第二百二十四話 静かなる種
成都。
天下でも有数の大都市となった蜀の都は、今日も活気に満ちていた。
呉を滅ぼしたことで領土は大きく広がった。
益州。
荊州。
交州。
揚州。
徐州。
その支配領域はかつての小国の面影を完全に消し去っている。
街を歩く民達の表情は明るい。
商人達も忙しそうに働いていた。
戦乱の時代でありながら、成都には確かな繁栄が存在していた。
その中心にいるのは劉備。
桃香だった。
そして。
もう一人。
誰よりも蜀の中枢へ食い込んでいる男がいた。
北郷一刀。
天の御使い。
桃香が絶対の信頼を寄せる男。
蜀躍進の立役者。
そして今。
彼は次なる一手を考えていた。
執務室。
桃香は書類に目を通していた。
蜀の領土が広がったことで仕事も増えている。
だが。
その表情に疲労は少ない。
理想へ近付いている。
そう信じているからだった。
そんな彼女の前に一刀が座っている。
「お疲れ様」
「ご主人様もお疲れ様です」
桃香は笑顔だった。
昔と変わらない。
誰に対しても優しい。
誰も疑わない。
それが劉備という人物だった。
一刀はそんな桃香を見つめる。
そして自然な口調で言った。
「最近、燕の報告書を読んだんだけど」
「時雨さん達?」
「そう」
桃香は少し嬉しそうな顔になる。
張燕。
時雨。
かつて共に戦った仲間。
今でも良い印象を持っていた。
だが。
一刀は表情を変えない。
「少し気になる話があった」
「気になる話?」
「うん」
一刀は一枚の書簡を取り出した。
実際には断片的な情報だった。
だが。
見せ方はいくらでもある。
「燕は急速に領土を広げた」
「そうだね」
「魏も吸収した」
「うん」
「多くの地域を支配している」
桃香は頷く。
それは事実だった。
一刀は続ける。
「急激に大きくなった国には問題も出る」
「問題?」
「民の不満とか」
桃香の表情が少し曇る。
一刀はそこを見逃さない。
「もちろん全部が本当とは限らない」
そう前置きしてから。
少しずつ話を重ねる。
「でも統治しきれてない地域もあるかもしれない」
「そうなのかな」
「可能性はある」
断定しない。
あくまで可能性。
だからこそ否定しにくい。
桃香は考え込む。
一刀はさらに続けた。
「大きな国ほど民の声は届きにくい」
「……」
「昔の魏もそうだった」
「そうだね」
「袁紹もそうだった」
桃香は静かに聞いている。
一刀は話を止めない。
「時雨さんは良い人だと思う」
「うん!」
そこだけは即答だった。
桃香の表情が明るくなる。
一刀も笑う。
「俺もそう思う」
嘘ではなかった。
張燕という人間は評価している。
だが。
それと国は別だ。
「でも国は人一人じゃ動かない」
「そうだね」
「部下もいる」
「うん」
「役人もいる」
「うん」
「全員が時雨さんみたいとは限らない」
桃香が黙る。
確かにそうだった。
巨大国家になればなるほど統制は難しい。
それもまた事実だった。
一刀はそれ以上言わない。
ここで押し付ける必要はない。
種を蒔けばいい。
疑念の種を。
その後も同じだった。
数日後。
食事の席。
何気ない会話の中で。
「燕は今人口も凄いらしいな」
そんな話をする。
翌日。
軍議の席で。
「燕軍の兵力はかなり多い」
そんな話をする。
また別の日。
「もし同盟が無かったら脅威だろうな」
そんな話をする。
どれも事実だった。
だからこそ厄介だった。
嘘ではない。
だが。
語る方向を変えるだけで印象は変わる。
少しずつ。
少しずつ。
桃香の中に意識が生まれる。
燕は大きい。
燕は強い。
燕は危険かもしれない。
そんな感情が。
一方。
諸葛亮も変化に気付いていた。
夜。
執務室。
朱里は書類を整理しながら考えていた。
最近の一刀の発言。
妙に燕を意識している。
それが気になった。
「ご主人様」
「ん?」
「燕と何かあるんですか?」
一刀は微笑む。
いつもの笑顔だった。
「別に」
「でも最近よく話題になります」
「大国だからな」
自然な返答だった。
朱里も深く追及できない。
一刀は窓の外を見る。
夜の成都。
遠くには蜀の灯火が見える。
豊かになった。
強くなった。
そして。
まだ足りない。
彼の胸中には別の考えがあった。
天下統一。
その言葉を口にする事はない。
まだ早い。
だが。
確実に近付いている。
魏は消えた。
呉も消えた。
残るは燕のみ。
だからこそ。
戦う前に正義を作る必要があった。
自分達が正しい。
相手が危険だ。
そう思わせる必要がある。
それが一刀の考えだった。
夜風が吹く。
彼は静かに目を閉じた。
張燕はまだ気付いていない。
許昌で書類の山と戦っている。
雪蓮や華琳に振り回されている。
だが。
その間にも。
成都では静かに空気が変わり始めていた。
剣も槍も使わない戦い。
人の心を巡る戦い。
そしてその戦いは。
やがて蜀と燕の未来を大きく左右する事になるのだった。
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