第二百五十三話 成都包囲
漢中陥落の報は、蜀全土を大きく揺るがした。
天然の要害と呼ばれた漢中を失ったことで、益州への道は大きく開かれる。
さらに総大将・諸葛亮、副将・黄忠の捕縛。
蜀軍にとって、それは単なる一敗ではなかった。
軍そのものの中枢を失う痛手だった。
しかし黒山軍は勝利に酔うことはなかった。
時雨の命令はただ一つ。
「止まるな」
その一言だけで十分だった。
黒山軍十万は休息を最小限に抑え、漢中を発つ。
険しい山道を抜け、益州の平野へ姿を現した。
沿道の城砦では、燕軍接近の報を受けた守備兵が慌ただしく門を閉ざす。
だが、その多くは長く持ちこたえることができなかった。
漢中陥落の知らせはすでに各地へ伝わっている。
援軍は来ない。
兵糧も十分ではない。
士気も高くない。
そんな状況で黒山軍を迎え撃つことは容易ではなかった。
降伏する城。
開門する砦。
抵抗しても短時間で制圧される拠点。
黒山軍は破竹の勢いで益州を進撃していく。
時雨は先頭の馬上から静かに街道を見つめていた。
星が馬を寄せる。
「思った以上に早いな」
時雨は前方から目を離さない。
「漢中を失った影響が大きい」
「朱里がいたら、ここまで崩れなかった」
星は小さく頷く。
「敵ながら惜しい軍師だ」
霞も後ろから笑いながら近付く。
「このままやと成都まで一直線やで」
「そうなる」
恋は方天画戟を肩へ担いだまま静かに歩いている。
「戦う?」
時雨は首を横へ振る。
「できるだけ避ける」
「城を落とすことより、成都へ着くことを優先する」
黒山軍は途中の小競り合いに深入りせず、要地だけを押さえながら進軍を続けた。
その進軍速度は蜀軍の予想を大きく上回る。
数日後。
黒山軍の前方に巨大な城壁が姿を現した。
成都。
蜀王・劉備が居を構える都。
高い城壁。
幾重もの濠。
蜀最大の城塞だった。
黒山軍は城から十分な距離を保ちながら陣を築く。
黒い旗が次々と立ち並び、城外一帯を埋め尽くしていく。
城壁の上からその光景を見た蜀兵は息をのんだ。
「黒山軍だ……」
「本当に成都まで来たのか」
兵達の表情には疲労と緊張が入り混じっていた。
城内では桃香が静かに城壁へ立っていた。
遠くに見える黒山の旗。
その数は見渡す限り続いている。
隣には張飛が立つ。
「桃香お姉ちゃん」
「鈴々が出るのだ」
桃香はゆっくり首を振った。
「駄目だよ」
「今戦ったら、もっと多くの人が傷付く」
張飛は悔しそうに拳を握る。
「でも……」
桃香は黒山軍本陣を見つめた。
漢中を突破し、ここまで一気に迫った軍。
その中心には張燕がいる。
「張燕さん……」
小さな呟きは風に消えていった。
一方、黒山軍本陣。
時雨は地図を閉じる。
成都は堅城であり、力攻めになれば双方の被害は大きい。
星が時雨の隣で腕を組む。
「攻めるか」
時雨は城壁を見つめたまま答える。
「いや」
「まだだ」
その時、一人の黒山兵が本陣へ駆け込んできた。
「時雨様」
「成都より使者が参りました」
星が小さく笑う。
「来たか」
時雨は静かに頷く。
「通せ」
ほどなくして、一人の使者が本陣へ姿を現す。
使者は一礼し、落ち着いた口調で告げた。
「蜀王・桃香様よりお伝えします」
「これ以上の流血を避けるため、会談をお願いしたいとのことです」
本陣は静まり返る。
時雨は使者を見つめ、しばらく考え込んだ。
やがて静かに口を開く。
「分かった」
「会談に応じよう」
その返答を聞いた使者は深く頭を下げた。
成都城を包囲する黒山軍。
城内で決断した桃香。
戦場は剣を交える場から、両国の未来を左右する会談の場へと移ろうとしていた。
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