第二百四十九話 黒山流、偽りの狼煙
漢中の朝は深い霧に覆われていた。
谷底には白い靄が流れ、尾根の向こうは数十歩先さえ見えない。
蜀軍の陣では、昨夜から緊張が解けることはなかった。
伝令は消え、命令は届かず、各隊は互いの位置すら正確に把握できない。
兵達は槍を握りながら周囲を警戒し続け、その疲労は少しずつ積み重なっていた。
本陣では諸葛亮が地図を前に静かに考え込んでいた。
張燕はまだ本気で攻めてきていない。
それなのに蜀軍だけが消耗していく。
黄忠が静かに口を開く。
「兵の顔色が悪くなってきたわ」
「眠れていない者も増えている」
諸葛亮は小さく頷いた。
「張燕さんはそれを狙っています」
「戦わずして兵を疲れさせる……見事です」
その頃、黒山軍はさらに奥の尾根へ移動していた。
時雨は一本の枯れ枝を拾い、地面へ簡単な地図を描いている。
その周囲には星、霞、恋が集まっていた。
霞が腕を組む。
「次は何をする気や」
時雨は地図の数か所を指で叩く。
「狼煙を上げる」
星が首を傾げる。
「総攻撃か」
時雨は笑った。
「違う」
「攻めない」
霞も笑みを浮かべる。
「また嫌らしいこと考えとるな」
時雨は静かに頷く。
「尾根の四か所で時間をずらして狼煙を上げる」
「兵は少数でいい」
「蜀軍には四方向から黒山軍が攻めてきたように見せる」
星は感心したように息を漏らした。
「偽装か」
「ああ」
「敵を走らせる」
「戦う前に疲れさせる」
霞が声を上げて笑う。
「ほんま外道やな」
恋だけは不思議そうな顔をしていた。
「恋」
「暴れない」
時雨は恋の頭を軽く叩く。
「今日は我慢だ」
「もっと大きい獲物を狙う」
恋は静かに頷いた。
「分かった」
やがて黒山兵達が動き始める。
十人。
十五人。
二十人。
ごく少数の部隊が、それぞれ別々の尾根へ姿を消していく。
昼を少し過ぎた頃。
一本目の狼煙が空へ昇った。
見張りの蜀兵が叫ぶ。
「敵襲!」
諸葛亮はすぐに部隊へ命令を飛ばした。
「第一隊を北へ!」
兵達が慌ただしく駆け出す。
しかし、その頃には黒山兵はすでに姿を消していた。
しばらくして。
今度は東の尾根から狼煙が上がる。
「東です!」
再び兵が動く。
その直後、西の尾根。
さらに南の尾根。
四方から次々と立ち上る黒煙。
蜀軍は各隊を何度も移動させられた。
だが、どこへ向かっても敵はいない。
ただ煙だけが風に流れていく。
黄忠は険しい表情で呟く。
「全部偽物……」
諸葛亮は静かに拳を握った。
「兵を走らせることが目的でしたか」
兵達は山道を何度も往復し、息を切らしている。
戦ってもいないのに体力だけが削られていく。
一方、尾根の上では黒山軍がその様子を見下ろしていた。
霞は腹を抱えて笑う。
「よう走るなあ」
「見てるこっちが疲れるで」
星も苦笑する。
「時雨」
「朱里も完全に振り回されてる」
時雨は遠くの本陣を見つめたまま答える。
「優秀だからこそ動く」
「放置すれば本当に攻められると思うからな」
星は槍を肩へ担ぎ、穏やかに笑った。
「時雨らしい戦いだ」
「正面から勝つより、敵の心を折る方が早い」
時雨は小さく笑う。
「まだ始まったばかりだ」
「次はもっと嫌なことをする」
その言葉に霞が目を輝かせる。
「まだあるんか」
「もちろん」
霧の向こうでは、疲れ切った蜀兵達が再び陣へ戻っていく。
誰も剣を交えてはいない。
それでも黒山軍の非道な策は、確実に蜀軍の体力と士気を削り続けていた。
漢中の山々は静かなまま。
しかしその静寂こそが、張燕率いる黒山軍最大の武器となっていた。
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