【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第二百四十七話 知将と山賊

第二百四十七話 知将と山賊

 

 

漢中の夜は深かった。

 

昼間は蒸し暑さを感じさせた山も、日が落ちると冷たい風が谷を吹き抜け、木々の葉を揺らしていく。

 

蜀軍本陣では、焚き火の炎だけが周囲を照らしていた。

 

見張りの兵達は普段以上に神経を張り詰め、霧の向こうを何度も見渡している。

 

誰も口にはしない。

 

しかし全員が同じことを考えていた。

 

黒山軍はどこにいるのか。

 

敵が見えない。

 

それが兵達の心を少しずつ削っていた。

 

本陣の天幕では、諸葛亮が静かに地図へ目を落としていた。

 

補給路。

 

伏兵地点。

 

尾根。

 

谷。

 

一本一本の山道まで細かく印が付けられている。

 

黄忠が湯気の立つ茶碗を差し出した。

 

「少し休んだらどう」

 

諸葛亮は微笑みながら受け取る。

 

「ありがとうございます」

 

黄忠は地図を覗き込んだ。

 

「張燕は姿を見せないわね」

 

「ええ」

 

「私達が待てば待つほど、こちらの兵の疲労が溜まります」

 

「黒山軍は戦っているようで戦っていません」

 

「兵の心を削る戦いです」

 

黄忠は静かに頷いた。

 

「なるほど」

 

「山賊らしい戦いね」

 

諸葛亮は首を横へ振る。

 

「違います」

 

「これは山賊の戦ではありません」

 

「張燕さん自身の戦い方です」

 

その言葉には、敵将への警戒と敬意が滲んでいた。

 

その頃。

 

黒山軍は尾根のさらに奥深くで野営していた。

 

焚き火は小さい。

 

煙もほとんど立たない。

 

兵達は交代で休息を取り、武器を手放す者は一人もいなかった。

 

時雨は大きな岩へ腰を下ろし、夜空を眺めている。

 

星が酒瓶を持って隣へ座った。

 

「飲むか」

 

「少しだけな」

 

星は酒を注ぎながら笑う。

 

「朱里は今頃眠れない夜を過ごしてる」

 

「優秀な軍師ほど考え込むからな」

 

時雨は杯を受け取った。

 

「考えさせるのも戦いだ」

 

「敵が眠れなければ、それだけで有利になる」

 

星は肩を寄せる。

 

「お前も悪い男だ」

 

「私はそういうところも嫌いじゃない」

 

時雨は苦笑した。

 

「色気を出しても何も出ないぞ」

 

「試してみるか」

 

星は悪戯っぽく笑う。

 

「恋と霞が見てるぞ」

 

そう言われて振り返ると、恋が不思議そうな顔でこちらを見ていた。

 

霞は呆れたように肩を竦める。

 

「また星の悪い癖や」

 

「戦場でも変わらんな」

 

星は楽しそうに笑う。

 

「お姉さんには余裕が必要なんだ」

 

「張り詰めた空気ばかりじゃ息が詰まる」

 

時雨も笑った。

 

黒山軍には、この空気があった。

 

緊張しすぎない。

 

だが気は抜かない。

 

それが長年死線を潜り抜けてきた者達の自然な姿だった。

 

その時、一人の斥候が戻ってきた。

 

「頭領」

 

「蜀軍が動き始めました」

 

時雨の表情が変わる。

 

「どこへ」

 

「谷の伏兵を減らし、各尾根へ斥候隊を増やしています」

 

星が感心したように頷く。

 

「早いな」

 

「さすが朱里」

 

時雨は立ち上がり、山並みを見渡した。

 

「待ちから探す戦いへ変えたか」

 

「なら次はこちらが動く番だ」

 

霞が地図を広げる。

 

「どこを狙う」

 

時雨は一本の指で山道を示した。

 

「ここ」

 

星が目を細める。

 

「本陣への連絡路」

 

「ああ」

 

「兵站じゃない」

 

「今度は情報を断つ」

 

黒山兵達の表情に笑みが浮かぶ。

 

情報が届かなければ、軍は目を失う。

 

時雨は静かに全員を見回した。

 

「恋」

 

「うん」

 

「今回は暴れていい」

 

恋の瞳が少しだけ輝く。

 

「任せて」

 

「霞」

 

「騎兵は回り込め」

 

「了解や」

 

「星」

 

「私は」

 

「俺と来い」

 

星は嬉しそうに笑う。

 

「二人きりか」

 

「仕事だ」

 

「分かってる」

 

そう言いながらも星の口元は楽しそうだった。

 

夜風が強くなる。

 

黒山軍は音もなく立ち上がり、それぞれ持ち場へ散っていく。

 

一方、蜀軍本陣でも諸葛亮は胸騒ぎを覚えていた。

 

張燕は次に何を狙うのか。

 

補給か。

 

伏兵か。

 

それとも本陣そのものか。

 

考えても答えは出ない。

 

だからこそ恐ろしい。

 

見えない敵。

 

予測できない敵。

 

それが張燕率いる黒山軍だった。

 

山々は再び静寂に包まれる。

 

だが、その静寂は嵐の前触れに過ぎなかった。

 

黒山軍の新たな奇策が、漢中全域をさらに大きく揺るがそうとしていた。

 




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