第二百二十三話 星の催促
張燕は死んだ目をしていた。
もちろん本当に死んだわけではない。
精神的な話である。
目の前には山。
左右にも山。
後ろにも山。
そして机の上にも山。
全部書類だった。
「おかしい」
張燕は呟く。
「またですか」
桂花が即座に反応した。
最近では反射だった。
「増えてる」
「増えてません」
「増えてるぞ」
「気のせいです」
「山が三つから五つになってる」
「気のせいです」
張燕は納得しなかった。
だが桂花は全く譲らない。
強い。
昔から強かったが最近さらに強い。
華琳の補佐。
許昌の政務。
魏時代の経験。
それら全てが合わさった結果だった。
「逃げたい」
「駄目です」
「まだ何もしてないぞ」
「考えた時点で駄目です」
酷かった。
完全に読まれていた。
張燕は椅子に倒れ込む。
天井を見る。
平和だった。
外は良い天気だろう。
鳥も飛んでいるに違いない。
自分も飛びたい。
できれば黒山へ。
そんな事を考えていた時だった。
コン。
窓が鳴った。
張燕が顔を向ける。
桂花も向ける。
そして。
二人とも固まった。
窓の外に人影があった。
しかも。
酒瓶を片手に持っていた。
「やあ」
爽やかな笑顔。
趙雲だった。
「星?」
張燕が目を丸くする。
星は窓枠へ腰掛ける。
完全に不法侵入だった。
「何をしてるんだ」
「遊びに来た」
「ここ執務室だぞ」
「知っている」
星は平然としていた。
桂花の額に青筋が浮かぶ。
「趙雲殿」
「何だ」
「ここは仕事場です」
「そうか」
「そうです」
「だから遊びに来た」
全く会話にならなかった。
張燕は思わず吹き出した。
桂花は頭を抱える。
星はそんな二人を見ながら酒瓶を振った。
「飲むか?」
「飲む」
即答だった。
「駄目です!」
桂花も即答だった。
張燕と星は同時に肩を落とす。
妙な連携だった。
そして。
桂花が別の書類を取りに部屋を出た。
ほんの少しだけ。
数分程度。
だが。
それで十分だった。
「逃げるか?」
星が言う。
「逃げたい」
「行くか?」
「行きたい」
「今なら行けるぞ」
「本当か」
二人は真剣だった。
だが。
扉の外から。
「聞こえてますよ」
桂花の声がした。
二人とも静かに座り直した。
完全に聞かれていた。
星が笑う。
張燕も笑う。
もはや諦めるしかない。
しばらくして。
星は酒を飲みながら張燕の隣へ移動した。
そして自然に肩へ寄りかかる。
張燕も特に気にしない。
昔からの付き合いだ。
今更だった。
「なあ」
星が言う。
「何だ」
「私は結構待っているんだが」
「何をだ」
「分かっているだろう」
張燕は少し考える。
そして。
嫌な予感がした。
星はじっと見ていた。
逃がさない顔だった。
「時雨」
「うん」
「正妻」
「ああ」
「いつにする?」
張燕が固まった。
予想通りだった。
星は酒を飲む。
だが目は真面目だった。
冗談ではない。
本気である。
張燕は頭を掻く。
「またその話か」
「まただ」
「諦めろ」
「断る」
即答だった。
星らしくなかった。
いや。
最近はこうだった。
黒山で二人きりだった時間。
あれ以来。
妙に積極的だった。
「雪蓮がいる」
「知っている」
「華琳もいる」
「知っている」
「大変だぞ」
「今更だ」
確かにそうだった。
今更だった。
星は肩へ寄りかかる。
そして。
少しだけ笑う。
「私は昔から隣にいた」
「そうだな」
「黒山の頃から」
「そうだな」
「お前が賊だった頃から」
「懐かしいな」
二人とも笑った。
あの頃は何もなかった。
金も。
地位も。
領地も。
ただ黒山があっただけだった。
それでも楽しかった。
「だから」
星が言う。
「もう少しくらい欲張っても良いだろう」
その言葉は静かだった。
だが。
本心だった。
張燕は返事をしない。
星は待つ。
急かさない。
ただ待つ。
昔からそうだった。
やがて。
張燕は苦笑した。
「困ったな」
「何がだ」
「増える」
「何がだ」
「正妻が」
星は吹き出した。
大笑いだった。
珍しかった。
普段の冷静な趙雲ではない。
完全に素だった。
「それは確かに問題だ」
「だろう」
「華琳殿と雪蓮殿が暴れそうだ」
「絶対暴れる」
二人とも想像できた。
だから笑う。
笑うしかなかった。
その時。
勢いよく扉が開いた。
桂花だった。
そして。
後ろには。
華琳と雪蓮もいた。
張燕は固まった。
星も固まった。
まずい。
本能が警鐘を鳴らす。
そして。
雪蓮が笑顔で言った。
「へえ?」
華琳も笑顔だった。
「面白い話をしていたみたいね」
終わった。
張燕は悟った。
完全に聞かれていた。
星は酒を飲みながら空を見上げる。
知らぬふりだった。
だが口元は笑っていた。
こうして。
張燕の政務から逃げたい一日は。
さらに面倒な方向へ進み始めるのであった。
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