【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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魏外伝
外伝 第1話 百万の黒山賊


外伝 第1話 百万の黒山賊

 

 

乱世は、ほんのわずかな選択の違いで、まったく異なる未来へと姿を変える。

 

これは、もう一つの歴史。

 

黒山を根城とする百万の黒山賊が、天下を震わせていた時代の物語である。

 

黒山の山々は、どこまでも続いていた。

 

切り立つ断崖。

 

深い森。

 

天然の要害。

 

そこには百を超える砦が築かれ、山道という山道には見張りが立っている。

 

そして、そのすべてを束ねる男がいた。

 

黒髪を風になびかせる青年。

 

黒山賊の総大将――張燕、真名・時雨。

 

時雨は高台から眼下を見下ろしていた。

 

視界を埋め尽くすほどの兵。

 

十万ではない。

 

二十万でもない。

 

黒山に集った賊たちは、老若男女を含めれば百万を超える勢力となっていた。

 

「大将!」

 

配下が駆け寄る。

 

「西の砦より報告! 魏軍が進軍を開始しました!」

 

時雨は静かに振り返る。

 

「曹操か。」

 

短い一言だった。

 

しかし、その名だけで周囲の空気が張り詰める。

 

いま中原で最も勢いを持つ覇王。

 

魏王・曹操。

 

数々の群雄を屈服させ、天下へ最も近い女。

 

その軍勢が、ついに黒山へ迫っていた。

 

「兵数は?」

 

「およそ四十万!」

 

「精鋭ばかりです!」

 

時雨は腕を組んだ。

 

「少ないな。」

 

その言葉に、周囲の頭領たちは苦笑する。

 

「相手は精鋭四十万ですよ!」

 

「こちらは寄せ集めとはいえ百万!」

 

「勝てます!」

 

だが時雨は首を横に振った。

 

「数だけならな。」

 

静かな声だった。

 

「兵は多ければ強いわけじゃない。」

 

「統率、兵站、士気……全部揃って初めて軍になる。」

 

「俺たちは黒山賊だ。」

 

「軍じゃない。」

 

誰も反論できなかった。

 

その頃――

 

魏軍本陣。

 

黄金の髪を揺らしながら、一人の少女が地図を見つめていた。

 

曹操。

 

華琳ではない。

 

今、この場で彼女は覇王・曹操として立っている。

 

「黒山……。」

 

その声には興味が滲んでいた。

 

「百万もの賊をまとめ上げる男。」

 

「張燕」

 

郭嘉が微笑む。

 

「油断は禁物かと。」

 

曹操は口元を緩めた。

 

「油断?」

 

「するものですか。」

 

「むしろ欲しいのよ。」

 

その一言で、幕僚たちが顔を上げた。

 

「欲しい……ですか?」

 

曹操は迷いなく答える。

 

「あの男を。」

 

「百万の賊よりも、張燕一人の価値の方が大きい。」

 

荀彧が頷く。

 

「生け捕りですね。」

 

「ええ。」

 

曹操は地図の黒山を指でなぞった。

 

「殺すには惜しい。」

 

「私の配下にすれば、天下はさらに近づく。」

 

その瞳には、絶対の自信が宿っていた。

 

数日後。

 

黒山の麓。

 

百万の黒山賊と四十万の魏軍が対峙していた。

 

山を埋め尽くす黒山賊。

 

整然と並ぶ魏軍。

 

その光景は、まさに時代を決める決戦だった。

 

時雨は馬上から敵陣を見つめる。

 

「……綺麗な軍だ。」

 

無駄がない。

 

旗の動き。

 

兵の足並み。

 

補給部隊の位置。

 

すべてが計算され尽くしている。

 

対する黒山賊は、士気こそ高いが統率は甘い。

 

時雨は結論を出していた。

 

「勝てない。」

 

その一言に、周囲の頭領たちは息を呑む。

 

「なっ!」

 

「まだ戦ってもいない!」

 

時雨は静かに笑った。

 

「だから分かる。」

 

「戦えば、百万死ぬ。」

 

風が吹く。

 

黒山の旗が揺れた。

 

時雨はゆっくりと剣を鞘へ納める。

 

「……降伏する。」

 

誰もが耳を疑った。

 

「頭領!?」

 

「冗談でしょう!」

 

「黒山はどうなるんです!」

 

時雨は静かに振り返る。

 

「俺一人で済むなら安い。」

 

「兵を生かす。」

 

「それが頭領の仕事だ。」

 

その覚悟に、誰も言葉を返せなかった。

 

やがて黒山の門が開く。

 

黒髪の青年は、たった一人で魏軍本陣へ向かって歩き始めた。

 

その背中には、百万の黒山賊すべての運命が託されていた。

 

そして、その先には――

 

覇王・曹操が静かに待っていた。

 

 

黒山の門が開いた。

 

重い木材と鉄板を幾重にも組み合わせた巨大な門が、地面を震わせる鈍い音を響かせながら左右へ開いていく。

 

その向こうに広がっていたのは、黒山を埋め尽くす百万の民と兵。

 

老人もいた。

 

女子供もいた。

 

鍬を持つ農民も、錆びた剣を握る若者もいる。

 

彼らは皆、山道を一人で下っていく黒髪の青年の背中を見つめていた。

 

黒山賊の総大将。

 

張燕。

 

真名を、時雨。

 

その背中には鎧がない。

 

黒い衣と、腰に差した一本の剣だけ。

 

兜もなければ盾もない。

 

護衛すら伴っていなかった。

 

「頭領……」

 

誰かが呟いた。

 

時雨は振り返らなかった。

 

振り返れば、足が止まると思ったわけではない。

 

惜しむものなどないと、自分に言い聞かせたいわけでもない。

 

ただ――振り返る必要がなかった。

 

背後にいる者たちの顔も、抱えている恐れも、すべて知っている。

 

飢えから逃げて黒山へ来た者。

 

戦で家を焼かれた者。

 

役人に土地を奪われた者。

 

兵に家族を殺され、復讐のため剣を握った者。

 

時雨が守ろうとしている百万とは、百万の兵ではなかった。

 

百万の人生だった。

 

だからこそ、賭けることはできない。

 

勝てるかもしれない戦に、百万人の命を投じることはできなかった。

 

ましてや、相手は曹操。

 

数で押し潰せるような将ではない。

 

黒山の地形を利用すれば、魏軍に大きな損害を与えることはできる。

 

狭い山道へ誘い込み、頭上から岩を落とす。

 

森に火を放ち、伏兵で退路を断つ。

 

補給路を襲い、長期戦に持ち込む。

 

時雨の頭には、魏軍を苦しめる策がいくつも浮かんでいた。

 

しかし、そのどれもが黒山を戦場に変える策だった。

 

山は焼ける。

 

砦は崩れる。

 

水場には死体が沈み、畑は踏み荒らされる。

 

勝ったところで、百万の民が暮らす場所は残らない。

 

そんな勝利に意味はない。

 

山を下りきったところで、時雨は足を止めた。

 

そこから先には、魏軍の陣が広がっている。

 

黒山賊の雑然とした陣容とは違う。

 

一糸乱れぬ隊列。

 

磨き上げられた槍。

 

一定の間隔を保って並ぶ軍旗。

 

兵たちの顔には緊張がある。

 

だが、怯えはない。

 

正面に百万もの敵がいるというのに、魏軍の兵たちは命令を待ち、静かに立っていた。

 

時雨は目を細めた。

 

「なるほどな」

 

実際に間近で見れば、よりはっきりと分かる。

 

これは軍だ。

 

百万の黒山賊とは根本から違う。

 

魏軍の一兵一兵が、自分の役割を理解している。

 

どこへ進み、どこで止まり、誰の命令を聞くべきかを知っている。

 

百万の怒りを集めた黒山賊。

 

一つの意志によって動く魏軍。

 

数の差だけで勝敗を考えることなど、最初から無意味だった。

 

魏兵の一人が前へ出た。

 

「止まれ!」

 

時雨は命じられた通りに足を止める。

 

兵は槍を向けたまま、鋭く問いかけた。

 

「名を名乗れ!」

 

「張燕」

 

その名前が響いた瞬間、魏兵たちの間にわずかな動揺が走った。

 

目の前にいる黒髪の青年が、百万の黒山賊を束ねる頭領。

 

大陸中の諸侯を悩ませてきた黒山の狼。

 

そう理解しても、すぐには信じられなかったのだろう。

 

あまりにも無防備だった。

 

時雨は両手を広げた。

 

「見ての通り、一人だ」

 

「剣を捨てろ!」

 

「断る」

 

兵たちの槍先が一斉に時雨へ向いた。

 

空気が張り詰める。

 

だが時雨は眉一つ動かさなかった。

 

「剣を持ったまま降伏できると思っているのか!」

 

「これは俺の命だ。曹操以外に預ける気はない」

 

その声に敵意はない。

 

しかし、譲歩する意思もなかった。

 

魏兵は判断に迷った。

 

目の前の男を斬ることは容易い。

 

だが、曹操は張燕を生け捕りにせよと命じている。

 

しかも本人が降伏のために現れたのなら、下手な行動は許されない。

 

やがて後方から、重い足音が近づいてきた。

 

「道を開けろ」

 

凛とした声だった。

 

魏兵たちが即座に左右へ分かれる。

 

その間を歩いてきたのは、長い黒髪を揺らす女将軍だった。

 

夏侯惇。

 

魏武の大剣を肩に担ぎ、鋭い眼差しで時雨を見据えている。

 

「お前が張燕か」

 

「そうだ」

 

「曹操様への礼が足りんぞ」

 

夏侯惇の手が大剣の柄へかかる。

 

時雨は彼女の動きを一瞥し、わずかに口元を吊り上げた。

 

「降伏に来た男へ、礼儀作法まで求めるのか」

 

「当然だ。曹操様の御前に立つのだぞ」

 

「面倒だな」

 

「貴様!」

 

夏侯惇が一歩踏み込んだ瞬間、その隣から別の声が飛んだ。

 

「姉者、待て」

 

夏侯淵が静かに進み出る。

 

彼女は時雨の全身を観察していた。

 

構えはない。

 

殺気もない。

 

だが隙もない。

 

剣を抜けば、周囲の兵を何人か斬って死ぬことはできる。

 

それでも時雨は抜かない。

 

降伏の意思は本物なのだろう。

 

「曹操様がお待ちだ」

 

夏侯淵はそれだけを告げた。

 

時雨は頷く。

 

「案内しろ」

 

「貴様、命令するな!」

 

「姉者」

 

夏侯惇の怒声を夏侯淵が制する。

 

時雨は二人の間を通り、魏軍の陣へ足を踏み入れた。

 

無数の兵の視線が注がれる。

 

憎しみ。

 

警戒。

 

興味。

 

黒山賊によって家族や仲間を失った者もいるだろう。

 

今すぐ時雨へ斬りかかりたい者がいても不思議ではない。

 

それでも誰一人として列を乱さなかった。

 

命令がないからだ。

 

時雨はその光景を見ながら、心の中で改めて曹操を評価した。

 

人を恐怖で縛るだけでは、ここまでの軍は作れない。

 

恐怖に加え、利益と誇りを与えている。

 

曹操に従えば勝てる。

 

曹操に従えば、明日がある。

 

兵たちにそう信じさせている。

 

それは賊の頭領である時雨には、作ることのできなかった形だった。

 

やがて、一際大きな天幕の前へたどり着く。

 

夏侯淵が足を止めた。

 

「曹操様。張燕を連れて参りました」

 

「入りなさい」

 

天幕の内側から、澄んだ声が返ってくる。

 

布が左右へ開かれた。

 

時雨は一人で中へ入った。

 

そこには魏の中心があった。

 

中央の椅子に座る、小柄な少女。

 

美しく波打つ黄金の髪。

 

足を組み、頬杖をつきながら、時雨を見つめている。

 

曹操。

 

覇王と呼ばれる少女は、想像していたよりも遥かに小さかった。

 

だが、その存在感は陣の外に並ぶ四十万の兵よりも強い。

 

彼女の左右には荀彧、郭嘉、程昱をはじめとする軍師たちが並んでいた。

 

少し離れた場所には許褚、典韋。

 

そして入口を塞ぐように夏侯惇と夏侯淵が立つ。

 

逃げ道はない。

 

時雨は曹操の前まで進んだ。

 

そして、立ったまま止まった。

 

曹操は何も言わない。

 

ただ時雨を観察していた。

 

黒い髪。

 

鋭く細められた目。

 

戦場に立つ者特有の傷。

 

無防備に見えて、一瞬で剣を抜ける立ち姿。

 

長い沈黙の末、先に口を開いたのは曹操だった。

 

「跪かないの?」

 

「まだ条件を聞いてない」

 

夏侯惇が怒鳴る。

 

「貴様! 曹操様の御前だぞ!」

 

時雨は振り返りもしない。

 

「黙ってろ。今は俺と曹操が話してる」

 

「斬るぞ!」

 

「やってみろ」

 

大剣と剣。

 

双方の柄へ手がかかる。

 

しかし、曹操が片手を上げた瞬間、夏侯惇は動きを止めた。

 

「春蘭、下がりなさい」

 

「ですが、曹操様!」

 

「二度言わせるつもり?」

 

穏やかな声だった。

 

それでも夏侯惇は顔を強張らせ、一歩下がる。

 

曹操は再び時雨へ視線を戻した。

 

「思っていたより若いのね」

 

「そっちもな」

 

「私が誰か分かっているのかしら」

 

「曹操だろ」

 

その呼び方に、天幕の空気が一変した。

 

親しい者だけが許される真名ではない。

 

敬称もない。

 

官職も付けない。

 

ただ、曹操。

 

魏王を正面からそう呼ぶ人間はほとんどいない。

 

荀彧の眉が吊り上がった。

 

「無礼者!」

 

「桂花」

 

曹操が彼女を制した。

 

怒ってはいない。

 

むしろ愉快そうに微笑んでいた。

 

「いいわ。そのまま呼びなさい」

 

「曹操様!」

 

「構わないと言っているの」

 

曹操は椅子から立ち上がった。

 

ゆっくりと時雨へ近づく。

 

身長では時雨の方が遥かに高い。

 

だが、曹操は見上げているようには見えなかった。

 

まるで時雨の方が、彼女の手のひらに乗せられているようだった。

 

「百万の黒山賊。そのすべてを連れて降伏するという話、本当かしら」

 

「正確には違う」

 

「何が違うの?」

 

「百万すべてが賊じゃない」

 

時雨の声から、それまでの軽さが消えた。

 

「黒山にいるのは、戦えない老人や子供も含めた百万だ。兵として使えるのは、その半分にも届かない」

 

「それでも十分な数よ」

 

「数として見るならな」

 

曹操は時雨の表情を見つめる。

 

「では、あなたは何を求めて降伏しに来たの?」

 

時雨は即答した。

 

「黒山にいる全員の助命」

 

天幕の中が静まり返る。

 

「黒山賊が魏の法に従うなら、土地と食料を与えろ。農民になりたい奴には畑を。兵になりたい奴には、魏軍へ入る道を作れ」

 

曹操は目を細めた。

 

「ずいぶんと要求が多いわね」

 

「百万の首を差し出すんだ。そのくらいは要求する」

 

「あなたは自分が敗者だということを理解しているの?」

 

「だからここにいる」

 

時雨は腰の剣へ触れた。

 

入口の夏侯姉妹が身構える。

 

しかし時雨は剣を抜かず、鞘ごと腰から外した。

 

そして、曹操の前に置く。

 

鈍い音が天幕に響いた。

 

「俺の命も、黒山も、燕国も差し出す」

 

その言葉に、曹操の目がわずかに開かれた。

 

「燕国も?」

 

「黒山の周辺は、すでに燕の名でまとめてある」

 

時雨は淡々と説明する。

 

群雄が争う中、黒山賊だけでは民を守れない。

 

そのため時雨は周辺の郡県を制圧し、燕国を名乗っていた。

 

正規の朝廷から認められた国ではない。

 

だが、民にとって国号の正統性など重要ではなかった。

 

税が軽い。

 

盗賊や兵から守られる。

 

飢えたときには倉が開かれる。

 

それだけで、燕国に従う理由は十分だった。

 

「燕国は今日をもって魏国へ降伏する」

 

時雨は曹操から目を逸らさずに言った。

 

「国号を残す必要はない。旗も焼けばいい。官も土地も、好きに使え」

 

「あなたは?」

 

「俺か」

 

時雨はわずかに笑った。

 

「処刑するなら、早くしろ」

 

夏侯惇が目を細める。

 

荀彧も厳しい表情で時雨を睨んでいた。

 

黒山賊に苦しめられた者は多い。

 

降伏したからといって、すべての罪が消えるわけではない。

 

頭領の首を晒せば、魏国の威光を示すこともできる。

 

百万の民を従わせるための見せしめとしても、張燕の処刑は有効だった。

 

しかし曹操は、時雨の前に置かれた剣を拾い上げた。

 

鞘から、わずかに刀身を引き抜く。

 

よく手入れされている。

 

華美な装飾はない。

 

人を斬るためだけに鍛えられた、実用の剣。

 

「この剣で、何人殺したの?」

 

「数えてない」

 

「罪悪感は?」

 

「殺した相手に対してなら、ない」

 

「そう」

 

曹操は剣を鞘へ戻した。

 

「では、黒山の民がこれから魏の民になることに、異論はないのね」

 

「ない」

 

「魏の法に背けば処罰するわ」

 

「構わない」

 

「黒山賊という組織は解体する」

 

「好きにしろ」

 

「燕国も消える」

 

「言ったはずだ」

 

時雨は真っ直ぐに答えた。

 

「旗や名前を守るために、百万人を死なせる気はない」

 

曹操の唇が、ゆっくりと弧を描く。

 

欲しい。

 

彼女は改めてそう思った。

 

百万の兵を束ねる力。

 

戦わずして勝敗を見抜く目。

 

国を捨て、民を生かす決断力。

 

そして、覇王を前にしても一歩も退かない胆力。

 

張燕という男は、単なる賊ではない。

 

磨けば将になるという段階ですらなかった。

 

すでに王の器を持っている。

 

それなのに、王座へ執着していない。

 

だからこそ危険であり、だからこそ価値がある。

 

「処刑はしないわ」

 

曹操が告げた。

 

天幕の中に動揺が走る。

 

「曹操様!」

 

荀彧が声を上げる。

 

「張燕は黒山賊の首魁です! これまでの罪を問わずにおくなど――」

 

「罪を問わないとは言っていないわ」

 

曹操は荀彧を見ずに答える。

 

「彼には、その命が尽きるまで魏のために働いてもらう」

 

時雨が眉を動かした。

 

「俺を使うのか」

 

「ええ」

 

曹操は時雨の剣を抱えるように持ち、彼の前に立つ。

 

「あなたは、私のものになるのよ」

 

その言葉は命令だった。

 

同時に、宣告でもあった。

 

天幕にいる誰もが息を呑む。

 

時雨はしばらく黙って曹操を見つめていた。

 

曹操も目を逸らさない。

 

力によって屈服させるのではない。

 

誇りを折ろうとしているのでもない。

 

曹操は時雨のすべてを要求していた。

 

剣も。

 

知略も。

 

命も。

 

そして、張燕という存在そのものも。

 

「断ったら?」

 

時雨が尋ねる。

 

曹操は微笑んだ。

 

「黒山と燕国の降伏は受け入れるわ」

 

意外な答えだった。

 

「民には土地を与え、兵は選別して魏軍へ編入する。罪を犯していない者の命も保証しましょう」

 

「俺が拒んでもか」

 

「ええ」

 

曹操は時雨の剣を持ち上げる。

 

「ただし、あなたはここで死ぬ」

 

時雨は小さく笑った。

 

「なるほどな」

 

民の命を人質に取らない。

 

あくまで時雨本人へ選択を迫る。

 

そのやり方は、時雨が想像していたよりも遥かに潔かった。

 

曹操は続ける。

 

「生きて私に仕えるか、誇りを守って死ぬか。選びなさい」

 

「俺に誇りなんてない」

 

「嘘ね」

 

即座に否定された。

 

時雨の目が細くなる。

 

「百万を守るために、たった一人で敵陣へ来た男に誇りがないはずがない」

 

曹操は時雨の剣の柄を彼の胸へ向けた。

 

「あなたが捨てようとしているのは、命ではなく責任よ」

 

時雨の表情から笑みが消える。

 

「死ねば、すべて終わる。黒山の民を生かしたという満足だけを抱えて、あなたは逃げられる」

 

「逃げる、か」

 

「ええ」

 

曹操は一歩近づいた。

 

「だから私は、あなたを死なせない」

 

金色の瞳が、時雨の奥底を射抜く。

 

「燕国を失った責任も」

 

「黒山賊を解体した責任も」

 

「これまで奪った命への責任も」

 

「すべて背負って、私の下で生きなさい」

 

時雨は答えなかった。

 

言葉が見つからないのではない。

 

曹操の言葉を、一つずつ確かめていた。

 

殺すよりも残酷な命令だ。

 

死を許さず、生きることを罰として与える。

 

だが時雨は、そこに侮辱を感じなかった。

 

曹操は自分を見下していない。

 

賊だからと蔑んでもいない。

 

利用価値だけを見ているのでもない。

 

張燕という男のすべてを理解したうえで、欲しいと言っている。

 

時雨はゆっくりと片膝をついた。

 

夏侯惇が目を見開く。

 

荀彧も言葉を失う。

 

百万の黒山賊を束ねた男。

 

燕国を築いた王。

 

誰にも頭を下げなかった黒山の狼が、曹操の前に跪いていた。

 

「条件がある」

 

時雨は顔を上げる。

 

「まだ言うの?」

 

曹操の笑みが深くなる。

 

「言ってみなさい」

 

「黒山の連中に手を出すな」

 

「法に従う限りは保証するわ」

 

「飢えさせるな」

 

「魏の民として扱う」

 

「燕国の将兵を、降伏したという理由だけで侮辱させるな」

 

「能力のある者には相応の地位を与えましょう」

 

時雨は最後に、曹操の目を見た。

 

「なら、俺の全部をくれてやる」

 

曹操の眉がわずかに動く。

 

「言葉を慎みなさい」

 

「何がだ」

 

「くれてやる、ではないわ」

 

曹操は時雨の顎へ指を添え、顔を上げさせた。

 

二人の視線が、間近で重なる。

 

「私が、あなたを手に入れるのよ」

 

時雨は数秒黙った後、低く笑った。

 

「好きにしろ、曹操」

 

「ええ。好きにするわ」

 

曹操は満足そうに頷いた。

 

そして、時雨の剣を彼へ差し出す。

 

時雨は受け取らなかった。

 

「預けた」

 

「私に?」

 

「ああ」

 

時雨は跪いたまま答える。

 

「俺の命を持つ奴が、俺の剣も持ってろ」

 

天幕の中が再び静まり返る。

 

曹操は剣へ視線を落とした。

 

それから、大切な宝物を確かめるように柄を撫でる。

 

「いいでしょう」

 

曹操は剣を腰へ差した。

 

自らの武器とは反対側。

 

まるで張燕という存在を、自分の傍らへ置くことを示すように。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「今からあなたは魏の将よ」

 

時雨が顔をしかめる。

 

「賊の方が気楽だった」

 

「諦めなさい。あなたには誰よりも働いてもらう」

 

「面倒だな」

 

「まず、その口の利き方から教育が必要ね」

 

「曹操に従うとは言ったが、性格を変えるとは言ってない」

 

夏侯惇のこめかみに青筋が浮かぶ。

 

「張燕! いい加減にしろ!」

 

「うるさい奴だな」

 

「貴様ぁ!」

 

夏侯惇が大剣を抜こうとする。

 

だが曹操は楽しそうに笑った。

 

「春蘭、許してあげなさい」

 

「しかし!」

 

「この程度で腹を立てていては、これから身が持たないわよ」

 

曹操は時雨へ手を差し出した。

 

「立ちなさい」

 

時雨はその手を見る。

 

小さな手だった。

 

けれど、大陸の半分を掴み取ろうとしている手だ。

 

時雨はその手を取った。

 

曹操は力を込め、彼を立ち上がらせる。

 

「ようこそ、魏へ」

 

「歓迎されてるようには見えないがな」

 

周囲から向けられる視線は、警戒と不満に満ちている。

 

当然だった。

 

昨日まで敵だった男。

 

多くの魏兵を苦しめ、街道を荒らし、郡県を奪った黒山賊の頭領。

 

その男が突然、魏将として迎えられる。

 

納得できるはずがない。

 

曹操は周囲を見渡した。

 

「異論がある者は?」

 

荀彧が一歩前へ出る。

 

「ございます」

 

「桂花」

 

「張燕の能力が高いことは認めます。ですが、忠誠を信用できません」

 

時雨は鼻で笑った。

 

「信用しなくていい」

 

「何ですって?」

 

「俺は曹操と取引した。お前らに信用されるために来たわけじゃない」

 

「貴様――!」

 

曹操は二人を見比べ、どこか愉快そうに息を吐いた。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「あなたは私のものになったのよ」

 

「ああ」

 

「ならば私の臣下たちとも、うまくやりなさい」

 

「無理だな」

 

即答だった。

 

程昱が眠そうな顔で呟く。

 

「なかなか大変そうですねー」

 

郭嘉は扇で口元を隠しながら、興味深そうに時雨を観察している。

 

夏侯淵は冷静だったが、その手はいつでも弓を取れる位置にある。

 

許褚と典韋は時雨を警戒しつつ、同時にどこか好奇心を見せていた。

 

魏の中心には、異質な狼が紛れ込んだ。

 

いや。

 

曹操自身が、その狼を鎖につないで引き入れたのだ。

 

「報告します!」

 

天幕の外から兵の声が響く。

 

「黒山側より使者! 張燕殿の帰還を求めております!」

 

時雨が入口を見る。

 

曹操はその横顔を見つめた。

 

「戻りたい?」

 

「まさか」

 

時雨は短く答える。

 

「最後の命令を伝えるだけだ」

 

「何と?」

 

「武器を捨てろとな」

 

曹操は頷いた。

 

「行きなさい」

 

時雨が歩き出そうとする。

 

だが曹操は、その黒い衣の裾を掴んだ。

 

「何だ」

 

「逃げないでしょうね」

 

「百万を置いて、どこへ逃げる」

 

「そうではないわ」

 

曹操の金色の瞳が細められる。

 

「あなたは、もう私のものよ」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「曹操」

 

時雨は彼女を真っ直ぐに見下ろした。

 

「俺は約束を破るような善人じゃない」

 

曹操は一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。

 

「何よ、それは」

 

「賊なりの約束だ」

 

曹操は衣から手を離す。

 

「いいでしょう。信じてあげる」

 

「勝手にしろ」

 

「ええ。あなたのことは、これからすべて私が勝手に決めるわ」

 

時雨は面倒そうに息を吐き、天幕を出た。

 

その背中を見送りながら、曹操は腰に差した彼の剣へ手を添える。

 

冷たい鞘。

 

そこには、今まで誰にも屈しなかった狼の命が収められているようだった。

 

郭嘉が曹操の傍らへ進む。

 

「よろしかったのですか?」

 

「何が?」

 

「張燕を、あれほど近くへ置くことです」

 

「危険だと言いたいのね」

 

「はい。あの者は、王を殺せる男です」

 

曹操は微笑んだ。

 

「だから欲しいのよ」

 

「裏切る可能性もあります」

 

「裏切らせなければいい」

 

「それは、忠誠を誓わせるということでしょうか」

 

曹操は首を横に振る。

 

「違うわ」

 

天幕の入口から、黒髪の青年が遠ざかっていく姿が見える。

 

百万の黒山賊が待つ山へ、たった一人で歩いていく。

 

「忠誠では足りない」

 

曹操は静かに言った。

 

「あの男の居場所そのものを、私にするのよ」

 

その声には、覇王の欲望が滲んでいた。

 

領土が欲しい。

 

兵が欲しい。

 

人材が欲しい。

 

天下が欲しい。

 

曹操は欲しいものを諦めない。

 

そして今、彼女が欲したものは――黒山の狼だった。

 

---

 

黒山の麓。

 

時雨が魏軍陣地から戻ると、山側の兵たちが一斉に駆け寄ってきた。

 

「頭領!」

 

「ご無事でしたか!」

 

「魏は何と!?」

 

時雨は彼らの前で足を止めた。

 

一人一人の顔を見る。

 

恐怖。

 

期待。

 

不安。

 

黒山に集った者たちは、時雨の言葉だけを待っていた。

 

「燕国は、魏国へ降伏する」

 

ざわめきが広がった。

 

「そんな!」

 

「俺たちは魏の奴らに殺されるのか!?」

 

「頭領、戦いましょう!」

 

時雨は剣へ手を伸ばしかけた。

 

だが、剣はない。

 

曹操に預けてきたことを思い出し、代わりに右手を高く上げる。

 

その動作だけで、騒ぎが静まった。

 

「聞け」

 

低い声が、山の麓へ響く。

 

「今日から黒山賊は解散する」

 

泣き出す者がいた。

 

怒りに拳を握る者もいた。

 

長年掲げてきた旗を見上げ、呆然とする者もいる。

 

「武器を捨てろ」

 

時雨は続けた。

 

「魏の法に従え」

 

「畑が欲しい奴には土地が与えられる。兵になりたい奴は魏軍へ行け。商いをしたい奴も、山を出たい奴も好きにしろ」

 

「じゃあ、頭領は!?」

 

若い男が叫んだ。

 

「頭領はどうなるんです!」

 

時雨は少しだけ振り返った。

 

遠くに曹操の旗が見える。

 

深紅の地に翻る、魏の旗。

 

「俺は曹操のものになった」

 

誰もが言葉を失った。

 

「もの……?」

 

「ああ」

 

時雨は淡々と答える。

 

「黒山と燕国を生かす代わりに、俺の命を曹操へ差し出した」

 

「そんな……」

 

「駄目です!」

 

「頭領だけを犠牲にするなんて!」

 

時雨は眉をひそめた。

 

「勘違いするな」

 

彼らを睨む眼差しに、かつての鋭さが戻る。

 

「犠牲になったつもりはない」

 

「俺が選んだ」

 

その一言で、誰も口を挟めなくなった。

 

時雨は黒山の旗を見上げる。

 

風を受け、大きくなびく黒い旗。

 

何度も戦場を駆けた。

 

何度も民を守った。

 

時には奪い、時には殺し、生き延びるためなら何でもした。

 

その旗が、今日で役目を終える。

 

「降ろせ」

 

兵たちは動けなかった。

 

「聞こえなかったか」

 

時雨の声が、さらに低くなる。

 

「黒山の旗を降ろせ」

 

やがて、一人の老人が旗を支える縄へ手をかけた。

 

ゆっくりと縄が引かれる。

 

黒い旗が下がっていく。

 

山頂。

 

砦。

 

物見櫓。

 

次々と黒山の旗が降ろされる。

 

代わって、魏の旗が掲げられていく。

 

それは敗北の光景だった。

 

燕国が消える瞬間。

 

百万の黒山賊が、歴史から姿を消す瞬間。

 

だが同時に、百万人が明日を得た瞬間でもあった。

 

時雨は最後の旗が降りるまで、その場を動かなかった。

 

誰かが泣いている。

 

誰かが悔しそうに地面を殴っている。

 

それでも時雨は慰めなかった。

 

国が消える痛みを、無理に消す必要はない。

 

悲しみも怒りも、そのまま抱えて生きればいい。

 

生きてさえいれば、いつか別の何かへ変わる。

 

すべての旗が降ろされた後、時雨は背を向けた。

 

「頭領!」

 

呼び止める声が響く。

 

時雨は足を止める。

 

だが振り向かなかった。

 

「もう頭領じゃない」

 

「では、何とお呼びすれば……」

 

時雨は少し考えた。

 

賊の頭領ではない。

 

燕国の王でもない。

 

自由な狼ですらない。

 

今の自分は、曹操が手に入れた一人の男。

 

「張燕でいい」

 

それだけを残し、時雨は歩き出した。

 

背後から、無数の声が響いた。

 

「頭領!」

 

「ありがとうございました!」

 

「俺たちを生かしてくれて、ありがとうございました!」

 

時雨は振り返らない。

 

代わりに右手を上げた。

 

別れの言葉は口にしなかった。

 

それを言えば、本当に黒山とのすべてが終わってしまう気がしたからだ。

 

それでも足は止めない。

 

黒山を背にし、魏軍の陣へ戻っていく。

 

その先では、曹操が待っていた。

 

魏の兵たちを従え、腕を組みながら時雨を見つめている。

 

「終わった?」

 

「ああ」

 

「燕国は?」

 

「今、消えた」

 

「黒山賊は?」

 

「解散した」

 

曹操は時雨の顔を見た。

 

悲しみはない。

 

後悔もない。

 

ただ、何かを切り離した者だけが持つ静けさがあった。

 

曹操は腰から時雨の剣を外す。

 

そして彼へ差し出した。

 

「返してほしい?」

 

時雨は剣を見る。

 

それから曹操を見る。

 

「預けると言っただろ」

 

「そうだったわね」

 

曹操は剣を再び自分の腰へ差した。

 

「では、これは私が持っておくわ」

 

「好きにしろ」

 

「その言葉、何度目かしら」

 

「これから何度も聞くことになる」

 

「なら、聞くたびに私の好きにさせてもらうわ」

 

曹操は時雨へ背を向けた。

 

「ついてきなさい、張燕」

 

時雨はその小さな背中を見つめる。

 

かつて自分が、百万の民に見せていた背中。

 

だが今は、その背中を追う側になった。

 

「どこへ行く」

 

「魏の都へ」

 

「何をさせる気だ」

 

「そうね」

 

曹操は振り返り、妖艶に微笑んだ。

 

「まずは、お風呂に入ってもらおうかしら」

 

「は?」

 

「山と血の匂いがするもの」

 

時雨の眉間にしわが寄る。

 

「戦の話じゃないのか」

 

「戦は終わったでしょう?」

 

「俺の扱いを決める話は」

 

「すでに決まっているわ」

 

曹操は楽しそうに告げた。

 

「あなたは私のもの」

 

「それだけよ」

 

時雨は深く息を吐く。

 

黒山賊百万を相手にするよりも、この少女一人の方が面倒かもしれない。

 

そんな考えが頭をよぎった。

 

だが、不思議と嫌ではなかった。

 

時雨はゆっくりと歩き出す。

 

覇王の背中を追い、魏軍の中へ入っていく。

 

黒髪の狼。

 

百万の黒山賊を束ね、燕国を築いた男。

 

その男はこの日、国も地位も旗も失った。

 

代わりに得たのは、曹操という新たな主。

 

そして――

 

これより先、黒山の狼は魏の牙となる。

 

誰にも屈しなかった張燕を手に入れた覇王は、まだ知らない。

 

この男が、いずれ魏国そのものを大きく変える存在になることを。

 

時雨もまた知らなかった。

 

曹操に差し出したはずの自分の命が、やがて彼女の天下だけではなく、その心にまで深く食い込んでいくことを。

 

夕陽の下。

 

黒山の旗が消え、魏の旗が風に揺れる。

 

その下を、曹操と時雨が並んで歩いていた。

 

二人の間には、まだ主従と呼ぶには不安定な距離がある。

 

信頼もない。

 

忠誠もない。

 

情など、なおさら存在しない。

 

けれど――

 

覇王と狼は、確かに出会った。

 

そして、もう離れることはできなかった。

 

曹操が前を向いたまま口を開く。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「一つだけ覚えておきなさい」

 

「何をだ」

 

曹操は金色の髪を風に揺らしながら、傲然と言い放った。

 

「私のものになったからには、勝手に死ぬことは許さないわ」

 

時雨は数秒だけ黙った。

 

それから、口元に不敵な笑みを浮かべる。

 

「難しい命令だな、曹操」

 

「守りなさい」

 

「努力はする」

 

「努力ではなく、絶対よ」

 

「面倒な女だ」

 

「今さら気づいたの?」

 

曹操は笑った。

 

時雨も、小さく笑った。

 

乱世の風が二人の間を通り抜ける。

 

黒山賊百万は魏へ降った。

 

燕国は魏国へ降伏した。

 

そして黒山の狼は――

 

覇王・曹操のものとなった。

 

それが、このもう一つの歴史の始まりだった。




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