第二百二十五話 天の御使いの新たな標的
建業。
かつて呉王が治めた都。
今では蜀の旗が城壁に掲げられ、南方統治の中心地となっていた。
戦の傷跡はまだ残っている。
だが街には活気も戻り始めていた。
蜀軍の兵士達が治安を守り。
商人達は新たな取引を始め。
民達も少しずつ新しい支配に慣れ始めている。
そんな建業の城内では。
一つの祝い事が行われていた。
「生まれました!」
侍女の声が廊下へ響く。
待っていた者達の顔が一斉に明るくなった。
その中心にいたのは北郷一刀だった。
「本当か!?」
思わず立ち上がる。
普段の冷静さなどどこにもない。
天の御使い。
軍師。
策士。
そんな肩書は消え失せていた。
今の彼はただの父親だった。
部屋の中へ駆け込む。
そこには疲れた様子ながらも穏やかに微笑む蓮華がいた。
そして。
その腕の中には小さな命。
赤子だった。
「蓮華……」
一刀は思わず言葉を失う。
蓮華が小さく笑う。
「何よ」
「いや……」
言葉が続かない。
戦場では何万人もの兵を動かす男が。
赤子を前にして完全に固まっていた。
蓮華は呆れながらも嬉しそうだった。
「抱いてみる?」
「え?」
「父親でしょう」
一刀は恐る恐る赤子を受け取る。
軽かった。
驚くほど軽かった。
だが。
その存在はどんな城より重く感じる。
小さな手。
小さな顔。
そして。
確かに生きている。
「俺の子か……」
自然と笑みが浮かぶ。
蓮華もそれを見て微笑んだ。
かつて呉の王族だった彼女。
敗戦を経験し。
多くを失った。
だが今。
新しい家族を得た。
それは間違いなく幸福だった。
その日。
建業では盛大な祝いが行われた。
将兵達も喜んだ。
蜀軍の武将達も祝福した。
そして一刀も珍しく酒を飲んだ。
心からの笑顔だった。
だが。
祝いの席が終わり。
夜になると。
北郷一刀は再び一人の軍師へ戻っていた。
執務室。
机の上には各地からの報告書。
その中に一枚。
気になる書簡があった。
「許昌か」
書簡を開く。
そこには燕国の近況が記されていた。
雪蓮。
孫策。
現在は燕国に滞在中。
張燕の正妻。
その一文を見て一刀は目を細めた。
「孫策……」
かつての呉王。
南方最強の武人の一人。
その名は一刀もよく知っている。
そして現在。
彼女は燕国にいる。
張燕の側に。
一刀は椅子へ深く座る。
考える。
雪蓮について。
戦場で何度も名前を聞いた。
誇り高い王。
豪胆な武人。
自由を愛する女傑。
そんな人物だった。
だからこそ。
彼には違和感があった。
「本当に自分からか?」
ぽつりと呟く。
報告書には雪蓮が幸せそうだとも書かれている。
張燕と仲が良いとも。
だが。
一刀は信じなかった。
いや。
信じたくなかったのかもしれない。
彼の中の孫策像。
それは誰にも従わない王だった。
そんな女性が。
一人の男の正妻になる。
しかも張燕の。
どうしても納得できなかった。
「何かある」
そう考える。
無理矢理ではないにしても。
何らかの事情。
何らかの束縛。
そういうものがあるのではないか。
一刀の思考は自然とそこへ向かう。
そして。
その考えは次第に形を持ち始める。
「もし孫策が不本意なら」
燕国に揺さぶりをかけられる。
もし雪蓮を味方につけられれば。
燕国内部へ亀裂を作れる。
そう考えた。
数日後。
成都。
一刀は密かに信頼できる者達を呼んだ。
表向きは情報収集。
だが目的は別にある。
「燕についてもっと調べてくれ」
「燕ですか?」
「特に孫策だ」
部下達が頷く。
一刀は続ける。
「どんな暮らしをしている」
「何を考えている」
「張燕との関係はどうだ」
細かく指示を出す。
表向きは同盟国の調査。
問題はない。
誰も疑わない。
だが。
一刀自身は理解していた。
これは戦の準備だ。
まだ剣は抜かない。
まだ兵も動かさない。
だが。
既に戦いは始まっている。
まずは相手を知る。
弱点を探す。
そして。
利用できるものを探す。
それが彼のやり方だった。
窓の外を見る。
夜空が広がっている。
遠く北。
その先には燕国がある。
許昌がある。
張燕がいる。
そして。
雪蓮がいる。
一刀は静かに目を閉じた。
「張燕」
小さく呟く。
今のところ同盟は続いている。
表面上は友好関係だ。
だが。
彼の心の中では既に別の未来が動き始めていた。
天下統一。
その道の先に。
燕国という巨大な壁が立っている。
だからこそ。
今のうちに崩せる部分を探す。
そして。
雪蓮という存在に。
北郷一刀は静かに注目し始めていたのである。
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