第二百四十八話 黒山流、闇を歩く
漢中の山々は夜明けを迎えようとしていた。
濃い霧が谷を覆い、木々の隙間から差し込む朝日さえ白く霞んでいる。
静かな山。
だが、その静寂の裏では誰にも気付かれない戦いが始まっていた。
黒山軍は夜のうちに三つへ分かれていた。
恋は少数の精鋭を率いて山奥へ。
霞は騎兵を連れ、山道の出口を封鎖できる位置へ。
そして時雨と星は、ごく少数の黒山兵だけを伴い、蜀軍の連絡路へ忍び込んでいた。
誰一人として松明は持たない。
月明かりと長年培った勘だけを頼りに山を歩く。
それが黒山兵だった。
時雨は一本の細い山道で足を止めた。
しゃがみ込み、地面へ手を触れる。
「ここだ」
星が周囲を見回す。
「連絡兵が通る道か」
「ああ」
「毎日決まった時間に通ってる」
星は妖しく笑った。
「よく調べたな」
「昨日一日見てた」
時雨は静かに立ち上がる。
「今日は戦わない」
「戦うより嫌なことをする」
星は思わず吹き出した。
「出たな」
「時雨の悪い癖」
時雨は笑う。
「黒山は勝てばいい」
「正々堂々は強い奴がやればいい」
星は肩をすくめる。
「私は嫌いじゃない」
やがて遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。
蜀軍の伝令隊だった。
十数騎ほどの小部隊。
本陣と各部隊を行き来する重要な役目を担っている。
時雨は右手を上げる。
誰も動かない。
伝令隊はそのまま山道を進んでいく。
そして細い谷へ差しかかった瞬間だった。
ザザッ――。
黒山兵が一斉に姿を現した。
「敵襲!」
蜀兵が叫ぶ。
しかし黒山兵は槍を向けない。
矢も放たない。
その代わり、道を塞ぐように丸太を転がした。
伝令隊は慌てて馬を止める。
その隙に黒山兵は馬へ積まれていた書簡だけを奪い取る。
「撤退!」
時雨の一声で全員が山へ消えた。
戦いはわずか数十息。
蜀兵は誰一人討たれていない。
だが、最も重要な軍令だけが消えていた。
星は山道を駆けながら笑う。
「兵を斬らずに命令だけ奪うとは」
「時雨らしい」
時雨は奪った書簡へ目を通す。
蜀軍各隊への配置転換。
補給予定。
斥候の巡回時間。
必要な情報がすべて書かれていた。
「十分だ」
時雨は書簡を畳む。
「次だ」
その頃。
蜀軍本陣。
諸葛亮は首を傾げていた。
「遅いですね」
本来なら夜明け前に届くはずの報告が一つも届かない。
黄忠も違和感を覚える。
「連絡兵が来ないわ」
そこへ別の兵が駆け込んできた。
「申し上げます!」
「第三隊との連絡が途絶えました!」
「第五隊からも返答がありません!」
天幕の空気が一変する。
諸葛亮は静かに地図を見つめた。
敵襲ではない。
それなのに軍全体が見えなくなっている。
「……そういうことですか」
黄忠が振り向く。
「朱里?」
諸葛亮は小さく息を吐いた。
「張燕さんは兵ではなく、軍そのものの目と耳を奪いにきています」
「情報戦です」
その言葉に居並ぶ将達の表情が曇る。
敵がどこにいるのか分からない。
味方がどこまで進んでいるのかも分からない。
命令も届かない。
軍として最も恐ろしい状況だった。
一方、黒山軍では兵達が笑っていた。
霞は奪った蜀軍の旗を眺める。
「これ、使えるな」
時雨は頷く。
「まだ終わりじゃない」
星が時雨の顔を覗き込む。
「まだ何か企んでるな」
時雨は静かに笑った。
「敵が混乱してる時ほど、さらに混乱させる」
「黒山流は追い打ちが基本だ」
星は楽しそうに槍を肩へ担ぐ。
「まったく」
「敵にしたくない男だ」
霧の向こうで黒山の旗が静かに揺れる。
漢中の戦いは、まだ剣を交える本格決戦には至っていない。
それでも張燕の外道にして非道な知略は、蜀軍の指揮系統を少しずつ、しかし確実に蝕み始めていた。
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