【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第3話 魏の牙

外伝 第3話 魏の牙

 

 

 

 

夜の許昌は、静かだった。

 

黒山の夜とは、まるで違う。

 

山では風が木々を揺らし、獣の鳴き声が谷間を渡り、遠くの見張り台から兵の怒鳴り声が聞こえていた。

 

眠りの中でさえ、誰かが剣を握っていた。

 

食料を奪おうとする者。

 

砦を襲おうとする官軍。

 

内部で争いを起こす頭領。

 

黒山において、完全な静寂とは不吉の前触れだった。

 

何かが息を潜めている。

 

そう疑うのが、時雨の習慣となっていた。

 

しかし許昌の夜は違う。

 

街路では一定の間隔で松明が燃え、夜回りの兵が規則正しく歩いている。

 

城壁の上から聞こえる合図も、決められた時刻に一度だけ。

 

突然の叫び声もない。

 

争う音もない。

 

王宮の中に至っては、風が庭木の葉を揺らす音まで聞き取れるほどだった。

 

整えられた静けさ。

 

守られている者たちの静けさ。

 

その中にあって、時雨だけが眠れずにいた。

 

「……落ち着かねぇな」

 

寝台の上へ横たわりながら、時雨は低く呟いた。

 

曹操によって与えられた部屋は、必要以上に広かった。

 

磨かれた床。

 

細かな刺繍が施された寝具。

 

香を焚くための小さな炉。

 

壁際には衣服を収める棚があり、机の上には水差しまで用意されている。

 

黒山で使っていた部屋の三倍はある。

 

にもかかわらず、時雨は窮屈さを感じていた。

 

牢へ入れられているわけではない。

 

扉に鍵もかかっていない。

 

窓には鉄格子すらない。

 

部屋の外に兵が立っているものの、監視というより曹操の居住区を守る護衛なのだろう。

 

自由に出歩くことも禁じられてはいない。

 

それでも、時雨には見えない鎖が身体へ巻きついているように感じられた。

 

自分の剣がないからか。

 

黒山の土の匂いがないからか。

 

それとも、百万の命を背負わなくてよくなったことに、いまだ身体が慣れていないからか。

 

時雨は寝台から起き上がった。

 

曹操が用意させた紺色の衣が、月明かりの中で揺れる。

 

銀の刺繍が入っているため、黒山で着ていた服より遥かに目立った。

 

動きを妨げるほどではない。

 

布の質も悪くない。

 

むしろ、軽くて丈夫だった。

 

だからこそ腹立たしい。

 

曹操が見た目だけで選んだのではなく、時雨が戦うことまで考えて用意した服だと分かるからだ。

 

「俺を何だと思ってやがる」

 

呟きながら部屋の隅を見る。

 

そこには武器を置くための台があった。

 

しかし、何も載っていない。

 

時雨の剣は、今も曹操が持っている。

 

丸腰で眠るなど、幼い頃以来だった。

 

右手が腰へ伸びる。

 

何もない。

 

それを確かめるたびに、胸の奥がざわつく。

 

時雨は立ち上がり、窓を開いた。

 

夜風が黒髪を揺らす。

 

庭園には池があり、月が水面に映っている。

 

山では見たことのないほど整えられた景色だった。

 

石の一つ。

 

木の枝の一本。

 

池の形に至るまで、人の手によって配置されている。

 

美しい。

 

だが、時雨にはやはり落ち着かなかった。

 

「眠れないの?」

 

背後から声がした。

 

時雨は驚かなかった。

 

気配には気づいていた。

 

ただ、扉を叩く音が聞こえなかっただけだ。

 

「勝手に入るな、曹操」

 

振り返ると、寝間着姿の曹操が立っていた。

 

昼間の豪華な衣装とは違う。

 

薄い布を重ねた簡素な装い。

 

黄金の髪もほどかれ、肩から背へ流れている。

 

覇王というより、年相応の少女に見えた。

 

もっとも、その表情に浮かぶ自信だけは昼間と変わらない。

 

「ここは私の王宮よ」

 

「だから何だ」

 

「私がどの部屋へ入ろうと、私の自由でしょう?」

 

「今は俺の部屋じゃないのか」

 

「私があなたに貸している部屋よ」

 

「言い方が細かいな」

 

曹操は扉を閉め、部屋の中へ入ってきた。

 

その手には酒壺がある。

 

「飲む?」

 

「酒か」

 

「ええ」

 

「毒は?」

 

曹操は呆れたように眉を上げた。

 

「あなたを毒殺するつもりなら、黒山で降伏を受け入れた意味がないでしょう」

 

「俺を殺すつもりがなくても、弱らせるつもりはあるかもしれない」

 

「警戒心が強いのね」

 

「賊だからな」

 

曹操は机の上へ酒壺を置くと、二つの杯に酒を注いだ。

 

そして片方を自分で口へ運ぶ。

 

「これでいい?」

 

「毒見を頼んだ覚えはない」

 

「面倒な男」

 

「今さら気づいたのか」

 

時雨は曹操と同じ言葉を返し、杯を受け取った。

 

香りを確かめる。

 

黒山で飲んでいた濁り酒とは違い、澄んだ甘い香りがした。

 

一口含む。

 

喉を通る感触は滑らかで、後から強い熱が広がる。

 

「うまいな」

 

素直な感想だった。

 

曹操は満足そうに微笑む。

 

「当然よ。私が選んだ酒だもの」

 

「酒まで自分の手柄にするのか」

 

「私の蔵にあるのだから、私の手柄でしょう?」

 

「造ったのは別の奴だろ」

 

「細かい男ね」

 

「先に細かいことを言ったのはお前だ」

 

曹操は時雨の向かいへ座る。

 

時雨も椅子を引いた。

 

夜中。

 

二人きりの部屋。

 

主君と臣下が向き合いながら酒を飲む。

 

魏へ降伏する以前には、想像もしていなかった光景だった。

 

曹操は杯を傾けながら、窓の外を見る。

 

「眠れない理由は、剣がないから?」

 

「それもある」

 

「返してほしい?」

 

「あんたに預けた」

 

「だから、気が変わったかと尋ねているの」

 

「変わらない」

 

時雨は酒を飲み干した。

 

曹操が新たな酒を注ぐ。

 

「頑固ね」

 

「簡単に変わる約束なら、最初からする意味がない」

 

「そういうところは嫌いではないわ」

 

「他は嫌いなのか」

 

「どうかしら」

 

曹操は意味深に笑う。

 

「少なくとも、あなたの口の悪さは改善する必要があるわね」

 

「断る」

 

「即答しないで」

 

「曹操を曹操と呼ぶことも許された。敬語を使えとも言われてない」

 

「言われなければ何をしてもよいと?」

 

「法に触れない範囲ならな」

 

「では、今から命じましょうか」

 

曹操が身を乗り出す。

 

「私をもっと敬いなさい」

 

「嫌だ」

 

「命令よ」

 

「曖昧すぎる」

 

「では毎朝、私へ跪いて忠誠を誓いなさい」

 

「もっと嫌だ」

 

曹操の眉がわずかに動く。

 

時雨はそれを見て、低く笑った。

 

「俺を服従させたいのか」

 

「あなたはすでに私のものよ」

 

「それと服従は別だろ」

 

「別ではないわ」

 

「なら俺は、あんたのものじゃないことになるな」

 

曹操の笑みが消えた。

 

「今、何と言ったの?」

 

部屋の空気が変わる。

 

先ほどまで年相応の少女に見えていた曹操の姿に、覇王の威圧が戻る。

 

蒼色の瞳が鋭く時雨を射抜いた。

 

並の者なら、その視線だけで床へ膝をついただろう。

 

だが時雨は杯を机に置き、まっすぐ見返した。

 

「俺は服従してない」

 

「……私との約束を忘れたの?」

 

「忘れてない」

 

「あなたのすべてを私が手に入れる。そう言ったはずよ」

 

「ああ」

 

時雨は頷く。

 

「命も、剣も、頭も使え。だが俺の意思まで消せとは言われてない」

 

「あなたの意思も、私のものよ」

 

「なら好きに使え」

 

時雨は自分の胸を指で叩いた。

 

「だが、消すな」

 

曹操は黙った。

 

時雨の言葉は反抗的だった。

 

主従として考えれば、決して褒められるものではない。

 

だが、その瞳には裏切りの気配がない。

 

曹操を侮っているわけでもなかった。

 

時雨は自分自身を残したまま、曹操に仕えようとしている。

 

曹操が手に入れたのは、飼い慣らされた犬ではない。

 

自ら牙を持ち続ける狼なのだ。

 

牙を抜けば、時雨を手に入れた意味がなくなる。

 

曹操はそれを理解していた。

 

それでも、すべてを欲する本能が納得できずにいる。

 

「本当に、扱いにくい男ね」

 

やがて曹操は息を吐いた。

 

威圧が消える。

 

「後悔したか」

 

「まさか」

 

曹操は即座に答えた。

 

「扱いにくいものほど、手に入れる価値があるでしょう?」

 

「変わった趣味だな」

 

「あなたに言われたくないわ」

 

「俺は普通だ」

 

「自分を普通だと思っているところが、一番おかしいのよ」

 

時雨は二杯目の酒を飲む。

 

曹操も杯を空にした。

 

しばらく、二人は無言で酒を飲んだ。

 

気まずい沈黙ではない。

 

互いの距離を測るような静けさだった。

 

やがて時雨が口を開く。

 

「何の用だ」

 

「何が?」

 

「眠れない俺に酒を持ってきただけじゃないだろ」

 

曹操は杯を止めた。

 

「どうしてそう思うの?」

 

「覇王は暇じゃない」

 

「夜くらい暇になるわ」

 

「嘘だな」

 

「言い切るのね」

 

「机に書簡が積んであった」

 

昼間、曹操の私室近くを通った際、扉の隙間から大量の竹簡が見えた。

 

黒山を魏へ組み込むための処理。

 

百万の民を分散させるための土地の確保。

 

兵の選別。

 

食料の手配。

 

降伏を受け入れたことで、曹操の仕事は増えているはずだった。

 

時雨はそれを分かった上で尋ねている。

 

曹操は諦めたように微笑んだ。

 

「明朝、軍議を開くわ」

 

「俺も出るのか」

 

「ええ」

 

「魏へ来たばかりの賊を?」

 

「あなたはもう賊ではないわ」

 

「元賊だ」

 

「魏将よ」

 

「任命された覚えはあるが、兵も官位も与えられてない」

 

「明日、与える予定よ」

 

時雨の目が細くなる。

 

「何をさせる」

 

「それも明日、話すわ」

 

「今は言えないのか」

 

「言わないの」

 

曹操は酒壺へ蓋をした。

 

「あなたが何も知らない状態で、軍議をどう見るのか確かめたい」

 

「試すつもりか」

 

「当然でしょう?」

 

曹操は椅子から立ち上がる。

 

「あなたは百万を束ねた男」

 

「それだけの力があると、自分では思ってない」

 

「謙遜?」

 

「事実だ。百万を思い通りに動かせたことなんて一度もない」

 

「それでも、最後にはあなたの命令で武器を捨てた」

 

曹操は時雨の後ろへ回り、黒髪へ指を触れた。

 

湯上がりの髪は、まだ完全には乾いていない。

 

時雨は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「触るな」

 

「綺麗な黒ね」

 

「話を逸らすな」

 

「逸らしていないわ」

 

曹操は指先で一房を掬い上げる。

 

「百万もの人間が従った理由を、あなた自身が理解していないことが気になっただけ」

 

「俺が一番強かったからだ」

 

「それだけでは人は国を預けない」

 

「食わせていたからだ」

 

「それだけでもないでしょう」

 

時雨は黙る。

 

黒山の民が、なぜ自分へ従ったのか。

 

深く考えたことはなかった。

 

力で頭領を倒し、いつの間にか周囲へ人が集まっていた。

 

追い払う理由もなかったため受け入れた。

 

食料が足りなくなれば奪った。

 

危険が迫れば戦った。

 

住む場所が必要になれば、砦を築いた。

 

国を名乗る必要が生まれたため、燕国を作った。

 

すべては目の前の問題を解決してきた結果だった。

 

王になろうとしたわけではない。

 

百万を率いようとしたわけでもない。

 

気づけば、そうなっていただけだ。

 

曹操は時雨の髪から手を離す。

 

「あなたは、自分の価値を知らなさすぎる」

 

「高く買いすぎてるんじゃないか」

 

「それを決めるのは私よ」

 

「俺自身の価値だぞ」

 

「あなたは私のものなのだから、値を決めるのも私でしょう?」

 

「無茶苦茶だな」

 

「覇王とはそういうものよ」

 

曹操は扉へ向かう。

 

その背中へ、時雨が声を投げた。

 

「曹操」

 

「何?」

 

「百万の移住は、本当にできるのか」

 

曹操は足を止めた。

 

振り返らない。

 

「不安?」

 

「現実の話だ」

 

時雨は窓の外へ視線を向ける。

 

「百万を散らせば、それぞれの土地で問題が起きる」

 

「元黒山賊というだけで嫌われる奴もいる」

 

「土地を与えれば、前から住んでいた民と揉める」

 

「兵に入れた奴が、魏軍の規律に従えるとも限らない」

 

「すぐには無理でしょうね」

 

曹操は静かに答える。

 

「争いも起きる」

 

「逃げ出す者もいる」

 

「再び賊へ戻ろうとする者も出るでしょう」

 

「なら――」

 

「それでもやるわ」

 

曹操は振り返った。

 

「あなたとの約束だからではない」

 

その言葉に、時雨の眉が動く。

 

「黒山の民は、すでに魏の民よ」

 

「ならば生かし、働かせ、国の力に変える」

 

「それが私の役目」

 

曹操は断言した。

 

「時間はかかるでしょう」

 

「失敗もする」

 

「けれど、百万を見捨てるよりは遥かに価値がある」

 

時雨はしばらく曹操を見つめた。

 

華奢な少女の身体。

 

だが、その言葉は山よりも重い。

 

百万という数に怯えていない。

 

むしろ、新たに得た力として見ている。

 

この女なら、本当にやるかもしれない。

 

いや。

 

やるのだろう。

 

できるかどうかではない。

 

できるまで続ける。

 

それが曹操という覇王なのだ。

 

「分かった」

 

時雨は短く言った。

 

曹操が僅かに目を細める。

 

「何が?」

 

「明日の軍議に出る」

 

「初めから命令しているでしょう」

 

「それと」

 

時雨は少し間を置く。

 

「百万を任せる」

 

曹操の表情から、一瞬だけ覇王の笑みが消えた。

 

それは初めて時雨から向けられた、明確な信頼だった。

 

忠誠ではない。

 

服従でもない。

 

けれど、時雨が最も大切にしてきた百万の命を、改めて曹操へ預けた。

 

曹操はゆっくりと微笑む。

 

今度の笑みには、勝ち誇った色がなかった。

 

「任されました」

 

穏やかな声だった。

 

時雨は少しだけ驚く。

 

曹操がそのような言い方をするとは思っていなかった。

 

だが、何も言わなかった。

 

曹操は扉を開ける。

 

「明日は日の出と共に起きなさい」

 

「早いな」

 

「将として当然よ」

 

「俺は朝が弱い」

 

「起きなければ、春蘭を迎えに寄越すわ」

 

時雨の顔が露骨に曇る。

 

「自分で起きる」

 

「賢明ね」

 

曹操は満足げに部屋を出ていった。

 

扉が閉じる。

 

時雨は再び窓の外を見る。

 

許昌の夜。

 

守られた静けさ。

 

先ほどまで落ち着かなかったはずなのに、今は少しだけ違って感じられた。

 

この街を作った女へ、百万を預けた。

 

自分の剣も預けた。

 

命も預けた。

 

それでも意思だけは手放していない。

 

曹操も、完全には納得していないだろう。

 

だが今は、それでいい。

 

主従とは、初めから完成しているものではない。

 

互いに譲れないものをぶつけながら、形を作っていく。

 

賊として生きてきた時雨にも、その程度のことは分かった。

 

時雨は寝台へ戻る。

 

目を閉じると、今度は自然に眠気が訪れた。

 

剣はない。

 

山もない。

 

守るべき百万も、すぐ傍にはいない。

 

それでも、明日やるべきことがある。

 

その事実だけで、人間は眠れるらしい。

 

---

 

翌朝。

 

まだ空が白み始めたばかりの頃。

 

魏王宮の一角から、激しい音が響いた。

 

「起きろ、張燕!」

 

扉が勢いよく開かれる。

 

大剣を背負った夏侯惇が、寝台へ向かって怒鳴った。

 

しかし、そこに時雨はいなかった。

 

「……何?」

 

夏侯惇は目を瞬かせる。

 

寝具は整えられていない。

 

だが、時雨の姿はない。

 

窓が開いていた。

 

夏侯惇は慌てて駆け寄る。

 

「まさか逃げたか!」

 

身を乗り出して庭を見る。

 

その瞬間、下から声が飛んできた。

 

「朝からうるさいな」

 

夏侯惇が視線を落とす。

 

庭の中央。

 

上半身だけ衣を脱いだ時雨が、片手で身体を支えながら腕立てをしていた。

 

近くには、王宮の警備兵が数人立っている。

 

全員が困惑した表情だった。

 

「何をしている!」

 

「見て分からないのか」

 

「なぜ庭で鍛錬をしている!」

 

「部屋が狭い」

 

「十分広いだろう!」

 

「剣がないから身体を動かしてる」

 

夏侯惇は窓枠へ手をかけ、庭へ飛び降りた。

 

着地と同時に土が舞う。

 

時雨は腕立てを続けたまま、呆れたように彼女を見る。

 

「窓から来るな」

 

「お前が窓から出たのだろう!」

 

「扉には兵がいた」

 

「だから何だ!」

 

「出ていこうとしたら止められた」

 

夏侯惇が警備兵を見る。

 

兵たちは顔を青くしながら答えた。

 

「も、申し訳ございません!」

 

「曹操様の居住区を勝手に歩かせるわけにはいかぬと判断しまして!」

 

「窓から出るとは思わず……!」

 

夏侯惇は額へ手を当てた。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「普通に許可を求めろ」

 

「面倒だ」

 

「貴様はそればかりだな!」

 

時雨は最後の一回を終え、立ち上がった。

 

身体には昨日見た傷が刻まれている。

 

夏侯惇は一瞬、その傷へ視線を奪われた。

 

武人である彼女には分かる。

 

どれも後ろから負ったものではない。

 

正面から敵へ向かい、生き延びた証だ。

 

腹部には深く抉られた痕がある。

 

肩には矢傷。

 

胸元には、心臓へ届いていてもおかしくない刀傷。

 

それほどの傷を負いながら、この男はまだ戦場に立っている。

 

「見るな」

 

時雨が衣を羽織る。

 

夏侯惇は我に返った。

 

「見てなどいない!」

 

「そうか」

 

「その態度は何だ!」

 

「朝から元気だなと思ってる」

 

夏侯惇のこめかみに青筋が浮かぶ。

 

「曹操様がお待ちだ!」

 

「分かってる」

 

「なら早く支度をしろ!」

 

「着替えるから出ていけ」

 

「ここは庭だぞ!」

 

近くの兵たちは、顔を伏せながら肩を震わせていた。

 

笑えば夏侯惇に怒鳴られる。

 

かといって、この光景を真顔で見続けることも難しい。

 

夏侯惇は兵たちを睨みつける。

 

「何を見ている! 持ち場へ戻れ!」

 

「はっ!」

 

兵たちは逃げるように去っていく。

 

時雨は衣の紐を結びながら、王宮の屋根を見上げた。

 

「曹操はもう起きてるのか」

 

「当然だ」

 

「いつ寝てる」

 

「曹操様は多忙なのだ!」

 

「答えになってない」

 

「お前が心配することではない!」

 

時雨は夏侯惇を見る。

 

「主の体調を気にするのは、配下の仕事じゃないのか」

 

「き、貴様に言われずとも、私が誰よりも気にかけている!」

 

「なら寝かせろ」

 

「曹操様は自ら政務をなさっているのだ!」

 

「倒れたら全部止まるだろ」

 

夏侯惇は言葉に詰まる。

 

時雨は紺色の衣を整えると、彼女の横を通り過ぎた。

 

「案内しろ」

 

「だから命令するな!」

 

「場所が分からない」

 

「最初からそう言え!」

 

二人は言い争いながら庭を出ていく。

 

その姿を廊下の柱の陰から見ていた許褚が、隣の典韋へ囁いた。

 

「仲良しだね」

 

「そうでしょうか……?」

 

典韋は不安そうに首を傾げる。

 

「春蘭様、今にも斬りかかりそうですけど」

 

「でも本当に嫌いなら、迎えに来ないと思う」

 

許褚の言葉に、典韋は少し考えた。

 

「曹操様に命じられたからでは?」

 

「あ、そっか」

 

二人が納得したところで、遠くから夏侯惇の怒声が響いた。

 

「張燕! そちらではない!」

 

「先に言え!」

 

「勝手に歩くからだ!」

 

「案内が遅い」

 

「貴様ぁ!」

 

許褚と典韋は顔を見合わせる。

 

「やっぱり仲良しだね」

 

「……そうかもしれません」

 

---

 

魏王宮・軍議の間。

 

広い室内の中央には、大陸の地図が置かれていた。

 

壁際には魏の旗。

 

将と軍師たちは、それぞれ決められた位置に立っている。

 

夏侯惇。

 

夏侯淵。

 

荀彧。

 

郭嘉。

 

程昱。

 

許褚。

 

典韋。

 

さらに各軍を預かる将校や、政務を担当する文官たちも並んでいた。

 

その最奥。

 

一段高い場所に曹操が座っている。

 

昨夜の寝間着姿とは違う。

 

豪華な衣装。

 

整えられた黄金の髪。

 

堂々と足を組み、全員を見渡していた。

 

覇王・曹操。

 

その姿を見た時雨は、昨夜自分の髪を弄っていた少女と同一人物なのかと、わずかに疑った。

 

「遅いわ」

 

曹操が言った。

 

「間に合ってるだろ」

 

時雨は軍議の間へ入りながら答える。

 

荀彧の眉が跳ね上がる。

 

「曹操様への返答として、なんという態度ですか!」

 

「朝から元気だな」

 

「誰のせいです!」

 

「桂花」

 

曹操が制する。

 

荀彧は不満そうに唇を尖らせながら、元の位置へ戻った。

 

時雨は室内を見渡す。

 

どこに立つべきか分からない。

 

誰からも指示はない。

 

壁際の空いている場所へ向かおうとすると、曹操が口を開いた。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「こちらへ来なさい」

 

曹操が示したのは、自分のすぐ右側だった。

 

魏の重臣たちがざわめく。

 

そこは曹操へ最も近い位置。

 

通常なら、夏侯惇や荀彧といった長年仕える重臣が立つ場所だ。

 

昨日降伏したばかりの男が立ってよい場所ではない。

 

時雨もそれを理解した。

 

「嫌だ」

 

軍議の間が静まり返る。

 

曹操の眉が動いた。

 

「理由を聞きましょうか」

 

「そこに立てば、まともに話ができない」

 

「どういう意味?」

 

「全員、俺の方ばかり見る」

 

時雨は室内の者たちを見渡した。

 

何人かが咄嗟に視線を逸らす。

 

「俺が曹操の隣にいることが気に入らない奴も多いだろ」

 

「それが何?」

 

「軍議の邪魔だ」

 

曹操は時雨を見つめる。

 

隣に置きたい。

 

自分の所有物であることを、全員へ見せつけたい。

 

そんな欲求は確かにあった。

 

しかし時雨の指摘も正しい。

 

今ここで重要なのは、魏の直面する問題を解決することだ。

 

曹操は小さく息を吐いた。

 

「では、好きな場所へ立ちなさい」

 

「ああ」

 

時雨は地図が最もよく見える位置へ移動した。

 

夏侯淵の斜め後ろ。

 

武官と軍師の境目のような場所だった。

 

意図して選んだわけではない。

 

だが、時雨という男を表すには相応しい位置だった。

 

曹操が全員を見渡す。

 

「始めるわ」

 

室内の空気が引き締まった。

 

荀彧が前へ出る。

 

「まず、黒山および旧燕国領の現状についてご報告いたします」

 

地図の北部を指す。

 

「降伏した民の登録を開始しておりますが、数があまりにも多く、完了には相当の日数が必要です」

 

「食料は?」

 

曹操が尋ねる。

 

「周辺の倉のみでは、二月分にも届きません」

 

「南方の倉から運びなさい」

 

「すでに手配しております。ただし、街道の整備が不十分です」

 

「黒山の者を使え」

 

時雨が口を挟んだ。

 

室内の視線が一斉に集まる。

 

荀彧が不快そうに眉をひそめた。

 

「発言の許可は出ていません」

 

「軍議だろ」

 

「序列があります!」

 

「なら先に全部話せ。終わるまで黙ってる」

 

「その態度が――」

 

「桂花」

 

再び曹操が止める。

 

「張燕、続けなさい」

 

時雨は地図へ近づいた。

 

「南から食料を運ぶなら、この街道を使うつもりだろ」

 

一本の道を指でなぞる。

 

荀彧が頷く。

 

「最短ですから」

 

「荷車は通れない」

 

「調査では通行可能と――」

 

「人と馬ならな」

 

時雨は地図上の山間部を指す。

 

「この辺りは道幅が狭い。雨が降れば崩れる」

 

「大きな荷車が一台止まれば、後ろが全部詰まる」

 

「では、別の道を?」

 

夏侯淵が尋ねる。

 

「いや」

 

時雨は首を横に振った。

 

「黒山の連中に道を広げさせろ」

 

荀彧の表情が険しくなる。

 

「降伏したばかりの者たちへ強制労働をさせるつもりですか」

 

「食料を食うだけで働かせないつもりか」

 

「言い方というものがあるでしょう!」

 

「事実だ」

 

時雨は地図から目を離さない。

 

「黒山には土木に慣れた奴が多い」

 

「砦も山道も、自分たちで作ってきた」

 

「仕事を与え、対価として食料を出せ」

 

「自分たちの食料を運ぶ道なら、働く理由も分かりやすい」

 

曹操が僅かに頷く。

 

「悪くないわね」

 

荀彧も反論を止め、地図を見る。

 

感情的には気に入らない。

 

だが策そのものは合理的だった。

 

「必要な道具は?」

 

荀彧が尋ねる。

 

「黒山の砦に残ってる」

 

「数は足りるのですか」

 

「全部集めればな」

 

「責任者は誰に?」

 

時雨は少し考えた。

 

黒山にいた頃の頭領たちの顔が浮かぶ。

 

だが、特定の名は出さなかった。

 

魏はまだ彼らを信用していない。

 

名を挙げれば、その者へ過剰な警戒が向く可能性がある。

 

「各砦で普請を担当していた連中を集めろ」

 

「一人に全部任せるな」

 

「いくつかの組に分けて、魏の役人を一人ずつ付ければいい」

 

曹操は時雨の横顔を見る。

 

元配下を庇って、魏の監督を拒むかと思っていた。

 

しかし時雨は、最初から監視が必要であることを理解している。

 

黒山の者を無条件で信頼しろとは言わない。

 

疑われることまで含め、現実的な策を組み立てていた。

 

郭嘉が扇を口元へ当てる。

 

「道が完成するまで、食料が保たない可能性があります」

 

「だから先に軽い荷で運ぶ」

 

時雨が答えた。

 

「一度に大量に運ぼうとするから詰まる」

 

「馬と人で運べるだけ先に送り、最低限の量を繋げ」

 

「効率が悪いのでは?」

 

「効率より、今日食う物があるかどうかだ」

 

郭嘉の目が細くなる。

 

「なるほど」

 

軍略において、大局を見る者は多い。

 

何万の兵をどう動かすか。

 

どの城を攻めるか。

 

どの土地を奪えば有利になるか。

 

だが時雨は、常に目の前で飢えている者を基準に考える。

 

賊として、補給の乏しい山で百万を養ってきた経験。

 

それは魏の軍師たちにもないものだった。

 

曹操が荀彧へ視線を向ける。

 

「採用しなさい」

 

「はっ」

 

荀彧は不満を残しながらも頭を下げる。

 

「次の報告を」

 

夏侯淵が前へ出た。

 

「旧燕国領の西部にて、小規模な反乱の兆しがあります」

 

時雨の目が僅かに動く。

 

地図上の西。

 

黒山に近い三つの村と、一つの城。

 

「燕の降伏を認めぬ者たちが、兵を集めているとのことです」

 

「数は?」

 

曹操が尋ねる。

 

「現時点で一万ほど」

 

「少ないわね」

 

「ですが周辺には、武器を置いていない元黒山賊が複数おります。合流すれば、五万を超える可能性も」

 

室内の空気が重くなる。

 

黒山の降伏は、時雨一人の決断によって行われた。

 

多くの者は時雨へ従い、武器を置いた。

 

しかし全員が納得したわけではない。

 

燕国を守るために戦うべきだった。

 

百万いれば魏軍に勝てた。

 

時雨は曹操に脅された。

 

あるいは、時雨が自分たちを売った。

 

そう考える者がいても不思議ではなかった。

 

荀彧が曹操へ向き直る。

 

「早急に討伐軍を送るべきです」

 

「規模が拡大する前に、首謀者を捕らえなければなりません」

 

夏侯惇が大剣の柄へ手を置く。

 

「私が参ります!」

 

「一万程度、すぐに蹴散らしてご覧に入れましょう!」

 

時雨が地図を見つめたまま言った。

 

「駄目だ」

 

夏侯惇が振り向く。

 

「何だと?」

 

「あんたが行けば、反乱は十万になる」

 

「貴様、私が敗れると言いたいのか!」

 

「逆だ」

 

時雨は夏侯惇を見る。

 

「あんたなら一万を簡単に潰せる」

 

「当然だ!」

 

「だから駄目だと言ってる」

 

夏侯惇には意味が分からなかった。

 

荀彧も怪訝な表情を浮かべる。

 

曹操だけが、時雨の意図に気づいたように目を細めた。

 

「説明しなさい」

 

「反乱を起こしてる奴らは、魏に勝てると思ってるわけじゃない」

 

時雨は西部の村々を指す。

 

「燕国が消えたことを認めたくないだけだ」

 

「そこで魏の大軍が行って、一万を皆殺しにすればどうなる」

 

「魏は燕を滅ぼした敵だって証明することになる」

 

「周りで迷ってる連中も、次は自分たちが殺されると思う」

 

「そして反乱へ加わると?」

 

夏侯淵が尋ねる。

 

「ああ」

 

時雨は頷く。

 

「力で潰せば、今いる一万には勝てる」

 

「だが、その後も小さな反乱が続く」

 

「一つ潰すたびに、恨みが増える」

 

「ならば放置するのですか」

 

荀彧が鋭く問う。

 

「それこそ反乱を広げることになります」

 

「放置はしない」

 

「では、どうするつもりです」

 

時雨は地図から目を上げた。

 

「俺が行く」

 

室内が静まり返った。

 

次の瞬間、荀彧が強く机を叩く。

 

「認められません!」

 

「なぜだ」

 

「分かりきっているでしょう!」

 

荀彧の声には、明確な警戒があった。

 

「反乱を起こしているのは、元燕国の兵です」

 

「あなたが向かえば、彼らは喜んであなたの下へ集う!」

 

「五万どころか、十万、二十万となり、再び燕を名乗る可能性があります!」

 

夏侯惇も頷く。

 

「その通りだ!」

 

「貴様、自分の国を取り戻すつもりではあるまいな!」

 

「それなら昨日、降伏してない」

 

「口では何とでも言える!」

 

時雨は曹操を見る。

 

「どうする」

 

判断を委ねるような言葉。

 

しかし、その目に懇願はない。

 

信用してほしいとも言わない。

 

疑うなら疑えばいい。

 

ただ、最善の策を選べ。

 

時雨はそう言っていた。

 

曹操は椅子に座ったまま、指先で肘掛けを叩く。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

軍議の間に、小さな音が響く。

 

時雨を行かせる。

 

それは確かに危険だった。

 

反乱軍は張燕という旗を求めている可能性が高い。

 

本人が現れれば、簡単に従うだろう。

 

そのまま魏へ刃を向けることもできる。

 

百万の黒山賊すべてを再集結させることは難しくとも、数十万規模の勢力を作り直すことは不可能ではない。

 

魏にとって大きな脅威となる。

 

だが。

 

ここで時雨を行かせないなら、いつ信用するのか。

 

王宮の一室へ閉じ込め、剣を奪い、常に監視をつける。

 

それでは張燕を手に入れたとは言えない。

 

牙を抜き、鎖へ繋いだだけだ。

 

曹操が欲したのは、そのような男ではなかった。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「兵は何人必要?」

 

「いらない」

 

夏侯惇が目を見開く。

 

「一人で行くつもりか!」

 

「ああ」

 

「馬鹿を言うな! 相手は一万だぞ!」

 

「だから一人でいい」

 

「なぜです?」

 

郭嘉が尋ねる。

 

時雨は西の村を指で叩いた。

 

「魏兵を連れていけば、話す前に向こうが構える」

 

「俺一人なら、少なくとも話は聞く」

 

「その後、斬りかかられたら?」

 

夏侯淵が問う。

 

「その時は逃げる」

 

夏侯惇が鼻で笑う。

 

「一万人から逃げられると思っているのか」

 

「山ならな」

 

時雨は平然と答える。

 

「追う側が何人いようと、道を選べば同じだ」

 

「それに、俺を殺せば反乱軍はまとまらなくなる」

 

「向こうも簡単には殺さない」

 

冷静な分析だった。

 

自分自身の価値まで、戦の材料として考えている。

 

曹操はそれが気に入らなかった。

 

時雨は、自分の命を軽く扱いすぎる。

 

黒山の民を救えるなら死んでもいい。

 

反乱を止められるなら、殺されても構わない。

 

その考えは、曹操との約束に反している。

 

「許さないわ」

 

曹操が言った。

 

時雨の眉が動く。

 

「何をだ」

 

「一人で行くことを」

 

「兵を連れていけば――」

 

「兵ではないわ」

 

曹操は立ち上がる。

 

「私が行く」

 

今度こそ、室内全体が大きくざわめいた。

 

「曹操様!」

 

夏侯姉妹と荀彧の声が重なる。

 

「危険すぎます!」

 

「反乱軍の中へ曹操様自ら向かわれるなど!」

 

「おやめください!」

 

曹操は片手を上げ、全員を黙らせる。

 

「張燕一人なら話を聞く」

 

「なら、彼の所有者である私が共に行けばいいでしょう?」

 

時雨が呆れた顔をする。

 

「理屈がおかしい」

 

「どこが?」

 

「曹操がいれば、向こうは余計に警戒する」

 

「そうでしょうね」

 

「なら来るな」

 

「嫌よ」

 

「遊びじゃないぞ」

 

「分かっているわ」

 

曹操は階段を降り、時雨の前へ立つ。

 

「あなたは昨日、私のものになった」

 

「ああ」

 

「そして私は、あなたへ勝手に死ぬことを禁じた」

 

「努力はすると言った」

 

「絶対に守れと言ったでしょう」

 

曹操は時雨の胸元へ指を突きつける。

 

「あなた一人を反乱軍へ送り、万が一にも失うことは許さない」

 

「俺なら――」

 

「あなたがどれほど強いかは関係ないわ」

 

曹操の瞳が細くなる。

 

「私の目の届かない場所で、私のものが傷つけられることが気に入らないの」

 

あまりにも覇王らしく。

 

同時に、あまりにも個人的な言葉だった。

 

軍議の間にいる者たちは、どう反応すればよいか分からない。

 

夏侯惇は複雑そうな顔をしている。

 

荀彧に至っては、時雨へ対する敵意がさらに増していた。

 

時雨は頭を掻く。

 

「面倒な女だな」

 

「今さらね」

 

「曹操が来れば、話が拗れる」

 

「ならば、あなたが私を守りなさい」

 

「逆だろ」

 

「あなたは魏の将でしょう?」

 

曹操は傲然と微笑んだ。

 

「主君を守るのは、将の役目よ」

 

「自分から危険へ行く主を止めるのも、将の役目じゃないのか」

 

「止められるものなら止めてみなさい」

 

二人の視線がぶつかる。

 

時雨は本気で断ろうとしていた。

 

曹操も本気で同行するつもりだった。

 

どちらも譲る気配がない。

 

やがて、程昱が眠そうな声で言った。

 

「ではー、二人だけではなく、少数の護衛をつけてはいかがでしょうー」

 

全員の視線が彼女へ向く。

 

程昱は気にせず続ける。

 

「大軍では警戒されますがー、数名なら話し合いの邪魔にはならないと思いますー」

 

「誰をつける」

 

時雨が尋ねる。

 

「私だ!」

 

夏侯惇が即座に名乗りを上げる。

 

「曹操様の護衛なら、私以外にあり得ん!」

 

「姉者だけでは不安だ。私も行こう」

 

夏侯淵も続く。

 

荀彧が顔をしかめる。

 

「お二人とも離れれば、許昌の守りが薄くなります」

 

「なら桂花、お前が残れ」

 

夏侯惇が言う。

 

「言われなくても残ります!」

 

「私も同行したいところですが……」

 

郭嘉が扇で口元を隠す。

 

「黒山の地理に詳しくない者ばかりでは、張燕殿が裏切った際に危険ですね」

 

「裏切る前提で話すな」

 

時雨が言う。

 

「信用されていないのですから、当然でしょう」

 

「お前は正直だな」

 

「お褒めに預かり光栄です」

 

郭嘉は微笑む。

 

敵意ではない。

 

時雨の能力を見極めようとする目だった。

 

曹操が判断を下す。

 

「春蘭と秋蘭を連れていくわ」

 

「曹操!」

 

時雨が反対する。

 

「二人とも魏の主力だろ」

 

「だからこそよ」

 

「反乱軍が恐れて話に出てこない」

 

「二人には離れた場所で待機させる」

 

「曹操様!」

 

今度は夏侯惇が不満を示す。

 

「私が曹操様のお傍を離れるなど――」

 

「命令よ」

 

「う……」

 

夏侯惇は言葉を失う。

 

曹操はさらに続ける。

 

「許昌の守りは桂花、稟、風に任せる」

 

「季衣と流琉も残りなさい」

 

許褚が残念そうな顔をする。

 

「ボクも行きたいです!」

 

「今回は遊びではないわ」

 

「分かってます!」

 

「ならば、都を守ることも重要な役目だと理解しなさい」

 

「……はい」

 

許褚は渋々頷く。

 

曹操は時雨を見る。

 

「出発は一刻後」

 

「早いな」

 

「反乱は待ってくれないわ」

 

「準備は」

 

「すでに始めさせる」

 

曹操は全員へ向き直る。

 

「今回の目的は反乱軍の殲滅ではない」

 

「旧燕国の民に、魏へ従う道を選ばせること」

 

「可能な限り、血を流さずに終わらせるわ」

 

荀彧が頭を下げる。

 

「御意」

 

他の将たちも続く。

 

時雨だけは頭を下げなかった。

 

地図上の西部を見つめている。

 

そこに集まった者たちの顔を、何人か知っているかもしれない。

 

自分を信じて戦った者。

 

燕国の旗へ誇りを持っていた者。

 

降伏を裏切りだと感じた者。

 

彼らへ、時雨は自分の口で伝えなければならない。

 

燕国は終わった。

 

黒山賊も終わった。

 

曹操に従え。

 

それは、黒山で旗を降ろさせた時よりも重い命令になる。

 

「怖い?」

 

曹操が隣へ来て、小さな声で尋ねた。

 

周囲には聞こえない声だった。

 

時雨は彼女を見下ろす。

 

「誰に言ってる」

 

「では、迷っているの?」

 

「少しな」

 

時雨は正直に答えた。

 

曹操は目を細める。

 

「意外ね」

 

「俺だって迷う」

 

「迷わない男だと思っていたわ」

 

「迷っても決めるだけだ」

 

時雨は地図から手を離す。

 

「それに」

 

「何?」

 

「今回は、あんたがいる」

 

曹操の表情が僅かに変わる。

 

「私がいれば、迷わないと?」

 

「違う」

 

時雨は口元を吊り上げた。

 

「失敗したら、曹操のせいにできる」

 

曹操の眉が吊り上がる。

 

「張燕」

 

「冗談だ」

 

「あなたの冗談は分かりにくいのよ」

 

「今のは分かりやすいだろ」

 

「いいえ」

 

曹操は時雨の脇腹を指で強く突いた。

 

古い傷へ当たり、時雨の顔が僅かに歪む。

 

「痛いな」

 

「罰よ」

 

「覇王の罰が随分と小さい」

 

「では首を刎ねましょうか?」

 

「それは困る」

 

「でしょう?」

 

曹操は満足そうに笑い、軍議の間を出ていく。

 

時雨はその背中を見送った。

 

夏侯惇が隣へ立つ。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「妙な真似をするな」

 

「妙な真似?」

 

「反乱軍へ合流することだ!」

 

「まだ疑ってるのか」

 

「当然だ!」

 

夏侯惇は真っ直ぐ時雨を睨む。

 

「曹操様は、お前を信じようとしている」

 

「それを裏切れば、私が必ず斬る」

 

時雨は夏侯惇の瞳を見る。

 

そこにあるのは、単なる敵意ではない。

 

曹操を守りたい。

 

曹操が選んだものを信じたい。

 

だが、もしその選択が曹操を傷つけるなら、自分の手で排除する。

 

不器用で、真っ直ぐな覚悟だった。

 

時雨は小さく笑う。

 

「分かった」

 

「何がおかしい!」

 

「曹操は恵まれてると思ってな」

 

夏侯惇が目を瞬かせる。

 

時雨は彼女の横を通り過ぎる。

 

「安心しろ」

 

「俺は逃げない」

 

「本当だろうな!」

 

「曹操に言ったのと同じだ」

 

時雨は振り返らず、右手を軽く上げる。

 

「俺は約束を破るような善人じゃない」

 

夏侯惇は意味が分からず、顔をしかめた。

 

その隣へ夏侯淵が歩み寄る。

 

「姉者」

 

「なんだ、秋蘭」

 

「張燕なりに、約束を守ると言っているのだろう」

 

「普通にそう言えばよいではないか!」

 

「普通ではない男なのだ」

 

「知っている!」

 

夏侯惇の怒声が軍議の間へ響く。

 

廊下を歩く時雨にも聞こえていた。

 

時雨は小さく笑う。

 

魏へ降伏して、まだ二日。

 

信頼されていない。

 

歓迎もされていない。

 

剣すら返されていない。

 

それでも、最初の役目が与えられた。

 

反乱軍との交渉。

 

旧燕国の民を、自らの言葉で魏へ従わせる。

 

できなければ血が流れる。

 

失敗すれば、時雨が曹操を騙していたと見なされる。

 

魏での居場所どころか、黒山の民へ与えられた待遇さえ悪くなるかもしれない。

 

重い役目だった。

 

しかし、その重さが時雨には心地よかった。

 

何も背負わない日々など、自分には向いていない。

 

百万すべてを背負う必要はなくなった。

 

だが、目の前の命を救う仕事は残っている。

 

それで十分だった。

 

王ではない。

 

頭領でもない。

 

今の時雨は、魏の将。

 

曹操が手に入れた黒き狼。

 

その牙が誰へ向けられるのか。

 

それを魏の者たちは疑っている。

 

ならば、見せればいい。

 

自分が何を選んだのか。

 

誰の隣を歩くと決めたのか。

 

一刻後。

 

許昌の西門から、少数の騎馬隊が出発した。

 

先頭には黄金の髪をなびかせる曹操。

 

その隣には、黒髪の時雨。

 

少し後ろを、夏侯惇と夏侯淵が進む。

 

兵はわずか五十。

 

反乱軍一万へ向かうには、あまりにも少ない数だった。

 

城壁の上から見送る荀彧は、不安そうに唇を噛む。

 

郭嘉は扇を広げながら、遠ざかる一行を見つめていた。

 

「どう思います?」

 

荀彧が尋ねる。

 

「張燕が裏切るかどうか、ですか?」

 

「ええ」

 

郭嘉はすぐには答えない。

 

黒髪の青年の背中。

 

その隣を進む曹操。

 

二人の距離は近い。

 

だが、まだ主従として完成してはいない。

 

いつ崩れてもおかしくない危うさがある。

 

それでも郭嘉には、時雨が逃げる姿を想像できなかった。

 

「裏切らないでしょう」

 

「なぜ言い切れるのです?」

 

「曹操様が同行されているからです」

 

「それが理由になりますか?」

 

郭嘉は微笑む。

 

「張燕殿は、百万の民を守るために国を捨てた男です」

 

「そのような男が、自分を信じて危険へ同行した方を見捨てられるとは思えません」

 

荀彧は不満そうに目を細める。

 

「曹操様は、あの男を信じすぎです」

 

「そうかもしれません」

 

郭嘉は扇で口元を隠す。

 

「ですが、信じなければ手に入らないものもあります」

 

西門の向こう。

 

曹操と時雨の姿が、朝靄の中へ消えていく。

 

その先で待つのは、旧燕国の旗を掲げた一万の反乱軍。

 

時雨を王と仰ぐ者たち。

 

そして彼らはまだ知らない。

 

自分たちが待ち望む黒山の狼が、燕を再興するためではなく――

 

燕国を完全に終わらせるために来ることを。

 

黒山の狼が、魏の牙となる最初の戦い。

 

それは剣を抜く戦ではなかった。

 

言葉によって過去を断ち切り、未来を選ばせる戦だった。




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