第二百七十話 赤壁終幕――理想の王、崩れる瞬間
長江の上に、音はもうほとんど残っていなかった。
剣がぶつかる音さえ、霧に吸われていく。
ただ、二人の呼吸だけが世界を支配している。
北郷一刀と張燕――時雨。
その間にあった“距離”は、すでに意味を失っていた。
一刀の剣が振るわれる。
時雨がそれを受ける。
だが次の瞬間――
一刀の体がわずかに沈む。
「……っ」
朱里が遠くで叫ぶ。
「一刀様!」
しかし声は届かない。
戦場はすでに“二人だけの領域”になっていた。
時雨は一刀を見下ろすようにではなく、真正面から見ていた。
そこに侮りはない。
ただ、事実を見る目だ。
「遅れてるな。」
一刀は歯を食いしばる。
「まだ……終わっていない!」
踏み込み。
もう一度。
剣が交差する。
しかし今度は、時雨が一歩だけ前に出た。
その一歩がすべてを変える。
水面が沈む。
一刀の重心が崩れる。
「――っ!」
時雨の剣が、一刀の防御の“隙間”を抜ける。
朱里の目が見開かれる。
「そんな……!」
星が小さく息を呑む。
「……当たる。」
霞は声を失っていた。
時雨の剣は、迷いがない。
だがそれ以上に、“勝つための無駄のなさ”だけで構成されていた。
一刀は後退する。
だが遅い。
時雨は追わない。
ただ、距離を詰める。
「なあ、天の御使い。」
その声は、驚くほど静かだった。
「お前さ。」
一刀は剣を構え直す。
「……何だ。」
時雨は一瞬だけ空を見た。
霧の向こう、かすかに赤く染まる戦場。
そして言う。
「理想の王様ってのは、何だ?」
その問いに、一刀の目が揺れる。
「それは……」
即答できない。
時雨は続ける。
「全部を守れる奴か?」
「誰も犠牲にしない奴か?」
「それとも――」
時雨の剣がわずかに傾く。
「“誰かのために全部を背負う奴”か?」
一刀は唇を噛む。
そのどれも、否定できない。
だが同時に、どれも完全ではない。
その“揺れ”が、一瞬の隙になる。
時雨は踏み込む。
一刀が反応するより早く。
霧が裂ける。
剣が交差する。
そして――
一刀の剣が、わずかに遅れた。
朱里の悲鳴が上がる。
「一刀様――!!」
次の瞬間。
一刀の身体が後方へ弾かれる。
水面に落ちる寸前で踏みとどまるが、もう立て直しは効かない。
時雨は剣を下ろさない。
ただ見ている。
「やっぱりな。」
一刀は息を荒くしながら顔を上げる。
「……まだ、終わっていない。」
時雨はゆっくりと首を振る。
「いや。」
「終わってる。」
その言葉は冷たいが、静かだった。
一刀は立ち上がろうとする。
だが――体が重い。
時雨は一歩だけ近づく。
「お前はさ。」
「ずっと“正しい王”を作ろうとしてた。」
一刀の目が揺れる。
時雨は続ける。
「でもな。」
「正しい王なんて、どこにもいねぇんだよ。」
その瞬間――
時雨の剣が振り下ろされる。
一刀は最後の力で受ける。
金属音。
だが、もう支えきれない。
剣が滑る。
朱里の声が戦場に響く。
「やめて――!」
しかし、止まらない。
時雨の目は冷静だった。
そこに怒りも憎しみもない。
ただ“決着”だけがあった。
そして――
剣が抜ける。
一刀の体が揺れる。
視界が傾く。
霧の向こうで、時雨の声が最後に届く。
「理想ってのはな。」
「生き残った奴が“後から貼る名前”だ。」
一刀の膝が落ちる。
水面に膝をつく音だけが響く。
朱里の叫び。
星の沈黙。
霞の息。
そのすべてが止まる中で――
北郷一刀は、ゆっくりと倒れた。
そしてその上に、長江の霧が静かに降りていく。
赤壁は終わった。
理想を抱いたまま倒れた男と、
それを踏み越えた狼によって。
長江の霧は、ゆっくりと沈黙を取り戻していた。
戦場の音はまだ遠くに残っている。
だが、この一角だけは異様な静けさに包まれていた。
北郷一刀は、水面に倒れたまま動かない。
その周囲に広がるのは、戦の終わりではない。
“決定の結果”だった。
朱里の声が震える。
「一刀様……!」
しかし誰も近づけない。
近づけば、その意味が壊れてしまう気がした。
星は一歩前に出かけて、止まった。
霞は歯を噛みしめる。
「……あかん。」
その一言だけだった。
時雨は剣を下ろし、ゆっくりと一刀を見下ろしていた。
そこに勝利の高揚はない。
ただ事実の確認だけがある。
「終わったな。」
誰に向けた言葉でもない。
だが、その場にいる全員に届いた。
霧の奥で、蜀軍の旗が揺れている。
しかしその動きはもう、統一されていない。
“中心”を失った軍は、まだ崩れ切っていないだけだった。
時雨は静かに息を吐く。
「理想ってのはな。」
もう一度、言葉を落とすように呟く。
「守れなかった時点で、ただの願いだ。」
その言葉に、朱里が顔を上げる。
「違います……!」
声は震えていた。
「一刀様は……守ろうとして……!」
時雨はそれを遮らない。
ただ見ている。
否定もしない。
だが肯定もしない。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
星が静かに言う。
「……それでも、時雨は全部壊したんだな。」
時雨は一瞬だけ目を閉じる。
そして、短く答える。
「壊さなきゃ残る。」
「それだけだ。」
霞が苦く笑う。
「ほんま、最後まで救いないな。」
時雨はその言葉に肩をすくめる。
「救いなんて、戦場に持ち込む方が間違ってる。」
その時だった。
水面に横たわる一刀の指が、わずかに動いた。
朱里が息を呑む。
「……まだ……!」
星の表情も揺れる。
時雨はそれを見逃さない。
静かに近づく。
一刀の視線は、霧の向こうを見ている。
焦点は定まっていない。
それでも、言葉だけが零れる。
「……張燕……」
かすれた声だった。
時雨は剣を持ったまま止まる。
一刀は続ける。
「……君は……」
言葉が途切れる。
それでも、続けようとする意志だけは残っている。
「……正しい……のか……」
時雨は少しだけ沈黙した。
そして、ゆっくりと答える。
「正しいかどうかなんて、どうでもいい。」
一刀の目がわずかに揺れる。
時雨は続ける。
「勝った奴が、あとから正しさを決める。」
その言葉に、一刀の瞳が静かに閉じかける。
だが――完全には閉じない。
最後の抵抗のように、微かに開いたままだった。
時雨はそれを見て、小さく息を吐く。
「……お前は最後までそれか。」
誰にも聞こえない声で呟く。
その瞬間、長江の風が強く吹いた。
霧が流れる。
戦場の輪郭が、少しずつ戻り始める。
だがそこに“中心”はもうない。
時雨は背を向ける。
霞が問う。
「どこ行くねん。」
時雨は歩きながら答える。
「終わった戦場に用はない。」
星が最後に言う。
「……これで終わりか。」
時雨は立ち止まらない。
ただ一言だけ残す。
「いや。」
「始まりだ。」
霧の向こうへ消えていく背中。
倒れたままの一刀。
動き出す蜀軍の混乱。
そして沈黙の中で、それぞれが“現実”を受け取っていく。
赤壁は終わった。
理想は敗れ、現実だけが残った。
その中で立っているのは――黒山の狼だった。
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