第二百六十四話 赤壁――黒山の狼、牙を剥く
長江を吹き抜ける風は、湿り気を帯びていた。
朝霧は川面を覆い、数え切れぬほどの軍船が白い帳の向こうにぼんやりと浮かぶ。
燕国。
蜀国。
天下を懸けた最後の決戦。
赤壁。
誰もが、この一戦で乱世が終わると理解していた。
燕国本陣。
巨大な旗艦の甲板に、一人の男が立っていた。
黒い外套を羽織り、鋭い眼光で川を見つめる男。
張燕。
真名――時雨。
「静かだな。」
その呟きに、隣へ立つ趙雲――星が笑う。
「嵐の前ほど、静かなものだ。」
「ああ。」
時雨は小さく頷いた。
「だから好きなんだよ。」
星は肩をすくめる。
「相変わらずだな。」
「普通の人間なら、この静けさに胃が痛くなる。」
「俺は逆だ。」
時雨は不敵に笑う。
「相手が何を考えてるか分からねぇ時間ほど、面白い。」
その笑みは、かつて黒山党を率いた『黒山の狼』そのものだった。
そこへ、張遼――霞が足早にやって来る。
「時雨。」
「全部終わったで。」
「予定通りか?」
「ああ。」
霞は周囲を確認すると、小声になる。
「誰にも気付かれてへん。」
「そうか。」
時雨は満足そうに笑った。
星だけが、その笑みの意味を知っている。
「……また何か企んでるな。」
「もちろん。」
「正面から勝てる相手じゃねぇ。」
時雨は川面を見つめた。
蜀軍の旗艦。
そこには北郷一刀がいる。
「だから最初から正面で戦う気なんかねぇ。」
その言葉を聞いた霞は苦笑した。
「ほんま、あんたらしいわ。」
その頃。
蜀軍旗艦。
北郷一刀は双眼鏡代わりの望遠筒を覗いていた。
霧の向こう。
燕軍は動かない。
「静かすぎる……。」
その一言に、諸葛亮――朱里も頷く。
「張燕さんが何も仕掛けないはずがありません。」
「そうだ。」
一刀は険しい表情になる。
「時雨は戦う前から勝負を始めてる。」
桃香も心配そうに空を見上げる。
「嫌な予感がするよ。」
その予感は、誰もが抱いていた。
一方、燕軍。
時雨は船縁に腰掛け、短刀を弄んでいた。
「星。」
「なんだ?」
「昔、黒山で狩りをしたこと覚えてるか?」
「ああ。」
「狼は獲物を追い詰める。」
「だが。」
時雨は笑う。
「最後に噛み付く前に、一番逃げ道を用意する。」
星は意味を悟った。
「逃げ道に見せかけた罠か。」
「そう。」
時雨は立ち上がる。
「人間は追い込まれると、安全そうな方へ逃げる。」
「だから。」
「そこを喰う。」
その笑みを見た星は、小さく息を吐いた。
「外道だな。」
「今さらだろ。」
「まあな。」
星は苦笑しながら槍を肩へ担ぐ。
「だが。」
「そういう時雨だからこそ、生き残ってきた。」
時雨は照れ臭そうに鼻を掻いた。
「褒めても何も出ねぇぞ。」
「期待してない。」
そのやり取りに周囲の兵たちは思わず笑う。
緊張が少しだけ和らいだ。
しかし。
時雨の目だけは笑っていない。
「伝令。」
「はっ!」
「第一陣は予定通り前進。」
「ただし、深入りするな。」
「敵を誘え。」
兵が走る。
続いて。
「第二陣。」
「待機。」
「絶対に動くな。」
「命令があるまで船を出すな。」
「はっ!」
さらに。
時雨は最後の命令を告げる。
「黒山衆だけ残れ。」
二十人ほどの古参兵が前へ出る。
彼らは黒山時代から時雨に付き従う精鋭だった。
「お前らには別働隊を任せる。」
地図を広げる。
誰にも聞こえない声で作戦を説明する。
兵たちの顔色が変わる。
「……本当にやるんですか。」
「やる。」
「ですが。」
「敵将は怒ります。」
時雨は笑った。
「怒らせろ。」
「怒った奴ほど、判断を間違える。」
古参兵たちは顔を見合わせる。
そして全員が頷いた。
「承知。」
彼らは静かに闇へ消えていった。
それを見送る星が呟く。
「一刀は気付くと思うか?」
「気付く。」
時雨は即答した。
「だが。」
「気付いた頃には遅い。」
その瞬間。
遠くで法螺貝が鳴り響いた。
蜀軍が動き始める。
同時に燕軍も錨を上げる。
長江を埋め尽くす軍船。
無数の櫂が水を掻き、巨大な波が立つ。
ついに――
赤壁決戦が始まった。
時雨は黒い剣をゆっくり抜く。
「天下を獲るぞ。」
その低い声に応えるように、燕軍全軍が雄叫びを上げた。
黒山の狼は、最後の戦場で静かに牙を剥いた。
法螺貝の音が長江に響き渡る。
「進めぇぇぇ!」
燕軍、蜀軍の軍船が一斉に動き出し、無数の櫂が水面を叩いた。
静寂に包まれていた長江は、一瞬にして怒号と鉄のぶつかり合う音に支配される。
旗艦の上で時雨は腕を組み、激しく動く戦場を冷静に眺めていた。
「……始まったな。」
その横で星も槍を手に頷く。
「ああ。しかし、前衛だけでは押し切れないぞ。」
燕軍の前衛は勇猛だった。
恋は方天画戟を振るい、敵船へ飛び移っては蜀兵を次々となぎ倒していく。
「恋、いっぱい倒す。」
「ははっ! 恋、暴れすぎや!」
霞も槍を振るいながら豪快に笑う。
その勢いに押され、蜀軍の前線は一歩、また一歩と後退していった。
しかし、蜀軍も容易には崩れない。
「全軍、右舷を固めてください!」
朱里の指示が飛ぶ。
「張飛隊、左翼へ!」
「なのだー!」
鈴々が兵を率いて突撃すると、崩れかけた陣形が見事に立て直される。
さらに愛紗が青龍偃月刀を振るい、燕兵の進撃を食い止めた。
「これ以上は進ませません!」
戦況は再び均衡する。
それを見た時雨は、小さく笑った。
「予想通りだ。」
「焦る様子はないな。」
星が横目で見る。
「焦る理由がない。」
時雨は静かに答える。
「これは本命じゃねぇ。」
その瞬間、一人の伝令が駆け込んできた。
「報告!」
「別働隊、配置完了!」
「よし。」
時雨は満足そうに頷く。
「予定通りだ。」
星は苦笑する。
「まったく……。」
「天の御使いが聞いたら頭を抱えるぞ。」
「抱えさせるためにやってる。」
時雨は悪戯を思いついた子どものような笑みを浮かべた。
その頃、蜀軍旗艦。
一刀は戦場を見渡していた。
「……変だ。」
「何がですか?」
朱里が尋ねる。
「張燕が静かすぎる。」
一刀は眉をひそめる。
「呂布や張遼が前に出ているのに、張燕自身は動いていない。」
「何かを待っている。」
朱里も同じ結論に達していた。
「囮……でしょうか。」
「いや。」
一刀は首を横に振る。
「囮にしては兵の動きが自然すぎる。」
「なら……。」
その時だった。
見張りの兵が叫ぶ。
「後方です!」
「燕軍の小型船が後方に現れました!」
「何!?」
一刀は振り返る。
霧の中から十数隻の小舟が現れ、蜀軍の背後へ回り込もうとしていた。
「迂回部隊か!」
一刀は即座に命じる。
「迎撃隊を回せ!」
「急げ!」
蜀軍の一部が後方へ向かう。
それを見た時雨は静かに笑った。
「食いついた。」
星がため息をつく。
「本当に性格が悪い。」
「褒め言葉だ。」
「褒めてない。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
だが、その目は鋭い。
「時雨。」
「なんだ。」
「天の御使いは、この程度では終わらない。」
「ああ。」
時雨も頷く。
「だから面白い。」
その時、霞が血を払いながら戻ってきた。
「時雨!」
「蜀軍の動きが変わった!」
「一刀が中央を固め始めとる!」
「予定通りだ。」
時雨は地図へ目を落とす。
「ここからが本番だ。」
星が地図を覗き込む。
「中央を誘って左右を狙うのか?」
「違う。」
時雨は首を振った。
「中央を見せて、本命はさらに別だ。」
「……まだあるのか。」
星は呆れたように笑う。
「当然だ。」
時雨はゆっくり剣を抜いた。
「一つ策を見せたくらいで全部だと思う奴は、生き残れねぇ。」
長江に再び法螺貝が響く。
燕軍の旗が一斉に翻る。
蜀軍も応えるように陣形を変えた。
戦いは、まだ始まったばかり。
黒山の狼と天の御使い。
二人の知略が激しくぶつかり合う赤壁の戦場は、これからさらに激しさを増していくのだった。
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