【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第二百三十三話 揺らぎ始めた理想

第二百三十三話 揺らぎ始めた理想

 

成都。

 

春の風が城下を吹き抜けていた。

 

市場には人が集まり、各地から訪れた商人達が活発に商売をしている。

 

呉を併合したことで蜀の領土は大きく広がった。

 

揚州から届く物資。

 

徐州から流れてくる商隊。

 

かつてとは比べ物にならないほど蜀は豊かになっている。

 

その繁栄を見ながらも、劉備の心はどこか晴れなかった。

 

執務室。

 

机に向かう劉備は一枚の報告書を眺めていた。

 

燕国に関する報告だった。

 

北方の開発。

 

旧魏領の再建。

 

街道整備。

 

治安維持。

 

どれも順調と書かれている。

 

本来なら喜ぶべき話だった。

 

同盟国が安定している。

 

それは悪い事ではない。

 

だが最近の劉備は以前ほど素直に喜べなくなっていた。

 

理由は自分でも分からない。

 

ただ。

 

報告書を見るたびに思う。

 

燕は大きすぎるのではないか。

 

そんな考えが頭をよぎるのだ。

 

「桃香?」

 

聞き慣れた声。

 

振り返ると北郷一刀が立っていた。

 

「ご主人様」

 

劉備は笑顔を作る。

 

だが一刀は気付いた。

 

以前より少し元気がない。

 

「何を見てたんだ?」

 

「燕の報告書だよ」

 

一刀は近付く。

 

そして内容を確認する。

 

もちろん既に知っている内容だった。

 

「順調みたいだな」

 

「うん……」

 

劉備の返事は歯切れが悪い。

 

一刀は何も言わない。

 

ただ静かに待った。

 

やがて劉備が口を開く。

 

「ご主人様」

 

「なんだ?」

 

「天下三分の計って本当にできるのかな?」

 

一刀の目がわずかに細くなる。

 

それは以前なら出てこなかった言葉だった。

 

「どうしてそう思う?」

 

「だって……」

 

劉備は窓の外を見る。

 

「呉はもう無い」

 

「うん」

 

「今は蜀と燕しかない」

 

確かにその通りだった。

 

かつて三つに分かれるはずだった天下。

 

だが今や二強構造になっている。

 

劉備は続けた。

 

「もし燕がもっと大きくなったら?」

 

「……」

 

「本当に均衡は続くのかな」

 

不安。

 

迷い。

 

それらが混ざっていた。

 

一刀は表情を変えない。

 

だが心の中では静かに頷いていた。

 

種は芽吹き始めている。

 

焦らず。

 

少しずつ。

 

積み重ねてきた言葉。

 

それが劉備の中で形になり始めていた。

 

「難しい問題だな」

 

一刀は静かに言った。

 

「でも桃香」

 

「うん」

 

「考える事は悪くない」

 

劉備は頷く。

 

そして再び報告書へ視線を落とした。

 

その頃。

 

許昌では。

 

「逃げる!」

 

張燕が叫んでいた。

 

「逃がしません!」

 

桂花が叫んでいた。

 

今日も平和だった。

 

執務室から脱出しようとする張燕。

 

それを阻止する桂花。

 

周囲では雪蓮と華琳が見物している。

 

「今日はどこへ逃げるつもりだったの?」

 

雪蓮が笑う。

 

「黒山」

 

「昨日も言ってたわね」

 

「黒山は俺を裏切らない」

 

張燕は真顔だった。

 

華琳が吹き出す。

 

「書類は裏切るものね」

 

「そうだ」

 

即答だった。

 

天下を震わせた男とは思えない。

 

だが。

 

そんな張燕を見ながら華琳は少し考えていた。

 

最近妙な報告が増えている。

 

蜀の動き。

 

情報収集。

 

国境周辺の調査。

 

露骨ではない。

 

だが確実に増えていた。

 

「時雨」

 

「ん?」

 

「蜀をどう思う?」

 

突然の質問だった。

 

張燕は少し考える。

 

そして答える。

 

「今は同盟国だな」

 

「今は?」

 

雪蓮が反応する。

 

張燕は肩を竦めた。

 

「未来は分からん」

 

それは本音だった。

 

誰にも未来は分からない。

 

桃香は信用している。

 

愛紗も鈴々も朱里も知っている。

 

だが。

 

北郷一刀だけは別だった。

 

あの男は読めない。

 

だから警戒している。

 

「天の御使いか」

 

華琳も同じ結論に至る。

 

張燕は頷いた。

 

「あいつは頭が良すぎる」

 

それが最大の問題だった。

 

戦場で強い敵なら分かる。

 

力で押してくる敵も分かる。

 

だが。

 

考え続ける敵は厄介だった。

 

成都。

 

軍議の席でも変化は現れ始めていた。

 

諸将が集まり各地の報告を確認している。

 

そこで。

 

ある将が口を開く。

 

「燕との交易量が増えています」

 

「良い事だな」

 

愛紗が頷く。

 

だが別の者が言った。

 

「依存し過ぎるのも危険かもしれません」

 

会議室が静かになる。

 

以前なら出なかった意見だった。

 

しかし今は違う。

 

少しずつ。

 

少しずつ。

 

燕を巨大な存在として見る空気が生まれていた。

 

劉備は黙って聞いていた。

 

否定も肯定もしない。

 

だが心の中では迷いが広がっていく。

 

燕は友か。

 

それとも。

 

未来の敵か。

 

会議後。

 

一刀は一人で庭園を歩いていた。

 

遠くに見える夕日。

 

赤く染まる空。

 

その光景を見ながら静かに息を吐く。

 

急ぐ必要はない。

 

桃香は優しい。

 

だからこそ決断が遅い。

 

だからこそ時間をかける。

 

理想と現実。

 

友情と責任。

 

その間で悩ませる。

 

そして最後に。

 

蜀の王として答えを出させる。

 

一刀は空を見上げた。

 

「もう少しだ」

 

誰にも聞こえない声。

 

成都では理想が揺らぎ始めていた。

 

そして許昌では。

 

張燕が窓から逃げようとして桂花に首根っこを掴まれていた。

 

天下の行方を左右する二人の男。

 

片や静かに盤上を動かす天の御使い。

 

片や政務から逃げようとする黒山の頭領。

 

だがその水面下では。

 

確実に次の時代へ向けた流れが動き始めていたのである。

 




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