第二百二十九話 天の御使いの暗躍
建業。
祝いの宴は深夜まで続いた。
蜀の将達は酒を酌み交わし。
燕から来た者達も笑っていた。
赤子の誕生という慶事に国境は関係ない。
少なくとも表向きは。
そういう空気だった。
だが。
宴が終わる頃。
北郷一刀は一人になっていた。
建業城の一室。
窓の外には夜景が広がっている。
元々呉の中心だったこの都市は、蜀の支配下に入ってからさらに活気を増していた。
灯火が続く。
民達の笑い声も聞こえる。
一刀はそれを静かに見つめていた。
そして。
机の上には一枚の報告書。
そこに書かれている名前は。
張燕。
雪蓮。
華琳。
今まさに建業へ来ている三人だった。
「やっぱり来たか」
一刀は小さく呟く。
宴の席では笑っていた。
だが。
内心では警戒を強めている。
張燕という男は不思議だった。
天下最大級の勢力を持ちながら王を名乗らない。
野心も見せない。
だが。
結果だけ見れば最も危険な存在だった。
河北を手に入れた。
中原も手に入れた。
魏も吸収した。
気付けば天下の半分近くを支配している。
それなのに。
本人は黒山へ逃げたり。
政務を放り出したり。
妻達に追い回されたりしている。
普通なら理解できない。
だからこそ不気味だった。
「読めない」
一刀は苦笑した。
そして。
もう一つ気になる事がある。
雪蓮だった。
宴の席で見た。
張燕と雪蓮。
その関係を。
笑い合う姿。
自然な会話。
気を許した距離感。
一刀は眉をひそめる。
「おかしいな」
自分が集めた情報と違う。
本来なら。
もっと不満があるはずだった。
元呉王。
孫策。
誇り高い王。
そんな女が誰かの妻として落ち着いている。
しかも幸せそうに。
それがどうしても理解できなかった。
「演技か?」
考える。
だが。
宴の間ずっと観察していた。
無理をしているようには見えなかった。
むしろ。
本当に楽しそうだった。
それが逆に一刀を困惑させる。
「張燕……」
窓の外を見る。
あの男は本当に何者なのか。
その時。
部屋の扉が叩かれた。
入ってきたのは諜報担当の男だった。
「報告です」
「聞こう」
男は一礼する。
そして静かに言った。
「孫策について調査した結果ですが」
一刀の目が細くなる。
男は続ける。
「燕国内での評判は非常に良好です」
「そうか」
「不満の声はほとんどありません」
「……」
「むしろ民から慕われています」
一刀は黙る。
さらに報告は続く。
「曹操との関係も良好」
「張燕との関係も良好」
「燕国内での立場も強固です」
聞けば聞くほど。
自分の予想と違う。
雪蓮は利用されている。
無理やり従わされている。
そんな可能性も考えていた。
だが。
実際は違う。
少なくとも表面上は。
完全に燕国へ溶け込んでいた。
報告が終わる。
男が退室する。
部屋には再び静寂が戻った。
「難しいな」
一刀は椅子にもたれた。
雪蓮から崩す。
その考えは簡単ではなくなってきた。
だが。
諦めるつもりもない。
天下統一。
その道を進むなら。
いずれ燕と向き合わなければならない。
だから今は。
情報が必要だった。
敵を知る。
それが最優先。
その頃。
城内の客室では。
張燕が酒を飲んでいた。
雪蓮と華琳もいる。
完全にくつろいでいる。
「時雨」
華琳が言う。
「何だ」
「また何か考えてるでしょう」
「少し」
即答だった。
雪蓮が吹き出す。
やはりそうだった。
張燕が大人しく祝いだけで帰るはずがない。
「何を考えてるの?」
雪蓮が尋ねる。
張燕は酒を飲む。
そして。
小さく笑った。
「天の御使いの事だ」
部屋が静かになる。
華琳も真面目な顔になった。
今や最も警戒すべき相手。
それが北郷一刀だった。
「どう思う?」
華琳が聞く。
張燕は少し考える。
そして答えた。
「頭が良い」
「ええ」
「かなり」
「ええ」
二人とも同意する。
だが。
張燕は続けた。
「だからこそ」
酒を置く。
黒山賊時代から変わらない笑み。
嫌な事を考えている時の顔だった。
「先に動いた方が勝つ」
雪蓮が苦笑する。
華琳も額を押さえた。
嫌な予感しかしない。
そして。
その予感は正しかった。
建業。
祝いの席の裏で。
天の御使いは動く。
黒山の頭領も動く。
表面上は同盟国。
だが。
その水面下では。
既に静かな戦いが始まっていた。
そしてその戦いは。
やがて蜀と燕。
二つの巨大勢力を巻き込む大きな渦へ変わっていくのである。
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