第二百五十五話 蜀の決断
成都城へ戻った桃香の表情は重かった。
城門が閉じられる音が静かに響き、城内へ戻った兵達も誰一人として口を開こうとはしない。
城壁の外には黒山軍十万。
その黒い軍旗は城を取り囲み、まるで成都そのものを飲み込もうとしているようだった。
会談は終わった。
だが、何も解決していない。
桃香はそのまま王城へ向かった。
謁見の間では北郷一刀が静かに待っていた。
桃香の足音を聞くと、ゆっくり立ち上がる。
「お帰り」
「会談はどうだった?」
桃香は小さく息を吐き、時雨とのやり取りを一つ一つ話し始めた。
戦を終わらせたいという自分の願い。
時雨が提示した条件。
益州、荊州、交州の三州を燕へ譲ること。
話し終える頃には部屋の空気は重く沈んでいた。
一刀は腕を組み、しばらく考え込む。
桃香は不安そうにその様子を見つめた。
「ご主人様……」
「どう思う?」
長い沈黙の末、一刀はゆっくり口を開いた。
「俺は……その条件を受け入れるべきだと思う」
その言葉に桃香も張飛も目を見開いた。
「えっ……」
張飛は思わず声を上げる。
「一刀兄ちゃん!」
「本気なのだ!」
一刀は静かに頷く。
「本気だ」
「今の蜀には反撃する力が残っていない」
「漢中は失った」
「徐州方面も敗れた」
「成都まで包囲されている」
「ここで戦い続ければ、成都も兵も民も大きな被害を受ける」
その言葉は冷静だった。
現実だけを見据えた判断だった。
桃香も俯きながら静かに頷く。
「……私も、みんなを守りたい」
一刀は続ける。
「ただし、このまま条件を受け入れる必要はない」
桃香が顔を上げる。
「どういうこと?」
一刀は机の上へ地図を広げた。
「こちらにも条件を出そう」
「条件?」
「そう」
一刀は成都から燕国方面へ視線を向ける。
「朱里と紫苑」
「二人を返してもらう」
桃香は思わず息を呑んだ。
「朱里ちゃん達を……」
「そうだ」
「諸葛亮と黄忠は蜀にとって絶対に必要な存在だ」
「土地を譲る代わりに、二人を無事返還してもらう」
張飛は勢いよく立ち上がる。
「それなら鈴々も賛成なのだ!」
「朱里達を助けられるのだ!」
桃香の表情にもわずかな希望が戻る。
「それなら……」
「みんなも帰って来られる」
一刀は静かに頷いた。
「時雨は合理的な男だ」
「利益があるなら交渉には応じる」
「だからこちらも利益を提示する」
部屋には再び静けさが訪れる。
桃香は窓の外を見つめた。
成都城を囲む黒山軍。
その中心には時雨がいる。
かつては同盟を結び、共に天下の未来を語った相手。
今は互いに大軍を率いる敵同士となっている。
桃香はゆっくりと決意を固めた。
「もう一度」
「もう一度、時雨さんと話します」
その言葉に一刀は静かに頷いた。
「それがいい」
「戦を終わらせる最後の機会になるかもしれない」
こうして蜀は新たな条件を携え、再び燕との交渉へ臨む決断を下した。
一方、成都城外の黒山軍本陣では、時雨が静かに夜空を見上げていた。
星が湯飲みを手に近づく。
「桃香は答えを出せそうか」
時雨はゆっくりと湯飲みを受け取る。
「簡単な決断じゃない」
「だから待つ」
星は穏やかに微笑む。
「時雨らしいな」
夜風が黒山の旗を揺らす。
成都を包囲する軍勢は静かに陣を保ち、蜀から届く次の返答を待ち続けていた。
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