【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第二百六十九話 赤壁決戦――黒山の狼、天の御使いへ迫る

第二百六十九話 赤壁決戦――黒山の狼、天の御使いへ迫る

 

 

霧は、まだ消えていない。

 

だがそれはもはや戦場を覆う障害ではなく――二人の間にだけ残された“幕”のようだった。

 

長江の上。

 

蜀軍旗艦と燕軍旗艦が、ゆっくりと距離を詰める。

 

燃え残る炎。

 

崩れかけた船団。

 

混乱と沈黙が同居する戦場の中心で、ただ二人だけが明確に存在していた。

 

張燕――真名・時雨は、霧の向こうを見つめたまま剣を抜く。

 

その動きは静かだったが、空気が一段階重くなる。

 

星が隣で呟く。

 

「……本気で行くんだな。」

 

「最初から本気だ。」

 

時雨は短く返す。

 

霞が肩をすくめる。

 

「ほんま、最後まで外道やな。」

 

「褒めてんのかそれ。」

 

「半分はな。」

 

時雨は笑った。

 

だがその笑みには、これまでの戦場とは違う鋭さがあった。

 

――終わらせる意志の鋭さ。

 

その頃、蜀軍旗艦。

 

一刀は静かに前へ出ていた。

 

朱里が必死に止める。

 

「一刀様、前線はまだ不安定です!」

 

「このままでは……!」

 

一刀は振り返らない。

 

「だから行く。」

 

その一言だけだった。

 

朱里は息を呑む。

 

「張燕と……直接ですか?」

 

一刀はゆっくり頷く。

 

「ここまで来て、指揮だけで終わらせる戦いじゃない。」

 

「彼は“戦場そのもの”を壊した。」

 

「なら、止めるのは――戦場じゃない。」

 

一刀は剣を握る。

 

「彼だ。」

 

その瞬間、蜀軍の兵たちが静まり返る。

 

誰もが理解していた。

 

これは命令ではない。

 

“決断”だ。

 

霧の向こう。

 

時雨はその動きを見て、低く笑った。

 

「来たか。」

 

星が問う。

 

「待っていたのか?」

 

「当然だ。」

 

時雨は剣を肩に担ぐ。

 

「ここまで引っ張った意味は、これだ。」

 

霞が目を細める。

 

「最初から、これが狙いやったんか。」

 

「違う。」

 

時雨は静かに言う。

 

「ここに至るまで全部が“準備”だ。」

 

その言葉と同時に、蜀軍旗艦が前へ出る。

 

長江の水が割れるように、二つの旗艦が正面から向き合う。

 

そして――

 

距離が、止まる。

 

完全な停止。

 

霧の中で、二人だけが視界の中心に立っていた。

 

一刀が声を上げる。

 

「張燕!」

 

時雨が応える。

 

「天の御使い!」

 

その呼び方に、一刀の目がわずかに細くなる。

 

「その呼び方は……やめろ。」

 

時雨は笑う。

 

「なら何と呼べばいい?」

 

一刀は答えない。

 

ただ剣を構える。

 

「君を止める。」

 

時雨も構える。

 

「止められるならな。」

 

霧が二人の間で揺れる。

 

その瞬間――戦場の音が消えた。

 

風も、炎も、兵の声も。

 

残ったのは、二人の呼吸だけ。

 

星が小さく呟く。

 

「……始まるな。」

 

霞も珍しく真剣な顔になる。

 

「ここが決着や。」

 

そして――

 

時雨が一歩踏み出す。

 

それが合図だった。

 

長江の上で、ついに二人の距離が“戦闘距離”へと変わる。

 

張燕と北郷一刀。

 

外道と天の御使い。

 

赤壁のすべての策と混乱の果てに、最後の一点が交差しようとしていた。

 

黒山の狼が牙を剥く。

 

そして天の御使いが、それを迎え撃つ。

 

一騎打ちが――始まる。

 

 

霧は二人の周囲だけ、異様に静かだった。

 

まるでそこだけ切り取られたように、長江の喧騒が遠ざかっている。

 

張燕――時雨は剣を構えたまま、一刀を見ていた。

 

その視線は鋭いが、どこか楽しげでもある。

 

「なあ、天の御使い。」

 

一刀は答えない。

 

ただ、剣を握る手に力がこもる。

 

時雨は続ける。

 

「お前はまだ“戦場”を信じてる顔だな。」

 

一刀の目がわずかに動く。

 

「……信じているのではない。」

 

「守っているだけだ。」

 

その言葉に、時雨は小さく笑った。

 

「守る、か。」

 

「綺麗な言葉だ。」

 

その瞬間――

 

時雨が踏み込んだ。

 

水面が割れるような速度だった。

 

一閃。

 

一刀は即座に受ける。

 

金属音が霧を裂く。

 

火計で弱った船板が軋み、二人の足元がわずかに揺れる。

 

だが、誰も引かない。

 

時雨は低く呟く。

 

「遅くはねぇな。」

 

一刀は静かに返す。

 

「君こそ。」

 

二撃目。

 

三撃目。

 

剣戟が水上に連続して響く。

 

それは戦場というより、“思考の衝突”だった。

 

時雨は一刀の剣筋を見ながら考えている。

 

(やはり速い)

 

(だが“迷いがない”)

 

一方で一刀も同じように読んでいる。

 

(無駄がない)

 

(だが、勝つこと以外を捨てている)

 

二人の刃は、互いの“内側”を削っていくようだった。

 

時雨が低く笑う。

 

「なあ、天の御使い。」

 

「この戦場、まだ“勝敗”で考えてるのか?」

 

一刀は即答する。

 

「違う。」

 

「終わらせるためだ。」

 

その一言に、時雨の目がわずかに細くなる。

 

「終わらせる、か。」

 

「なら俺と同じだな。」

 

だが次の瞬間――

 

時雨の足元で、わずかに水が揺れる。

 

それは偶然ではない。

 

戦場全体に張り巡らされた“仕掛け”が、最後の段階へ移行していた。

 

霞の声が遠くから響く。

 

「時雨!」

 

「動いたらあかんやつやろこれ!」

 

星が即座に理解する。

 

「……外道策の最終段階か。」

 

時雨は笑ったまま一刀へ向く。

 

「気づいたか。」

 

一刀の目が鋭くなる。

 

「まだ何か残しているのか。」

 

時雨は答えない。

 

ただ剣を構え直す。

 

「戦場ってのはな。」

 

「最後に残った奴が勝つんじゃねぇ。」

 

「最後に“立っていた理由”が残った奴が勝つ。」

 

その瞬間だった。

 

蜀軍の一部がざわつく。

 

「後方の船が……動いていないのに位置がずれている!」

 

「情報が……ずれている!?」

 

朱里の顔が強張る。

 

「まさか……まだ仕掛けが……!」

 

一刀はその言葉で全てを理解する。

 

「……認識の再歪みか。」

 

時雨は静かに笑う。

 

「正解だ。」

 

「ここまで来てまだ“戦場が正しく見えている”と思うなよ。」

 

一刀の表情が変わる。

 

「君は……最初からこれが目的だったのか。」

 

時雨は一歩踏み込む。

 

剣が交わる。

 

火花が散る。

 

「違う。」

 

「ここに辿り着くために全部やった。」

 

その一言は、戦場の空気を変えた。

 

一刀は息を吐く。

 

「……やはり君は危険だ。」

 

「褒め言葉として受け取る。」

 

再び剣が交差する。

 

しかし今度は、一刀の動きが変わる。

 

わずかに“軸”がずれる。

 

時雨の目が鋭くなる。

 

「……読み替えたな。」

 

一刀は静かに言う。

 

「君の“混乱”は強い。」

 

「だが、一つだけ弱点がある。」

 

時雨は笑う。

 

「ほう?」

 

一刀は剣を構え直す。

 

「“中心がある”。」

 

その瞬間――

 

蜀軍旗艦が動く。

 

混乱していたはずの部隊が、一点へと収束する。

 

時雨の目がわずかに見開かれる。

 

「……逆に使ったか。」

 

一刀は静かに言う。

 

「君の外道策は、全体を壊すものだ。」

 

「なら――一つにすれば壊れない。」

 

時雨は低く笑う。

 

「なるほどな。」

 

「面白ぇじゃねぇか。」

 

二人の距離がさらに縮まる。

 

もはや剣を振るう余白すら少ない。

 

一刀が静かに言う。

 

「ここで終わらせる。」

 

時雨も答える。

 

「いいや。」

 

「ここから始める。」

 

そして――

 

二人の刃が、最後に真正面からぶつかる。

 

長江の水面が割れ、霧が一瞬だけ消える。

 

その中心にいるのは、ただ二人。

 

張燕と北郷一刀。

 

赤壁の戦いは、ついに“決着の瞬間”へと踏み込んだ。




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