第二百四十五話 黒山、山を駆ける
漢中の山々は深い霧に包まれていた。
夜明けから数刻が過ぎても谷間には陽が差し込まず、湿った空気が木々の間をゆっくりと流れていく。
その静寂を破る者はいない。
蜀軍は谷の両側へ伏兵を配置し、息を潜めていた。
槍兵は盾を構え、弓兵は弦を引き絞ったまま山道を見下ろしている。
諸葛亮は本陣で報告を待っていた。
張燕率いる黒山軍は必ずこの一本道を通る。
山越えは不可能。
荷車も兵糧も抱えた十万の軍勢が険しい尾根を越えるなど常識では考えられない。
だからこそ、この伏兵は必ず成功する。
そう信じていた。
だが、その常識こそが黒山軍には通用しなかった。
黒山軍はすでに山道を捨てていた。
険しい尾根。
岩肌が剥き出しになった獣道。
普通の軍なら一人通るだけでも危険な場所を、黒山兵達は迷いなく進んでいく。
足取りは軽い。
息も乱れない。
彼らにとって山は敵ではない。
故郷だった。
先頭を歩く張燕は時折立ち止まり、風の流れや鳥の鳴き声へ耳を澄ませる。
その後ろでは星が槍を肩へ担ぎながら笑っていた。
「やっぱり落ち着くな」
「平地より山の方が性に合ってる」
張燕も苦笑する。
「黒山育ちだからな」
星は張燕の肩を軽く叩く。
「それにしても朱里も災難だ」
「一生懸命待ってるだろうな」
霞が肩を震わせた。
「待ち伏せが空振りやったら泣くで」
恋は首を傾げる。
「かわいそう」
張燕は空を見上げる。
「でも敵だからな」
「容赦はしない」
その一言で全員の表情が引き締まった。
黒山軍は情に厚い。
しかし戦になれば話は別だった。
やがて斥候が戻ってくる。
「頭領」
「見えました」
張燕は岩陰へ身を隠した。
山の向こう。
谷間には蜀軍の小さな補給隊が進んでいる。
兵糧を積んだ荷車。
護衛の槍兵。
弓兵はわずか。
総勢五百ほど。
前線へ兵糧を運ぶ部隊だった。
張燕は小さく笑う。
「運がいい」
星もその意味を理解する。
「本隊じゃない」
「補給隊か」
「兵站を叩くつもりか」
張燕は頷く。
「戦は兵糧で決まる」
「まずは腹を空かせてもらおう」
霞が楽しそうに笑う。
「黒山らしい始まりや」
恋は静かに方天画戟を握る。
「恋」
「行く」
張燕は右手を上げる。
黒山兵達が一斉に身を低くした。
誰一人として声を出さない。
風だけが山を抜ける。
補給隊は何も知らない。
自分達が狙われていることなど夢にも思っていなかった。
その瞬間だった。
張燕が静かに手を振る。
黒山軍が岩陰から飛び出した。
まるで山そのものが襲い掛かってきたようだった。
「敵襲だ!」
蜀兵が叫ぶ。
だが遅い。
恋が先頭へ飛び込む。
巨大な方天画戟が振るわれるたび、槍が宙を舞い、兵達は慌てて隊列を崩した。
「呂布だ!」
「呂布がいるぞ!」
恐怖が一気に広がる。
その横では霞が騎兵を率いて側面へ回り込む。
「逃がさんで!」
黒山騎兵が一気に補給隊を分断する。
荷車は行き場を失い、道を塞いだ。
星は槍を振るいながら笑う。
「ほらほら」
「逃げるなら今のうちだぞ」
その動きは舞を踊るように軽やかだった。
蜀兵は必死に応戦する。
しかし黒山軍は正面から押し潰さない。
現れては消え、岩陰へ隠れ、別方向から襲い掛かる。
山を知り尽くした者だけができる戦いだった。
張燕は最後まで動かない。
全体を見渡している。
兵達の動き。
逃げ道。
敵の指揮官。
全てを確認しながら小さく呟く。
「もう十分だ」
張燕は再び手を振った。
すると黒山軍は一斉に戦線を離脱する。
補給隊を全滅させることなく、兵糧だけを奪い、山の中へ姿を消した。
あまりにも鮮やかな撤退だった。
残された蜀兵は呆然と立ち尽くす。
荷車は空。
兵糧は消えた。
敵も消えた。
山には再び静寂だけが戻る。
しばらくして、その報せは蜀軍本陣へ届く。
諸葛亮は報告を聞き、静かに目を閉じた。
張燕は正面から来ない。
それどころか、戦いの始まりに補給を狙ってきた。
黒山軍。
その恐るべき山岳戦術は、漢中の戦いが始まったその日から蜀軍の想定を大きく狂わせ始めていた。
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