第二百五十四話 成都城の会談
成都を包囲した黒山軍は、あえて城へ攻撃を仕掛けなかった。
投石機も動かさない。
攻城塔も組み立てない。
城外には黒山の旗が幾重にも並び、その圧倒的な軍勢だけが蜀軍へ静かな圧力をかけていた。
張燕――時雨は、自らの陣営中央に設けられた大きな天幕で静かに待っていた。
その傍らには星。
少し離れた場所には恋と霞が控えている。
やがて成都城の城門がゆっくりと開き、一団が姿を現した。
先頭を歩くのは桃香。
護衛として張飛が付き従っていた。
桃香は時雨の前まで歩み寄ると、小さく頭を下げた。
「今日は会談に応じてくださってありがとうございます」
時雨も静かに頷く。
「座ってくれ」
互いに向かい合って腰を下ろす。
天幕の中は静まり返り、聞こえるのは外を吹き抜ける風の音だけだった。
しばらく沈黙が続く。
最初に口を開いたのは桃香だった。
「徐州の報告は届いています」
「曹操さんの軍が勝利したそうですね」
時雨は表情を変えず答える。
「ああ」
「徐州方面も終わった」
それは蜀にとって厳しい知らせだった。
徐州戦線は崩れ、漢中も失われた。
そして今、成都は包囲されている。
桃香は一度目を閉じ、大きく息を吸った。
「時雨さん」
「もう戦いは終わりにしませんか」
穏やかな声だった。
敵将へ向ける言葉ではない。
一人の人間として願うような口調だった。
「これ以上戦えば、傷付く人が増えるだけです」
「私達は同盟を結んでいたはずです」
「私は……もう誰にも悲しい思いをしてほしくありません」
天幕の中が静まり返る。
星は黙ったまま時雨を見つめている。
霞も恋も口を挟まない。
時雨は桃香を見据えたまま静かに問い返した。
「本当に戦を終わらせたいのか」
「はい」
迷いのない返事だった。
時雨は小さく息を吐く。
「なら条件がある」
桃香の表情が少しだけ引き締まる。
「条件……ですか」
「ああ」
時雨は机の上へ地図を広げた。
その指先が三つの州をなぞる。
「益州」
「荊州」
「交州」
「この三州を燕へ明け渡すなら考える」
桃香は思わず息を呑んだ。
その条件はあまりにも重かった。
蜀の本拠地である益州。
長年争い続けた荊州。
そして南方の交州。
その三州を失えば、蜀は国家として大きく縮小する。
張飛が思わず立ち上がる。
「そんな条件!」
「飲めるわけないのだ!」
桃香はそっと張飛の腕へ手を置いた。
「鈴々」
張飛は悔しそうに唇を噛み、再び腰を下ろした。
桃香は静かに時雨を見る。
「その条件には理由がありますか」
時雨は迷わず答えた。
「ある」
「益州は今回の戦で黒山軍が押さえた」
「荊州では白蓮達が勝ち続けている」
「交州も時期に燕の支配下にある」
「実際に支配している土地を正式な国境にするだけだ」
時雨の声は終始落ち着いていた。
感情論ではなく、現実を語っている。
桃香は地図を見つめる。
蜀軍は各地で敗れた。
漢中も失った。
徐州方面も崩れた。
今の蜀に残されている選択肢は多くない。
それでも、益州を手放す決断は容易ではなかった。
長い沈黙が流れる。
やがて桃香は静かに顔を上げた。
「……すぐには答えられません」
「蜀を預かる者として、一人では決められないんです」
時雨はゆっくり頷いた。
「当然だ」
「考える時間はやる」
その言葉に桃香は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
会談はひとまず終わりを迎える。
しかし、成都を包囲する黒山軍はなお健在だった。
戦を終わらせるか。
それとも続けるか。
その答えは、桃香が下す決断に委ねられることとなった。
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