第二百六十七話 赤壁水上戦――火を待つ者、火を見抜く者
長江の霧は、まだ完全には晴れていなかった。
だがその霧の奥で、確かに何かが動き始めている。
戦場は静かではない。
むしろ、静けさを装ったまま“爆発の直前”にあった。
燕軍旗艦。
時雨は川面を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「……そろそろだな。」
星が横目で見る。
「何が“そろそろ”だ?」
「火だ。」
その一言で、空気がわずかに変わった。
霞が眉をひそめる。
「火?」
「火攻めか?」
時雨は何も否定しない。
ただ、淡々と続ける。
「一刀はここで終わらせる気だ。」
「赤壁で一番やりやすい決着方法は一つしかねぇ。」
星が静かに言う。
「東南の風を待つ火計……か。」
時雨はゆっくり頷いた。
「そうだ。」
その言葉に、霞が舌打ちする。
「分かっとるなら、逆にこっちも手打たんと危ないやろ。」
「打つ必要はねぇ。」
時雨は即答する。
「もう分かってる。」
その頃――蜀軍旗艦。
一刀は霧の向こうを見つめていた。
朱里が不安げに言う。
「張燕さんの動きが……止まっています。」
「止まっているんじゃない。」
一刀は低く言う。
「“待っている”んだ。」
「何をですか?」
その問いに、一刀は一瞬だけ黙る。
そして答えた。
「……風だ。」
その言葉に朱里の表情が強張る。
「風……ですか?」
一刀は長江の空を見上げた。
「東南の風が吹く。」
「この戦場で、最も重要な条件だ。」
その瞬間だった。
燕軍旗艦。
時雨は空を見ていた。
霧の向こう、雲の流れがわずかに変わる。
「来たか。」
星が気づく。
「風か。」
「ああ。」
時雨は小さく笑う。
「やっぱり狙ってきやがった。」
霞が目を細める。
「火計やな。」
「船を燃やして一気に決める気や。」
時雨は否定しない。
むしろ、楽しそうに笑った。
「天の御使いらしいやり方だ。」
「合理的で、確実で、そして……美しい。」
その言葉に星は槍を握り直す。
「止めるか?」
時雨は首を振る。
「止めない。」
「……は?」
霞が目を見開く。
「止めへんのか?」
時雨は静かに言う。
「止める必要がねぇ。」
「火計はな、成功させていい。」
星の目が鋭くなる。
「何を考えている?」
時雨はゆっくりと立ち上がる。
その瞳は、すでに戦場の先を見ていた。
「火は、使い方次第だ。」
「天の御使いは“燃やして勝つ”つもりだ。」
「なら――」
時雨は笑う。
「俺は“燃えた後”で勝つ。」
その言葉に、霞が小さく息を呑む。
「……狂ってるな。」
「今さらだろ。」
その頃、蜀軍。
一刀は静かに命じていた。
「火船、準備。」
朱里が震える声で問う。
「本当に……やるのですね。」
一刀は頷く。
「この霧、この風、この距離。」
「すべて揃っている。」
そして――一瞬だけ目を伏せる。
「これで終わらせる。」
その言葉は決意だった。
だが同時に、どこかで“違和感”もあった。
――張燕は、本当にそれを読めていないのか?
一刀の中に、その疑問が残る。
燕軍旗艦。
時雨はその瞬間を見逃さなかった。
「疑ってるな。」
星が問う。
「何がだ?」
「一刀だ。」
時雨は笑う。
「火計を仕掛ける側なのに、俺の動きも疑ってる。」
霞が呆れる。
「そりゃそうやろ。」
「普通は裏をかくのがあんたや。」
時雨は剣を軽く回す。
「なら――」
「その“疑い”ごと使う。」
風が強くなる。
長江の水面がざわつき始める。
その瞬間、戦場は理解する。
これは単なる火攻めではない。
火を使った“読み合いの最終段階”だと。
時雨と一刀。
二人は同時に同じ一点を見ていた。
――火が上がる瞬間を。
そしてその先にある“勝敗の裏側”を。
戦場は、静かに燃え始めていた。
風が変わった。
それは戦場にいる誰もが分かるほど明確な変化だった。
東南の風。
長江を渡るように、ゆっくりと、しかし確実に吹き抜けていく。
蜀軍旗艦。
一刀は静かに目を閉じた。
「……今だ。」
朱里が震える声で命じる。
「火船、放てぇぇ!」
号令と共に、蜀軍の後方から無数の火船が解き放たれた。
油を含んだ船体が水面を滑り、風に押されるように燕軍へ向かっていく。
火が灯る。
一隻。
二隻。
やがて霧の中に、赤い光が広がり始める。
「燃えろ……!」
蜀軍の兵が叫ぶ。
その炎は、戦場そのものを飲み込む勢いだった。
朱里は息を呑む。
「成功……です!」
しかし――
一刀だけは、表情を崩さなかった。
「まだだ。」
その一言に朱里が振り返る。
「まだ……?」
一刀は霧の奥を見つめる。
「張燕は……ここで終わる男じゃない。」
その頃――燕軍旗艦。
時雨は炎の接近を見つめていた。
揺れる火の影が水面に映る。
だが、その顔に焦りはない。
むしろ楽しそうですらあった。
「来たな。」
星が槍を構える。
「避けるか?」
時雨は首を振る。
「避けない。」
霞が目を見開く。
「正気か!?燃えるで!」
時雨は笑った。
「燃やさせる。」
その言葉に、星がわずかに目を細める。
「……やはり、そう来るか。」
時雨は霧の向こうを見据えた。
「なあ、天の御使い。」
その呼びかけは、風に乗って戦場へ広がる。
蜀軍旗艦。
一刀の耳に、その声が届いたような気がした。
「天の……御使い……」
朱里が息を呑む。
「張燕さんが……一刀様を……」
一刀は静かに目を開ける。
「呼んだか。」
時雨は続ける。
「お前の火は綺麗だ。」
「だがな。」
時雨はゆっくりと剣を抜く。
「戦場は“綺麗さ”で勝つ場所じゃねぇ。」
その瞬間――
燕軍の一部の船が動いた。
しかし、それは逃げではない。
火船の“進行方向”へ、あえて近づくように動く。
星が気づく。
「……誘ってるのか?」
「違う。」
時雨は静かに答える。
「“通す”んだ。」
霞が叫ぶ。
「通すって……火やぞ!?」
「だからだ。」
時雨の目は鋭い。
「火は遮るから広がる。」
「なら――遮らなきゃいい。」
その意味を理解した瞬間、星の表情が変わる。
「……火を“逃がす”のか。」
時雨は笑う。
「正解だ。」
蜀軍旗艦。
一刀の目が細くなる。
「……火の流れが変わった。」
朱里が驚く。
「火が……広がっていません!」
「誘導されている……?」
一刀は低く呟く。
「いや……違う。」
「これは……“受け流し”だ。」
霧の中で、炎が奇妙な形に分散していく。
燕軍の船は逃げない。
むしろ、炎の進行方向を“制御”している。
時雨の声が再び響く。
「天の御使い。」
その呼び方は、どこか皮肉で、どこか敬意すら含んでいた。
「お前の火は確かに強い。」
「だがな。」
時雨は剣を肩に担ぐ。
「俺は“戦場の流れ”を燃やせないようにしてるだけだ。」
一刀は静かに目を閉じる。
「……なるほど。」
「火を消したのではない。」
「火の意味を変えたか。」
時雨は笑う。
「そういうことだ。」
風がさらに強くなる。
炎は完全には消えない。
だが――思ったほどの破壊力を持たない。
蜀軍の火計は、“完成したはずの一撃”としては鈍くなっていた。
朱里が震える。
「そんな……」
一刀はゆっくりと剣を握る。
「まだ終わっていない。」
「張燕はここから“次”を仕掛ける。」
その予感は正しかった。
時雨は霧の奥で、静かに呟く。
「火は終わりだ。」
「ここからは――水だ。」
星が目を細める。
「次の手か。」
時雨は笑う。
「火は囮だ。」
「本命は、まだ動いてねぇ。」
その瞬間、長江の霧の奥で別の動きが始まる。
誰もが“火”に意識を奪われている中で。
戦場の本当の歯車が、静かに噛み合い始めていた。
そして――
時雨はもう一度、霧の向こうの敵へ告げる。
「見えてるか、天の御使い。」
「これが黒山だ。」
火の戦場は、まだ終わっていなかった。
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