。
戦い。
政務。
責任。
重すぎるものを背負い過ぎた。
だから故郷へ戻った。
ただそれだけだった。
夕暮れ。
山が赤く染まる。
張燕と星は並んで座っていた。
言葉は少ない。
それでも心地良い。
長い付き合いだった。
黒山の時代から。
ずっと。
そして星は思う。
もう少しだけ。
もう少しだけ休ませてやっても良いかもしれないと。
もっとも。
許昌にいる華琳達がそれを許すかどうかは別の話だったが。
黒山の風は今日も穏やかだった。
そして張燕はまだ知らない。
自分を連れ戻すために、許昌で新たな作戦会議が始まっている事を。
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