第二百四十六話 山霧の中の知略
漢中の山々は、補給隊襲撃から半日が過ぎても静まり返っていた。
谷を渡る風が木々を揺らし、鳥の鳴き声だけが山中に響く。
しかし、その静けさとは裏腹に、蜀軍本陣は慌ただしく動いていた。
失われた兵糧は決して少なくない。
最前線へ送るはずだった食糧と矢、さらに軍馬用の飼葉まで奪われたことで、予定していた布陣にも影響が出始めていた。
本陣では諸葛亮が地図の前に立ち、報告書を一枚ずつ確認していた。
その表情は落ち着いている。
だが、その瞳の奥では絶え間なく思考が巡っていた。
「補給隊を狙うとは……」
静かな呟きが漏れる。
「張燕さんらしいですね」
黄忠が腕を組みながら頷く。
「最初から正面決戦をする気はないみたいね」
諸葛亮は地図へ新たな駒を置く。
「ええ」
「張燕さんは私達を焦らせようとしています」
「こちらが動けば、また別の場所を叩くでしょう」
張飛は槍を抱えたまま不満そうに口を尖らせた。
「いつまで隠れてるのだ」
「鈴々は早く戦いたいのだ」
黄忠が苦笑する。
「それが相手の狙いよ」
「焦ったら負け」
張飛は渋々頷いた。
一方その頃、黒山軍は深い森の中で休息を取っていた。
兵達は焚き火を囲み、奪った兵糧を手際よく分配している。
誰も騒がない。
戦場とは思えないほど穏やかな時間が流れていた。
時雨は大木にもたれ掛かり、枝葉の隙間から見える空を眺めていた。
星が酒瓶を片手に近付いてくる。
「考え事か」
時雨は視線を空へ向けたまま答える。
「次を考えてる」
星は隣へ腰を下ろした。
「朱里は今頃頭を抱えてるだろうな」
「そうだろうな」
「でも、あいつは優秀だ」
「同じ手は二度と通じない」
星は口元を緩める。
「だから面白い」
そこへ霞が歩いてくる。
「斥候が戻ったで」
時雨はゆっくり立ち上がる。
斥候は地図を広げた。
「蜀軍は伏兵を解いて部隊を細かく分け始めました」
「補給路にも見張りを増やしています」
星は感心したように笑う。
「さすが朱里」
「立て直しが早い」
時雨は地図を見つめる。
蜀軍は受け身をやめ、山全体を警戒し始めている。
これでは昨日と同じ奇襲は難しい。
だが、それも想定の内だった。
「恋」
恋が静かに前へ出る。
「なに」
「しばらく暴れるな」
恋は少しだけ残念そうな顔をした。
「分かった」
霞が笑う。
「恋が暴れへんのも珍しいな」
時雨は枝を一本拾い、地面へ簡単な地図を描き始めた。
「相手は今、俺達を探してる」
「だから俺達は探させる」
星が時雨の意図を読む。
「姿を見せないのか」
「ああ」
「見えない敵ほど怖い」
黒山兵達も静かに頷いた。
山で育った彼らには、それが最も効果的な戦い方だと分かっている。
その夜。
漢中一帯には濃い霧が立ち込めた。
蜀軍の見張り兵は何度も周囲を見回すが、霧の向こうには何も見えない。
風に揺れる木々が人影にも見え、兵達の緊張は高まるばかりだった。
「敵か」
誰かが叫ぶ。
全員が槍を構える。
しかし、そこにいたのは鹿の群れだった。
安堵した空気が流れる。
その頃、数百歩離れた尾根の上では、時雨達がその様子を静かに見下ろしていた。
星は思わず笑いを堪える。
「完全に疑心暗鬼になってる」
霞も肩を震わせた。
「戦う前に疲れさせる気やな」
時雨は静かに頷く。
「焦りは判断を鈍らせる」
「今はそれでいい」
黒山軍は一矢も放たず、ただ山の闇へ姿を消していく。
戦っていない。
それなのに蜀軍の兵達は眠れない夜を過ごすことになる。
山そのものが敵になったかのような恐怖。
それこそが、黒山軍が最も得意とする戦いだった。
漢中の戦いは、まだ本格的な激突すら迎えていない。
それでも諸葛亮と張燕。
二人の知略はすでに山全体を戦場へと変え始めていた。
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