第二百十九話 滅びの報せと次なる時代
許昌。
かつて魏の都として栄えた大都市は、今では燕国の中心地として新たな時代を迎えていた。
だが、その日。
城の空気はどこか重かった。
理由は一つ。
南から届いた一通の急報だった。
執務室。
曹操は書簡を読み終え、静かに机へ置いた。
その表情は普段と変わらない。
だが目だけは真剣だった。
「来たわね」
誰に向けた言葉でもない。
ただ小さく呟く。
部屋の中には桂花もいた。
桂花も報告書を読んでいる。
そして長く息を吐いた。
「ついにですか」
「ええ」
誰もが予想していた。
だが。
実際に現実になると話は違う。
呉国滅亡。
孫権降伏。
揚州陥落。
徐州陥落。
天の御使いが率いる蜀軍の完全勝利。
それは天下を揺るがす大事件だった。
その報告はすぐに雪蓮の元へ届けられた。
許昌の庭園。
雪蓮は一人で座っていた。
風が吹いている。
空は青い。
だが彼女の表情は晴れていなかった。
静かに書簡を見つめている。
何度も。
何度も。
同じ文字を読み返していた。
呉滅亡。
その文字だけが妙に目に残る。
「終わっちゃったのね」
ぽつりと呟く。
誰もいない。
だからこそ本音だった。
孫策。
雪蓮。
かつて呉王だった女性。
王位は孫権へ譲った。
国も任せた。
だから今の呉は孫権の国だった。
だが。
それでも。
呉は故郷だった。
幼い頃から育った土地。
仲間達と戦った場所。
家族と過ごした国。
それが滅んだ。
簡単に割り切れるものではない。
「蓮華……」
妹の名を呟く。
怒ってはいない。
責めてもいない。
ただ。
悔しかった。
本当に悔しかった。
その時だった。
隣に人影が現れる。
「ここにいたのね」
曹操だった。
雪蓮は振り返らない。
だが誰なのかは分かる。
「華琳?」
「ええ」
曹操は隣へ座った。
しばらく沈黙。
二人とも何も言わない。
風だけが吹いている。
やがて。
雪蓮が笑った。
苦笑だった。
「情けないわね」
「何が?」
「王様辞めたのに」
空を見る。
「まだこんなに気になるなんて」
曹操は静かに聞いていた。
雪蓮は続ける。
「覚悟してたのよ」
「そうでしょうね」
「負けるかもしれないって」
「ええ」
「でも実際に聞くとね」
言葉が止まる。
そして。
少しだけ俯いた。
「やっぱり悔しい」
それが本音だった。
曹操は何も言わない。
ただ。
そっと肩へ手を置いた。
雪蓮が少し驚く。
曹操は静かに微笑んだ。
「当然よ」
短い言葉だった。
だが。
十分だった。
雪蓮は目を閉じる。
昔なら考えられなかった。
孫呉の王と魏王。
互いに覇を競った者同士。
そんな二人が今こうして並んでいる。
不思議なものだった。
「ありがと」
雪蓮が小さく言う。
曹操は肩を竦める。
「別に」
そして。
少し真面目な顔になる。
「でも問題はこれからよ」
雪蓮も頷く。
それは分かっていた。
呉は終わった。
なら次は何か。
答えは簡単だった。
蜀と燕。
天下には実質二つの巨大勢力しか残っていない。
その現実を二人とも理解していた。
曹操は地図を広げる。
机の上ではない。
庭園の石卓の上だった。
そこには現在の勢力図が描かれている。
北。
河北。
兗州。
豫州。
関中。
燕国。
南西。
益州。
荊州。
交州。
揚州。
徐州。
蜀。
巨大だった。
どちらも。
あまりにも巨大だった。
「綺麗に分かれたわね」
雪蓮が呟く。
曹操も頷く。
「ええ」
本当に綺麗だった。
まるで誰かが意図したように。
天下は二つに分かれている。
そして。
二人は同じ事を考えていた。
「桃香はどうすると思う?」
雪蓮が尋ねる。
曹操は少し考える。
そして答えた。
「分からない」
正直な答えだった。
昔の劉備なら。
迷わず同盟を続けただろう。
争いを嫌う。
平和を望む。
そんな人物だった。
だが。
今は違う。
劉備軍には天の御使いがいる。
北郷一刀。
あの男がいる。
曹操は何度も報告を読んでいた。
呉との戦争。
孫権への接触。
調略。
侵攻。
勝利。
全てがあまりにも鮮やかだった。
「天の御使い」
曹操が呟く。
雪蓮も頷く。
「あの男ね」
二人とも理解している。
危険なのは劉備ではない。
天の御使いだ。
「天下を二つに分けるか」
雪蓮が言う。
「それとも」
曹操が続ける。
「天下統一を狙うか」
沈黙。
答えはない。
まだ誰にも分からない。
だが。
一つだけ確かな事がある。
もし蜀が天下統一を望むなら。
次の敵は燕国になる。
逆に。
燕が天下統一を望むなら。
次の敵は蜀になる。
避けられない。
そういう段階へ来ていた。
「時雨はどう思うかしら」
雪蓮が苦笑する。
曹操も思わず笑った。
「今頃昼寝しているんじゃない?」
「あり得る」
「絶対あり得る」
二人は同時に笑った。
緊張した空気が少しだけ和らぐ。
黒山へ逃亡中の張燕。
当事者であるはずの男は今ここにいない。
だが。
近いうちに戻ってくるだろう。
そして。
この問題と向き合う事になる。
蜀と燕。
同盟か。
対立か。
天下を二つに分ける平和か。
それとも天下統一を懸けた最後の戦いか。
時代は確実に次の段階へ進み始めていた。
風が吹く。
庭園の木々が揺れる。
雪蓮は遠く南を見つめる。
かつての故郷があった方角を。
曹操は西を見つめる。
かつて戦い続けた天下を。
そして二人は思う。
次の時代を決めるのは。
きっとあの男なのだろうと。
黒山の頭領。
張燕。
今はまだ黒山でのんびりしている男が。
再び天下の中心へ戻る日は、そう遠くなかった。
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