【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第2話 魏都の黒き狼

外伝 第2話 魏都の黒き狼

 

 

 

 

黒山の旗が降ろされた、その翌朝。

 

地平を染める朝焼けの下を、魏軍の大部隊が東へ向かって進んでいた。

 

先頭を行くのは、深紅の旗。

 

その中央に大きく刻まれているのは、魏の文字である。

 

整然と進む騎兵。

 

一定の歩調で地面を踏みしめる歩兵。

 

荷馬車の列を守る補給部隊。

 

そして、その軍列の後方には、武器を置いたかつての黒山賊たちが続いていた。

 

彼らの多くは、魏の兵として都へ向かうわけではない。

 

近隣の郡県へ移され、農民や職人として新たな暮らしを始めることになっている。

 

ある者は畑を与えられる。

 

ある者は街道工事に携わる。

 

鍛冶の腕を持つ者は工房へ。

 

商いの経験がある者は、市場へ。

 

戦うことしか知らない若者の中で希望した者だけが、魏軍の選別を受ける。

 

百万という巨大な集団を、一度に一つの場所へ移すことなどできない。

 

そのため黒山の民は、複数の隊に分けられていた。

 

黒山に残り、魏の監督下で山を開拓する者。

 

麓の村へ移る者。

 

新天地を求めて遠くへ向かう者。

 

長い間、黒山という名の下で一つに集まっていた者たちは、少しずつ別々の道へ歩き始めていた。

 

その光景を、時雨は馬上から黙って見つめていた。

 

黒い髪が朝の風に揺れる。

 

身に着けているのは、黒山にいた頃と変わらぬ黒衣だった。

 

魏軍の鎧はまだ与えられていない。

 

腰に剣もない。

 

時雨が長年使い続けてきた剣は、前を進む曹操の腰に差されていた。

 

まるで本当に、その命ごと所有権を移したかのように。

 

「落ち着かないのか?」

 

隣から声がかかった。

 

時雨は視線だけを動かす。

 

馬を並べていたのは、夏侯淵だった。

 

長い黒髪を風になびかせながら、姿勢を崩すことなく手綱を握っている。

 

その視線は前方へ向いている。

 

だが意識の半分は、間違いなく時雨へ向けられていた。

 

監視である。

 

曹操は時雨を自らの配下に加えた。

 

しかし、それだけで魏の将たちが時雨を信用するはずはない。

 

百万の黒山賊を束ねていた男。

 

かつては燕国を名乗り、魏と敵対していた王。

 

その男が軍の中を自由に動くことを、不安に思わない方がおかしい。

 

時雨は前方へ視線を戻した。

 

「何がだ」

 

「剣がないことだ」

 

夏侯淵が答える。

 

「先ほどから、何度も腰へ手を伸ばしている」

 

時雨は無意識に腰へ触れようとしていた右手を止めた。

 

長年の癖だった。

 

危険を感じたとき。

 

考え事をするとき。

 

あるいは何もせず歩いているときでさえ、時雨の右手は剣の柄を確かめていた。

 

だが今、その場所には何もない。

 

「落ち着かないな」

 

時雨は正直に答えた。

 

「ならば、曹操様へ返していただくよう願えばよい」

 

「預けたものを返せと言うつもりはない」

 

「意地か?」

 

「約束だ」

 

時雨の答えに、夏侯淵はわずかに目を細めた。

 

「賊にも約束はあるのだな」

 

「賊だからこそだ」

 

「どういう意味だ」

 

時雨は一度、背後へ視線を向ける。

 

魏の兵に誘導されながら進む、かつての黒山の民。

 

誰もが不安そうな顔をしている。

 

それでも暴れる者はいない。

 

魏の兵も、彼らを無意味に殴ったり罵ったりしてはいなかった。

 

少なくとも今のところ、曹操は約束を守っている。

 

「法も国も頼れない奴らが、最後に頼るのは人間同士の約束だ」

 

時雨は言った。

 

「約束まで破れば、もう何も残らない」

 

夏侯淵はすぐには返答しなかった。

 

賊とは、欲望のままに奪い、気に入らなければ約束さえ反故にする者。

 

魏の多くの者が、そう考えている。

 

だが目の前の男は違う。

 

少なくとも張燕という男は、無法を自由とは呼んでいない。

 

法の外に追い出された者たちが生きるため、自分たちなりの決まりを作った。

 

その中心にあったものが、おそらく時雨の言う約束なのだろう。

 

「では」

 

夏侯淵は静かに続ける。

 

「曹操様との約束も守るのか?」

 

「守る」

 

「命が尽きるまで魏のために働くという約束を?」

 

「ああ」

 

「反乱を起こさず、曹操様へ刃を向けず、命令に従うと?」

 

時雨は横目で夏侯淵を見た。

 

「最後の一つは内容による」

 

夏侯淵の眉が動いた。

 

「お前は曹操様の配下になったのだぞ」

 

「配下になったからって、何でも言うことを聞くとは言ってない」

 

「それを忠誠とは呼ばない」

 

「忠誠を誓った覚えもない」

 

夏侯淵の手が、弓に近い位置へわずかに動く。

 

時雨はそれを見ても笑うだけだった。

 

「俺は曹操に命を預けた。それだけだ」

 

「同じことではないのか」

 

「違うな」

 

「何が違う」

 

時雨は前方を進む曹操の背中を見た。

 

金色の髪が、朝日に照らされている。

 

小柄な身体。

 

だが、その周囲だけ空気が違う。

 

誰も命じられていないのに、兵たちは彼女を中心として秩序を作っている。

 

「曹操が間違えたら止める」

 

時雨は言った。

 

「止まらなければ、無理にでも止める」

 

夏侯淵の表情が鋭くなった。

 

「それは刃を向けるという意味か」

 

「必要ならな」

 

「張燕」

 

声に殺気が混ざる。

 

だが時雨は気にした様子もなく続けた。

 

「何でも肯定するだけの奴が、主にとって一番危険だ」

 

「曹操様が間違えると?」

 

「人間だろ」

 

「曹操様は覇王だ」

 

「覇王も人間だ」

 

迷いのない返答だった。

 

夏侯淵は時雨を睨む。

 

時雨も視線を逸らさない。

 

両者の間に、言葉とは違う緊張が生まれる。

 

そのときだった。

 

前方から、大きな声が飛んできた。

 

「秋蘭!」

 

夏侯惇である。

 

彼女は馬の向きを変え、時雨たちの方へ近づいてきた。

 

「そんな奴と何を話している!」

 

「曹操様への忠誠についてだ」

 

夏侯淵が答える。

 

夏侯惇は時雨を睨みつけた。

 

「貴様、まさか忠誠を誓っていないと言ったのではあるまいな」

 

「言った」

 

「なにぃ!?」

 

夏侯惇の怒声に、近くの馬が驚いて首を振る。

 

時雨の馬も耳を伏せた。

 

「朝からうるさいな」

 

「貴様が無礼だからだ!」

 

「昨日から同じことしか言ってないぞ」

 

「貴様という奴は!」

 

夏侯惇が大剣へ手を伸ばす。

 

しかし、前方から曹操の声が響いた。

 

「春蘭」

 

たった一言。

 

それだけで夏侯惇の動きが止まった。

 

曹操は馬をゆっくりと反転させ、三人の方へ進んでくる。

 

その腰には、自らの武器と時雨の剣。

 

二本を並べて差しているため、小柄な身体には少しばかり不釣り合いだった。

 

それでも曹操は、重さなど感じていないように馬上で背筋を伸ばしていた。

 

「何を騒いでいるの?」

 

「曹操様!」

 

夏侯惇はすぐさま時雨を指差した。

 

「この男、曹操様へ忠誠を誓っていないと!」

 

曹操は時雨を見る。

 

「そうなの?」

 

「忠誠を誓えとは言われてない」

 

「私のものになるとは言ったでしょう」

 

「ああ」

 

「なら同じではなくて?」

 

「違う」

 

時雨は即答した。

 

夏侯惇の顔がさらに険しくなる。

 

しかし曹操は怒らなかった。

 

むしろ、面白そうに目を細めている。

 

「何が違うのか、説明しなさい」

 

「忠誠ってのは、相手が何をしても従うことだろ」

 

「必ずしもそうではないわ」

 

「俺にとってはそうだ」

 

時雨は曹操の腰にある剣を見る。

 

「あんたに命は預けた。魏のためにも働く。だが、あんたが百万の民を使い潰そうとしたら止める」

 

夏侯惇が大声を上げた。

 

「曹操様がそのようなことをなさるものか!」

 

「だから、例えだ」

 

「例えにしても不敬だ!」

 

時雨は夏侯惇を無視し、曹操だけを見た。

 

「間違ってると思えば、俺は反対する」

 

「命令に逆らうこともあると?」

 

「ああ」

 

「それでも私のものだと?」

 

「ああ」

 

曹操は数秒間、時雨を見つめ続けた。

 

そして突然、小さく笑い始めた。

 

「曹操様?」

 

夏侯惇が戸惑った声を出す。

 

曹操は口元へ手を当てながら、楽しそうに肩を揺らした。

 

「いいわ」

 

「よろしいのですか!?」

 

「ええ」

 

曹操は満足げに頷く。

 

「私が欲しかったのは、命令に頷くだけの人形ではないもの」

 

その言葉に、時雨がわずかに眉を動かす。

 

曹操は腰の剣を軽く叩いた。

 

「あなたの目も、頭も、牙も、すべて私のものよ」

 

「……欲張りだな」

 

「知っているでしょう?」

 

曹操は馬を時雨のすぐ隣へ寄せた。

 

肩が触れそうなほど近い。

 

「でも覚えておきなさい」

 

曹操の声が少しだけ低くなる。

 

「反対することは許すわ」

 

「なら――」

 

「けれど、最後に決めるのは私よ」

 

金色の瞳に、覇王の光が宿る。

 

「あなたがどれほど反対しようと、私が決めたことには従ってもらう」

 

「納得できなくてもか」

 

「ええ」

 

「嫌だと言ったら」

 

「鎖をつけてでも従わせるわ」

 

冗談に聞こえない。

 

曹操なら本当にする。

 

時雨はしばらく彼女を見つめ、やがて低く笑った。

 

「面白いな、曹操」

 

「何が?」

 

「俺を飼えるつもりでいるところがだ」

 

「飼うのではないわ」

 

曹操は時雨の黒髪へ手を伸ばした。

 

馬上ということもあり、その指は髪の先端へ触れるだけだった。

 

「あなたを、私の隣に置くのよ」

 

一瞬、時雨の表情から笑みが消えた。

 

配下として後ろへ置くのではない。

 

捕虜として牢へ入れるのでもない。

 

曹操は、隣と言った。

 

夏侯惇の頬が引きつる。

 

「か、曹操様! 隣というのは、その……」

 

「何か問題があるの?」

 

「大いにございます!」

 

「ならば慣れなさい」

 

「そんな無茶な!」

 

曹操は夏侯惇の訴えを軽く流し、再び前方へ馬を向けた。

 

「進軍を再開するわ」

 

「はっ!」

 

夏侯姉妹が答える。

 

曹操は数歩進んだところで、振り返らずに言った。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「私の隣へ来なさい」

 

周囲の魏兵たちが一斉に時雨を見る。

 

夏侯惇が何かを言いかける。

 

だが曹操の命令である以上、止めることはできない。

 

時雨は面倒そうに息を吐き、馬を進めた。

 

そして曹操の隣へ並ぶ。

 

かつて燕国の王として、百万の先頭に立っていた男。

 

その男が今は、魏王の隣を進んでいる。

 

深紅の魏旗。

 

黄金の覇王。

 

黒髪の狼。

 

まるで初めからそうあるべきだったかのように、二人の馬は同じ速度で進んでいった。

 

---

 

魏都・許昌。

 

中原有数の大都市であるその街は、早朝から騒然としていた。

 

西の大門から、遠征を終えた魏軍が帰還する。

 

しかも、ただ勝利しただけではない。

 

百万を数える黒山の勢力を、ほぼ戦うことなく降伏させたのだ。

 

都の住民は道の両脇へ集まり、帰還する将兵を待っていた。

 

商人。

 

職人。

 

農民。

 

子供たち。

 

楼閣の窓から顔を出す者もいれば、屋根に登って遠くを見ようとする者までいる。

 

やがて、遠くから軍旗が見えた。

 

「魏軍だ!」

 

誰かが叫ぶ。

 

歓声が巻き起こった。

 

「曹操様がお戻りになったぞ!」

 

「黒山賊を降したそうだ!」

 

「戦わずに百万を!?」

 

「さすが曹操様だ!」

 

兵たちが街へ入る。

 

住民は花びらを投げ、手を振り、家族の帰還を喜ぶ。

 

だが軍列の先頭に近い場所へ視線が集まった瞬間、歓声にわずかな戸惑いが混ざった。

 

曹操の隣。

 

見慣れない黒髪の青年が馬を進めていたからだ。

 

魏軍の鎧を着ていない。

 

腰に剣もない。

 

しかし捕虜のように縛られているわけでもない。

 

それどころか、曹操と並んでいる。

 

「誰だ、あれは」

 

「新しい将か?」

 

「まさか……」

 

噂は、軍よりも早く走る。

 

黒山の頭領。

 

燕国の王。

 

百万の黒山賊を束ねた男。

 

張燕。

 

その名を知る者たちの顔に、恐怖が浮かぶ。

 

黒山賊によって商隊を襲われた者。

 

街道を封鎖され、家族が帰らなかった者。

 

周辺の村が燕国へ吸収されたと聞いた者。

 

時雨は、魏の民にとって英雄ではない。

 

恐怖の象徴だった。

 

「張燕だ……」

 

「黒山の狼だ!」

 

「なぜ曹操様の隣にいる!」

 

「捕虜ではないのか!?」

 

歓声が少しずつ静まっていく。

 

不安と警戒の視線が、時雨へ集中する。

 

子供を自分の背後へ隠す母親。

 

道端に置いていた荷物を抱え直す商人。

 

魏兵へ助けを求めるような顔をする老人。

 

時雨はそれらを黙って受け止めていた。

 

非難されるのは当然だ。

 

実際に黒山賊は奪った。

 

すべての襲撃を時雨が命じたわけではない。

 

だが、頭領であった以上、責任がないとは言えない。

 

自分の名で行われた行為。

 

自分の旗の下で奪われた命。

 

それらを都合よく切り離す気はなかった。

 

「顔を上げなさい」

 

隣から曹操の声が飛んだ。

 

時雨は彼女を見る。

 

「下げてない」

 

「民の視線から逃げているでしょう」

 

「逃げてない」

 

「なら、まっすぐ前を見なさい」

 

時雨は一度、許昌の街並みを見渡した。

 

石で整えられた道。

 

整然と並ぶ店。

 

水路。

 

兵の詰所。

 

道端に積まれた荷物さえ、通行の邪魔にならぬよう端へ寄せられている。

 

黒山とはまったく違う世界だった。

 

人々は、自分が明日もここで暮らせると信じている。

 

市場は明日も開く。

 

税は決められた範囲で徴収される。

 

盗賊が出れば兵が来る。

 

戦になれば、城壁が守ってくれる。

 

その信頼が、街全体を形作っていた。

 

時雨には作れなかったものだ。

 

黒山の民は、時雨個人を信じていた。

 

だが許昌の民は、魏という仕組みを信じている。

 

個人が消えても、国は残る。

 

それこそが、時雨と曹操の違いだった。

 

「随分と見られてるな」

 

時雨が言った。

 

「当然でしょう」

 

曹操は前を向いたまま答える。

 

「あなたは恐れられているもの」

 

「俺を隣に置けば、あんたまで疑われるぞ」

 

「それが何?」

 

曹操は平然としていた。

 

「私があなたを隣に置くと決めた。それだけで十分よ」

 

「民が納得しなくてもか」

 

「いずれ納得させるわ」

 

「俺が?」

 

「私たちが、よ」

 

曹操の言葉に、時雨が目を細める。

 

そのとき、道の脇から声が飛んだ。

 

「曹操様!」

 

一人の男が人垣から前へ出ようとして、魏兵に止められた。

 

中年の商人だった。

 

顔には怒りが浮かんでいる。

 

「その男は黒山賊の頭領です!」

 

曹操は馬を止めた。

 

軍列も次々と停止する。

 

商人は兵に腕を掴まれながら、必死に叫んだ。

 

「私の弟は、黒山賊に殺されました!」

 

周囲が静まり返る。

 

「荷を運ぶ途中で襲われ、護衛もろとも殺された!」

 

男は時雨を睨んでいた。

 

「なぜ、そんな男が曹操様の隣にいるのです!」

 

魏兵が男を押さえようとする。

 

曹操は手を上げ、それを止めた。

 

「離しなさい」

 

「しかし曹操様」

 

「構わないわ」

 

兵が手を離す。

 

商人はその場に立ち、荒い呼吸を繰り返した。

 

曹操は馬上から静かに尋ねる。

 

「あなたの弟が襲われたのは、いつ?」

 

「二年前です」

 

「場所は?」

 

「黒山の南を通る街道です」

 

曹操は時雨を見る。

 

「心当たりは?」

 

「ない」

 

時雨は答えた。

 

商人の顔が怒りで歪む。

 

「とぼけるのか!」

 

「とぼけてない」

 

時雨は馬から降りた。

 

魏兵たちが警戒して槍へ手をかける。

 

時雨は何も持っていない両手を見せ、そのまま商人の前まで歩く。

 

「俺は全部の襲撃を把握してたわけじゃない」

 

「なら責任はないと言うのか!」

 

「違う」

 

時雨は商人の目をまっすぐに見た。

 

「黒山の名で起きたことなら、俺の責任だ」

 

その場の誰もが息を呑む。

 

「弟を返せと言われても返せない」

 

「謝って済むとも思ってない」

 

「だったら――」

 

商人の拳が震える。

 

「だったら、なぜ生きている!」

 

「曹操が死ぬことを許さなかった」

 

「曹操様のせいにするな!」

 

「してない」

 

時雨は淡々と答える。

 

「俺も、生きると決めた」

 

商人は唇を噛んだ。

 

目には涙が浮かんでいる。

 

「お前のような男が……曹操様の隣にいるなど……」

 

「そうだな」

 

時雨は否定しなかった。

 

「俺も、今のままで隣に立つ資格があるとは思ってない」

 

曹操の眉がわずかに動く。

 

時雨は続けた。

 

「だから働く」

 

「奪った分を返せるとは思ってない」

 

「だが、これから奪われるはずだった命を救うことはできる」

 

「俺にできるのは、それだけだ」

 

商人は何も言えなかった。

 

許すことなどできない。

 

時雨も許しを求めてはいない。

 

二人の間にあるものは、言葉では埋められない。

 

曹操は馬から降りると、時雨の隣へ立った。

 

「この男は、私が生かすと決めたわ」

 

民衆へ向かって、はっきりと言い放つ。

 

「黒山賊の行いを忘れろとは言わない」

 

「恨むなとも言わない」

 

「けれど、張燕は今より魏の将として働く」

 

街中へ届く、強い声だった。

 

「彼が罪から逃げようとしたなら、私が裁く」

 

「魏を裏切れば、私が斬る」

 

曹操は時雨の剣の柄へ手を置いた。

 

「しかし役目を果たす限り、この男は私が守る」

 

「異論がある者は、私に申し出なさい」

 

誰も声を上げなかった。

 

納得したわけではない。

 

曹操へ逆らえないから黙った者もいるだろう。

 

だが、覇王はそれで構わないと考えていた。

 

今日すぐに信じさせる必要はない。

 

時雨が魏のために働く姿を見せればいい。

 

戦場で勝利する。

 

民を守る。

 

反乱を鎮める。

 

失った信用は、結果によって積み上げるしかない。

 

曹操は商人へ視線を戻した。

 

「名は?」

 

「李徳と申します」

 

「李徳。あなたの弟の件は調べさせるわ」

 

男が顔を上げる。

 

「二年前に南街道で起きた襲撃。生き残った者や奪われた荷の行方も含め、可能な限り記録を探しましょう」

 

「曹操様……」

 

「ただし」

 

曹操の声が厳しくなる。

 

「復讐のため張燕を襲うことは許さない」

 

「……承知しました」

 

李徳は深く頭を下げた。

 

曹操は再び馬へ乗る。

 

時雨も自分の馬へ戻ろうとする。

 

その背中へ、李徳が声を投げた。

 

「張燕!」

 

時雨が振り返る。

 

「私は、お前を許さない!」

 

「そうか」

 

「一生だ!」

 

「ああ」

 

時雨は静かに頷いた。

 

「それでいい」

 

李徳の瞳が揺れる。

 

時雨はそれ以上何も言わず、馬へ戻った。

 

軍列が再び進み始める。

 

曹操は隣を進む時雨の横顔を見ていた。

 

「驚いたわ」

 

「何がだ」

 

「謝らないのね」

 

「許されたいわけじゃない」

 

「冷たい男」

 

「謝って気が済むのは、謝る方だけだ」

 

曹操は少し黙った。

 

時雨の言葉は正しい。

 

同時に、どこまでも不器用だった。

 

「でも」

 

曹操は小さく言う。

 

「あなたは逃げなかった」

 

「逃げる場所がないからな」

 

「私の隣があるでしょう?」

 

「自分で言うか、それ」

 

曹操は微笑んだ。

 

「ええ。何度でも言うわ」

 

二人は並んで許昌の中央通りを進む。

 

先ほどまで歓声に満ちていた街は、今は静かだった。

 

けれど、その静寂の中には、恐怖だけではない感情も混ざり始めている。

 

黒山の狼は、商人の怒りから逃げなかった。

 

責任を否定しなかった。

 

その姿を見た民の中には、わずかではあるが、別の見方を始めた者もいた。

 

賊の頭領。

 

恐ろしい男。

 

それだけではない何かがあるのかもしれない。

 

疑念は消えない。

 

だが疑念の中に、興味という小さな種が落ちた。

 

それで十分だった。

 

---

 

魏王宮。

 

許昌の中心に建つ宮殿は、黒山の砦とは比べものにならないほど巨大だった。

 

高い石壁。

 

朱色の門。

 

整えられた庭園。

 

磨かれた石畳。

 

廊下を歩く官吏や侍女たちも、無駄のない動きでそれぞれの仕事を果たしている。

 

時雨は門をくぐったところで立ち止まった。

 

「広いな」

 

「黒山より?」

 

曹操が尋ねる。

 

「山と建物を比べるな」

 

「では、あなたの王宮より?」

 

「王宮なんてなかった」

 

時雨は淡々と答えた。

 

「一番大きい砦の一室を使ってただけだ」

 

「燕王が?」

 

「寝る場所があれば十分だろ」

 

曹操は呆れたように息を吐く。

 

「あなた、本当に王としての自覚がなかったのね」

 

「王になりたかったわけじゃない」

 

「では、なぜ燕国を作ったの?」

 

時雨は少し考える。

 

「賊のままだと、畑を作っても奪われる」

 

「役人と交渉もできない」

 

「だから国って名前をつけた」

 

曹操は足を止めた。

 

「それだけ?」

 

「ああ」

 

「天下への野心は?」

 

「ない」

 

「名を歴史に残したいとは?」

 

「面倒だ」

 

「玉座に座りたいとは?」

 

「尻が痛くなるだけだろ」

 

曹操はこめかみを押さえた。

 

周囲を歩いていた侍女たちは、笑うべきか怯えるべきか分からず、視線を伏せている。

 

「あなたのような男が百万を束ねていたなんて、世の中は不思議ね」

 

「俺もそう思う」

 

「褒めていないわ」

 

「知ってる」

 

曹操は時雨を連れたまま、王宮の奥へ進んでいく。

 

夏侯姉妹。

 

荀彧。

 

郭嘉。

 

程昱。

 

許褚や典韋も後ろについてきていた。

 

時雨をどこへ連れていくのか。

 

彼の処遇がどうなるのか。

 

魏の重臣たちにとって、それは極めて重要な問題だった。

 

捕虜として牢へ入れるのか。

 

新参の将として兵舎へ送るのか。

 

監視付きの屋敷を与えるのか。

 

それとも曹操直属の親衛へ加えるのか。

 

誰もがそれぞれの予想を立てていた。

 

しかし、曹操が立ち止まった場所を見て、一同の表情が変わる。

 

そこは王宮の中でも、曹操自身が暮らす私的な区域への入口だった。

 

夏侯惇が慌てて声を上げる。

 

「曹操様!」

 

「何?」

 

「張燕を、どちらへ連れていかれるおつもりですか」

 

「私の居住区よ」

 

「それは見れば分かります!」

 

夏侯惇は時雨を指差す。

 

「なぜ、この男まで!」

 

「私のものだから」

 

あまりにも当然のように曹操は答えた。

 

時雨が眉をひそめる。

 

「俺は兵舎でいいぞ」

 

「駄目よ」

 

「なぜだ」

 

「逃げるかもしれないでしょう」

 

「逃げないと言った」

 

「あなたは私の信頼を得ていないもの」

 

時雨は曹操を見下ろした。

 

「さっきは信じるって言っただろ」

 

「あれは黒山から戻ることについてよ」

 

「細かいな」

 

「当然でしょう?」

 

曹操は時雨の黒衣の袖を掴んだ。

 

「行くわよ」

 

「どこへ」

 

「昨日言ったでしょう」

 

曹操の口元に、楽しげな笑みが浮かぶ。

 

「まずはお風呂よ」

 

その場が静まり返った。

 

時雨は曹操を見る。

 

曹操も時雨を見る。

 

夏侯惇は顔を真っ赤にして固まっている。

 

夏侯淵は何かを察したように目を閉じた。

 

荀彧の表情から血の気が引いていく。

 

郭嘉は扇で口元を隠し、肩を震わせた。

 

程昱は眠そうな顔のまま、ぽつりと呟いた。

 

「これは大変なことになりそうですねー」

 

典韋は意味が分からず首を傾げる。

 

許褚は目を輝かせていた。

 

「お風呂ですか? ボクも入ります!」

 

「季衣は駄目よ」

 

「えーっ!」

 

時雨は深く息を吐いた。

 

「一人で入る」

 

「誰が一緒に入ると言ったの?」

 

曹操が微笑む。

 

「言い方がそう聞こえた」

 

「自意識過剰ね」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

「張燕!」

 

荀彧が限界を迎えたように叫んだ。

 

「曹操様に向かって、なんという口を!」

 

時雨は面倒そうに彼女を見る。

 

「またお前か」

 

「またとは何ですか!」

 

「朝から怒ってばかりだな」

 

「誰のせいですか!」

 

曹操はそのやり取りを楽しそうに眺めていた。

 

「桂花」

 

「はい、曹操様!」

 

「張燕の身体を調べさせなさい」

 

荀彧の動きが止まる。

 

「……はい?」

 

「傷や病がないか、医師に診せるのよ」

 

「あ、ああ。そういう意味でしたか」

 

安堵したように胸を撫で下ろす。

 

しかし曹操は続けた。

 

「その後、身体を綺麗にして、髪も整えさせて」

 

「承知いたしました」

 

「服も用意しなさい」

 

「魏将の衣装を?」

 

「いいえ」

 

曹操は時雨を上から下まで見つめた。

 

まるで新しい人形の装いを考える少女のような目だった。

 

「まずは私が選ぶわ」

 

時雨の顔がわずかに引きつる。

 

「断る」

 

「許可しないわ」

 

「自分の服くらい自分で選ぶ」

 

「あなたのものは、今から私が決めると言ったでしょう」

 

「服まで含むのか」

 

「当然よ」

 

「面倒な奴に捕まったな」

 

「捕まえたのは私よ」

 

曹操は時雨の袖を引いた。

 

「ほら、行きなさい」

 

「子供扱いするな」

 

「なら素直についてきなさい」

 

「命令されると逆らいたくなる」

 

「張燕」

 

曹操の声が一段低くなる。

 

時雨は彼女を見る。

 

笑顔は消えていた。

 

覇王としての威圧が、静かに周囲へ広がっている。

 

「行きなさい」

 

短い命令。

 

時雨は数秒間黙った後、肩をすくめた。

 

「分かったよ、曹操」

 

曹操は満足そうに微笑む。

 

「それでいいの」

 

侍女たちに案内され、時雨は浴場へ向かって歩き始める。

 

その背中を見送りながら、夏侯惇が曹操へ近づいた。

 

「曹操様」

 

「何?」

 

「本当に、あの男をお傍へ置かれるのですか」

 

「ええ」

 

「危険すぎます」

 

「だからこそ、目の届く場所へ置くのよ」

 

「ですが……」

 

夏侯惇は言葉を探す。

 

時雨の実力はまだ分からない。

 

だが先日の立ち姿だけでも、並の武人でないことは理解できる。

 

しかも頭脳まである。

 

百万を束ね、戦わずして降伏を決断した男。

 

敵として危険だった者は、味方になったからといって急に安全になるわけではない。

 

夏侯淵が静かに言った。

 

「姉者の懸念はもっともです」

 

曹操は二人を見る。

 

「秋蘭も反対?」

 

「反対とまでは申しません」

 

「では?」

 

「張燕は曹操様へ忠誠を誓っておりません」

 

夏侯淵は道中での会話を説明した。

 

間違っていると思えば反対する。

 

場合によっては、力ずくでも止める。

 

その言葉を聞いた夏侯惇の顔が険しくなる。

 

だが曹操は、少しも驚かなかった。

 

「知っているわ」

 

「ご存じで?」

 

「さっき本人から聞いたでしょう?」

 

「それでも、お傍へ?」

 

「ええ」

 

曹操は時雨が消えた廊下の先を見つめた。

 

「忠誠だけなら、すでにあなたたちから十分にもらっているもの」

 

夏侯姉妹は黙る。

 

「私は、私にないものを持つ者が欲しい」

 

曹操は静かに続ける。

 

「私が進みすぎたとき、道が違うと言える者」

 

「私を恐れずに反対できる者」

 

「それでも最後には、私と共に歩く者」

 

「それが張燕だと?」

 

夏侯淵が尋ねる。

 

「まだ分からないわ」

 

曹操は微笑んだ。

 

「だから確かめるのよ」

 

「どうやってです?」

 

「簡単よ」

 

曹操の手が、腰に差した時雨の剣へ触れる。

 

「私から逃げられなくなるまで、傍に置くの」

 

夏侯惇は何か不穏なものを感じたように眉をひそめた。

 

「曹操様……」

 

「何?」

 

「張燕を将として欲しておられるのですよね?」

 

曹操はすぐには答えなかった。

 

代わりに、時雨の剣の柄を指で撫でる。

 

「もちろんよ」

 

その口元に浮かんだ微笑みを見て、夏侯姉妹は揃って不安を覚えた。

 

将として。

 

知略を持つ者として。

 

魏を勝利へ導く牙として。

 

曹操が時雨を欲していることに、嘘はない。

 

だが、それだけではない。

 

覇王の目には、国や兵を欲する時とは異なる熱が宿っていた。

 

---

 

王宮の浴場。

 

白い湯気が天井へ立ち上っている。

 

石造りの広い浴槽。

 

香草を混ぜた湯。

 

黒山では到底考えられなかったほど贅沢な設備だった。

 

時雨は浴場の入口で、腕を組みながら立っていた。

 

「脱いでください」

 

侍女が言った。

 

「自分でできる」

 

「お手伝いするよう、曹操様より命じられております」

 

「必要ない」

 

「ですが」

 

「出ていけ」

 

時雨が睨むと、若い侍女たちは肩を震わせた。

 

黒山の狼。

 

恐ろしい賊の頭領。

 

その噂を聞いているのだろう。

 

時雨は小さく息を吐く。

 

「何もしない」

 

「ただ、一人で入りたいだけだ」

 

侍女たちは顔を見合わせた。

 

やがて年長の侍女が一歩前へ出る。

 

「では、外でお待ちしております」

 

「ああ」

 

「お着替えはこちらへ置かせていただきます」

 

台の上には、丁寧に畳まれた衣服が置かれていた。

 

深い紺色を基調とした上衣。

 

黒い帯。

 

銀色の刺繍。

 

魏の正式な将軍の衣装とは違う。

 

かといって、捕虜の着る粗末な服でもない。

 

曹操が時雨のためだけに選ばせたものなのだろう。

 

時雨はそれを一瞥し、眉をひそめた。

 

「派手だな」

 

「曹操様がお選びになりました」

 

「やっぱりか」

 

侍女たちが退出する。

 

扉が閉じられた後、時雨はようやく黒衣を脱いだ。

 

布の下から現れた身体には、無数の傷が刻まれていた。

 

刀傷。

 

槍による刺し傷。

 

矢が掠めた痕。

 

火傷。

 

古い傷の上に、新しい傷が重なっている。

 

王として後方から命令していただけの身体ではない。

 

常に先頭へ立ち、自ら剣を振るってきた者の身体だ。

 

時雨は浴槽へ向かう前に、壁に掛けられた鏡を見た。

 

黒い髪。

 

鋭い目。

 

傷だらけの身体。

 

剣のない腰。

 

そこに映る男は、昨日までの自分とは違って見えた。

 

燕国の王ではない。

 

黒山賊の頭領でもない。

 

それでは、今の自分は何者なのか。

 

魏将。

 

曹操の配下。

 

曹操のもの。

 

最後の言葉だけが妙に重く残る。

 

「……馬鹿らしい」

 

呟き、湯へ身体を沈める。

 

温かさが全身を包んだ。

 

傷のいくつかが滲み、わずかな痛みを伝えてくる。

 

黒山では、身体を洗うといえば川か、桶に汲んだ水だった。

 

湯へ浸かることなど滅多にない。

 

最初こそ落ち着かなかったが、少しすると身体から力が抜けていった。

 

目を閉じる。

 

静かだった。

 

兵の声もない。

 

剣戟の音もない。

 

民から判断を求められることもない。

 

明日の食料を考える必要もない。

 

この静けさに安堵する自分が、時雨には少し腹立たしかった。

 

国を失った翌日だというのに。

 

百万の民と別れたばかりだというのに。

 

肩の荷が下りたと感じている。

 

「最低だな」

 

時雨は自嘲する。

 

だが、それが本音だった。

 

黒山へ集う者が増えるたび、責任は重くなった。

 

一万が十万になり。

 

十万が五十万になり。

 

気づけば、百万もの命が時雨の判断一つに左右されていた。

 

誰を生かす。

 

誰を見捨てる。

 

どの村から食料を奪う。

 

どの軍と戦う。

 

どの土地を守る。

 

眠る前も、目を覚ました後も、頭から離れなかった。

 

自分が間違えれば、数千が死ぬ。

 

数万が飢える。

 

そんな日々が終わった。

 

これから百万の民を背負うのは、曹操だ。

 

その事実に安堵している。

 

だからこそ、時雨は自分を最低だと思った。

 

「何を難しい顔をしているの?」

 

突然、背後から声がした。

 

時雨は目を開ける。

 

浴場の入口に、曹操が立っていた。

 

「……なぜいる」

 

「私の王宮だからよ」

 

曹操は当然のように答える。

 

「出ていけ」

 

「嫌よ」

 

「俺は今、風呂に入ってる」

 

「見れば分かるわ」

 

曹操の視線が、湯の中の時雨へ向けられる。

 

時雨は無言で睨んだ。

 

曹操はまったく怯まない。

 

それどころか、興味深そうに彼の上半身を眺めている。

 

「随分と傷が多いのね」

 

「見るな」

 

「私のものを見るのに、許可が必要なの?」

 

「必要だ」

 

「そう」

 

曹操は浴場の内側へ一歩入る。

 

時雨の目が細くなった。

 

「本当に出ていけ」

 

「着替えを確認しに来ただけよ」

 

「外で待て」

 

「嫌」

 

「曹操」

 

「何?」

 

「俺が剣を持ってたら、今頃抜いてるぞ」

 

曹操は腰へ手を置いた。

 

そこには時雨の剣がある。

 

「だから私が持っているのでしょう?」

 

「……最初からこれが目的か」

 

「何のことかしら」

 

曹操は楽しそうに笑う。

 

時雨は深くため息をついた。

 

百万の黒山賊を率いるよりも、この女一人を追い出す方が難しい。

 

本気でそう思い始めていた。

 

「それで」

 

曹操は浴槽の縁まで歩み寄る。

 

「何を考えていたの?」

 

「何も」

 

「嘘ね」

 

「なぜ分かる」

 

「あなたは何も考えていないとき、もっと人相が悪いもの」

 

「初対面から一日しか経ってないだろ」

 

「一日あれば十分よ」

 

曹操は浴槽の縁へ腰を下ろした。

 

衣の裾が湯気に揺れる。

 

「黒山のこと?」

 

時雨は答えなかった。

 

沈黙が肯定であることを、曹操は理解した。

 

「心配しなくても、約束は守るわ」

 

「分かってる」

 

「なら、なぜそんな顔を?」

 

時雨は天井を見上げた。

 

「楽になったと思った」

 

曹操の目がわずかに細くなる。

 

「国を失って、民をあんたに預けて」

 

「肩の荷が下りたと思った」

 

「それが嫌なの?」

 

「ああ」

 

「なぜ?」

 

時雨は水面へ視線を落とす。

 

「自分だけ逃げたみたいだからな」

 

曹操はしばらく何も言わなかった。

 

時雨の言葉を、ゆっくりと噛み砕くように聞いている。

 

そして小さく息を吐いた。

 

「愚かね」

 

「ああ」

 

「そうではないわ」

 

曹操は時雨の濡れた黒髪へ手を伸ばした。

 

時雨が避けようとするより早く、細い指が一房を掬い上げる。

 

「一人で百万を背負い続けることの方が愚かだと言っているの」

 

「俺が始めたことだ」

 

「だから最後まで一人で背負うべきだと?」

 

「ああ」

 

「傲慢ね」

 

時雨が曹操を見る。

 

「何だと」

 

「百万の民は、あなたの所有物ではないわ」

 

曹操の声は静かだった。

 

「彼らには彼らの人生がある」

 

「あなたに救われた者もいれば、あなたに従うことで生きる道を得た者もいる」

 

「けれど、いつまでもあなた一人に守られなければ生きられない者ではない」

 

時雨は何も言わない。

 

曹操は黒髪を指先から離す。

 

「あなたが手を放したからといって、彼らが終わるわけではない」

 

「これからは魏の民として、自分の足で生きていく」

 

「その道を作ったのは、あなたでしょう?」

 

「……降伏しただけだ」

 

「違うわ」

 

曹操は即座に否定する。

 

「戦って百万を死なせる道ではなく、生かす道を選んだ」

 

「王として、最後の役目を果たしたのよ」

 

「王じゃない」

 

「では頭領としてでもいいわ」

 

曹操は少しだけ微笑む。

 

「あなたは逃げたのではない」

 

「役目を、私へ渡したの」

 

「だから今度は、私が背負う」

 

その言葉に、時雨の瞳がわずかに揺れた。

 

「簡単に言うな」

 

「簡単ではないわ」

 

曹操は立ち上がる。

 

「百万が増えたところで、私の目指す天下は変わらない」

 

「すべての民を背負う覚悟がなければ、初めから覇王など名乗っていないもの」

 

小柄な身体。

 

それでも、その背中は大きく見えた。

 

時雨が背負っていた百万よりも多く。

 

いずれは大陸すべての民を背負うつもりでいる。

 

それを誇張でも虚勢でもなく、当然の責務として語っている。

 

時雨は初めて、曹操という少女の底が見えないと感じた。

 

戦略。

 

軍事。

 

政治。

 

それだけではない。

 

彼女は、自分より遥かに大きなものを見ている。

 

「だから」

 

曹操は振り返った。

 

「あなたはもう、少しくらい楽になりなさい」

 

「俺にそう命令するのか」

 

「ええ」

 

曹操は微笑んだ。

 

「あなたは私のものだもの」

 

時雨はしばらく彼女を見つめる。

 

やがて、湯へ背を預けた。

 

「……好きにしろ」

 

曹操の笑みが深くなる。

 

「ええ。そうさせてもらうわ」

 

曹操は浴場の出口へ向かう。

 

扉の前で足を止め、肩越しに言った。

 

「着替えたら私の部屋へ来なさい」

 

「断る」

 

「命令よ」

 

「何の用だ」

 

「あなたの今後について話すの」

 

「軍議室でいいだろ」

 

「私の部屋がいいの」

 

「なぜだ」

 

曹操は少し考える素振りを見せた後、楽しそうに答えた。

 

「あなたが、どんな顔で私のものになるのか、ゆっくり見たいから」

 

時雨は浴槽の水を掴み、曹操へ投げつけた。

 

曹操は軽やかに身をかわす。

 

水は扉に当たり、音を立てて弾けた。

 

「下品ね」

 

「出ていけ」

 

「待っているわ、張燕」

 

笑い声を残し、曹操は浴場を去っていった。

 

扉が閉じる。

 

再び静寂が戻る。

 

時雨は濡れた前髪を掻き上げ、深く息を吐いた。

 

「……本当に面倒な女だ」

 

そう呟きながらも、その口元には、ごくわずかな笑みが浮かんでいた。

 

黒山の狼は、まだ知らない。

 

この日を境に、曹操の私室へ呼び出されることが日常になることを。

 

軍議。

 

食事。

 

政務。

 

時には、何の用事もない夜でさえ。

 

覇王は欲したものを、決して遠くへ置かない。

 

そして曹操もまた、まだ知らなかった。

 

自分が手に入れた黒き狼が、命令に従うだけの獣ではないことを。

 

牙を剥き。

 

言葉をぶつけ。

 

何度も彼女の覇道を問いながら。

 

それでも最後には、誰よりも近い場所で共に歩く男になることを。

 

魏都に入った黒き狼の最初の一日は、まだ始まったばかりだった。次は後編として、曹操の私室での処遇決定、魏の将たちとの正式な顔合わせ、時雨へ与えられる最初の役目を描きます。




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次の作品の主人公とルートは誰がいい?

  • 高順呂布ルート(ヒロイン恋、霞)
  • 朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
  • 周倉関羽ルート(ヒロイン愛紗)
  • 孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)
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