第二百四十四話 漢中の戦い
漢中。
蜀を守る天然の要害。
切り立った断崖が幾重にも連なり、狭い山道が谷を縫うように続いている。大軍が自由に動ける土地ではない。だからこそ歴代の軍師達は、この地を守りさえすれば蜀は落ちないと言い続けてきた。
その漢中へ、燕国最強と名高い黒山軍が迫っていた。
蜀軍本陣。
軍旗が風に揺れ、山々へは兵士達の掛け声が響き渡る。
本陣中央には諸葛亮が立ち、広げられた地図を静かに見つめていた。
年若い軍師とは思えない落ち着きで、一つ一つの報告を整理していく。
「斥候より報告です」
「黒山軍は予定通り漢中へ向かっています」
諸葛亮は静かに頷く。
「ありがとうございます」
その隣には長い紫髪を風になびかせた黄忠が立っていた。
成熟した雰囲気を纏う女将軍は、弓を背負いながら穏やかに微笑む。
「張燕ね」
「どんな男なのか、一度会ってみたいものだわ」
諸葛亮は苦笑した。
「敵としては一番会いたくない相手です」
「戦い方に決まりがありませんから」
黄忠も小さく笑う。
「黒山軍らしいわね」
そこへ槍を担いだ張飛が元気よく駆け込んできた。
「朱里!」
「燕軍はまだなのだ!」
「鈴々、もう待ちくたびれたのだ!」
黄忠が優しく頭を撫でる。
「焦っちゃ駄目よ」
「相手は山の戦いが得意なんだから」
張飛は頬を膨らませる。
「でも来ないと始まらないのだ!」
本陣には愛紗こそいないものの、多くの蜀将達が集結していた。
誰もが黒山軍との戦いを前に緊張している。
その頃。
数十里離れた山中。
黒山軍は静かに山道を進んでいた。
先頭を歩く時雨は、周囲を見回しながら足を止める。
その背後には星。
恋。
霞。
三人とも普段通りの表情だった。
星は槍を肩へ担ぎながら時雨の横へ並ぶ。
「どうした?」
時雨は山の尾根を指差す。
「あそこ」
星が目を細める。
「伏兵か」
「ああ」
霞も周囲を見渡す。
「よう隠れとるな」
恋は静かに空を見上げる。
「鳥」
「飛んでない」
時雨は笑った。
「恋も気付いたか」
黒山軍の兵達は誰も騒がない。
頭領が立ち止まれば理由がある。
それを全員が理解している。
星は時雨へ顔を近付ける。
「真正面から突っ込むか?」
時雨は首を振る。
「いや」
その返事を聞いた星は妖しく笑った。
「そう来なくちゃつまらない」
「久しぶりに悪い顔してるじゃないか」
時雨も笑い返す。
「黒山らしく行こうと思ってな」
「安心した」
星は腕を組み、わざと胸を強調するように身体を寄せる。
「私は正面から殴り合うより、あんたの悪知恵を見る方が好きなんだ」
霞が呆れたように笑う。
「また始まったわ」
「星のエロ姉ちゃんぶりが」
星は悪びれもせず微笑む。
「お姉さんには余裕ってものが必要なんだ」
「可愛い妹達には真似できんだろ?」
霞は肩を竦める。
「誰も真似せえへんわ」
恋だけは首を傾げていた。
「えろ……?」
星は恋の頭を撫でる。
「恋はそのままでいい」
時雨は苦笑しながら山道を見つめる。
「遊ぶのは後だ」
「蜀は俺達を待ってる」
その一言で全員の空気が変わる。
星も笑みを消した。
「どう動く?」
時雨は地図を広げることなく山並みを眺める。
長年黒山で生きてきた経験が、そのまま地図になっている。
「蜀はこの一本道しか来ないと思ってる」
「だから伏兵を置いた」
「なら俺達は道を使わない」
霞が笑みを深くする。
「山越えやな」
「ああ」
「黒山軍全軍」
「尾根を越える」
兵達がざわつく。
誰も予想しなかった命令だった。
険しい岩山。
荷車すら通れない崖。
普通の軍なら不可能。
だが。
黒山軍は普通ではない。
山賊として育ち、山を庭のように駆け回ってきた兵ばかりだった。
星は口元を緩める。
「やっぱりそう来たか」
「私はこういう戦いが好きだ」
時雨は振り返る。
「全軍」
「山を越えるぞ」
「蜀が待つ場所には一人も行かない」
その命令と同時に、黒山軍十万は山道を外れ、誰も進もうとしない険しい尾根へ向かって歩き始めた。
蜀軍が待ち構える谷には、いつまで待っても敵は現れない。
漢中の山々を舞台に。
張燕率いる黒山軍は、開戦早々、黒山流の奇策で諸葛亮の読みを崩そうとしていた。
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