第二百四十二話 出陣の日
夜明け前の許昌は、まだ薄い霧に包まれていた。
静まり返っているように見える都だったが、その内側では数え切れないほどの人々が慌ただしく動いていた。
兵達は鎧を身につけ、武器を確認し、軍馬には鞍が取り付けられていく。
兵糧を積んだ荷車が次々と城門へ集まり、鍛冶場では最後の武具の調整が行われていた。
職人達の槌の音は夜明け前から止むことなく響き続けている。
城壁の上では見張りの兵が東の空を見つめていた。
今日から燕軍は本格的な出陣準備へ入る。
蜀との同盟が終わってから一か月。
互いに軍備を整え続けた両国は、ついに剣を抜く時を迎えようとしていた。
王城では公孫瓚が早朝から執務室へ姿を見せていた。
机の上には各地から届いた報告書が積み上がり、荊州方面の地図には無数の駒が置かれている。
白蓮は一枚一枚報告書を確認しながら、ゆっくりと息を吐いた。
王となってから幾度となく軍を動かしてきた。
しかし、今回ほど重い決断はなかった。
相手はかつて背中を預け合った仲間達。
桃香も愛紗も鈴々も知っている。
だからこそ、この戦だけは避けたかった。
だが、その願いは叶わなかった。
扉が静かに開く。
桂花が新しい報告書を抱えて入ってきた。
「白蓮様 各方面からの最終報告です」
「ありがとう 桂花」
桂花は報告書を机へ並べる。
「黒山軍 十万 全軍集結完了」
「旧魏軍 八万 配置完了」
「騎兵部隊 三万 五千 準備完了」
「各補給拠点 問題ありません」
白蓮は静かに頷いた。
「よくここまで整えた」
「当然です」
桂花は胸を張る。
「負ける準備など一つもしていません」
その言葉には揺るぎない自信があった。
桂花は魏にいた頃から兵站を支え続けた才女である。
燕へ仕えてからも、その能力は何一つ衰えてはいなかった。
城の中庭では黒山軍の兵士達が整列していた。
その中心では恋が方天画戟を振るっている。
巨大な方天画戟が風を切るたび、周囲の兵達から感嘆の声が漏れた。
霞は騎兵達へ指示を飛ばしている。
「馬の様子をもう一回見ときや 無駄に疲れさせたらあかんで」
「はっ」
兵達が一斉に動き始める。
その少し離れた場所。
時雨は縁側へ寝転がって空を見ていた。
春の空はどこまでも青く、雲がゆっくりと流れていく。
戦が近いとは思えないほど穏やかな朝だった。
「また寝ているのか」
星が呆れたように歩いてくる。
時雨は空を見たまま答えた。
「寝てない」
「目を閉じていたが」
「考え事だ」
「本当ですかな」
時雨は小さく笑う。
「半分寝てた」
「正直だな」
星も思わず笑みを浮かべた。
二人の間に流れる空気だけはいつも通りだった。
戦が近づいても、その穏やかさは変わらない。
そこへ雪蓮が歩いてくる。
「時雨」
「ん」
「白蓮が探してたわよ」
「またか」
時雨はゆっくり立ち上がる。
「軍議だろ」
「そうでしょうね」
「面倒だ」
「戦が始まる前くらい真面目にしなさい」
雪蓮は笑いながら時雨の腕を引いた。
その様子を見ていた兵士達も自然と笑顔になる。
燕軍の強さは武力だけではない。
将達の距離の近さ。
互いを信頼し合う空気。
それが兵達にも伝わっていた。
誰も恐れてはいない。
誰も下だけを向いてはいない。
これから始まる戦いは天下最後の大戦になるかもしれない。
だからこそ。
全員が前を向いて歩き始めていた。
次話では、公孫瓚が全軍へ出陣演説を行い、燕軍三十万が許昌を出陣する場面へ続きます。
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