外伝 第4話 消えない燕の旗
許昌を出発してから、三日。
曹操たちの小さな騎馬隊は、旧燕国領の西部へ足を踏み入れていた。
かつて燕の旗が掲げられていた土地。
黒山の麓から西へ伸びる街道は、魏の都周辺ほど整えられてはいない。荷車の車輪が通るたびに乾いた土が舞い上がり、馬蹄に踏み砕かれた小石が道端へ弾けていく。
道の左右には麦畑が広がっていた。
しかし、収穫を控えた穂は手入れされておらず、風に吹かれるまま乱れている。
畑で働く農民の姿も少ない。
時折、遠くの民家からこちらを窺う者がいたが、魏の旗を見るとすぐに戸を閉ざした。
曹操は馬上から周囲を見渡した。
「歓迎されていないようね」
「当然だろ」
時雨は前方を見据えたまま答えた。
彼の腰には、今も剣がない。
曹操の腰には二本の剣が差されている。
一本は曹操自身のもの。
もう一本は、時雨が預けた黒い鞘の剣。
曹操は出発の際にも返そうとはしなかった。
時雨も求めなかった。
丸腰のまま一万の反乱軍へ会いに向かう。
夏侯惇は、そのことが気に入らないらしい。
少し後方を進みながら、何度も時雨の腰へ視線を向けていた。
「張燕」
「なんだ」
「本当に武器は必要ないのか」
昨日までは、剣を持たせれば裏切るのではないかと疑っていた。
それが反乱軍の勢力圏へ近づいた途端、丸腰であることを心配し始めている。
時雨は口元を少しだけ歪めた。
「何だ。俺が死ぬのが心配か」
「違う!」
夏侯惇は即座に否定した。
「お前が死ねば、反乱軍を説得できなくなるからだ!」
「それを心配してると言うんじゃないのか」
「曹操様の策が失敗することを案じている!」
「似たようなもんだろ」
「まったく違う!」
二人の声が街道へ響く。
夏侯淵は呆れたように姉を見る。
「姉者。声が大きい」
「こいつの態度が悪いからだ!」
「三日前から何も変わっていないだろう」
「だから腹が立つのだ!」
夏侯惇の怒声に、護衛の魏兵たちが苦笑を浮かべた。
出発した直後は、誰も時雨へ気軽に近づこうとしなかった。
黒山の狼。
百万の賊を束ねた男。
いつ曹操へ牙を剥くか分からない危険人物。
兵たちはそう考え、常に一定の距離を置いていた。
だが三日間の旅を経て、その警戒には少しずつ別の感情が混ざり始めていた。
時雨は夜営の場所を選ぶ際、周辺の地形を誰よりも早く見抜いた。
水場が近く、伏兵を置ける茂みが少なく、敵が接近すればすぐに分かる場所。
曹操の食事より先に、馬と兵へ水を与えさせた。
荷の紐が緩んでいることに気づけば、黙って結び直した。
夜の見張り番でもないのに、何度か自ら陣の外を回った。
偉そうに命令することはない。
褒められようともしない。
ただ、必要だと思ったことを勝手にやっていた。
それが余計に、魏兵たちを困惑させた。
恐ろしい賊の頭領という噂と、目の前の男の姿が、うまく重ならなかったのである。
曹操は時雨と夏侯惇の言い争いを聞きながら、小さく笑った。
「春蘭」
「はっ!」
「張燕へ剣を渡す必要はないわ」
「しかし曹操様。敵の中へ入れば、何が起きるか分かりません」
「私が持っているもの」
曹操は時雨の剣の柄へ手を置いた。
「必要になれば、私が渡すわ」
時雨が横目で曹操を見る。
「間に合うのか」
「あなたなら、私が投げた剣を受け取れるでしょう?」
「外したらどうする」
「私が外すと?」
曹操の蒼い瞳が細められる。
「いや」
時雨はすぐに視線を戻した。
「聞いた俺が悪かった」
「分かればいいのよ」
曹操は満足げに頷いた。
夏侯惇も、不承不承ながら口を閉じる。
先頭を進んでいた斥候が戻ってきたのは、それから間もなくのことだった。
馬を急がせて一行の前へ来ると、その場で手綱を引き、素早く下馬する。
「ご報告いたします!」
曹操たちも馬を止めた。
「前方二里ほどの場所に村があります。ですが、村の入口は封鎖されております」
「兵は?」
夏侯淵が尋ねる。
「確認できたのは三十ほど。しかし、家屋の影にも人の気配がございます」
「旗は?」
時雨が口を挟む。
斥候は一瞬だけ時雨を見た後、答えた。
「魏の旗ではございません」
「燕か」
「はい」
曹操の表情は変わらない。
「旗の色は?」
「黒地に白の燕でございます」
時雨がわずかに目を細めた。
黒山賊が使っていた旗とは違う。
燕国を名乗り始めた後、城や役所へ掲げるために作らせた旗だった。
軍旗というより、国の存在を示す象徴。
黒い地は、黒山。
白い燕は、山を飛び越えて自由に生きる民を表している。
意匠を考えたのは時雨ではない。
民の中にいた、文字と絵に詳しい老人だった。
完成した旗を見せられたときも、時雨は興味がないと答えた。
旗で腹が膨れるわけではない。
国の名で敵が消えるわけでもない。
そう言って、ろくに見ようともしなかった。
だが今になって、その旗を掲げる者たちの気持ちが分かる。
彼らにとって燕国は、ただの名前ではなかった。
賊と呼ばれずに生きられる場所。
自分たちが国の民だと胸を張れる証。
それを時雨は、一日で消した。
「迂回しますか?」
夏侯淵が曹操へ尋ねる。
この小さな村で争う必要はない。
目的地はさらに西。
反乱軍一万が集まっている城である。
だが時雨は首を横に振った。
「ここを避ければ、先へは行けない」
曹操が地図を開く。
「別の道もあるでしょう?」
「ある」
時雨は地図上の細い線を指した。
「だが、そっちは森を抜ける」
「馬五十なら通れるのでは?」
「反乱軍の斥候に見つからず進むことはできる」
「では、なぜ?」
時雨は村の方角を見る。
「この村を避けたって噂が先に走る」
「張燕は燕の旗を恐れた」
「曹操は民と話す気がない」
「好きなように言われる」
曹操は時雨の横顔を見た。
「では、正面から入るのね」
「ああ」
「攻撃されたら?」
「話す」
「話を聞かなければ?」
「それでも話す」
夏侯惇が顔をしかめる。
「相手が矢を射てきてもか」
時雨は夏侯惇を見る。
「射らせるな」
「どうやってだ!」
「お前が殺気を出さなきゃいい」
「私のせいにするな!」
「春蘭」
曹操が名前を呼ぶ。
夏侯惇は不満そうに口を閉じた。
曹操は斥候へ告げる。
「隊列を整えなさい。ただし武器は抜かせないように」
「はっ!」
斥候が下がる。
曹操は護衛の兵たちへ視線を巡らせた。
「これから村へ入るわ」
「向こうが攻撃しない限り、こちらからは絶対に手を出してはならない」
「石を投げられても?」
一人の兵が思わず尋ねた。
「耐えなさい」
曹操はきっぱりと言った。
「罵られても、矢を向けられても、命令があるまでは動かないこと」
兵たちの表情に緊張が走る。
戦場で敵と向かい合うなら、剣を抜けばいい。
命を奪いに来る相手を倒す。
それは分かりやすい。
しかし攻撃を受けても耐えろという命令は、戦うことより難しい。
「守れない者は、ここに残りなさい」
曹操の声が低くなる。
「今回の敵は、一万の兵ではない」
「燕国を失った者たちの恐怖と怒りよ」
「それを剣で斬ることはできないわ」
誰一人、残るとは言わなかった。
全員が馬上で姿勢を正える。
「御意!」
声が揃った。
曹操は時雨を見る。
「これで満足?」
「上出来だ」
時雨の返答に、夏侯惇が反応する。
「貴様、曹操様を評価するな!」
「褒めたんだが」
「その上からの態度をやめろ!」
「春蘭」
「は、はい!」
曹操はこめかみを押さえた。
「今は静かにしなさい」
「申し訳ございません……」
夏侯惇が肩を落とす。
時雨は彼女を一瞥したが、何も言わなかった。
言えばまた怒鳴られると、さすがに学び始めていた。
一行は進む。
やがて、街道の先に村が見えてきた。
低い土塀。
木造の家屋。
中央に立つ一本の旗柱。
その頂で、黒地に白い燕の旗が風を受けていた。
村の入口には荷車が横倒しにされ、丸太と縄で簡素な壁が作られている。
その後ろに男たちが並んでいた。
農具を持つ者。
錆びた槍を構える者。
弓を持つ少年。
鎧を身につけている者は少ない。
兵ではない。
村人たちだ。
それでも、その目には明確な敵意が宿っていた。
魏の旗が近づくにつれ、村の中から鐘が鳴らされる。
甲高い音。
一度。
二度。
三度。
家々からさらに人が現れた。
老人。
女。
子供。
戦える者だけではない。
村のすべてが、魏軍を迎え撃とうとしていた。
曹操たちは村の入口から百歩ほど離れた場所で馬を止めた。
村側の男が声を張り上げる。
「それ以上近づくな!」
五十人の魏兵が緊張する。
矢が弦にかけられる音が、風の中に混じった。
時雨は馬上から村人たちを見る。
見覚えのある顔は少ない。
だが中央に立つ初老の男だけは知っていた。
名は梁伯。
この村のまとめ役。
かつて官軍の徴税に抵抗して捕らえられ、黒山の兵が役人の一行を襲った際に救い出した男だった。
腕の立つ武人ではない。
人を率いる才も特別ではない。
だが頑固で、約束を守り、村の者から深く信頼されている。
時雨が燕国を作った際、この地方の村々をまとめる役目を与えていた。
梁伯も、時雨に気づいたのだろう。
驚きで目を見開く。
しかし、すぐに顔を険しくした。
「頭領……!」
声に、喜びと怒りが混ざっている。
時雨は馬を降りた。
「ここで待ってろ」
曹操へ告げる。
「嫌よ」
「話が違うだろ」
「私は同行すると言ったわ」
「村の中までとは言ってない」
「あなた一人で行くとも認めていない」
時雨は曹操を見た。
曹操も譲らない。
夏侯惇が馬上から口を挟む。
「私もお供します!」
「お前が来ると話が進まない」
「何だと!」
時雨が村の方へ顎を向ける。
「見ろ」
夏侯惇は村人たちへ視線を移した。
魏武の大剣を背負う夏侯惇を見て、何人もの弓兵が矢を向けている。
彼女の名は旧燕国領にも知れ渡っている。
魏の猛将。
戦場で敵を容赦なく斬り伏せる女。
その姿が近づけば、村人たちが恐れるのも無理はない。
「……なら秋蘭が」
「姉者よりは警戒されにくいだろうが、魏将であることに変わりはない」
夏侯淵は冷静に言った。
「我々はここで待つべきだ」
「だが曹操様を!」
「私が守る」
時雨が答えた。
夏侯惇の目が鋭くなる。
「丸腰のお前がか」
「必要なら曹操から剣を受け取る」
曹操は腰に差した時雨の剣へ触れる。
「いいでしょう」
「曹操様!」
「春蘭」
曹操は馬を降りた。
「ここで待機しなさい」
「しかし!」
「私を信じられない?」
夏侯惇が息を詰まらせる。
「そのようなことは決して!」
「ならば従いなさい」
「……御意」
夏侯惇は悔しそうに頭を下げた。
曹操は時雨の隣へ立つ。
時雨より頭一つ以上低い。
華奢な少女。
遠目には、反乱の村へ入ろうとしている覇王には見えないだろう。
だが歩き始めた曹操の足取りに、恐れはなかった。
時雨も並んで進む。
二人だけ。
武器を抜かず。
護衛も連れず。
敵意に満ちた村人たちへ向かっていく。
「止まれと言った!」
梁伯が再び叫ぶ。
時雨は止まらない。
弓を構える者たちの手に力が入る。
「頭領!」
梁伯の声が震えた。
「それ以上近づけば、矢を射ます!」
「俺を射るのか」
時雨の問いかけに、梁伯の顔が歪む。
「なぜ……」
弓を持つ少年の腕が震えていた。
時雨の姿を知っている。
何度か村を訪れたこともある。
飢饉の際、黒山の倉から食料を運ばせた。
村へ流れ込んだ賊を追い払い、村人の一人を傷つけた黒山兵を自ら処罰したこともある。
この村の者にとって、時雨は頭領であり、王であり、守護者だった。
その男が今、魏の覇王と並んで歩いている。
腰には剣もない。
まるで捕らえられているようにも見える。
だが縄はない。
時雨は自分の意思で歩いている。
それが何より、村人たちを混乱させていた。
時雨は封鎖された入口から十歩ほどの位置で足を止めた。
曹操も隣に立つ。
周囲には無数の弓。
一本でも放たれれば、残りも続くだろう。
夏侯惇たちは遠くで馬に乗ったまま待機している。
しかし、その緊張はこちらまで伝わってきた。
「梁伯」
時雨が初老の男を呼ぶ。
「久しぶりだな」
梁伯は唇を震わせた。
「なぜ……なぜ曹操の隣におられるのです」
時雨は隣の曹操を見た。
「俺が選んだからだ」
「嘘だ!」
若い男が叫んだ。
「頭領は騙されている!」
「魏に脅されたのだ!」
「我らを救うため、仕方なく従っておられる!」
村人たちから次々と声が上がる。
「我らはまだ戦えます!」
「燕国は滅びていません!」
「頭領が戻れば、黒山の者たちも再び集まります!」
「百万が一つになれば、魏など恐れることはない!」
興奮が広がる。
誰もが時雨へ訴えていた。
帰ってきてほしい。
自分たちの頭領へ戻ってほしい。
燕国をもう一度掲げてほしい。
それは反乱というより、見捨てられることを恐れる子供たちの叫びに近かった。
時雨は黙って聞いていた。
否定もせず。
怒鳴り返しもせず。
すべての言葉が途切れるまで待った。
やがて、村の入口に重い沈黙が落ちる。
時雨は梁伯を見た。
「言いたいことは終わったか」
「頭領……」
「俺はもう、頭領じゃない」
梁伯の目が見開かれる。
「俺は黒山賊を解散させた」
「燕国を魏へ降した」
「それは……民を守るためでありましょう!」
梁伯は必死に言葉を重ねる。
「ならば我らが立ち上がれば、頭領は戻れる!」
「魏の軍を追い払い、再び燕を――」
「戻らない」
静かな一言だった。
怒声よりも強く、村人たちの胸へ突き刺さった。
梁伯の顔から血の気が引く。
「なぜ……」
「燕では、民を守りきれない」
「我らには百万がいます!」
「百万の民だ」
時雨の声が低くなる。
「兵じゃない」
「畑を耕す奴がいる」
「子供を育てる奴がいる」
「鍛冶をする奴も、商いをする奴も、病人も老人もいる」
「そいつら全部を戦場へ立たせるつもりか」
「ですが、戦える者だけでも――」
「半分にも届かない」
「それでも四十万以上!」
「数だけだ」
時雨は背後の魏兵を振り返らなかった。
「魏軍は四十万でも一つの命令で動く」
「黒山の四十万は、百を超える砦の集まりだ」
「頭領同士で考えも違う」
「武器も訓練も揃ってない」
「戦えば、最初に死ぬのは弱い奴らだ」
村人たちは黙る。
時雨が黒山で降伏を決めた理由。
それを本人の口から、初めて聞いた者も多い。
彼らは百万という数を信じていた。
数さえあれば、曹操にも勝てる。
時雨が先頭に立てば、不可能などない。
そう思い込んでいた。
だが時雨自身は、誰よりも黒山の脆さを知っている。
「では……」
梁伯の声が掠れる。
「我らは、魏へ屈するしかないのですか」
「屈するんじゃない」
「同じではありませんか!」
梁伯が叫んだ。
「燕の旗を降ろし、魏の法に従う!」
「土地も、命も、曹操の手の中!」
「それを屈服と言わず、何と言うのです!」
「生きるための選択だ」
「誇りを捨てろと!?」
「旗と誇りを一緒にするな」
時雨の目が鋭くなる。
「燕の旗がなければ、お前らは何者でもなくなるのか」
梁伯は答えられない。
「燕国がなくなれば、家族を守れないのか」
「畑を耕せないのか」
「明日を生きる理由まで消えるのか」
「そうじゃないだろ」
時雨は村の中を見渡す。
母親の後ろへ隠れる子供。
槍を握る老人。
弓を構えながら震える少年。
この者たちは兵ではない。
戦うために生きているわけでもない。
「俺が燕を作ったのは、お前らを戦わせるためじゃない」
「賊と呼ばれず、生きる場所を作るためだ」
「なら、魏の中で生きられるなら燕にこだわる必要はない」
「曹操が約束を破ればどうするのです!」
若い男が声を上げた。
「魏の役人が我らを虐げれば!」
「土地を奪い、重い税を課し、再び家族を殺せば!」
時雨は即答した。
「その時は俺が止める」
村人たちが息を呑む。
「頭領が?」
「頭領じゃない」
時雨は隣の曹操へ視線を向けた。
「俺は今、曹操の将だ」
「魏の……」
梁伯は信じられないものを見るように時雨を見つめる。
「曹操の将になった俺が、魏の中でお前らを守る」
曹操は何も言わなかった。
時雨が何を語るのか見定めている。
それは曹操が事前に命じた言葉ではない。
時雨自身が選んだ答えだった。
「それでも曹操が聞かなければ?」
梁伯が尋ねる。
時雨は曹操を見る。
「聞くまで話す」
「聞かないわよ」
曹操が突然口を挟んだ。
時雨の眉が動く。
「今、話の途中だ」
「私を聞き分けのない主君のように扱わないで」
「実際、聞かない時がありそうだから言ってる」
「その時は、あなたの話に価値がない時よ」
「決めるのは曹操か」
「当然でしょう?」
村人たちが呆然とする。
魏王と呼び捨てで話す時雨。
それに腹を立てながらも、斬ろうとはしない曹操。
二人の関係は、彼らが想像していた主従とは違っていた。
曹操は一歩前へ出た。
弓兵たちが一斉に矢を向ける。
時雨が僅かに腕を上げ、曹操を庇う位置へ動いた。
「動くな」
小さく告げる。
曹操は時雨を見上げた。
「私に命令するの?」
「今はな」
「後で覚えておきなさい」
そう言いながらも、曹操は時雨の半歩後ろで止まった。
梁伯たちは、その光景を見逃さなかった。
曹操は時雨を鎖で縛っているわけではない。
むしろ危険があれば、時雨が曹操を守ろうとしている。
「梁伯と言ったわね」
曹操が初老の男へ声を向けた。
「はい」
梁伯は緊張した面持ちで答える。
「あなたたちは、私が燕の民を虐げると思っている」
「……違うと申されますか」
「今は何を言っても信じないでしょうね」
曹操の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「ならば約束ではなく、条件を示しましょう」
村人たちの間にざわめきが生まれる。
曹操は続ける。
「この村の土地は、現在耕している者へ改めて所有を認める」
「過去の未納税については問わない」
「今後三年間は税を半減する」
時雨が曹操を見る。
その条件は、事前に聞いていない。
曹操は時雨の視線へ気づいていたが、話を止めない。
「反乱のために武器を持ったことも、今日ここで捨てるなら罪に問わない」
「魏の兵へ加わりたい者には選別を受ける機会を与える」
「農民へ戻る者には種と農具を貸し与える」
村人たちの表情が変わっていく。
それは彼らにとって、あまりにも現実的な条件だった。
国の名や誇りよりも、明日の暮らしへ直結するもの。
「ただし」
曹操の声が冷たくなる。
「今日以降、再び武器を持って魏へ逆らうなら容赦しない」
「本人だけではない」
「反乱を扇動した者、その協力者も魏の法によって裁く」
先ほどまでの寛大さとは異なる、覇王の声だった。
甘い言葉だけではない。
従う者は守る。
逆らう者は討つ。
境界を明確に示している。
「選びなさい」
曹操は村人たちを見渡した。
「存在しない燕国のために死ぬか」
「魏の民として生きるか」
梁伯は旗を見上げた。
黒地に白い燕。
自分たちが国の民となった証。
賊でも流民でもなく、燕の民なのだと胸を張れた象徴。
それを降ろせば、何か大切なものまで失ってしまう気がする。
だが、旗の下には子供たちがいる。
戦えば、彼らも巻き込まれる。
梁伯は弓を構える少年を見た。
まだ十五にも届いていない。
手が震えている。
人へ矢を射たことなど、一度もないのだろう。
その少年が、魏軍へ矢を放てばどうなる。
遠くには夏侯姉妹がいる。
五十の兵しかいないとはいえ、村人たちが勝てるはずはない。
一人を殺せたとしても、村は焼かれる。
畑も家も失う。
最後に残るのは、燕の旗と死体だけだ。
それを誇りと呼べるのか。
梁伯は目を閉じた。
そして、槍を地面へ置いた。
乾いた音が響く。
「梁伯!」
若い男が叫ぶ。
梁伯はゆっくりと膝をついた。
曹操ではなく、時雨へ向かって頭を下げる。
「頭領」
「その呼び方はやめろ」
「これが最後です」
梁伯の声が震える。
「お尋ねします」
時雨は黙って待った。
「本当に……後悔しておられませんか」
「燕国を捨てたことを」
「我らを、曹操へ委ねたことを」
時雨はすぐには答えなかった。
後悔がないと言えば、嘘になる。
黒山の旗が降りた瞬間。
百万の声を背に受けながら、振り返らずに歩いた時。
燕という国が消えたと曹操へ告げた時。
胸のどこかが引き裂かれるようだった。
今も燕の旗を見れば、何も感じないわけではない。
しかし。
「後悔してる」
時雨は答えた。
村人たちがざわめく。
曹操も、僅かに目を細めた。
「なら!」
梁伯が顔を上げる。
時雨はその言葉を遮った。
「だが、間違ったとは思ってない」
「後悔と間違いは別だ」
「手放したくなかった」
「国も、お前らも、俺が守り続けるつもりだった」
「だが、それじゃいつか全部失う」
時雨は燕の旗を見上げる。
「だから手放した」
「俺より大きな国を作った奴に預けた」
その言葉に、曹操の瞳が僅かに揺れた。
時雨は曹操へ媚びる男ではない。
人前で褒めることも少ない。
だからこそ、その評価は重い。
「曹操なら、俺にできなかったことができる」
「それでも無理なら?」
梁伯が問う。
「その時は、俺も一緒に責任を取る」
「どのように?」
「死んで終わらせるつもりはない」
時雨は曹操と交わした言葉を思い出していた。
死ねば、すべて終わる。
満足だけを抱えて逃げられる。
だから生きろ。
責任を背負い続けろ。
「生きて、できるまでやる」
それは、かつての時雨なら口にしなかった言葉だった。
失敗すれば死ぬ。
誰かを守るために命を差し出す。
それが最も分かりやすい責任の取り方だと思っていた。
だが曹操は、それを逃げだと言った。
今なら少しだけ、その意味が分かる。
梁伯は長く頭を下げ続けた。
やがて、肩を震わせながら立ち上がる。
「旗を……」
声が掠れた。
「燕の旗を降ろせ」
誰も動かなかった。
梁伯はもう一度、強く叫んだ。
「旗を降ろせ!」
一人の青年が旗柱へ走った。
縄へ手をかける。
しかし、引くことができない。
涙を流しながら、何度も力を入れようとする。
その隣へ、別の村人が立った。
さらに一人。
二人。
三人。
皆で縄を掴んだ。
ゆっくりと燕の旗が下り始める。
風を受けていた白い燕が、少しずつ地上へ近づいていく。
村の中から嗚咽が聞こえた。
女たちが泣いている。
老人が顔を覆う。
弓を持った少年も、唇を噛みながら涙を流していた。
旗が地面へ着く前に、梁伯が両腕で受け止める。
土へ触れさせないよう、大切に抱き締めた。
「燃やしますか」
梁伯が時雨へ尋ねた。
時雨は首を横に振る。
「必要ない」
「ですが、燕は終わりました」
「終わったからって、全部消す必要はない」
「では、この旗をどうすれば」
時雨は少し考えた。
「しまっておけ」
曹操が眉を上げる。
「再び反乱の旗にされるかもしれないわよ」
「その時は俺が取り上げる」
「自信があるのね」
「思い出まで奪えば、余計に反発する」
時雨は梁伯を見る。
「燕の旗は、戦うためだけに作ったものじゃない」
「お前らが生きた証だ」
「忘れる必要はない」
「ただし、もう掲げるな」
梁伯は旗を強く抱き締めた。
「承知しました」
そして今度は、曹操へ向き直る。
すぐには頭を下げられなかった。
目の前にいるのは、燕を消した覇王。
憎むべき敵。
そう思っていた相手である。
だが時雨が選んだ主でもある。
梁伯は迷いながらも、やがて片膝をついた。
「我らは……魏へ従います」
一人。
また一人。
村人たちが武器を置いていく。
槍。
弓。
農具。
地面へ落ちる音が続いた。
全員が曹操へ忠誠を誓ったわけではない。
魏を好きになったわけでもない。
それでも、生きる道を選んだ。
曹操は村人たちを見渡す。
「賢明な判断ね」
その口調は傲慢だった。
だが勝者として彼らを嘲る色はない。
「明日、役人を送るわ」
「土地と住民の登録を始めさせる」
「食料が不足しているなら、今のうちに申し出なさい」
梁伯が驚いて顔を上げる。
「よろしいのですか」
「魏の民を飢えさせる趣味はないわ」
曹操は当然のように答えた。
「ただし無償ではない」
「街道整備に人を出しなさい」
「働ける者が働き、対価として食料を受け取る」
時雨が軍議で提案した方法である。
梁伯は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は結果を見てからにしなさい」
曹操は踵を返そうとする。
その時。
村の奥から激しい馬蹄の音が響いた。
誰もが振り返る。
十数騎の男たちが、土煙を上げながら中央の道を駆けてくる。
全員が鎧を身につけていた。
村人ではない。
旧燕国の兵。
先頭の男は、燕の旗を掲げている。
「梁伯!」
怒鳴り声が響く。
「何をしている!」
騎馬の男たちは村の入口で止まった。
先頭の男が馬上から梁伯を睨みつける。
年齢は三十ほど。
日に焼けた顔。
左の頬には大きな傷。
時雨はその男を知っていた。
名を、韓武という。
黒山の西側で二千の兵を預かっていた将。
戦場では勇猛。
部下からの信頼も厚い。
だが視野が狭く、一度決めたことを曲げられない。
燕国の旗へ強い誇りを持っていた男でもある。
韓武も時雨を見つけた。
その表情に、歓喜が浮かぶ。
「頭領!」
馬を飛び降り、時雨へ駆け寄ろうとする。
しかし、その隣にいる曹操へ気づいた瞬間、足を止めた。
「なぜ……」
韓武の顔から喜びが消える。
「なぜ曹操と共におられるのです」
時雨は同じ説明を繰り返す気はなかった。
「俺は魏へ降った」
「嘘だ!」
韓武が叫ぶ。
「頭領は、そのような男ではない!」
「お前が俺を決めるな」
「百万を捨て、敵に媚びるなど!」
空気が凍りつく。
夏侯惇たちは遠くにいる。
だが韓武の声は届いただろう。
魏兵たちも槍へ手をかけている。
時雨の目が鋭くなる。
「今、何と言った」
韓武は怯まない。
「我らを捨てたと申しました!」
「燕を売り、曹操の下へ逃げた!」
「頭領がそのような選択をするはずがない!」
「きっと、その女に何かをされたのでしょう!」
韓武は剣を抜いた。
切っ先を曹操へ向ける。
「今、我らが助けます!」
曹操の表情は変わらない。
蒼い瞳が、冷たく韓武を見据えている。
時雨は曹操の前へ出た。
「剣を下ろせ」
「頭領、退いてください!」
「俺はもう頭領じゃない」
「違います!」
韓武は首を横に振る。
「我らの頭領は、あなただけです!」
「一万の同志が、頭領を待っています!」
「皆、燕国の再興を願っております!」
「頭領が戻れば、五万でも十万でも集まる!」
韓武の背後にいる兵たちも声を上げる。
「頭領!」
「我らと共に!」
「燕を取り戻しましょう!」
村人たちが揺れる。
一度は武器を置いた者の中にも、韓武の言葉へ迷う者がいた。
時雨が戻れば。
燕国を再興すれば。
以前の暮らしへ戻れるのではないか。
国を失った痛みを、なかったことにできるのではないか。
曹操はその揺れを見抜いていた。
ここで一歩でも対応を誤れば、村は再び反乱へ傾く。
夏侯惇たちを呼び寄せ、韓武を斬ることは容易い。
だがそれでは、やはり魏が力で燕を押さえつけたという形になる。
曹操は時雨の背中を見上げた。
彼がどう答えるのか。
黒山の狼が過去と決別できるのか。
それを見極めようとしていた。
時雨は韓武へ向かって歩き出した。
「頭領?」
韓武の顔に期待が浮かぶ。
時雨が自分の方へ来る。
曹操から離れる。
そう思ったのだろう。
「分かっていただけましたか!」
「我らと共に、燕を――」
時雨の拳が韓武の顔面へ叩き込まれた。
鈍い音。
韓武の身体が地面へ転がる。
誰もが言葉を失った。
韓武は何が起きたのか理解できず、地面へ手をついたまま時雨を見る。
鼻から血が流れている。
「な……なぜ……」
「言ったはずだ」
時雨は冷たい目で韓武を見下ろした。
「俺は魏へ降った」
「それは……頭領が我らを救うために!」
「俺が選んだ」
「ですが!」
時雨は韓武の胸倉を掴み、無理やり立ち上がらせた。
「聞こえなかったのか」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
それでも韓武の身体が震える。
「俺は曹操のものになった」
曹操の眉が僅かに動く。
時雨は続ける。
「燕を再興する気はない」
「黒山賊へ戻る気もない」
「俺が立つ場所は、もう曹操の隣だ」
韓武の目が大きく見開かれる。
村人たちも息を呑んだ。
降伏の条件として仕方なく従っているのではない。
時雨は自分の意思で、曹操の隣を選んでいる。
そのことを、本人の口からはっきりと告げた。
「頭領……」
「その呼び方をやめろ」
「では、我らはどうすれば!」
韓武の声が悲痛に響く。
「燕のために戦ってきた!」
「多くの仲間が死んだ!」
「今さら魏へ頭を下げれば、死んだ者たちは何のために戦ったのです!」
時雨は胸倉から手を離した。
韓武がよろめく。
「生きてる奴が生きるためだ」
「何ですと……」
「死んだ奴のために、残った奴まで死ぬ必要はない」
「それでは、彼らの死を忘れろと!」
「忘れろとは言ってない」
時雨は韓武の目を見る。
「覚えてろ」
「名前も、顔も、最後の言葉も」
「全部背負って生きろ」
「死ぬのは簡単だ」
「燕の旗を掲げて魏へ突っ込めば、勇敢に死ねる」
「それで満足するのはお前だけだ」
韓武の拳が震える。
「残された家族はどうなる」
「部下の子供は誰が育てる」
「戦えない奴らを誰が守る」
「死んだ仲間への責任ってのは、一緒に死ぬことじゃない」
時雨の声には、自分自身へ言い聞かせる響きも混ざっていた。
曹操に言われたこと。
死んで責任を取るのは逃げだという言葉。
時雨はそれを、今度は韓武へ伝えている。
「生きろ」
「それが一番面倒で、一番重い責任だ」
韓武の目から涙が零れた。
「私は……」
声が震える。
「私は、燕しか知りません」
「黒山しか、頭領しか……」
「なら、これから魏を知れ」
時雨は曹操を振り返る。
「こいつは使える」
突然の言葉に、曹操が眉を上げた。
「私へ売り込んでいるの?」
「勇猛さだけなら悪くない」
「頭は固いが、裏切るような奴じゃない」
「あなたへ剣を向けた直後なのだけれど」
「俺を助けるつもりだったらしい」
「だから許せと?」
「決めるのは曹操だ」
時雨は韓武から離れ、曹操の隣へ戻った。
「俺は使えると思った。それだけだ」
曹操は韓武を見た。
剣を地面へ落とし、呆然と立っている男。
その背後には十数名の兵。
さらに西の城には、一万の反乱軍が待っている。
韓武を処刑すれば、彼らは徹底抗戦を選ぶだろう。
生かして利用すれば、反乱軍を収める鍵になる。
判断は難しくない。
だが曹操は、すぐに答えなかった。
時雨へ視線を向ける。
「彼の命を助けてほしい?」
「決めるのは曹操だと言った」
「あなたの望みを聞いているの」
時雨は韓武を見る。
頑固な男。
命令へ反発したことも何度もある。
それでも戦場では、時雨の背中を守った。
部下を見捨てたこともない。
死なせるには惜しい。
「生かせるならな」
短い答えだった。
曹操の口元が僅かに緩む。
「素直ではないのね」
「何がだ」
「助けてほしいと言えばよいでしょう?」
「俺が頼めば、曹操は聞くのか」
「内容によるわ」
「なら同じだ」
曹操は小さく息を吐いた。
そして韓武へ向き直る。
「あなたに選択肢を与えるわ」
韓武は顔を上げる。
「一つ」
「この場で死ぬ」
村人たちが緊張する。
「二つ」
「西の城へ戻り、一万の反乱兵へ武器を捨てさせる」
「それができれば、今日のことは不問にしましょう」
韓武の瞳が揺れる。
「我らを……許すと?」
「許すのではないわ」
曹操の声は冷たい。
「利用するの」
「一万の兵を殺すより、働かせた方が魏の利益になる」
「あなたも同じよ」
「張燕が使えると言った」
「ならば、その価値を証明しなさい」
韓武は時雨を見る。
時雨は何も言わない。
助け舟も出さない。
決めるのは韓武自身だ。
長い沈黙の後。
韓武は地面へ膝をついた。
「承知……いたしました」
「誰へ返事をしているの?」
曹操が問いかける。
韓武の顔が苦痛に歪む。
これまで敵と呼んできた者。
燕国を消した覇王。
その相手へ頭を下げなければならない。
簡単にできることではない。
韓武は何度も拳を握り直した。
やがて、地面へ両手をつく。
「曹操様の命に……従います」
夏侯惇たちが遠くで反応する。
村人たちもざわめいた。
時雨は黙って韓武を見下ろしていた。
一つの時代が、また終わった。
燕の将が魏へ従った瞬間。
それは時雨自身が降伏した時よりも、胸へ重く響いた。
「顔を上げなさい」
曹操が告げる。
韓武がゆっくり顔を上げた。
「城まで案内しなさい」
「はっ」
「ただし」
曹操は時雨の剣の柄へ手を置く。
「少しでも妙な動きをすれば、今度は容赦しない」
韓武は深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
曹操は村人たちへ向き直る。
「私たちは西の城へ向かう」
「この村へ魏の役人が来るまで、武器を持つことを禁じるわ」
梁伯が答える。
「承知いたしました」
「それから」
曹操は梁伯が抱える燕の旗を見る。
「その旗は、魏の役人へ見つからない場所へしまいなさい」
梁伯が驚く。
「よろしいのですか」
「張燕が残せと言ったのでしょう?」
「ですが、曹操様は――」
「私は欲しいものを奪うけれど、価値のないものまで壊す趣味はないわ」
曹操にとって、燕の旗そのものは脅威ではない。
旗に集う意志が脅威なのだ。
そしてその意志が魏へ向くなら、過去の象徴を残すことに問題はない。
むしろ無理に奪えば、消えない恨みを作る。
梁伯は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「だから礼は、結果を見てからにしなさい」
曹操は馬のもとへ戻っていく。
時雨も後へ続く。
村の入口を離れる直前、梁伯が時雨を呼び止めた。
「張燕様!」
時雨は足を止める。
頭領ではない。
初めて、名で呼ばれた。
「何だ」
梁伯は燕の旗を抱いたまま、真っ直ぐ時雨を見た。
「どうか……お元気で」
時雨は少しだけ目を細めた。
「お前もな」
それだけを答え、再び歩き出す。
曹操は隣へ並んだ時雨の顔を覗き込んだ。
「寂しい?」
「別に」
「嘘ね」
「なぜ分かる」
「あなたは寂しい時ほど、顔が怖くなるもの」
「会って四日だろ」
「四日あれば十分よ」
「同じことを前にも聞いたな」
曹操は楽しそうに笑う。
「あなたが分かりやすいのよ」
「初めて言われた」
「黒山の者たちは、あなたを理解しようとしなかったのかしら」
「必要なかったんだろ」
「命令に従えばよかったから?」
「いや」
時雨は少し考えた。
「俺が何を考えてても、最後には守ると思ってたんだろ」
曹操の笑みが僅かに消える。
それは信頼であると同時に、重い依存でもある。
時雨なら守ってくれる。
頭領なら何とかする。
王なら自分たちを救ってくれる。
百万の期待を一人で受け続けてきた。
時雨が国を手放した理由の一つは、そこにもあったのかもしれない。
「これからは違うわ」
曹操が言った。
「何がだ」
「あなた一人で守る必要はない」
曹操は前方を見る。
韓武が道案内のため、馬を進めている。
その先には一万の反乱軍。
まだ燕国の夢を捨てていない者たちが待っている。
「魏の民は、私が守る」
「あなたは?」
時雨が尋ねる。
曹操は当然のように答えた。
「あなたが守りなさい」
時雨は眉をひそめる。
「俺だけか」
「春蘭も秋蘭も、桂花たちもいるわ」
「なら俺がいなくてもいいだろ」
「駄目よ」
曹操の手が、時雨の剣の柄を撫でる。
「あなたは私のものだもの」
「理由になってない」
「私にとっては十分よ」
時雨は大きく息を吐いた。
「面倒だな」
「諦めなさい」
二人が馬へ戻ると、待機していた夏侯惇がすぐに駆け寄ってきた。
「曹操様! ご無事ですか!」
「見れば分かるでしょう?」
「お怪我は!」
「ないわ」
「張燕に妙な真似をされませんでしたか!」
時雨が夏侯惇を見る。
「ずっと一緒にいたぞ」
「だから心配なのだ!」
「俺から守るためについてきたのか」
「当然だ!」
「反乱軍より危険扱いされてるな」
「当たり前だろう!」
曹操は額へ手を当てる。
「春蘭」
「はい!」
「少し静かにしなさい」
「も、申し訳ございません」
夏侯惇は再び肩を落とした。
その隣で夏侯淵が韓武を見ている。
「その男は?」
「反乱軍へ案内するそうよ」
曹操が答える。
夏侯淵の目が鋭くなる。
「信用できるのですか」
「できないわ」
即答だった。
韓武の表情が強張る。
「だから、あなたと春蘭が見張りなさい」
「御意」
「姉者」
夏侯淵は声を低くする。
「先ほどの鬱憤を晴らすために斬るなよ」
「私はそのようなことはしない!」
「剣へ手が伸びている」
夏侯惇は慌てて大剣の柄から手を離した。
「こ、これはいつもの癖だ!」
時雨が小さく笑う。
「俺と同じだな」
「貴様と一緒にするな!」
魏兵たちの間から、堪えきれない笑いが漏れた。
夏侯惇が振り返る。
兵たちは一斉に顔を逸らす。
「何がおかしい!」
「何でもございません!」
声が揃う。
曹操はその様子を見ながら、口元へ薄い笑みを浮かべた。
村へ入る前まで、隊には重い緊張があった。
元黒山賊の土地。
どこから攻撃されるか分からない。
時雨が裏切る可能性もある。
誰もがそう考えていた。
だが今は少し違う。
時雨は村人たちへ魏に従うよう告げた。
自らを慕う元部下を殴り、曹操の隣に立つと宣言した。
その行動を見た兵たちの疑念は、完全ではないにせよ薄れ始めていた。
信頼は言葉では生まれない。
行動によって積み重なる。
時雨は最初の一つを示した。
「出発するわ」
曹操の命令で、一行は再び西へ進み始めた。
今度は韓武たちが先導する。
街道を離れ、山の間を抜ける細い道へ入っていく。
目的地まで半日。
日が沈む前には、反乱軍の集まる城が見えるはずだった。
馬上で進みながら、韓武は何度も時雨を振り返っていた。
問いかけたいことがある。
だが曹操や夏侯姉妹の前では、口にすることを躊躇っている。
その様子に気づいた時雨は、馬を進めて韓武の横へ並んだ。
「何だ」
韓武の肩が僅かに揺れる。
「いえ……」
「言え」
「しかし」
「面倒だ。早くしろ」
韓武はしばらく迷った後、小さく尋ねた。
「本当に、曹操様へお仕えするのですか」
「ああ」
「いずれ機会を見て、燕を再興するお考えは」
「ない」
迷いのない返答だった。
韓武は唇を噛む。
「では、我らが燕のために戦ってきたことは……」
「無駄じゃない」
時雨は前方を見たまま答えた。
「お前らが戦ったから、燕は国になった」
「燕があったから、多くの民が生き残った」
「それで十分だ」
「国は永遠に残るものではないと?」
「残るわけないだろ」
「魏も、ですか」
時雨は少しだけ曹操を見る。
金色の髪を揺らし、隊の先頭近くを進む小柄な覇王。
「いつかはな」
韓武が驚いた。
「曹操様の前で、そのようなことを申されているのですか」
「今、言った」
「聞こえているわよ」
前方から曹操の声が飛んできた。
韓武の顔が青くなる。
曹操は馬の速度を落とし、時雨の反対側へ並んだ。
「私の魏が滅びると言ったわね」
「いつかは、と言った」
「私が生きている間に?」
「それは分からない」
「滅ぼさせないわ」
曹操は強く言い切る。
「私が築く魏は、私が死んだ後も残る国にする」
「そうか」
「何よ、その返事は」
「頑張れ」
「あなたも作る側なのよ」
時雨の顔が露骨に曇った。
「聞いてない」
「今言ったわ」
「勝手に役目を増やすな」
「あなたの役目を決めるのは私よ」
「拒否する」
「認めない」
韓武は二人の会話を呆然と聞いていた。
魏王と新参の将。
とても主従には見えない。
喧嘩をしているようにも見える。
だが二人の間には、他者が入り込めない不思議な近さがある。
時雨は曹操を恐れていない。
曹操も時雨の無礼を本気で咎めない。
互いに遠慮なく言葉をぶつけ、それでも同じ方向へ馬を進めている。
「変わられましたな」
韓武が呟いた。
時雨が眉を動かす。
「俺がか」
「はい」
「どこが」
「以前の頭領は、国の先のことなど語られませんでした」
韓武は苦笑する。
「明日、誰が食べるか」
「次に、どの敵を倒すか」
「そればかりで」
「悪かったな」
「いいえ」
韓武は首を横に振る。
「それが必要でした」
「我らは明日を生きることで精一杯だった」
「頭領が先頭に立ってくださらなければ、国どころか今日の命もなかった」
「ですが今は……」
韓武は曹操を見る。
「もっと先を見ておられる」
時雨は答えなかった。
自分では変わったつもりはない。
曹操へ降伏してから、まだ数日しか経っていない。
それでも、黒山にいた頃とは考えることが違う。
百万を今日生かすだけではない。
十年後。
二十年後。
自分がいなくなった後。
民が国に頼るだけでなく、仕組みによって守られる未来。
曹操と話す中で、そのようなものを考え始めていた。
「私のおかげね」
曹操が満足そうに言う。
時雨は即座に否定した。
「違う」
「なぜよ」
「自分の手柄にしたがるな」
「事実でしょう?」
「まだ何もしてない」
「あなたを手に入れたわ」
曹操は時雨の腰へ視線を向ける。
「剣も、命も」
「その話、いつまで言うつもりだ」
「永遠に」
「魏より長く残りそうだな」
曹操は楽しそうに笑った。
韓武は二人を見比べる。
そして、わずかに肩の力を抜いた。
時雨は捕らえられているわけではない。
曹操に壊されたわけでもない。
この覇王の隣で、時雨は以前よりも人間らしく話している。
黒山にいた頃の時雨は、ほとんど笑わなかった。
必要な命令だけを出し、一人で決め、一人で背負っていた。
今は曹操とくだらない言い争いをし、夏侯惇をからかい、周囲の兵たちに笑われている。
それを変化と呼ぶなら。
悪いことではないのかもしれない。
韓武はまだ魏を信じてはいない。
曹操へ心から忠誠を誓ったわけでもない。
それでも時雨の選択を、少しだけ理解し始めていた。
---
夕刻。
山道を抜けると、前方の盆地に石造りの城が見えた。
高い城壁。
四方へ伸びる堀。
城門の上には、何本もの燕の旗。
城壁には兵たちが並び、こちらを監視している。
数は一万。
梁伯の村とは違う。
今度は本物の戦闘集団だった。
彼らの多くは、かつて時雨の下で戦った黒山兵。
魏軍との戦いを望み、降伏命令へ従わなかった者たち。
曹操たちの騎馬隊が見えると、城壁の兵たちが騒ぎ始めた。
やがて、歓声が上がる。
「頭領だ!」
「張燕様がお戻りになった!」
「燕王が帰ってきたぞ!」
一万の声が、盆地を揺らした。
時雨の表情が僅かに曇る。
彼らはまだ、自分が燕を再興するために来たと思っている。
韓武は馬上で俯いていた。
自分も少し前まで、同じ期待を抱いていた。
曹操は城壁を見上げる。
無数の燕旗。
歓喜する兵たち。
そのすべてが、時雨を求めている。
「人気者ね」
「嬉しそうに聞こえるか」
「いいえ」
曹操は時雨の横顔を見る。
苦しんでいる。
自分を慕う者へ、終わりを告げなければならない。
彼らの期待を、自らの言葉で壊さなければならない。
剣で戦う方が、時雨にとっては遥かに楽だろう。
「戻りたくなった?」
曹操が尋ねる。
時雨は城壁を見つめたまま答える。
「俺が戻れば、どうする」
曹操の蒼い瞳が細くなる。
「あなたを斬るわ」
「迷わないのか」
「ええ」
曹操は腰にある時雨の剣へ触れた。
「この剣で、あなたを斬る」
「俺の剣でか」
「あなたの命は私のものよ」
「終わらせるなら、私の手で終わらせる」
時雨は曹操を見る。
冗談ではない。
時雨が燕へ戻り、魏の敵となるなら。
曹操は自らこの剣を抜き、時雨を斬る。
その覚悟が瞳に宿っていた。
「怖い女だな」
「今さらでしょう?」
「ああ」
時雨は小さく笑う。
「安心しろ」
「あれを見ても戻る気はない」
城壁から降り注ぐ歓声。
燕王。
頭領。
我らの主。
かつての自分を呼ぶ声。
だが時雨は馬を進め、曹操の半歩前へ出た。
戻る場所は、あの城ではない。
燕の旗の下でもない。
自分が立つと決めた場所は、曹操の隣。
「韓武」
「はっ」
「門を開けさせろ」
韓武の顔が強張る。
「城内へ入られるのですか」
「ああ」
「危険です」
夏侯惇が前へ出る。
「曹操様、ここから先はお任せください」
「一万程度なら、私と秋蘭で――」
「駄目だ」
時雨が遮る。
夏侯惇の眉が吊り上がる。
「また貴様は!」
「ここで戦えば、今までやったことが全部無駄になる」
「だが城内は敵だらけだぞ!」
「俺を待ってる」
「だから危険なのだ!」
「俺が燕へ戻れと言えば、一万が一斉に魏へ刃を向ける」
時雨は城を見上げる。
「逆に、俺が終わりだと言えば、止まる可能性がある」
「可能性で曹操様の命を危険へ晒せるか!」
「春蘭」
曹操が静かに呼ぶ。
夏侯惇は唇を噛む。
「私は行くわ」
「曹操様……」
「五十の兵はここで待機」
「春蘭と秋蘭も残りなさい」
「できません!」
夏侯惇が強く反対する。
「今度ばかりは、命令でも従えません!」
場の空気が変わった。
曹操の命令へ、夏侯惇が明確に拒否を示した。
彼女にとって、曹操の安全は何よりも優先される。
たとえ曹操本人の命令であっても、死地へ一人で向かわせることはできない。
曹操は怒らなかった。
夏侯惇の忠誠を理解しているからだ。
「では、どうすれば納得するの?」
「私もお供します」
「お前が入れば、向こうが構える」
時雨が言う。
「黙れ! 貴様の意見は聞いていない!」
「なら俺だけで行く」
「それも認めん!」
「面倒だな」
「誰のせいだ!」
二人が睨み合う。
曹操は少し考えた後、結論を出した。
「春蘭と秋蘭は、城門まで同行」
「城内へ入るのは私と張燕、韓武だけ」
「城門が閉じられた場合、力ずくで突破しなさい」
夏侯淵が地形を見る。
「曹操様が城内にいる状態で攻めれば、危険が及びます」
「門だけを確保するのよ」
「張燕」
曹操は時雨を見る。
「城内で反乱軍を止めるまで、どれほど必要?」
「半刻」
「短すぎませんか?」
韓武が驚く。
「長引けば失敗だ」
時雨は断言した。
「俺の言葉を聞くか、聞かないか」
「それだけなら半刻で分かる」
曹操が頷く。
「半刻後、私たちが戻らなければ突入しなさい」
「曹操様!」
「これが最大の譲歩よ」
曹操の声には、これ以上の反対を許さない力があった。
夏侯惇は拳を握る。
やがて不承不承、頭を下げた。
「……御意」
韓武が馬を進め、城門へ近づく。
「門を開けろ!」
城壁から声が返る。
「韓武様!」
「頭領をお連れした!」
「魏王も一緒だ!」
兵たちの歓声が止まる。
ざわめきが広がった。
「曹操が?」
「なぜ頭領と共に?」
「捕らえたのか?」
「頭領が魏王を人質にしたのではないか!」
都合のよい解釈が、瞬く間に広がっていく。
時雨の顔が険しくなる。
彼らは自分たちが望む物語しか見ようとしていない。
燕王が帰ってきた。
曹操を捕らえた。
これから魏を倒す。
現実を受け入れられず、希望へしがみついている。
重い音を響かせながら、城門が開き始めた。
その向こうには、無数の兵たちが並んでいる。
皆、笑顔だった。
武器を掲げ、時雨の帰還を喜んでいる。
「燕王!」
「頭領!」
「お帰りなさいませ!」
時雨は馬を降りた。
曹操も続く。
夏侯姉妹は城門の外で止まった。
夏侯惇は大剣へ手を置き、時雨を睨む。
「張燕」
「なんだ」
「曹操様を必ずお守りしろ」
時雨は僅かに目を見開いた。
夏侯惇が、自分へ曹操を託した。
完全に信用したわけではない。
だが今、この城内で曹操を守れるのは時雨だけ。
その現実を受け入れたのだ。
「ああ」
時雨は短く答える。
「命に代えてもな」
曹操が時雨の背中を叩いた。
「勝手に命を代えないで」
「言葉の形だ」
「それでも嫌よ」
時雨は曹操を見る。
「なら生きて戻る」
曹操は満足そうに微笑んだ。
「それでいいわ」
二人は並んで城門をくぐる。
韓武が後へ続く。
城内から一万の歓声が降り注いだ。
燕の旗が風に揺れる。
兵たちは、時雨の帰還を祝っている。
だが彼らはまだ知らない。
時雨が腰に剣を帯びていない理由を。
その剣を曹操が持っている意味を。
そして黒山の狼が、この城へ戻った目的を。
時雨は城門の内側で足を止めた。
背後で門が閉じ始める。
夏侯惇の怒声が外から響いた。
「門を閉じるな!」
しかし城内の兵たちは止まらない。
重い扉が少しずつ閉じていく。
曹操は動じなかった。
「予定通りね」
「分かってたのか」
「当然でしょう?」
「なら止めろ」
「あなたがいるもの」
時雨はため息をついた。
「信用されるのも面倒だな」
「諦めなさい」
城門が完全に閉じた。
曹操と時雨。
韓武。
三人は一万の反乱兵に囲まれた。
兵たちの歓声は続いている。
その中心へ、一人の大男が歩み出た。
獣の皮を肩へ掛け、巨大な斧を背負っている。
旧燕国西方軍をまとめていた将。
名は石剛。
韓武以上の武勇を持ち、降伏命令へ最初に反対した男だった。
石剛は時雨の前へ来ると、地面へ片膝をついた。
「お待ちしておりました、頭領」
周囲の兵も次々に膝をつく。
一万の人間が、時雨へ頭を下げる。
「我らは信じておりました」
石剛は顔を上げた。
「頭領が必ず戻り、燕を再興してくださると」
時雨は何も答えなかった。
石剛は曹操へ視線を向ける。
「そして、その女が曹操ですな」
曹操は傲然と彼を見返す。
「そうよ」
「頭領」
石剛の顔に笑みが浮かぶ。
「その女を捕らえたのですか」
「違う」
時雨は短く答えた。
石剛の笑みが止まる。
「では……」
「曹操は俺の主だ」
一万の兵たちが静まり返った。
風の音だけが、燕の旗を揺らしている。
石剛は理解できないように時雨を見る。
「今……何と」
「聞こえなかったか」
時雨は一万の兵を見渡した。
「燕国は終わった」
「俺は魏へ降った」
「今の俺は、曹操の将だ」
歓声は完全に消えた。
代わって生まれたのは、混乱。
怒り。
絶望。
一万の兵たちが互いの顔を見る。
石剛の表情が、ゆっくりと歪んでいく。
「冗談を……」
「冗談じゃない」
「では、我らを説得するために来たと?」
「ああ」
「魏へ従えと?」
「ああ」
石剛は立ち上がった。
巨大な身体が怒りに震える。
「我らは、頭領のためにここまで戦ってきた!」
「俺のためじゃない」
「燕のために!」
「燕は終わった」
「終わっていない!」
石剛の怒声が城内へ轟く。
「旗はここにある!」
「兵もいる!」
「頭領さえ戻れば、燕国は何度でも蘇る!」
「戻らない」
「なぜです!」
時雨は曹操の隣へ立った。
一万の視線を受けながら、はっきりと言う。
「俺が立つと決めたのは、ここだ」
石剛の視線が曹操へ向く。
憎悪に満ちていた。
「この女に……何をされた」
「何も」
「なら、なぜ!」
「俺が選んだ」
石剛は斧の柄へ手をかけた。
周囲の兵たちも武器を握る。
韓武が慌てて前へ出る。
「待て、石剛!」
「韓武様!」
「曹操様は、武器を捨てれば我らの罪を問わぬと――」
石剛の拳が韓武の頬を打ち抜いた。
韓武が地面へ倒れる。
「魏王を様付けするか!」
石剛は韓武を見下ろした。
「貴様も頭領を裏切ったのか!」
「違う!」
韓武は口元の血を拭いながら立ち上がる。
「頭領は我らに生きろと仰った!」
「魏へ従うことが、我らの生きる道だと!」
「腑抜けたか!」
石剛が斧を引き抜く。
巨大な刃が夕陽を反射した。
「我らは賊だった!」
「官軍に追われ、民に蔑まれ、それでも頭領の下で国を作った!」
「燕の旗は我らの誇りだ!」
「それを捨てて生きるくらいなら、死んだ方がましだ!」
一万の兵から、賛同の声が上がる。
「そうだ!」
「燕を守れ!」
「魏へ屈するな!」
声が重なり、地面が震える。
曹操は一万の敵意に囲まれながらも、微動だにしない。
ただ時雨を見ていた。
ここからは彼の戦いだ。
時雨は石剛へ向かって歩く。
「なら死ぬか」
石剛の目が開かれる。
時雨はさらに近づく。
武器を持たず。
斧の間合いへ入る。
「今、ここで死ぬか」
「頭領……」
「燕の旗を抱えて」
「曹操に逆らった英雄として」
「残った家族も部下も全部巻き込んで」
「満足して死ぬか」
石剛の顔が怒りで歪む。
「我らを侮辱なさるか!」
「事実を言ってる」
時雨は斧の刃を見ても止まらない。
「お前は死にたいだけだ」
「違う!」
「国を失ったことを認めたくない」
「自分が何のために戦ったのか分からなくなった」
「だから、綺麗に死んで終わらせたい」
「違う!」
石剛は斧を振り上げた。
「違うと言うなら、生きて証明しろ」
時雨の声が、石剛の動きを止めた。
「燕がなくても、お前はお前だ」
「黒山賊じゃなくても、生きられる」
「それを証明しろ」
石剛の腕が震える。
「我らに……魏の犬になれと」
「犬になるかどうかは、お前次第だ」
時雨は曹操を振り返る。
「俺は犬になったつもりはない」
「あなたは私の狼よ」
曹操が訂正する。
緊迫した場に似合わぬ言葉だった。
時雨は露骨に嫌そうな顔をした。
「今それを言うか」
「大事なことでしょう?」
石剛も一万の兵も、呆気に取られた。
魏王と張燕は、やはり彼らが想像していた関係ではない。
時雨は曹操へ服従しているわけではない。
自分の意思を持ち。
言いたいことを言い。
それでも曹操の隣へ立っている。
「魏へ従っても、燕で生きた過去は消えない」
時雨は兵たちへ向き直る。
「だが燕にしがみつけば、未来が消える」
「俺は過去より未来を選んだ」
「お前らも選べ」
石剛は斧を握ったまま、時雨を見つめていた。
「もし……断れば」
曹操が答える。
「一万すべてを討つわ」
冷たい声だった。
「城の外には五十しかいない!」
石剛が叫ぶ。
「春蘭と秋蘭がいる」
曹操は平然と言った。
「門を開ければ、外の兵を呼べる」
「開けなくても、いずれ魏の大軍が来る」
「あなたたちに勝ち目はない」
「逃げ道もない」
「ここで私を殺せば、魏の全軍がこの土地を焼くでしょう」
曹操の言葉に、一万の兵たちが息を呑む。
脅しではない。
曹操が殺されれば、魏の将たちは決して許さない。
夏侯惇と夏侯淵だけでも、城を血で染めるだろう。
許昌から援軍が来れば、この城だけでなく周辺の村まで戦火に巻き込まれる。
「それでも戦うなら、構わないわ」
曹操は一歩前へ出た。
時雨の隣に並ぶ。
「私を殺して魏と戦いなさい」
「ただし、張燕はあなたたちの側には立たない」
「私と共に、あなたたちの敵になる」
兵たちの視線が時雨へ集まる。
時雨は否定しなかった。
石剛の目が揺れる。
「頭領が……我らを斬ると」
「必要ならな」
「本当に?」
「ああ」
時雨の声に迷いはなかった。
燕の兵を斬る。
かつての仲間を敵として倒す。
望んでいるわけではない。
だが彼らが曹操へ刃を向け、魏の民となった黒山の者たちまで戦へ巻き込むなら、止める。
その覚悟を示さなければならない。
「俺は曹操の将だ」
時雨は改めて告げた。
「曹操を殺そうとする奴は、俺の敵だ」
曹操の蒼い瞳が僅かに見開かれる。
それは、時雨が初めて明確に口にした忠義だった。
忠誠を誓ったわけではない。
何でも従うつもりもない。
それでも曹操を害する者は自分の敵だと、一万の元部下を前に宣言した。
曹操は腰にある時雨の剣へ手を置く。
「張燕」
「なんだ」
「返してほしい?」
時雨は剣を見る。
黒い鞘。
長年、自分の命を預けてきた武器。
それを曹操が差し出そうとしている。
石剛たちへ示すためだ。
時雨が剣を受け取れば、曹操の隣で戦う意思の証明になる。
時雨はしばらく剣を見つめた。
そして首を横に振る。
「いらない」
曹操の眉が動く。
「なぜ?」
「まだ預けてる」
「戦いになれば?」
「曹操が投げろ」
時雨は石剛から目を逸らさない。
「受け取って斬る」
曹操の口元に、覇王の笑みが浮かんだ。
「いいでしょう」
石剛の腕から、ゆっくりと力が抜けていく。
斧の刃が地面へ下がる。
自分たちが待っていた燕王は、もういない。
目の前にいるのは。
曹操へ剣を預け。
曹操の隣を選び。
曹操を守ると宣言した魏将・張燕。
その現実を、ようやく認め始めていた。
「俺たちは……」
石剛の声が掠れる。
「捨てられたのではないのですか」
時雨は答える。
「捨てるなら、ここへ来てない」
石剛の目から涙が落ちた。
「なら……まだ、頭領と共に生きられるのですか」
「魏の中でな」
「燕ではなく?」
「ああ」
「曹操様の下で?」
時雨は隣の曹操を見た。
「そうだ」
長い沈黙。
一万の兵たちが、石剛の決断を待っている。
斧を握る手が震える。
やがて石剛は、巨大な斧を地面へ置いた。
膝をつく。
両手を地面へつけ、深く頭を下げる。
「分かり……ました」
声が震えている。
「我らは、武器を捨てます」
城内に動揺が広がる。
一人の兵が槍を落とした。
次に、隣の男が剣を置く。
一人。
十人。
百人。
武器が地面へ落ちる音が、波のように城内へ広がっていく。
最後には、一万の兵すべてが武器を置いていた。
燕の旗だけが、まだ城壁の上で揺れている。
石剛は顔を上げる。
「頭領」
時雨は何も言わなかった。
「最後に、一度だけ」
石剛は涙を流しながら笑った。
「我らへ命令を」
時雨は一万の兵を見渡した。
かつて自分の名で戦った者たち。
黒山で生き延び。
燕国を築き。
多くの仲間を失いながら、今日まで旗を守ってきた。
彼らへ下す、頭領として最後の命令。
「生きろ」
時雨の声が城内へ響いた。
「魏の法に従え」
「働け」
「家族を守れ」
「死んだ奴らの分まで、面倒でも生き続けろ」
一万の兵たちが頭を下げる。
「御意!」
声が重なり、城壁を震わせた。
それは燕王へ向ける、最後の返答だった。
石剛が立ち上がる。
そして城壁を見上げた。
「燕の旗を降ろせ!」
縄が解かれる。
一本。
また一本。
城を覆っていた燕の旗が、次々と下りていく。
夕陽の中。
白い燕が空から姿を消す。
兵たちは泣いていた。
声を上げる者。
拳を握る者。
黙って空を見上げる者。
誰もが、自分の国との別れを受け入れていた。
時雨も旗を見上げる。
黒山で見た光景と同じ。
それでも今度は、背を向けなかった。
最後の一本が降りるまで、真正面から見続ける。
曹操はその隣にいた。
何も言わず。
触れもせず。
ただ同じ空を見上げている。
最後の旗が城壁の下へ消えた。
燕国は、今度こそ完全に終わった。
黒山の一部だけではない。
時雨の命令へ従わなかった最後の一万も、武器を置いた。
もう燕を名乗る軍はいない。
もう燕王を待つ城もない。
時雨は静かに目を閉じた。
胸の奥にあった何かが、音もなく崩れていく。
悲しみなのか。
安堵なのか。
自分でも分からない。
ただ、肩から重いものが一つ下りた。
「終わったな」
時雨が呟く。
曹操が隣で答える。
「ええ」
「燕国は、これで完全に魏へ降った」
時雨は曹操を見る。
「満足か」
曹操は少し考える。
「領土と一万の兵を得たことには満足しているわ」
「それだけか」
「それから」
曹操は時雨の剣の柄へ触れた。
「あなたが、私の将だと皆の前で認めたことにも」
時雨の顔が僅かに曇る。
「そこを覚えてたのか」
「当然でしょう?」
「忘れろ」
「嫌よ」
「面倒だな」
曹操は小さく笑った。
「でも、あなたは逃げなかった」
「逃げる理由がない」
「過去からも?」
時雨は降ろされた燕の旗を見る。
「今日で終わらせた」
「そう」
曹操は時雨の黒衣の袖を掴んだ。
「なら、帰りましょう」
「どこへ」
「許昌へ決まっているでしょう?」
「ここで処理がある」
「桂花たちに任せるわ」
「反乱軍の編入は」
「あなたにも手伝ってもらう」
「なら、すぐに帰れないだろ」
「今夜は城に泊まるわ」
曹操は当然のように言った。
夏侯惇が聞けば、城内の安全確認だけで夜が明けるほど騒ぐだろう。
時雨は城門の方を見る。
「春蘭が怒るぞ」
「いつものことでしょう?」
「放っておくのか」
「あなたから説明しなさい」
「なぜ俺が」
「私を守ると宣言したでしょう?」
時雨は言葉に詰まる。
曹操は楽しそうに笑った。
「早速、役目を果たしてもらうわ」
「……あれは、こういう意味じゃない」
「私が決めることよ」
「言うと思った」
二人の後ろで、韓武と石剛は顔を見合わせていた。
つい先ほどまで、燕国の終わりを嘆いていたはずなのに。
曹操と時雨の会話を聞いていると、妙に力が抜けていく。
恐ろしい覇王。
冷酷な魏王。
その隣に立つ、かつての燕王。
二人の間にあるものは、支配だけではない。
まだ信頼と呼ぶには不安定。
情と呼ぶには早い。
それでも確かに、互いを必要とし始めている。
石剛は小さく息を吐いた。
「韓武」
「何だ」
「頭領は、本当に戻られぬのだな」
「ああ」
韓武は時雨の背中を見る。
「だが、消えたわけではない」
「そうだな」
石剛も頷いた。
燕王はいなくなった。
黒山賊の頭領もいなくなった。
だが張燕という男は、以前よりもはっきりとそこにいる。
曹操の隣で。
自分の意思を持ちながら。
魏の未来を作る者として。
城門が開かれる。
待機していた夏侯惇が真っ先に飛び込んできた。
「曹操様ぁ!」
大剣を背負ったまま、地面を揺らす勢いで駆けてくる。
「ご無事ですか!」
「無事よ」
「怪我は!」
「ないわ」
「張燕!」
夏侯惇が時雨を睨む。
「なぜ予定より遅い!」
「まだ半刻経ってない」
「私には一刻にも二刻にも感じられた!」
「それは知らない」
「貴様ぁ!」
怒声が城内へ響く。
つい先ほどまで泣いていた元燕兵たちが、その様子を呆然と見ている。
夏侯淵は遅れて入ってくると、地面へ置かれた一万の武器を見渡した。
「成功したようだな」
「ああ」
時雨が答える。
夏侯淵は時雨を見る。
「曹操様を守ったか」
「見ての通りだ」
「そうか」
それだけを言い、僅かに頷く。
信頼の最初の一歩。
夏侯淵は時雨を、監視すべき敵ではなく、曹操を守る将として見始めていた。
夏侯惇はまだ時雨へ怒鳴っている。
「曹操様を城内へ連れ込むなど!」
「曹操が勝手についてきた」
「責任を押しつけるな!」
「事実だ」
「お前が止めればよかったのだ!」
「止められると思うか」
夏侯惇が言葉に詰まる。
時雨は曹操を見る。
曹操は満足げに腕を組んでいる。
「無理だろ」
「……確かに」
夏侯惇が小さく答えた。
夏侯淵が姉を見る。
「姉者」
「何だ」
「今、同意したな」
「していない!」
「聞こえたぞ」
「気のせいだ!」
周囲の魏兵から笑いが漏れる。
元燕兵たちの中にも、思わず笑う者がいた。
最初は小さな笑い。
やがて、それが少しずつ広がっていく。
燕の旗を失った城で。
魏と燕の兵が、同じ光景を見て笑っている。
それはまだ一つの軍ではない。
互いに警戒もある。
恨みも残っている。
だが戦いではなく、笑いから始まる関係もある。
曹操はその光景を見つめていた。
この一万を魏軍へ加えるには、時間がかかるだろう。
規律を教え。
部隊を組み替え。
魏の兵たちとの争いを抑える。
やるべきことは多い。
けれど、不可能ではない。
中心には時雨がいる。
燕の過去を知り。
魏の未来を選んだ男。
この男を境に、二つの勢力を繋ぐことができる。
「張燕」
曹操が呼ぶ。
「なんだ」
「あなたへ最初の正式な役目を与えるわ」
時雨が顔をしかめる。
「また増えるのか」
「ええ」
曹操は地面へ置かれた武器と、一万の元燕兵を見渡した。
「この者たちを、魏軍へ編入できる兵へ鍛えなさい」
「俺が?」
「あなた以外に誰がいるの?」
「春蘭に任せろ」
夏侯惇が胸を張る。
「私ならば、すぐに魏軍の精鋭へ鍛え上げてご覧に入れます!」
元燕兵たちの顔が一斉に青くなる。
時雨は彼らの反応を見た。
「無理だな」
「何がだ!」
「半分は逃げる」
「逃がすものか!」
「残り半分は死ぬ」
「私の鍛錬を何だと思っている!」
「それが答えだろ」
夏侯惇が大剣へ手を伸ばす。
夏侯淵が姉の腕を押さえた。
「落ち着け、姉者」
「秋蘭! 止めるな!」
「曹操様の御前だ」
その一言で夏侯惇は動きを止めた。
曹操は楽しそうに笑いながら、時雨へ告げる。
「決まりね」
「断る」
「命令よ」
「他に仕事がある」
「この仕事より優先するものは?」
時雨は答えられない。
一万の元部下を、魏の中で生きられるようにする。
それは時雨自身が望んだことでもある。
曹操は分かった上で命じている。
「……分かった」
「聞こえないわ」
時雨の眉が寄る。
「やる」
「誰の命令で?」
「調子に乗るな」
曹操の笑みが深くなる。
「張燕」
声が低くなった。
時雨はしばらく曹操を睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐く。
「曹操の命令でやる」
「よろしい」
曹操は満足そうに頷いた。
石剛と韓武は、時雨へ深く頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
「頭領」
時雨の目が鋭くなる。
二人は慌てて言い直した。
「張燕様」
「様もいらない」
「では……張燕殿」
「それでいい」
曹操が僅かに眉をひそめる。
「私の将なのだから、もう少し威厳を持ちなさい」
「呼び方で強くなるわけじゃない」
「軍の秩序に関わるわ」
「なら曹操が決めろ」
「いいの?」
「面倒だからな」
曹操の瞳が楽しげに光る。
「では、考えておくわ」
時雨は嫌な予感を覚えた。
「妙な官位をつけるなよ」
「どうかしら」
「今すぐ自分で決める」
「遅いわ」
曹操は時雨の袖を掴み、城の奥へ歩き出す。
「今夜の部屋を確認するわよ」
「俺は兵舎でいい」
「駄目」
「なぜだ」
「あなたは私の護衛でしょう?」
「春蘭たちがいる」
「城の中では、あなたが一番信頼されているもの」
「元燕兵にだろ」
「だからよ」
曹操は振り返り、傲然と微笑んだ。
「今夜も、私の隣の部屋で寝なさい」
城内の全員が固まった。
夏侯惇が絶叫する。
「曹操様ぁ!?」
荀彧がこの場にいれば、それ以上の声を上げていただろう。
時雨は額へ手を当てる。
「やっぱり許昌に帰ればよかったな」
「もう遅いわ」
曹操は楽しそうに時雨を引いていく。
夕陽に染まる城。
降ろされた燕の旗。
代わって、城壁には魏の旗が掲げられ始めていた。
一万の反乱兵は武器を捨てた。
燕国は完全に歴史の中へ消えた。
そして黒山の狼は、過去へ背を向けるのではなく、正面から別れを告げた。
その隣には、覇王・曹操がいる。
まだ忠誠ではない。
服従でもない。
だが時雨は、一万の元部下を前に宣言した。
曹操を害する者は、自分の敵だと。
その言葉を、曹操は決して忘れない。
欲しいものを手に入れた覇王は、もう手放す気などなかった。
この日。
張燕は初めて、魏の将として一つの戦いに勝利した。
一人も斬らず。
一滴の血も流さず。
言葉だけで一万の兵を降した。
その功績は、やがて許昌へ届く。
そして魏の重臣たちも認めざるを得なくなる。
黒山の狼は、曹操の情によって生かされた捕虜ではない。
魏の天下に必要な牙なのだと。
もっとも。
本人だけは、その夜に与えられた豪華な部屋を前にして、心底嫌そうな顔をしていた。
「曹操」
「何?」
「なぜ寝台が一つしかない」
「城に最も良い客室が、ここだけだったのよ」
「隣の部屋は」
「春蘭と秋蘭が使うわ」
「俺は床で寝る」
「許さないわ」
「なぜだ」
曹操は寝台へ腰を下ろし、当然のように言い放った。
「私のものを床で寝かせる趣味はないもの」
時雨は深く息を吐く。
城の外では、燕国の最後の旗が丁寧に畳まれていた。
城の内では、魏の覇王と黒山の狼による、戦よりも面倒な夜が始まろうとしていた。
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