第二百五十一話 軍師の決断
漢中の山々に、戦の喧騒が響き渡っていた。
黒山軍の奇襲によって蜀軍本陣は大きく揺らぎ、各部隊は連携を失っていた。
正面では黒山兵が押し寄せ、背後では恋率いる部隊が柵を突破する。
さらに左右からは霞の騎兵隊が姿を現し、蜀軍は完全に包囲されたと思い込んだ。
実際には黒山軍は全軍で包囲しているわけではない。
張燕は地形と心理を利用し、兵数以上の軍勢が押し寄せているように見せていた。
その策は見事に功を奏していた。
本陣では諸葛亮が周囲を見渡していた。
伝令は途絶え、各隊の位置は分からない。
敵はどこにいるのか。
味方はどこまで持ちこたえているのか。
軍師として最も重要な情報が失われていた。
黄忠が弓を構えながら諸葛亮の前へ立つ。
「朱里ちゃん」
「ここは私が時間を稼ぐわ」
諸葛亮は静かに首を振った。
「もう遅いです」
「張燕さんは最初から私達を狙っています」
その言葉が終わるより早く、本陣の背後から黒山兵が姿を現した。
星は槍を構え、悠然と歩みを進める。
「さすがだな、朱里」
「ここまで読んでいたか」
諸葛亮は苦く笑う。
「ですが、一歩及びませんでした」
星の後ろから時雨が静かに姿を現す。
戦場とは思えないほど落ち着いた表情だった。
時雨は周囲を見渡しながら口を開く。
「兵達は十分戦った」
「これ以上続けても被害が増えるだけだ」
黄忠は弓を引き絞る。
「簡単に通すわけにはいかないわ」
その瞬間、周囲の黒山兵が一斉に前へ出る。
黄忠は応戦するが、四方から押し寄せる兵達によって徐々に包囲を狭められていく。
星は隙を逃さず槍を払った。
黄忠の弓が手から離れ、地面へ落ちる。
続けて黒山兵が距離を詰める。
黄忠は抵抗を続けたものの、多勢に囲まれ、ついに武器を奪われた。
一方、諸葛亮も退路を失っていた。
時雨は剣を向けることなく静かに告げる。
「終わりだ」
諸葛亮は周囲を見渡した。
兵達はなお戦っている。
しかし、このままでは本陣の兵まで無駄な戦いを続けることになる。
軍師として、その選択だけはできなかった。
諸葛亮は小さく息を吐き、両手を下ろした。
「……私の負けです」
黒山兵は二人を丁重に保護し、本陣の奥へと移送していく。
その様子を見ていた張飛は目を見開いた。
「朱里!」
今にも駆け出そうとする張飛を、諸葛亮は強い口調で制した。
「鈴々!」
張飛の動きが止まる。
「ここで戦ってはいけません」
「成都へ戻ってください」
「桃香様へ漢中陥落を伝えるんです」
張飛は首を横へ振る。
「嫌なのだ!」
「鈴々は朱里を置いていけないのだ!」
諸葛亮は微笑んだ。
その笑みは軍師ではなく、一人の仲間としての優しい笑顔だった。
「鈴々」
「蜀には、まだあなたが必要です」
「お願いします」
その言葉を聞いた張飛は唇を噛み締める。
涙をこらえながら何度も頷き、最後に諸葛亮と黄忠を見つめた。
「絶対に助けに来るのだ!」
そう言い残すと、残った兵を率いて山道の奥へ駆け出していく。
時雨はその背中を追わせなかった。
星が静かに尋ねる。
「時雨」
「追わなくていいのか」
時雨は張飛が消えた山道を見つめたまま答える。
「いい」
「今の目的は漢中だ」
「戦を広げる必要はない」
星は穏やかに笑う。
「時雨らしい判断だ」
こうして漢中の戦いは大きく燕軍へ傾いた。
蜀軍は総大将・諸葛亮と副将・黄忠を失い、張飛は成都を目指して撤退する。
一方、張燕率いる黒山軍は、漢中制圧へ向けて着実に歩みを進めていた。
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