第二百十五話 黒山の夕暮れ
黒山の夕暮れは静かだった。
山々は赤く染まり、風は穏やかに木々を揺らしている。
遠くから聞こえる鳥の声。
流れる川の音。
そして焚き火の爆ぜる音だけが、静かな山の中に響いていた。
張燕と趙雲は山の中腹にある古い見張り台の跡へ来ていた。
かつて黒山軍が使っていた場所だ。
今では半ば朽ちている。
それでも二人にとっては懐かしい場所だった。
張燕は岩の上に座り、ぼんやりと空を見ていた。
星は少し離れた場所からそんな彼を見ている。
長い付き合いだった。
誰よりも知っている。
だからこそ分かった。
今の張燕は少しおかしい。
普段ならもっと笑う。
もっとふざける。
もっと適当な事を言う。
だが今日は違った。
静かだった。
妙に静かだった。
しばらくして。
星が隣へ腰を下ろす。
「どうした」
張燕は答えない。
珍しい事だった。
さらに数分。
沈黙が続く。
そして。
ぽつりと。
張燕が口を開いた。
「疲れたな」
星は少しだけ目を見開いた。
その言葉は意外だった。
張燕が弱音を吐く。
それは滅多にない事だったからだ。
戦で負けても笑う。
苦境でも笑う。
敵に囲まれても笑う。
それが張燕だった。
だから。
その一言は重かった。
「そうか」
星は静かに答える。
張燕は苦笑した。
「情けないだろ」
「別に」
「黒山の頭領がこれじゃな」
「誰だって疲れる」
張燕は空を見る。
ゆっくりと雲が流れている。
「戦ばっかりだったな」
「そうだな」
「気付いたら国が大きくなってた」
「そうだな」
「気付いたら王様みたいになってた」
「元からだろう」
「違う」
張燕は首を横に振った。
そして。
小さく笑う。
「俺はそんな立派なもんじゃない」
その声にはどこか寂しさがあった。
星は黙って聞く。
張燕は続けた。
「黒山で好き勝手やってた頃の方が気楽だった」
「だろうな」
「飯の心配して」
「うむ」
「追われて」
「うむ」
「盗んで」
「最後は褒められんぞ」
二人が少しだけ笑う。
だが。
笑いはすぐに消えた。
張燕は再び空を見る。
夕焼けは少しずつ夜へ変わっていく。
「皆期待してる」
ぽつりと呟く。
「白蓮も」
「うむ」
「雪蓮も」
「うむ」
「華琳も」
「うむ」
「桂花も」
「うむ」
張燕は息を吐く。
長い息だった。
「俺はそんな大した奴じゃないんだけどな」
その瞬間だった。
星はそっと手を伸ばした。
そして。
張燕を抱きしめた。
優しく。
本当に優しく。
まるで壊れ物を扱うように。
張燕は驚かなかった。
抵抗もしない。
ただ静かに目を閉じた。
星の腕は温かかった。
「星」
「何だ」
「珍しいな」
「お前も珍しい」
張燕は苦笑する。
確かにそうだった。
こんな風に弱音を吐くのは久しぶりだった。
いや。
もしかすると初めてかもしれない。
「お前は頑張った」
星が言う。
張燕は黙る。
「誰よりも」
静かな声だった。
だが真っ直ぐだった。
「戦った」
風が吹く。
「守った」
葉が揺れる。
「背負った」
張燕は何も言えなかった。
「だから少しくらい弱音を吐いても構わん」
夕暮れの中。
二人はしばらく動かなかった。
黒山の風だけが流れている。
やがて。
張燕が小さく笑った。
少しだけ楽になった気がした。
そして。
ふと思いついたように言う。
「なあ」
「何だ」
「このまま旅でもするか」
星が瞬きをする。
張燕は続けた。
「どこか遠く」
「うむ」
「誰も知らない場所まで」
「うむ」
「気ままに」
星は笑った。
実に張燕らしい。
疲れたら全部投げ出して旅へ出る。
昔から変わらない。
「それも悪くない」
星は答えた。
「だろ」
「だが」
張燕が顔をしかめる。
嫌な予感がした。
「華琳殿が許さん」
「だよな」
「雪蓮殿も許さん」
「だよな」
「桂花は発狂する」
「だよな」
二人は顔を見合わせた。
そして。
同時に笑った。
想像できたからだ。
容易に。
完璧に。
許昌が大混乱になる未来が。
「やっぱり無理か」
「無理だな」
星は頷く。
だが。
少しだけ真面目な顔になる。
「ただ」
「ん?」
「旅は出来なくても」
張燕を見る。
「少し休むくらいは良いだろう」
その言葉に張燕は黙った。
そして。
ゆっくり頷く。
そうかもしれない。
ずっと走ってきた。
ずっと戦ってきた。
だから。
少しくらい立ち止まっても良いのかもしれない。
夜空には星が見え始めていた。
黒山の風は変わらず優しい。
張燕は空を見上げる。
そして思う。
もう少しだけ。
もう少しだけこの時間を楽しもうと。
だが同時に。
許昌で自分を探している者達の顔も浮かんでいた。
特に。
怒った華琳と雪蓮の顔が。
「帰りたくなくなってきた」
「今更だ」
星は呆れたように笑う。
黒山の夜は更けていく。
そして二人は焚き火を囲みながら、久しぶりに何も考えない時間を過ごすのだった。
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