第二百五十八話 折れぬ執念
建業へ都を移してから、蜀は表向きには平穏を取り戻しつつあった。
街には商人の声が戻り、港には各地から船が集まる。失った領土は大きかったが、残された民を守り、国を立て直すことこそ今の蜀に課せられた使命だった。
桃香は毎日のように政務へ励み、諸葛亮は新たな行政制度を整え、黄忠や張飛は建業周辺の防備を固める。
誰もが「これから」を見据えて動いていた。
しかし、その建業城の一室だけは違っていた。
夜も更け、人の気配が消えた頃。
机の上には燕国全土を描いた大きな地図が広げられている。
その前に座る北郷一刀は、一つの名を見つめ続けていた。
「張燕……」
静かな声が部屋へ響く。
一刀の指先は許昌から黒山へ、そして燕全土へとゆっくり動いていく。
燕国は強大だった。
公孫瓚という王がいる。
曹操や孫策という優れた将もいる。
黒山軍には趙雲、呂布、張遼、馬超といった猛将が揃っている。
だが、一刀は確信していた。
「燕国を支えている柱は、結局は張燕一人だ」
戦場で奇策を巡らせる軍略。
黒山軍を束ねる求心力。
敵味方を問わず人を惹きつける器。
その全てが張燕という男に集まっている。
「張燕さえ倒せれば……」
一刀は拳を握り締めた。
「まだ蜀に未来はある」
その瞳に宿る光は敗北を知る者のものではなかった。
諦めない者だけが持つ執念だった。
その時、扉が静かに叩かれる。
「入ってください」
現れたのは諸葛亮だった。
「ご主人様、まだお休みになられていなかったのですね」
一刀は微笑み、地図を畳む。
「少し考え事をしていただけだよ」
諸葛亮は机へ視線を向ける。
完全には隠しきれなかった燕国の地図が見えていた。
「燕国のことですか」
一刀は否定しなかった。
「ああ」
「今は戦えない」
「でも、いつか必ず再び向き合う日が来る」
諸葛亮は静かに椅子へ腰掛けた。
「ご主人様」
「私は今回の敗戦で一つ学びました」
「張燕さんは力だけで勝っている方ではありません」
「敵を知り、地形を知り、人を知って戦っています」
一刀も頷く。
「だから厄介なんだ」
「正面から戦えば、また同じ結果になる」
諸葛亮は小さく息を吐いた。
「今の蜀には時間が必要です」
「国を立て直し、兵を育て、民を豊かにする」
「焦れば、また敗れます」
一刀は窓の外を見る。
建業の街にはまだ灯が残っていた。
復興へ励む民達。
希望を失わず生きようとする人々。
その姿を見て、一刀は静かに頷いた。
「分かっている」
「今は待つ」
「だが、その間にも張燕の弱点は探し続ける」
諸葛亮はその横顔を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「ご主人様らしいですね」
「絶対に諦めない」
一刀も苦笑する。
「天下統一を目指すと決めたんだ」
「途中で投げ出すわけにはいかない」
建業の夜は静かに更けていく。
一方その頃、遠く離れた許昌では、時雨が政務を終えて城の廊下を歩いていた。
夜風が吹き抜け、庭の木々を揺らす。
星が酒瓶を片手に近づき、隣へ並ぶ。
「時雨」
「今日は珍しく真面目に仕事をしていたな」
時雨は苦笑した。
「たまには逃げずに終わらせないとな」
星は肩を寄せながら笑う。
「それでも、お姉さんは政務から逃げ回る時雨の方が見ていて面白いぞ」
時雨は呆れたように笑い返した。
「勘弁してくれ」
二人の笑い声は静かな夜へ溶けていく。
しかし、その平穏とは裏腹に、建業では北郷一刀が再び燕国を見据え、新たな機会を静かに待ち続けていた。
戦は終わった。
だが、天下を巡る争いの火種は、まだ誰にも見えない場所で静かに燃え続けていた。
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