第二百十六話 星の願い
黒山の夜は静かだった。
山の中を吹き抜ける風。
焚き火の揺れる炎。
遠くで鳴く虫の声。
許昌の喧騒とはまるで違う。
張燕はそんな静けさを心地良く感じていた。
星も同じだった。
二人は焚き火を挟んで座っている。
誰もいない。
本当に二人だけだった。
黒山軍の兵達も気を遣ったのか近寄ってこない。
久しぶりだった。
こんな風に二人だけで落ち着いて話すのは。
張燕は木の枝を火の中へ放り込む。
火の粉が舞う。
「静かだな」
「そうだな」
星が答える。
短い会話。
だが不思議と心地良かった。
昔からそうだった。
無理に話さなくてもいい。
沈黙が苦にならない。
そんな相手だった。
しばらくして。
星が夜空を見上げる。
満天の星だった。
黒山の空は綺麗だった。
許昌では見られない景色だ。
「なあ」
珍しく星から話しかける。
張燕は顔を向ける。
「何だ」
星はすぐには答えなかった。
どこか迷っているようだった。
それを見た張燕は少し不思議に思う。
趙雲が迷う。
珍しい事だった。
星は普段冷静だ。
頭も回る。
度胸もある。
戦場では誰よりも頼もしい。
そんな彼女が言葉を探していた。
「時雨」
「おう」
「私はずっと黙っていた事がある」
張燕が眉を上げる。
星は少し笑った。
「今更かもしれん」
「今更だな」
「そうだな」
二人が少し笑う。
だが星の表情は真面目だった。
冗談ではない。
大切な話なのだと分かる。
夜風が吹く。
炎が揺れる。
そして。
星はゆっくりと口を開いた。
「私は」
少しだけ視線を逸らす。
「お前の隣にいたい」
張燕は黙る。
星は続けた。
「昔からだ」
黒山の頃。
まだ何も持っていなかった頃。
賊として生きていた頃。
戦に明け暮れていた頃。
全ての時間が頭を過ぎる。
「気付けば」
星は苦笑した。
「ずっと見ていた」
張燕という男を。
誰よりも近くで。
誰よりも長く。
無茶ばかりする男だった。
適当だった。
面倒事ばかり起こす。
だが。
放っておけなかった。
「白蓮も」
「うん」
「雪蓮殿も」
「うん」
「華琳殿も」
「うん」
「皆そうなのだろう」
星は笑う。
「お前は不思議な男だからな」
張燕は頭を掻く。
照れ臭かった。
こういう話は苦手だった。
戦なら良い。
策なら良い。
だが人の気持ちは難しい。
星は真っ直ぐ見つめてくる。
逃げられない。
張燕は困ったように笑った。
「星らしくないな」
「そうかもしれん」
「今日は素直だ」
「たまにはな」
再び沈黙が訪れる。
焚き火だけが音を立てる。
そして。
張燕はぽつりと言った。
「じゃあ」
星が首を傾げる。
「正妻にでもなるか?」
一瞬。
空気が止まった。
星が固まる。
完全に固まる。
張燕は平然としていた。
本人にとってはいつもの調子だった。
だが。
言われた方はそうではない。
「お、お前は」
珍しく星が言葉に詰まる。
「何だその反応」
「何だその返しだ!」
珍しく大声だった。
張燕は笑う。
星は顔を押さえる。
冷静な趙雲が崩れていた。
「普通はもっと段階というものがあるだろう」
「そうなのか?」
「そうだ」
「知らなかった」
「知らなかったで済む話ではない」
星は本気で呆れた。
だが。
同時に笑ってしまう。
張燕らしい。
どこまでも張燕らしい。
王でもない。
貴族でもない。
格式ばった男でもない。
黒山の頭領のままなのだ。
「俺は王ではないしな」
張燕が言う。
「偉そうな事も言えん」
星はその言葉を聞いて少し目を細めた。
確かにそうだった。
世間は張燕を王のように扱う。
だが本人は違う。
昔から変わらない。
黒山の頭領。
それだけだった。
「時雨」
「何だ」
「お前は本当に変わらんな」
「そうか?」
「そうだ」
星は笑う。
優しい笑みだった。
「だから皆ついていくのだろうな」
張燕は返事をしない。
少し照れていた。
星には分かった。
長い付き合いだからだ。
夜は更けていく。
焚き火は少しずつ小さくなる。
二人は並んで夜空を見上げた。
満天の星。
黒山の風。
懐かしい故郷。
そして。
穏やかな時間。
許昌では今頃大騒ぎになっているだろう。
雪蓮も。
華琳も。
桂花も。
きっと怒っている。
だが。
今だけは忘れる。
今だけは何も考えない。
ただ。
黒山の夜を楽しむ。
星はそっと笑った。
張燕の隣で。
それだけで十分だと思えたのだった。
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