【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第4話 消えない燕の旗

外伝 第4話 消えない燕の旗

 

 

許昌を出発してから、三日。

 

曹操たちの小さな騎馬隊は、旧燕国領の西部へ足を踏み入れていた。

 

かつて燕の旗が掲げられていた土地。

 

黒山の麓から西へ伸びる街道は、魏の都周辺ほど整えられてはいない。荷車の車輪が通るたびに乾いた土が舞い上がり、馬蹄に踏み砕かれた小石が道端へ弾けていく。

 

道の左右には麦畑が広がっていた。

 

しかし、収穫を控えた穂は手入れされておらず、風に吹かれるまま乱れている。

 

畑で働く農民の姿も少ない。

 

時折、遠くの民家からこちらを窺う者がいたが、魏の旗を見るとすぐに戸を閉ざした。

 

曹操は馬上から周囲を見渡した。

 

「歓迎されていないようね」

 

「当然だろ」

 

時雨は前方を見据えたまま答えた。

 

彼の腰には、今も剣がない。

 

曹操の腰には二本の剣が差されている。

 

一本は曹操自身のもの。

 

もう一本は、時雨が預けた黒い鞘の剣。

 

曹操は出発の際にも返そうとはしなかった。

 

時雨も求めなかった。

 

丸腰のまま一万の反乱軍へ会いに向かう。

 

夏侯惇は、そのことが気に入らないらしい。

 

少し後方を進みながら、何度も時雨の腰へ視線を向けていた。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「本当に武器は必要ないのか」

 

昨日までは、剣を持たせれば裏切るのではないかと疑っていた。

 

それが反乱軍の勢力圏へ近づいた途端、丸腰であることを心配し始めている。

 

時雨は口元を少しだけ歪めた。

 

「何だ。俺が死ぬのが心配か」

 

「違う!」

 

夏侯惇は即座に否定した。

 

「お前が死ねば、反乱軍を説得できなくなるからだ!」

 

「それを心配してると言うんじゃないのか」

 

「曹操様の策が失敗することを案じている!」

 

「似たようなもんだろ」

 

「まったく違う!」

 

二人の声が街道へ響く。

 

夏侯淵は呆れたように姉を見る。

 

「姉者。声が大きい」

 

「こいつの態度が悪いからだ!」

 

「三日前から何も変わっていないだろう」

 

「だから腹が立つのだ!」

 

夏侯惇の怒声に、護衛の魏兵たちが苦笑を浮かべた。

 

出発した直後は、誰も時雨へ気軽に近づこうとしなかった。

 

黒山の狼。

 

百万の賊を束ねた男。

 

いつ曹操へ牙を剥くか分からない危険人物。

 

兵たちはそう考え、常に一定の距離を置いていた。

 

だが三日間の旅を経て、その警戒には少しずつ別の感情が混ざり始めていた。

 

時雨は夜営の場所を選ぶ際、周辺の地形を誰よりも早く見抜いた。

 

水場が近く、伏兵を置ける茂みが少なく、敵が接近すればすぐに分かる場所。

 

曹操の食事より先に、馬と兵へ水を与えさせた。

 

荷の紐が緩んでいることに気づけば、黙って結び直した。

 

夜の見張り番でもないのに、何度か自ら陣の外を回った。

 

偉そうに命令することはない。

 

褒められようともしない。

 

ただ、必要だと思ったことを勝手にやっていた。

 

それが余計に、魏兵たちを困惑させた。

 

恐ろしい賊の頭領という噂と、目の前の男の姿が、うまく重ならなかったのである。

 

曹操は時雨と夏侯惇の言い争いを聞きながら、小さく笑った。

 

「春蘭」

 

「はっ!」

 

「張燕へ剣を渡す必要はないわ」

 

「しかし曹操様。敵の中へ入れば、何が起きるか分かりません」

 

「私が持っているもの」

 

曹操は時雨の剣の柄へ手を置いた。

 

「必要になれば、私が渡すわ」

 

時雨が横目で曹操を見る。

 

「間に合うのか」

 

「あなたなら、私が投げた剣を受け取れるでしょう?」

 

「外したらどうする」

 

「私が外すと?」

 

曹操の蒼い瞳が細められる。

 

「いや」

 

時雨はすぐに視線を戻した。

 

「聞いた俺が悪かった」

 

「分かればいいのよ」

 

曹操は満足げに頷いた。

 

夏侯惇も、不承不承ながら口を閉じる。

 

先頭を進んでいた斥候が戻ってきたのは、それから間もなくのことだった。

 

馬を急がせて一行の前へ来ると、その場で手綱を引き、素早く下馬する。

 

「ご報告いたします!」

 

曹操たちも馬を止めた。

 

「前方二里ほどの場所に村があります。ですが、村の入口は封鎖されております」

 

「兵は?」

 

夏侯淵が尋ねる。

 

「確認できたのは三十ほど。しかし、家屋の影にも人の気配がございます」

 

「旗は?」

 

時雨が口を挟む。

 

斥候は一瞬だけ時雨を見た後、答えた。

 

「魏の旗ではございません」

 

「燕か」

 

「はい」

 

曹操の表情は変わらない。

 

「旗の色は?」

 

「黒地に白の燕でございます」

 

時雨がわずかに目を細めた。

 

黒山賊が使っていた旗とは違う。

 

燕国を名乗り始めた後、城や役所へ掲げるために作らせた旗だった。

 

軍旗というより、国の存在を示す象徴。

 

黒い地は、黒山。

 

白い燕は、山を飛び越えて自由に生きる民を表している。

 

意匠を考えたのは時雨ではない。

 

民の中にいた、文字と絵に詳しい老人だった。

 

完成した旗を見せられたときも、時雨は興味がないと答えた。

 

旗で腹が膨れるわけではない。

 

国の名で敵が消えるわけでもない。

 

そう言って、ろくに見ようともしなかった。

 

だが今になって、その旗を掲げる者たちの気持ちが分かる。

 

彼らにとって燕国は、ただの名前ではなかった。

 

賊と呼ばれずに生きられる場所。

 

自分たちが国の民だと胸を張れる証。

 

それを時雨は、一日で消した。

 

「迂回しますか?」

 

夏侯淵が曹操へ尋ねる。

 

この小さな村で争う必要はない。

 

目的地はさらに西。

 

反乱軍一万が集まっている城である。

 

だが時雨は首を横に振った。

 

「ここを避ければ、先へは行けない」

 

曹操が地図を開く。

 

「別の道もあるでしょう?」

 

「ある」

 

時雨は地図上の細い線を指した。

 

「だが、そっちは森を抜ける」

 

「馬五十なら通れるのでは?」

 

「反乱軍の斥候に見つからず進むことはできる」

 

「では、なぜ?」

 

時雨は村の方角を見る。

 

「この村を避けたって噂が先に走る」

 

「張燕は燕の旗を恐れた」

 

「曹操は民と話す気がない」

 

「好きなように言われる」

 

曹操は時雨の横顔を見た。

 

「では、正面から入るのね」

 

「ああ」

 

「攻撃されたら?」

 

「話す」

 

「話を聞かなければ?」

 

「それでも話す」

 

夏侯惇が顔をしかめる。

 

「相手が矢を射てきてもか」

 

時雨は夏侯惇を見る。

 

「射らせるな」

 

「どうやってだ!」

 

「お前が殺気を出さなきゃいい」

 

「私のせいにするな!」

 

「春蘭」

 

曹操が名前を呼ぶ。

 

夏侯惇は不満そうに口を閉じた。

 

曹操は斥候へ告げる。

 

「隊列を整えなさい。ただし武器は抜かせないように」

 

「はっ!」

 

斥候が下がる。

 

曹操は護衛の兵たちへ視線を巡らせた。

 

「これから村へ入るわ」

 

「向こうが攻撃しない限り、こちらからは絶対に手を出してはならない」

 

「石を投げられても?」

 

一人の兵が思わず尋ねた。

 

「耐えなさい」

 

曹操はきっぱりと言った。

 

「罵られても、矢を向けられても、命令があるまでは動かないこと」

 

兵たちの表情に緊張が走る。

 

戦場で敵と向かい合うなら、剣を抜けばいい。

 

命を奪いに来る相手を倒す。

 

それは分かりやすい。

 

しかし攻撃を受けても耐えろという命令は、戦うことより難しい。

 

「守れない者は、ここに残りなさい」

 

曹操の声が低くなる。

 

「今回の敵は、一万の兵ではない」

 

「燕国を失った者たちの恐怖と怒りよ」

 

「それを剣で斬ることはできないわ」

 

誰一人、残るとは言わなかった。

 

全員が馬上で姿勢を正える。

 

「御意!」

 

声が揃った。

 

曹操は時雨を見る。

 

「これで満足?」

 

「上出来だ」

 

時雨の返答に、夏侯惇が反応する。

 

「貴様、曹操様を評価するな!」

 

「褒めたんだが」

 

「その上からの態度をやめろ!」

 

「春蘭」

 

「は、はい!」

 

曹操はこめかみを押さえた。

 

「今は静かにしなさい」

 

「申し訳ございません……」

 

夏侯惇が肩を落とす。

 

時雨は彼女を一瞥したが、何も言わなかった。

 

言えばまた怒鳴られると、さすがに学び始めていた。

 

一行は進む。

 

やがて、街道の先に村が見えてきた。

 

低い土塀。

 

木造の家屋。

 

中央に立つ一本の旗柱。

 

その頂で、黒地に白い燕の旗が風を受けていた。

 

村の入口には荷車が横倒しにされ、丸太と縄で簡素な壁が作られている。

 

その後ろに男たちが並んでいた。

 

農具を持つ者。

 

錆びた槍を構える者。

 

弓を持つ少年。

 

鎧を身につけている者は少ない。

 

兵ではない。

 

村人たちだ。

 

それでも、その目には明確な敵意が宿っていた。

 

魏の旗が近づくにつれ、村の中から鐘が鳴らされる。

 

甲高い音。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

家々からさらに人が現れた。

 

老人。

 

女。

 

子供。

 

戦える者だけではない。

 

村のすべてが、魏軍を迎え撃とうとしていた。

 

曹操たちは村の入口から百歩ほど離れた場所で馬を止めた。

 

村側の男が声を張り上げる。

 

「それ以上近づくな!」

 

五十人の魏兵が緊張する。

 

矢が弦にかけられる音が、風の中に混じった。

 

時雨は馬上から村人たちを見る。

 

見覚えのある顔は少ない。

 

だが中央に立つ初老の男だけは知っていた。

 

名は梁伯。

 

この村のまとめ役。

 

かつて官軍の徴税に抵抗して捕らえられ、黒山の兵が役人の一行を襲った際に救い出した男だった。

 

腕の立つ武人ではない。

 

人を率いる才も特別ではない。

 

だが頑固で、約束を守り、村の者から深く信頼されている。

 

時雨が燕国を作った際、この地方の村々をまとめる役目を与えていた。

 

梁伯も、時雨に気づいたのだろう。

 

驚きで目を見開く。

 

しかし、すぐに顔を険しくした。

 

「頭領……!」

 

声に、喜びと怒りが混ざっている。

 

時雨は馬を降りた。

 

「ここで待ってろ」

 

曹操へ告げる。

 

「嫌よ」

 

「話が違うだろ」

 

「私は同行すると言ったわ」

 

「村の中までとは言ってない」

 

「あなた一人で行くとも認めていない」

 

時雨は曹操を見た。

 

曹操も譲らない。

 

夏侯惇が馬上から口を挟む。

 

「私もお供します!」

 

「お前が来ると話が進まない」

 

「何だと!」

 

時雨が村の方へ顎を向ける。

 

「見ろ」

 

夏侯惇は村人たちへ視線を移した。

 

魏武の大剣を背負う夏侯惇を見て、何人もの弓兵が矢を向けている。

 

彼女の名は旧燕国領にも知れ渡っている。

 

魏の猛将。

 

戦場で敵を容赦なく斬り伏せる女。

 

その姿が近づけば、村人たちが恐れるのも無理はない。

 

「……なら秋蘭が」

 

「姉者よりは警戒されにくいだろうが、魏将であることに変わりはない」

 

夏侯淵は冷静に言った。

 

「我々はここで待つべきだ」

 

「だが曹操様を!」

 

「私が守る」

 

時雨が答えた。

 

夏侯惇の目が鋭くなる。

 

「丸腰のお前がか」

 

「必要なら曹操から剣を受け取る」

 

曹操は腰に差した時雨の剣へ触れる。

 

「いいでしょう」

 

「曹操様!」

 

「春蘭」

 

曹操は馬を降りた。

 

「ここで待機しなさい」

 

「しかし!」

 

「私を信じられない?」

 

夏侯惇が息を詰まらせる。

 

「そのようなことは決して!」

 

「ならば従いなさい」

 

「……御意」

 

夏侯惇は悔しそうに頭を下げた。

 

曹操は時雨の隣へ立つ。

 

時雨より頭一つ以上低い。

 

華奢な少女。

 

遠目には、反乱の村へ入ろうとしている覇王には見えないだろう。

 

だが歩き始めた曹操の足取りに、恐れはなかった。

 

時雨も並んで進む。

 

二人だけ。

 

武器を抜かず。

 

護衛も連れず。

 

敵意に満ちた村人たちへ向かっていく。

 

「止まれと言った!」

 

梁伯が再び叫ぶ。

 

時雨は止まらない。

 

弓を構える者たちの手に力が入る。

 

「頭領!」

 

梁伯の声が震えた。

 

「それ以上近づけば、矢を射ます!」

 

「俺を射るのか」

 

時雨の問いかけに、梁伯の顔が歪む。

 

「なぜ……」

 

弓を持つ少年の腕が震えていた。

 

時雨の姿を知っている。

 

何度か村を訪れたこともある。

 

飢饉の際、黒山の倉から食料を運ばせた。

 

村へ流れ込んだ賊を追い払い、村人の一人を傷つけた黒山兵を自ら処罰したこともある。

 

この村の者にとって、時雨は頭領であり、王であり、守護者だった。

 

その男が今、魏の覇王と並んで歩いている。

 

腰には剣もない。

 

まるで捕らえられているようにも見える。

 

だが縄はない。

 

時雨は自分の意思で歩いている。

 

それが何より、村人たちを混乱させていた。

 

時雨は封鎖された入口から十歩ほどの位置で足を止めた。

 

曹操も隣に立つ。

 

周囲には無数の弓。

 

一本でも放たれれば、残りも続くだろう。

 

夏侯惇たちは遠くで馬に乗ったまま待機している。

 

しかし、その緊張はこちらまで伝わってきた。

 

「梁伯」

 

時雨が初老の男を呼ぶ。

 

「久しぶりだな」

 

梁伯は唇を震わせた。

 

「なぜ……なぜ曹操の隣におられるのです」

 

時雨は隣の曹操を見た。

 

「俺が選んだからだ」

 

「嘘だ!」

 

若い男が叫んだ。

 

「頭領は騙されている!」

 

「魏に脅されたのだ!」

 

「我らを救うため、仕方なく従っておられる!」

 

村人たちから次々と声が上がる。

 

「我らはまだ戦えます!」

 

「燕国は滅びていません!」

 

「頭領が戻れば、黒山の者たちも再び集まります!」

 

「百万が一つになれば、魏など恐れることはない!」

 

興奮が広がる。

 

誰もが時雨へ訴えていた。

 

帰ってきてほしい。

 

自分たちの頭領へ戻ってほしい。

 

燕国をもう一度掲げてほしい。

 

それは反乱というより、見捨てられることを恐れる子供たちの叫びに近かった。

 

時雨は黙って聞いていた。

 

否定もせず。

 

怒鳴り返しもせず。

 

すべての言葉が途切れるまで待った。

 

やがて、村の入口に重い沈黙が落ちる。

 

時雨は梁伯を見た。

 

「言いたいことは終わったか」

 

「頭領……」

 

「俺はもう、頭領じゃない」

 

梁伯の目が見開かれる。

 

「俺は黒山賊を解散させた」

 

「燕国を魏へ降した」

 

「それは……民を守るためでありましょう!」

 

梁伯は必死に言葉を重ねる。

 

「ならば我らが立ち上がれば、頭領は戻れる!」

 

「魏の軍を追い払い、再び燕を――」

 

「戻らない」

 

静かな一言だった。

 

怒声よりも強く、村人たちの胸へ突き刺さった。

 

梁伯の顔から血の気が引く。

 

「なぜ……」

 

「燕では、民を守りきれない」

 

「我らには百万がいます!」

 

「百万の民だ」

 

時雨の声が低くなる。

 

「兵じゃない」

 

「畑を耕す奴がいる」

 

「子供を育てる奴がいる」

 

「鍛冶をする奴も、商いをする奴も、病人も老人もいる」

 

「そいつら全部を戦場へ立たせるつもりか」

 

「ですが、戦える者だけでも――」

 

「半分にも届かない」

 

「それでも四十万以上!」

 

「数だけだ」

 

時雨は背後の魏兵を振り返らなかった。

 

「魏軍は四十万でも一つの命令で動く」

 

「黒山の四十万は、百を超える砦の集まりだ」

 

「頭領同士で考えも違う」

 

「武器も訓練も揃ってない」

 

「戦えば、最初に死ぬのは弱い奴らだ」

 

村人たちは黙る。

 

時雨が黒山で降伏を決めた理由。

 

それを本人の口から、初めて聞いた者も多い。

 

彼らは百万という数を信じていた。

 

数さえあれば、曹操にも勝てる。

 

時雨が先頭に立てば、不可能などない。

 

そう思い込んでいた。

 

だが時雨自身は、誰よりも黒山の脆さを知っている。

 

「では……」

 

梁伯の声が掠れる。

 

「我らは、魏へ屈するしかないのですか」

 

「屈するんじゃない」

 

「同じではありませんか!」

 

梁伯が叫んだ。

 

「燕の旗を降ろし、魏の法に従う!」

 

「土地も、命も、曹操の手の中!」

 

「それを屈服と言わず、何と言うのです!」

 

「生きるための選択だ」

 

「誇りを捨てろと!?」

 

「旗と誇りを一緒にするな」

 

時雨の目が鋭くなる。

 

「燕の旗がなければ、お前らは何者でもなくなるのか」

 

梁伯は答えられない。

 

「燕国がなくなれば、家族を守れないのか」

 

「畑を耕せないのか」

 

「明日を生きる理由まで消えるのか」

 

「そうじゃないだろ」

 

時雨は村の中を見渡す。

 

母親の後ろへ隠れる子供。

 

槍を握る老人。

 

弓を構えながら震える少年。

 

この者たちは兵ではない。

 

戦うために生きているわけでもない。

 

「俺が燕を作ったのは、お前らを戦わせるためじゃない」

 

「賊と呼ばれず、生きる場所を作るためだ」

 

「なら、魏の中で生きられるなら燕にこだわる必要はない」

 

「曹操が約束を破ればどうするのです!」

 

若い男が声を上げた。

 

「魏の役人が我らを虐げれば!」

 

「土地を奪い、重い税を課し、再び家族を殺せば!」

 

時雨は即答した。

 

「その時は俺が止める」

 

村人たちが息を呑む。

 

「頭領が?」

 

「頭領じゃない」

 

時雨は隣の曹操へ視線を向けた。

 

「俺は今、曹操の将だ」

 

「魏の……」

 

梁伯は信じられないものを見るように時雨を見つめる。

 

「曹操の将になった俺が、魏の中でお前らを守る」

 

曹操は何も言わなかった。

 

時雨が何を語るのか見定めている。

 

それは曹操が事前に命じた言葉ではない。

 

時雨自身が選んだ答えだった。

 

「それでも曹操が聞かなければ?」

 

梁伯が尋ねる。

 

時雨は曹操を見る。

 

「聞くまで話す」

 

「聞かないわよ」

 

曹操が突然口を挟んだ。

 

時雨の眉が動く。

 

「今、話の途中だ」

 

「私を聞き分けのない主君のように扱わないで」

 

「実際、聞かない時がありそうだから言ってる」

 

「その時は、あなたの話に価値がない時よ」

 

「決めるのは曹操か」

 

「当然でしょう?」

 

村人たちが呆然とする。

 

魏王と呼び捨てで話す時雨。

 

それに腹を立てながらも、斬ろうとはしない曹操。

 

二人の関係は、彼らが想像していた主従とは違っていた。

 

曹操は一歩前へ出た。

 

弓兵たちが一斉に矢を向ける。

 

時雨が僅かに腕を上げ、曹操を庇う位置へ動いた。

 

「動くな」

 

小さく告げる。

 

曹操は時雨を見上げた。

 

「私に命令するの?」

 

「今はな」

 

「後で覚えておきなさい」

 

そう言いながらも、曹操は時雨の半歩後ろで止まった。

 

梁伯たちは、その光景を見逃さなかった。

 

曹操は時雨を鎖で縛っているわけではない。

 

むしろ危険があれば、時雨が曹操を守ろうとしている。

 

「梁伯と言ったわね」

 

曹操が初老の男へ声を向けた。

 

「はい」

 

梁伯は緊張した面持ちで答える。

 

「あなたたちは、私が燕の民を虐げると思っている」

 

「……違うと申されますか」

 

「今は何を言っても信じないでしょうね」

 

曹操の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

 

「ならば約束ではなく、条件を示しましょう」

 

村人たちの間にざわめきが生まれる。

 

曹操は続ける。

 

「この村の土地は、現在耕している者へ改めて所有を認める」

 

「過去の未納税については問わない」

 

「今後三年間は税を半減する」

 

時雨が曹操を見る。

 

その条件は、事前に聞いていない。

 

曹操は時雨の視線へ気づいていたが、話を止めない。

 

「反乱のために武器を持ったことも、今日ここで捨てるなら罪に問わない」

 

「魏の兵へ加わりたい者には選別を受ける機会を与える」

 

「農民へ戻る者には種と農具を貸し与える」

 

村人たちの表情が変わっていく。

 

それは彼らにとって、あまりにも現実的な条件だった。

 

国の名や誇りよりも、明日の暮らしへ直結するもの。

 

「ただし」

 

曹操の声が冷たくなる。

 

「今日以降、再び武器を持って魏へ逆らうなら容赦しない」

 

「本人だけではない」

 

「反乱を扇動した者、その協力者も魏の法によって裁く」

 

先ほどまでの寛大さとは異なる、覇王の声だった。

 

甘い言葉だけではない。

 

従う者は守る。

 

逆らう者は討つ。

 

境界を明確に示している。

 

「選びなさい」

 

曹操は村人たちを見渡した。

 

「存在しない燕国のために死ぬか」

 

「魏の民として生きるか」

 

梁伯は旗を見上げた。

 

黒地に白い燕。

 

自分たちが国の民となった証。

 

賊でも流民でもなく、燕の民なのだと胸を張れた象徴。

 

それを降ろせば、何か大切なものまで失ってしまう気がする。

 

だが、旗の下には子供たちがいる。

 

戦えば、彼らも巻き込まれる。

 

梁伯は弓を構える少年を見た。

 

まだ十五にも届いていない。

 

手が震えている。

 

人へ矢を射たことなど、一度もないのだろう。

 

その少年が、魏軍へ矢を放てばどうなる。

 

遠くには夏侯姉妹がいる。

 

五十の兵しかいないとはいえ、村人たちが勝てるはずはない。

 

一人を殺せたとしても、村は焼かれる。

 

畑も家も失う。

 

最後に残るのは、燕の旗と死体だけだ。

 

それを誇りと呼べるのか。

 

梁伯は目を閉じた。

 

そして、槍を地面へ置いた。

 

乾いた音が響く。

 

「梁伯!」

 

若い男が叫ぶ。

 

梁伯はゆっくりと膝をついた。

 

曹操ではなく、時雨へ向かって頭を下げる。

 

「頭領」

 

「その呼び方はやめろ」

 

「これが最後です」

 

梁伯の声が震える。

 

「お尋ねします」

 

時雨は黙って待った。

 

「本当に……後悔しておられませんか」

 

「燕国を捨てたことを」

 

「我らを、曹操へ委ねたことを」

 

時雨はすぐには答えなかった。

 

後悔がないと言えば、嘘になる。

 

黒山の旗が降りた瞬間。

 

百万の声を背に受けながら、振り返らずに歩いた時。

 

燕という国が消えたと曹操へ告げた時。

 

胸のどこかが引き裂かれるようだった。

 

今も燕の旗を見れば、何も感じないわけではない。

 

しかし。

 

「後悔してる」

 

時雨は答えた。

 

村人たちがざわめく。

 

曹操も、僅かに目を細めた。

 

「なら!」

 

梁伯が顔を上げる。

 

時雨はその言葉を遮った。

 

「だが、間違ったとは思ってない」

 

「後悔と間違いは別だ」

 

「手放したくなかった」

 

「国も、お前らも、俺が守り続けるつもりだった」

 

「だが、それじゃいつか全部失う」

 

時雨は燕の旗を見上げる。

 

「だから手放した」

 

「俺より大きな国を作った奴に預けた」

 

その言葉に、曹操の瞳が僅かに揺れた。

 

時雨は曹操へ媚びる男ではない。

 

人前で褒めることも少ない。

 

だからこそ、その評価は重い。

 

「曹操なら、俺にできなかったことができる」

 

「それでも無理なら?」

 

梁伯が問う。

 

「その時は、俺も一緒に責任を取る」

 

「どのように?」

 

「死んで終わらせるつもりはない」

 

時雨は曹操と交わした言葉を思い出していた。

 

死ねば、すべて終わる。

 

満足だけを抱えて逃げられる。

 

だから生きろ。

 

責任を背負い続けろ。

 

「生きて、できるまでやる」

 

それは、かつての時雨なら口にしなかった言葉だった。

 

失敗すれば死ぬ。

 

誰かを守るために命を差し出す。

 

それが最も分かりやすい責任の取り方だと思っていた。

 

だが曹操は、それを逃げだと言った。

 

今なら少しだけ、その意味が分かる。

 

梁伯は長く頭を下げ続けた。

 

やがて、肩を震わせながら立ち上がる。

 

「旗を……」

 

声が掠れた。

 

「燕の旗を降ろせ」

 

誰も動かなかった。

 

梁伯はもう一度、強く叫んだ。

 

「旗を降ろせ!」

 

一人の青年が旗柱へ走った。

 

縄へ手をかける。

 

しかし、引くことができない。

 

涙を流しながら、何度も力を入れようとする。

 

その隣へ、別の村人が立った。

 

さらに一人。

 

二人。

 

三人。

 

皆で縄を掴んだ。

 

ゆっくりと燕の旗が下り始める。

 

風を受けていた白い燕が、少しずつ地上へ近づいていく。

 

村の中から嗚咽が聞こえた。

 

女たちが泣いている。

 

老人が顔を覆う。

 

弓を持った少年も、唇を噛みながら涙を流していた。

 

旗が地面へ着く前に、梁伯が両腕で受け止める。

 

土へ触れさせないよう、大切に抱き締めた。

 

「燃やしますか」

 

梁伯が時雨へ尋ねた。

 

時雨は首を横に振る。

 

「必要ない」

 

「ですが、燕は終わりました」

 

「終わったからって、全部消す必要はない」

 

「では、この旗をどうすれば」

 

時雨は少し考えた。

 

「しまっておけ」

 

曹操が眉を上げる。

 

「再び反乱の旗にされるかもしれないわよ」

 

「その時は俺が取り上げる」

 

「自信があるのね」

 

「思い出まで奪えば、余計に反発する」

 

時雨は梁伯を見る。

 

「燕の旗は、戦うためだけに作ったものじゃない」

 

「お前らが生きた証だ」

 

「忘れる必要はない」

 

「ただし、もう掲げるな」

 

梁伯は旗を強く抱き締めた。

 

「承知しました」

 

そして今度は、曹操へ向き直る。

 

すぐには頭を下げられなかった。

 

目の前にいるのは、燕を消した覇王。

 

憎むべき敵。

 

そう思っていた相手である。

 

だが時雨が選んだ主でもある。

 

梁伯は迷いながらも、やがて片膝をついた。

 

「我らは……魏へ従います」

 

一人。

 

また一人。

 

村人たちが武器を置いていく。

 

槍。

 

弓。

 

農具。

 

地面へ落ちる音が続いた。

 

全員が曹操へ忠誠を誓ったわけではない。

 

魏を好きになったわけでもない。

 

それでも、生きる道を選んだ。

 

曹操は村人たちを見渡す。

 

「賢明な判断ね」

 

その口調は傲慢だった。

 

だが勝者として彼らを嘲る色はない。

 

「明日、役人を送るわ」

 

「土地と住民の登録を始めさせる」

 

「食料が不足しているなら、今のうちに申し出なさい」

 

梁伯が驚いて顔を上げる。

 

「よろしいのですか」

 

「魏の民を飢えさせる趣味はないわ」

 

曹操は当然のように答えた。

 

「ただし無償ではない」

 

「街道整備に人を出しなさい」

 

「働ける者が働き、対価として食料を受け取る」

 

時雨が軍議で提案した方法である。

 

梁伯は深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼は結果を見てからにしなさい」

 

曹操は踵を返そうとする。

 

その時。

 

村の奥から激しい馬蹄の音が響いた。

 

誰もが振り返る。

 

十数騎の男たちが、土煙を上げながら中央の道を駆けてくる。

 

全員が鎧を身につけていた。

 

村人ではない。

 

旧燕国の兵。

 

先頭の男は、燕の旗を掲げている。

 

「梁伯!」

 

怒鳴り声が響く。

 

「何をしている!」

 

騎馬の男たちは村の入口で止まった。

 

先頭の男が馬上から梁伯を睨みつける。

 

年齢は三十ほど。

 

日に焼けた顔。

 

左の頬には大きな傷。

 

時雨はその男を知っていた。

 

名を、韓武という。

 

黒山の西側で二千の兵を預かっていた将。

 

戦場では勇猛。

 

部下からの信頼も厚い。

 

だが視野が狭く、一度決めたことを曲げられない。

 

燕国の旗へ強い誇りを持っていた男でもある。

 

韓武も時雨を見つけた。

 

その表情に、歓喜が浮かぶ。

 

「頭領!」

 

馬を飛び降り、時雨へ駆け寄ろうとする。

 

しかし、その隣にいる曹操へ気づいた瞬間、足を止めた。

 

「なぜ……」

 

韓武の顔から喜びが消える。

 

「なぜ曹操と共におられるのです」

 

時雨は同じ説明を繰り返す気はなかった。

 

「俺は魏へ降った」

 

「嘘だ!」

 

韓武が叫ぶ。

 

「頭領は、そのような男ではない!」

 

「お前が俺を決めるな」

 

「百万を捨て、敵に媚びるなど!」

 

空気が凍りつく。

 

夏侯惇たちは遠くにいる。

 

だが韓武の声は届いただろう。

 

魏兵たちも槍へ手をかけている。

 

時雨の目が鋭くなる。

 

「今、何と言った」

 

韓武は怯まない。

 

「我らを捨てたと申しました!」

 

「燕を売り、曹操の下へ逃げた!」

 

「頭領がそのような選択をするはずがない!」

 

「きっと、その女に何かをされたのでしょう!」

 

韓武は剣を抜いた。

 

切っ先を曹操へ向ける。

 

「今、我らが助けます!」

 

曹操の表情は変わらない。

 

蒼い瞳が、冷たく韓武を見据えている。

 

時雨は曹操の前へ出た。

 

「剣を下ろせ」

 

「頭領、退いてください!」

 

「俺はもう頭領じゃない」

 

「違います!」

 

韓武は首を横に振る。

 

「我らの頭領は、あなただけです!」

 

「一万の同志が、頭領を待っています!」

 

「皆、燕国の再興を願っております!」

 

「頭領が戻れば、五万でも十万でも集まる!」

 

韓武の背後にいる兵たちも声を上げる。

 

「頭領!」

 

「我らと共に!」

 

「燕を取り戻しましょう!」

 

村人たちが揺れる。

 

一度は武器を置いた者の中にも、韓武の言葉へ迷う者がいた。

 

時雨が戻れば。

 

燕国を再興すれば。

 

以前の暮らしへ戻れるのではないか。

 

国を失った痛みを、なかったことにできるのではないか。

 

曹操はその揺れを見抜いていた。

 

ここで一歩でも対応を誤れば、村は再び反乱へ傾く。

 

夏侯惇たちを呼び寄せ、韓武を斬ることは容易い。

 

だがそれでは、やはり魏が力で燕を押さえつけたという形になる。

 

曹操は時雨の背中を見上げた。

 

彼がどう答えるのか。

 

黒山の狼が過去と決別できるのか。

 

それを見極めようとしていた。

 

時雨は韓武へ向かって歩き出した。

 

「頭領?」

 

韓武の顔に期待が浮かぶ。

 

時雨が自分の方へ来る。

 

曹操から離れる。

 

そう思ったのだろう。

 

「分かっていただけましたか!」

 

「我らと共に、燕を――」

 

時雨の拳が韓武の顔面へ叩き込まれた。

 

鈍い音。

 

韓武の身体が地面へ転がる。

 

誰もが言葉を失った。

 

韓武は何が起きたのか理解できず、地面へ手をついたまま時雨を見る。

 

鼻から血が流れている。

 

「な……なぜ……」

 

「言ったはずだ」

 

時雨は冷たい目で韓武を見下ろした。

 

「俺は魏へ降った」

 

「それは……頭領が我らを救うために!」

 

「俺が選んだ」

 

「ですが!」

 

時雨は韓武の胸倉を掴み、無理やり立ち上がらせた。

 

「聞こえなかったのか」

 

低い声だった。

 

怒鳴ってはいない。

 

それでも韓武の身体が震える。

 

「俺は曹操のものになった」

 

曹操の眉が僅かに動く。

 

時雨は続ける。

 

「燕を再興する気はない」

 

「黒山賊へ戻る気もない」

 

「俺が立つ場所は、もう曹操の隣だ」

 

韓武の目が大きく見開かれる。

 

村人たちも息を呑んだ。

 

降伏の条件として仕方なく従っているのではない。

 

時雨は自分の意思で、曹操の隣を選んでいる。

 

そのことを、本人の口からはっきりと告げた。

 

「頭領……」

 

「その呼び方をやめろ」

 

「では、我らはどうすれば!」

 

韓武の声が悲痛に響く。

 

「燕のために戦ってきた!」

 

「多くの仲間が死んだ!」

 

「今さら魏へ頭を下げれば、死んだ者たちは何のために戦ったのです!」

 

時雨は胸倉から手を離した。

 

韓武がよろめく。

 

「生きてる奴が生きるためだ」

 

「何ですと……」

 

「死んだ奴のために、残った奴まで死ぬ必要はない」

 

「それでは、彼らの死を忘れろと!」

 

「忘れろとは言ってない」

 

時雨は韓武の目を見る。

 

「覚えてろ」

 

「名前も、顔も、最後の言葉も」

 

「全部背負って生きろ」

 

「死ぬのは簡単だ」

 

「燕の旗を掲げて魏へ突っ込めば、勇敢に死ねる」

 

「それで満足するのはお前だけだ」

 

韓武の拳が震える。

 

「残された家族はどうなる」

 

「部下の子供は誰が育てる」

 

「戦えない奴らを誰が守る」

 

「死んだ仲間への責任ってのは、一緒に死ぬことじゃない」

 

時雨の声には、自分自身へ言い聞かせる響きも混ざっていた。

 

曹操に言われたこと。

 

死んで責任を取るのは逃げだという言葉。

 

時雨はそれを、今度は韓武へ伝えている。

 

「生きろ」

 

「それが一番面倒で、一番重い責任だ」

 

韓武の目から涙が零れた。

 

「私は……」

 

声が震える。

 

「私は、燕しか知りません」

 

「黒山しか、頭領しか……」

 

「なら、これから魏を知れ」

 

時雨は曹操を振り返る。

 

「こいつは使える」

 

突然の言葉に、曹操が眉を上げた。

 

「私へ売り込んでいるの?」

 

「勇猛さだけなら悪くない」

 

「頭は固いが、裏切るような奴じゃない」

 

「あなたへ剣を向けた直後なのだけれど」

 

「俺を助けるつもりだったらしい」

 

「だから許せと?」

 

「決めるのは曹操だ」

 

時雨は韓武から離れ、曹操の隣へ戻った。

 

「俺は使えると思った。それだけだ」

 

曹操は韓武を見た。

 

剣を地面へ落とし、呆然と立っている男。

 

その背後には十数名の兵。

 

さらに西の城には、一万の反乱軍が待っている。

 

韓武を処刑すれば、彼らは徹底抗戦を選ぶだろう。

 

生かして利用すれば、反乱軍を収める鍵になる。

 

判断は難しくない。

 

だが曹操は、すぐに答えなかった。

 

時雨へ視線を向ける。

 

「彼の命を助けてほしい?」

 

「決めるのは曹操だと言った」

 

「あなたの望みを聞いているの」

 

時雨は韓武を見る。

 

頑固な男。

 

命令へ反発したことも何度もある。

 

それでも戦場では、時雨の背中を守った。

 

部下を見捨てたこともない。

 

死なせるには惜しい。

 

「生かせるならな」

 

短い答えだった。

 

曹操の口元が僅かに緩む。

 

「素直ではないのね」

 

「何がだ」

 

「助けてほしいと言えばよいでしょう?」

 

「俺が頼めば、曹操は聞くのか」

 

「内容によるわ」

 

「なら同じだ」

 

曹操は小さく息を吐いた。

 

そして韓武へ向き直る。

 

「あなたに選択肢を与えるわ」

 

韓武は顔を上げる。

 

「一つ」

 

「この場で死ぬ」

 

村人たちが緊張する。

 

「二つ」

 

「西の城へ戻り、一万の反乱兵へ武器を捨てさせる」

 

「それができれば、今日のことは不問にしましょう」

 

韓武の瞳が揺れる。

 

「我らを……許すと?」

 

「許すのではないわ」

 

曹操の声は冷たい。

 

「利用するの」

 

「一万の兵を殺すより、働かせた方が魏の利益になる」

 

「あなたも同じよ」

 

「張燕が使えると言った」

 

「ならば、その価値を証明しなさい」

 

韓武は時雨を見る。

 

時雨は何も言わない。

 

助け舟も出さない。

 

決めるのは韓武自身だ。

 

長い沈黙の後。

 

韓武は地面へ膝をついた。

 

「承知……いたしました」

 

「誰へ返事をしているの?」

 

曹操が問いかける。

 

韓武の顔が苦痛に歪む。

 

これまで敵と呼んできた者。

 

燕国を消した覇王。

 

その相手へ頭を下げなければならない。

 

簡単にできることではない。

 

韓武は何度も拳を握り直した。

 

やがて、地面へ両手をつく。

 

「曹操様の命に……従います」

 

夏侯惇たちが遠くで反応する。

 

村人たちもざわめいた。

 

時雨は黙って韓武を見下ろしていた。

 

一つの時代が、また終わった。

 

燕の将が魏へ従った瞬間。

 

それは時雨自身が降伏した時よりも、胸へ重く響いた。

 

「顔を上げなさい」

 

曹操が告げる。

 

韓武がゆっくり顔を上げた。

 

「城まで案内しなさい」

 

「はっ」

 

「ただし」

 

曹操は時雨の剣の柄へ手を置く。

 

「少しでも妙な動きをすれば、今度は容赦しない」

 

韓武は深く頭を下げた。

 

「肝に銘じます」

 

曹操は村人たちへ向き直る。

 

「私たちは西の城へ向かう」

 

「この村へ魏の役人が来るまで、武器を持つことを禁じるわ」

 

梁伯が答える。

 

「承知いたしました」

 

「それから」

 

曹操は梁伯が抱える燕の旗を見る。

 

「その旗は、魏の役人へ見つからない場所へしまいなさい」

 

梁伯が驚く。

 

「よろしいのですか」

 

「張燕が残せと言ったのでしょう?」

 

「ですが、曹操様は――」

 

「私は欲しいものを奪うけれど、価値のないものまで壊す趣味はないわ」

 

曹操にとって、燕の旗そのものは脅威ではない。

 

旗に集う意志が脅威なのだ。

 

そしてその意志が魏へ向くなら、過去の象徴を残すことに問題はない。

 

むしろ無理に奪えば、消えない恨みを作る。

 

梁伯は深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「だから礼は、結果を見てからにしなさい」

 

曹操は馬のもとへ戻っていく。

 

時雨も後へ続く。

 

村の入口を離れる直前、梁伯が時雨を呼び止めた。

 

「張燕様!」

 

時雨は足を止める。

 

頭領ではない。

 

初めて、名で呼ばれた。

 

「何だ」

 

梁伯は燕の旗を抱いたまま、真っ直ぐ時雨を見た。

 

「どうか……お元気で」

 

時雨は少しだけ目を細めた。

 

「お前もな」

 

それだけを答え、再び歩き出す。

 

曹操は隣へ並んだ時雨の顔を覗き込んだ。

 

「寂しい?」

 

「別に」

 

「嘘ね」

 

「なぜ分かる」

 

「あなたは寂しい時ほど、顔が怖くなるもの」

 

「会って四日だろ」

 

「四日あれば十分よ」

 

「同じことを前にも聞いたな」

 

曹操は楽しそうに笑う。

 

「あなたが分かりやすいのよ」

 

「初めて言われた」

 

「黒山の者たちは、あなたを理解しようとしなかったのかしら」

 

「必要なかったんだろ」

 

「命令に従えばよかったから?」

 

「いや」

 

時雨は少し考えた。

 

「俺が何を考えてても、最後には守ると思ってたんだろ」

 

曹操の笑みが僅かに消える。

 

それは信頼であると同時に、重い依存でもある。

 

時雨なら守ってくれる。

 

頭領なら何とかする。

 

王なら自分たちを救ってくれる。

 

百万の期待を一人で受け続けてきた。

 

時雨が国を手放した理由の一つは、そこにもあったのかもしれない。

 

「これからは違うわ」

 

曹操が言った。

 

「何がだ」

 

「あなた一人で守る必要はない」

 

曹操は前方を見る。

 

韓武が道案内のため、馬を進めている。

 

その先には一万の反乱軍。

 

まだ燕国の夢を捨てていない者たちが待っている。

 

「魏の民は、私が守る」

 

「あなたは?」

 

時雨が尋ねる。

 

曹操は当然のように答えた。

 

「あなたが守りなさい」

 

時雨は眉をひそめる。

 

「俺だけか」

 

「春蘭も秋蘭も、桂花たちもいるわ」

 

「なら俺がいなくてもいいだろ」

 

「駄目よ」

 

曹操の手が、時雨の剣の柄を撫でる。

 

「あなたは私のものだもの」

 

「理由になってない」

 

「私にとっては十分よ」

 

時雨は大きく息を吐いた。

 

「面倒だな」

 

「諦めなさい」

 

二人が馬へ戻ると、待機していた夏侯惇がすぐに駆け寄ってきた。

 

「曹操様! ご無事ですか!」

 

「見れば分かるでしょう?」

 

「お怪我は!」

 

「ないわ」

 

「張燕に妙な真似をされませんでしたか!」

 

時雨が夏侯惇を見る。

 

「ずっと一緒にいたぞ」

 

「だから心配なのだ!」

 

「俺から守るためについてきたのか」

 

「当然だ!」

 

「反乱軍より危険扱いされてるな」

 

「当たり前だろう!」

 

曹操は額へ手を当てる。

 

「春蘭」

 

「はい!」

 

「少し静かにしなさい」

 

「も、申し訳ございません」

 

夏侯惇は再び肩を落とした。

 

その隣で夏侯淵が韓武を見ている。

 

「その男は?」

 

「反乱軍へ案内するそうよ」

 

曹操が答える。

 

夏侯淵の目が鋭くなる。

 

「信用できるのですか」

 

「できないわ」

 

即答だった。

 

韓武の表情が強張る。

 

「だから、あなたと春蘭が見張りなさい」

 

「御意」

 

「姉者」

 

夏侯淵は声を低くする。

 

「先ほどの鬱憤を晴らすために斬るなよ」

 

「私はそのようなことはしない!」

 

「剣へ手が伸びている」

 

夏侯惇は慌てて大剣の柄から手を離した。

 

「こ、これはいつもの癖だ!」

 

時雨が小さく笑う。

 

「俺と同じだな」

 

「貴様と一緒にするな!」

 

魏兵たちの間から、堪えきれない笑いが漏れた。

 

夏侯惇が振り返る。

 

兵たちは一斉に顔を逸らす。

 

「何がおかしい!」

 

「何でもございません!」

 

声が揃う。

 

曹操はその様子を見ながら、口元へ薄い笑みを浮かべた。

 

村へ入る前まで、隊には重い緊張があった。

 

元黒山賊の土地。

 

どこから攻撃されるか分からない。

 

時雨が裏切る可能性もある。

 

誰もがそう考えていた。

 

だが今は少し違う。

 

時雨は村人たちへ魏に従うよう告げた。

 

自らを慕う元部下を殴り、曹操の隣に立つと宣言した。

 

その行動を見た兵たちの疑念は、完全ではないにせよ薄れ始めていた。

 

信頼は言葉では生まれない。

 

行動によって積み重なる。

 

時雨は最初の一つを示した。

 

「出発するわ」

 

曹操の命令で、一行は再び西へ進み始めた。

 

今度は韓武たちが先導する。

 

街道を離れ、山の間を抜ける細い道へ入っていく。

 

目的地まで半日。

 

日が沈む前には、反乱軍の集まる城が見えるはずだった。

 

馬上で進みながら、韓武は何度も時雨を振り返っていた。

 

問いかけたいことがある。

 

だが曹操や夏侯姉妹の前では、口にすることを躊躇っている。

 

その様子に気づいた時雨は、馬を進めて韓武の横へ並んだ。

 

「何だ」

 

韓武の肩が僅かに揺れる。

 

「いえ……」

 

「言え」

 

「しかし」

 

「面倒だ。早くしろ」

 

韓武はしばらく迷った後、小さく尋ねた。

 

「本当に、曹操様へお仕えするのですか」

 

「ああ」

 

「いずれ機会を見て、燕を再興するお考えは」

 

「ない」

 

迷いのない返答だった。

 

韓武は唇を噛む。

 

「では、我らが燕のために戦ってきたことは……」

 

「無駄じゃない」

 

時雨は前方を見たまま答えた。

 

「お前らが戦ったから、燕は国になった」

 

「燕があったから、多くの民が生き残った」

 

「それで十分だ」

 

「国は永遠に残るものではないと?」

 

「残るわけないだろ」

 

「魏も、ですか」

 

時雨は少しだけ曹操を見る。

 

金色の髪を揺らし、隊の先頭近くを進む小柄な覇王。

 

「いつかはな」

 

韓武が驚いた。

 

「曹操様の前で、そのようなことを申されているのですか」

 

「今、言った」

 

「聞こえているわよ」

 

前方から曹操の声が飛んできた。

 

韓武の顔が青くなる。

 

曹操は馬の速度を落とし、時雨の反対側へ並んだ。

 

「私の魏が滅びると言ったわね」

 

「いつかは、と言った」

 

「私が生きている間に?」

 

「それは分からない」

 

「滅ぼさせないわ」

 

曹操は強く言い切る。

 

「私が築く魏は、私が死んだ後も残る国にする」

 

「そうか」

 

「何よ、その返事は」

 

「頑張れ」

 

「あなたも作る側なのよ」

 

時雨の顔が露骨に曇った。

 

「聞いてない」

 

「今言ったわ」

 

「勝手に役目を増やすな」

 

「あなたの役目を決めるのは私よ」

 

「拒否する」

 

「認めない」

 

韓武は二人の会話を呆然と聞いていた。

 

魏王と新参の将。

 

とても主従には見えない。

 

喧嘩をしているようにも見える。

 

だが二人の間には、他者が入り込めない不思議な近さがある。

 

時雨は曹操を恐れていない。

 

曹操も時雨の無礼を本気で咎めない。

 

互いに遠慮なく言葉をぶつけ、それでも同じ方向へ馬を進めている。

 

「変わられましたな」

 

韓武が呟いた。

 

時雨が眉を動かす。

 

「俺がか」

 

「はい」

 

「どこが」

 

「以前の頭領は、国の先のことなど語られませんでした」

 

韓武は苦笑する。

 

「明日、誰が食べるか」

 

「次に、どの敵を倒すか」

 

「そればかりで」

 

「悪かったな」

 

「いいえ」

 

韓武は首を横に振る。

 

「それが必要でした」

 

「我らは明日を生きることで精一杯だった」

 

「頭領が先頭に立ってくださらなければ、国どころか今日の命もなかった」

 

「ですが今は……」

 

韓武は曹操を見る。

 

「もっと先を見ておられる」

 

時雨は答えなかった。

 

自分では変わったつもりはない。

 

曹操へ降伏してから、まだ数日しか経っていない。

 

それでも、黒山にいた頃とは考えることが違う。

 

百万を今日生かすだけではない。

 

十年後。

 

二十年後。

 

自分がいなくなった後。

 

民が国に頼るだけでなく、仕組みによって守られる未来。

 

曹操と話す中で、そのようなものを考え始めていた。

 

「私のおかげね」

 

曹操が満足そうに言う。

 

時雨は即座に否定した。

 

「違う」

 

「なぜよ」

 

「自分の手柄にしたがるな」

 

「事実でしょう?」

 

「まだ何もしてない」

 

「あなたを手に入れたわ」

 

曹操は時雨の腰へ視線を向ける。

 

「剣も、命も」

 

「その話、いつまで言うつもりだ」

 

「永遠に」

 

「魏より長く残りそうだな」

 

曹操は楽しそうに笑った。

 

韓武は二人を見比べる。

 

そして、わずかに肩の力を抜いた。

 

時雨は捕らえられているわけではない。

 

曹操に壊されたわけでもない。

 

この覇王の隣で、時雨は以前よりも人間らしく話している。

 

黒山にいた頃の時雨は、ほとんど笑わなかった。

 

必要な命令だけを出し、一人で決め、一人で背負っていた。

 

今は曹操とくだらない言い争いをし、夏侯惇をからかい、周囲の兵たちに笑われている。

 

それを変化と呼ぶなら。

 

悪いことではないのかもしれない。

 

韓武はまだ魏を信じてはいない。

 

曹操へ心から忠誠を誓ったわけでもない。

 

それでも時雨の選択を、少しだけ理解し始めていた。

 

---

 

夕刻。

 

山道を抜けると、前方の盆地に石造りの城が見えた。

 

高い城壁。

 

四方へ伸びる堀。

 

城門の上には、何本もの燕の旗。

 

城壁には兵たちが並び、こちらを監視している。

 

数は一万。

 

梁伯の村とは違う。

 

今度は本物の戦闘集団だった。

 

彼らの多くは、かつて時雨の下で戦った黒山兵。

 

魏軍との戦いを望み、降伏命令へ従わなかった者たち。

 

曹操たちの騎馬隊が見えると、城壁の兵たちが騒ぎ始めた。

 

やがて、歓声が上がる。

 

「頭領だ!」

 

「張燕様がお戻りになった!」

 

「燕王が帰ってきたぞ!」

 

一万の声が、盆地を揺らした。

 

時雨の表情が僅かに曇る。

 

彼らはまだ、自分が燕を再興するために来たと思っている。

 

韓武は馬上で俯いていた。

 

自分も少し前まで、同じ期待を抱いていた。

 

曹操は城壁を見上げる。

 

無数の燕旗。

 

歓喜する兵たち。

 

そのすべてが、時雨を求めている。

 

「人気者ね」

 

「嬉しそうに聞こえるか」

 

「いいえ」

 

曹操は時雨の横顔を見る。

 

苦しんでいる。

 

自分を慕う者へ、終わりを告げなければならない。

 

彼らの期待を、自らの言葉で壊さなければならない。

 

剣で戦う方が、時雨にとっては遥かに楽だろう。

 

「戻りたくなった?」

 

曹操が尋ねる。

 

時雨は城壁を見つめたまま答える。

 

「俺が戻れば、どうする」

 

曹操の蒼い瞳が細くなる。

 

「あなたを斬るわ」

 

「迷わないのか」

 

「ええ」

 

曹操は腰にある時雨の剣へ触れた。

 

「この剣で、あなたを斬る」

 

「俺の剣でか」

 

「あなたの命は私のものよ」

 

「終わらせるなら、私の手で終わらせる」

 

時雨は曹操を見る。

 

冗談ではない。

 

時雨が燕へ戻り、魏の敵となるなら。

 

曹操は自らこの剣を抜き、時雨を斬る。

 

その覚悟が瞳に宿っていた。

 

「怖い女だな」

 

「今さらでしょう?」

 

「ああ」

 

時雨は小さく笑う。

 

「安心しろ」

 

「あれを見ても戻る気はない」

 

城壁から降り注ぐ歓声。

 

燕王。

 

頭領。

 

我らの主。

 

かつての自分を呼ぶ声。

 

だが時雨は馬を進め、曹操の半歩前へ出た。

 

戻る場所は、あの城ではない。

 

燕の旗の下でもない。

 

自分が立つと決めた場所は、曹操の隣。

 

「韓武」

 

「はっ」

 

「門を開けさせろ」

 

韓武の顔が強張る。

 

「城内へ入られるのですか」

 

「ああ」

 

「危険です」

 

夏侯惇が前へ出る。

 

「曹操様、ここから先はお任せください」

 

「一万程度なら、私と秋蘭で――」

 

「駄目だ」

 

時雨が遮る。

 

夏侯惇の眉が吊り上がる。

 

「また貴様は!」

 

「ここで戦えば、今までやったことが全部無駄になる」

 

「だが城内は敵だらけだぞ!」

 

「俺を待ってる」

 

「だから危険なのだ!」

 

「俺が燕へ戻れと言えば、一万が一斉に魏へ刃を向ける」

 

時雨は城を見上げる。

 

「逆に、俺が終わりだと言えば、止まる可能性がある」

 

「可能性で曹操様の命を危険へ晒せるか!」

 

「春蘭」

 

曹操が静かに呼ぶ。

 

夏侯惇は唇を噛む。

 

「私は行くわ」

 

「曹操様……」

 

「五十の兵はここで待機」

 

「春蘭と秋蘭も残りなさい」

 

「できません!」

 

夏侯惇が強く反対する。

 

「今度ばかりは、命令でも従えません!」

 

場の空気が変わった。

 

曹操の命令へ、夏侯惇が明確に拒否を示した。

 

彼女にとって、曹操の安全は何よりも優先される。

 

たとえ曹操本人の命令であっても、死地へ一人で向かわせることはできない。

 

曹操は怒らなかった。

 

夏侯惇の忠誠を理解しているからだ。

 

「では、どうすれば納得するの?」

 

「私もお供します」

 

「お前が入れば、向こうが構える」

 

時雨が言う。

 

「黙れ! 貴様の意見は聞いていない!」

 

「なら俺だけで行く」

 

「それも認めん!」

 

「面倒だな」

 

「誰のせいだ!」

 

二人が睨み合う。

 

曹操は少し考えた後、結論を出した。

 

「春蘭と秋蘭は、城門まで同行」

 

「城内へ入るのは私と張燕、韓武だけ」

 

「城門が閉じられた場合、力ずくで突破しなさい」

 

夏侯淵が地形を見る。

 

「曹操様が城内にいる状態で攻めれば、危険が及びます」

 

「門だけを確保するのよ」

 

「張燕」

 

曹操は時雨を見る。

 

「城内で反乱軍を止めるまで、どれほど必要?」

 

「半刻」

 

「短すぎませんか?」

 

韓武が驚く。

 

「長引けば失敗だ」

 

時雨は断言した。

 

「俺の言葉を聞くか、聞かないか」

 

「それだけなら半刻で分かる」

 

曹操が頷く。

 

「半刻後、私たちが戻らなければ突入しなさい」

 

「曹操様!」

 

「これが最大の譲歩よ」

 

曹操の声には、これ以上の反対を許さない力があった。

 

夏侯惇は拳を握る。

 

やがて不承不承、頭を下げた。

 

「……御意」

 

韓武が馬を進め、城門へ近づく。

 

「門を開けろ!」

 

城壁から声が返る。

 

「韓武様!」

 

「頭領をお連れした!」

 

「魏王も一緒だ!」

 

兵たちの歓声が止まる。

 

ざわめきが広がった。

 

「曹操が?」

 

「なぜ頭領と共に?」

 

「捕らえたのか?」

 

「頭領が魏王を人質にしたのではないか!」

 

都合のよい解釈が、瞬く間に広がっていく。

 

時雨の顔が険しくなる。

 

彼らは自分たちが望む物語しか見ようとしていない。

 

燕王が帰ってきた。

 

曹操を捕らえた。

 

これから魏を倒す。

 

現実を受け入れられず、希望へしがみついている。

 

重い音を響かせながら、城門が開き始めた。

 

その向こうには、無数の兵たちが並んでいる。

 

皆、笑顔だった。

 

武器を掲げ、時雨の帰還を喜んでいる。

 

「燕王!」

 

「頭領!」

 

「お帰りなさいませ!」

 

時雨は馬を降りた。

 

曹操も続く。

 

夏侯姉妹は城門の外で止まった。

 

夏侯惇は大剣へ手を置き、時雨を睨む。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「曹操様を必ずお守りしろ」

 

時雨は僅かに目を見開いた。

 

夏侯惇が、自分へ曹操を託した。

 

完全に信用したわけではない。

 

だが今、この城内で曹操を守れるのは時雨だけ。

 

その現実を受け入れたのだ。

 

「ああ」

 

時雨は短く答える。

 

「命に代えてもな」

 

曹操が時雨の背中を叩いた。

 

「勝手に命を代えないで」

 

「言葉の形だ」

 

「それでも嫌よ」

 

時雨は曹操を見る。

 

「なら生きて戻る」

 

曹操は満足そうに微笑んだ。

 

「それでいいわ」

 

二人は並んで城門をくぐる。

 

韓武が後へ続く。

 

城内から一万の歓声が降り注いだ。

 

燕の旗が風に揺れる。

 

兵たちは、時雨の帰還を祝っている。

 

だが彼らはまだ知らない。

 

時雨が腰に剣を帯びていない理由を。

 

その剣を曹操が持っている意味を。

 

そして黒山の狼が、この城へ戻った目的を。

 

時雨は城門の内側で足を止めた。

 

背後で門が閉じ始める。

 

夏侯惇の怒声が外から響いた。

 

「門を閉じるな!」

 

しかし城内の兵たちは止まらない。

 

重い扉が少しずつ閉じていく。

 

曹操は動じなかった。

 

「予定通りね」

 

「分かってたのか」

 

「当然でしょう?」

 

「なら止めろ」

 

「あなたがいるもの」

 

時雨はため息をついた。

 

「信用されるのも面倒だな」

 

「諦めなさい」

 

城門が完全に閉じた。

 

曹操と時雨。

 

韓武。

 

三人は一万の反乱兵に囲まれた。

 

兵たちの歓声は続いている。

 

その中心へ、一人の大男が歩み出た。

 

獣の皮を肩へ掛け、巨大な斧を背負っている。

 

旧燕国西方軍をまとめていた将。

 

名は石剛。

 

韓武以上の武勇を持ち、降伏命令へ最初に反対した男だった。

 

石剛は時雨の前へ来ると、地面へ片膝をついた。

 

「お待ちしておりました、頭領」

 

周囲の兵も次々に膝をつく。

 

一万の人間が、時雨へ頭を下げる。

 

「我らは信じておりました」

 

石剛は顔を上げた。

 

「頭領が必ず戻り、燕を再興してくださると」

 

時雨は何も答えなかった。

 

石剛は曹操へ視線を向ける。

 

「そして、その女が曹操ですな」

 

曹操は傲然と彼を見返す。

 

「そうよ」

 

「頭領」

 

石剛の顔に笑みが浮かぶ。

 

「その女を捕らえたのですか」

 

「違う」

 

時雨は短く答えた。

 

石剛の笑みが止まる。

 

「では……」

 

「曹操は俺の主だ」

 

一万の兵たちが静まり返った。

 

風の音だけが、燕の旗を揺らしている。

 

石剛は理解できないように時雨を見る。

 

「今……何と」

 

「聞こえなかったか」

 

時雨は一万の兵を見渡した。

 

「燕国は終わった」

 

「俺は魏へ降った」

 

「今の俺は、曹操の将だ」

 

歓声は完全に消えた。

 

代わって生まれたのは、混乱。

 

怒り。

 

絶望。

 

一万の兵たちが互いの顔を見る。

 

石剛の表情が、ゆっくりと歪んでいく。

 

「冗談を……」

 

「冗談じゃない」

 

「では、我らを説得するために来たと?」

 

「ああ」

 

「魏へ従えと?」

 

「ああ」

 

石剛は立ち上がった。

 

巨大な身体が怒りに震える。

 

「我らは、頭領のためにここまで戦ってきた!」

 

「俺のためじゃない」

 

「燕のために!」

 

「燕は終わった」

 

「終わっていない!」

 

石剛の怒声が城内へ轟く。

 

「旗はここにある!」

 

「兵もいる!」

 

「頭領さえ戻れば、燕国は何度でも蘇る!」

 

「戻らない」

 

「なぜです!」

 

時雨は曹操の隣へ立った。

 

一万の視線を受けながら、はっきりと言う。

 

「俺が立つと決めたのは、ここだ」

 

石剛の視線が曹操へ向く。

 

憎悪に満ちていた。

 

「この女に……何をされた」

 

「何も」

 

「なら、なぜ!」

 

「俺が選んだ」

 

石剛は斧の柄へ手をかけた。

 

周囲の兵たちも武器を握る。

 

韓武が慌てて前へ出る。

 

「待て、石剛!」

 

「韓武様!」

 

「曹操様は、武器を捨てれば我らの罪を問わぬと――」

 

石剛の拳が韓武の頬を打ち抜いた。

 

韓武が地面へ倒れる。

 

「魏王を様付けするか!」

 

石剛は韓武を見下ろした。

 

「貴様も頭領を裏切ったのか!」

 

「違う!」

 

韓武は口元の血を拭いながら立ち上がる。

 

「頭領は我らに生きろと仰った!」

 

「魏へ従うことが、我らの生きる道だと!」

 

「腑抜けたか!」

 

石剛が斧を引き抜く。

 

巨大な刃が夕陽を反射した。

 

「我らは賊だった!」

 

「官軍に追われ、民に蔑まれ、それでも頭領の下で国を作った!」

 

「燕の旗は我らの誇りだ!」

 

「それを捨てて生きるくらいなら、死んだ方がましだ!」

 

一万の兵から、賛同の声が上がる。

 

「そうだ!」

 

「燕を守れ!」

 

「魏へ屈するな!」

 

声が重なり、地面が震える。

 

曹操は一万の敵意に囲まれながらも、微動だにしない。

 

ただ時雨を見ていた。

 

ここからは彼の戦いだ。

 

時雨は石剛へ向かって歩く。

 

「なら死ぬか」

 

石剛の目が開かれる。

 

時雨はさらに近づく。

 

武器を持たず。

 

斧の間合いへ入る。

 

「今、ここで死ぬか」

 

「頭領……」

 

「燕の旗を抱えて」

 

「曹操に逆らった英雄として」

 

「残った家族も部下も全部巻き込んで」

 

「満足して死ぬか」

 

石剛の顔が怒りで歪む。

 

「我らを侮辱なさるか!」

 

「事実を言ってる」

 

時雨は斧の刃を見ても止まらない。

 

「お前は死にたいだけだ」

 

「違う!」

 

「国を失ったことを認めたくない」

 

「自分が何のために戦ったのか分からなくなった」

 

「だから、綺麗に死んで終わらせたい」

 

「違う!」

 

石剛は斧を振り上げた。

 

「違うと言うなら、生きて証明しろ」

 

時雨の声が、石剛の動きを止めた。

 

「燕がなくても、お前はお前だ」

 

「黒山賊じゃなくても、生きられる」

 

「それを証明しろ」

 

石剛の腕が震える。

 

「我らに……魏の犬になれと」

 

「犬になるかどうかは、お前次第だ」

 

時雨は曹操を振り返る。

 

「俺は犬になったつもりはない」

 

「あなたは私の狼よ」

 

曹操が訂正する。

 

緊迫した場に似合わぬ言葉だった。

 

時雨は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「今それを言うか」

 

「大事なことでしょう?」

 

石剛も一万の兵も、呆気に取られた。

 

魏王と張燕は、やはり彼らが想像していた関係ではない。

 

時雨は曹操へ服従しているわけではない。

 

自分の意思を持ち。

 

言いたいことを言い。

 

それでも曹操の隣へ立っている。

 

「魏へ従っても、燕で生きた過去は消えない」

 

時雨は兵たちへ向き直る。

 

「だが燕にしがみつけば、未来が消える」

 

「俺は過去より未来を選んだ」

 

「お前らも選べ」

 

石剛は斧を握ったまま、時雨を見つめていた。

 

「もし……断れば」

 

曹操が答える。

 

「一万すべてを討つわ」

 

冷たい声だった。

 

「城の外には五十しかいない!」

 

石剛が叫ぶ。

 

「春蘭と秋蘭がいる」

 

曹操は平然と言った。

 

「門を開ければ、外の兵を呼べる」

 

「開けなくても、いずれ魏の大軍が来る」

 

「あなたたちに勝ち目はない」

 

「逃げ道もない」

 

「ここで私を殺せば、魏の全軍がこの土地を焼くでしょう」

 

曹操の言葉に、一万の兵たちが息を呑む。

 

脅しではない。

 

曹操が殺されれば、魏の将たちは決して許さない。

 

夏侯惇と夏侯淵だけでも、城を血で染めるだろう。

 

許昌から援軍が来れば、この城だけでなく周辺の村まで戦火に巻き込まれる。

 

「それでも戦うなら、構わないわ」

 

曹操は一歩前へ出た。

 

時雨の隣に並ぶ。

 

「私を殺して魏と戦いなさい」

 

「ただし、張燕はあなたたちの側には立たない」

 

「私と共に、あなたたちの敵になる」

 

兵たちの視線が時雨へ集まる。

 

時雨は否定しなかった。

 

石剛の目が揺れる。

 

「頭領が……我らを斬ると」

 

「必要ならな」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

時雨の声に迷いはなかった。

 

燕の兵を斬る。

 

かつての仲間を敵として倒す。

 

望んでいるわけではない。

 

だが彼らが曹操へ刃を向け、魏の民となった黒山の者たちまで戦へ巻き込むなら、止める。

 

その覚悟を示さなければならない。

 

「俺は曹操の将だ」

 

時雨は改めて告げた。

 

「曹操を殺そうとする奴は、俺の敵だ」

 

曹操の蒼い瞳が僅かに見開かれる。

 

それは、時雨が初めて明確に口にした忠義だった。

 

忠誠を誓ったわけではない。

 

何でも従うつもりもない。

 

それでも曹操を害する者は自分の敵だと、一万の元部下を前に宣言した。

 

曹操は腰にある時雨の剣へ手を置く。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「返してほしい?」

 

時雨は剣を見る。

 

黒い鞘。

 

長年、自分の命を預けてきた武器。

 

それを曹操が差し出そうとしている。

 

石剛たちへ示すためだ。

 

時雨が剣を受け取れば、曹操の隣で戦う意思の証明になる。

 

時雨はしばらく剣を見つめた。

 

そして首を横に振る。

 

「いらない」

 

曹操の眉が動く。

 

「なぜ?」

 

「まだ預けてる」

 

「戦いになれば?」

 

「曹操が投げろ」

 

時雨は石剛から目を逸らさない。

 

「受け取って斬る」

 

曹操の口元に、覇王の笑みが浮かんだ。

 

「いいでしょう」

 

石剛の腕から、ゆっくりと力が抜けていく。

 

斧の刃が地面へ下がる。

 

自分たちが待っていた燕王は、もういない。

 

目の前にいるのは。

 

曹操へ剣を預け。

 

曹操の隣を選び。

 

曹操を守ると宣言した魏将・張燕。

 

その現実を、ようやく認め始めていた。

 

「俺たちは……」

 

石剛の声が掠れる。

 

「捨てられたのではないのですか」

 

時雨は答える。

 

「捨てるなら、ここへ来てない」

 

石剛の目から涙が落ちた。

 

「なら……まだ、頭領と共に生きられるのですか」

 

「魏の中でな」

 

「燕ではなく?」

 

「ああ」

 

「曹操様の下で?」

 

時雨は隣の曹操を見た。

 

「そうだ」

 

長い沈黙。

 

一万の兵たちが、石剛の決断を待っている。

 

斧を握る手が震える。

 

やがて石剛は、巨大な斧を地面へ置いた。

 

膝をつく。

 

両手を地面へつけ、深く頭を下げる。

 

「分かり……ました」

 

声が震えている。

 

「我らは、武器を捨てます」

 

城内に動揺が広がる。

 

一人の兵が槍を落とした。

 

次に、隣の男が剣を置く。

 

一人。

 

十人。

 

百人。

 

武器が地面へ落ちる音が、波のように城内へ広がっていく。

 

最後には、一万の兵すべてが武器を置いていた。

 

燕の旗だけが、まだ城壁の上で揺れている。

 

石剛は顔を上げる。

 

「頭領」

 

時雨は何も言わなかった。

 

「最後に、一度だけ」

 

石剛は涙を流しながら笑った。

 

「我らへ命令を」

 

時雨は一万の兵を見渡した。

 

かつて自分の名で戦った者たち。

 

黒山で生き延び。

 

燕国を築き。

 

多くの仲間を失いながら、今日まで旗を守ってきた。

 

彼らへ下す、頭領として最後の命令。

 

「生きろ」

 

時雨の声が城内へ響いた。

 

「魏の法に従え」

 

「働け」

 

「家族を守れ」

 

「死んだ奴らの分まで、面倒でも生き続けろ」

 

一万の兵たちが頭を下げる。

 

「御意!」

 

声が重なり、城壁を震わせた。

 

それは燕王へ向ける、最後の返答だった。

 

石剛が立ち上がる。

 

そして城壁を見上げた。

 

「燕の旗を降ろせ!」

 

縄が解かれる。

 

一本。

 

また一本。

 

城を覆っていた燕の旗が、次々と下りていく。

 

夕陽の中。

 

白い燕が空から姿を消す。

 

兵たちは泣いていた。

 

声を上げる者。

 

拳を握る者。

 

黙って空を見上げる者。

 

誰もが、自分の国との別れを受け入れていた。

 

時雨も旗を見上げる。

 

黒山で見た光景と同じ。

 

それでも今度は、背を向けなかった。

 

最後の一本が降りるまで、真正面から見続ける。

 

曹操はその隣にいた。

 

何も言わず。

 

触れもせず。

 

ただ同じ空を見上げている。

 

最後の旗が城壁の下へ消えた。

 

燕国は、今度こそ完全に終わった。

 

黒山の一部だけではない。

 

時雨の命令へ従わなかった最後の一万も、武器を置いた。

 

もう燕を名乗る軍はいない。

 

もう燕王を待つ城もない。

 

時雨は静かに目を閉じた。

 

胸の奥にあった何かが、音もなく崩れていく。

 

悲しみなのか。

 

安堵なのか。

 

自分でも分からない。

 

ただ、肩から重いものが一つ下りた。

 

「終わったな」

 

時雨が呟く。

 

曹操が隣で答える。

 

「ええ」

 

「燕国は、これで完全に魏へ降った」

 

時雨は曹操を見る。

 

「満足か」

 

曹操は少し考える。

 

「領土と一万の兵を得たことには満足しているわ」

 

「それだけか」

 

「それから」

 

曹操は時雨の剣の柄へ触れた。

 

「あなたが、私の将だと皆の前で認めたことにも」

 

時雨の顔が僅かに曇る。

 

「そこを覚えてたのか」

 

「当然でしょう?」

 

「忘れろ」

 

「嫌よ」

 

「面倒だな」

 

曹操は小さく笑った。

 

「でも、あなたは逃げなかった」

 

「逃げる理由がない」

 

「過去からも?」

 

時雨は降ろされた燕の旗を見る。

 

「今日で終わらせた」

 

「そう」

 

曹操は時雨の黒衣の袖を掴んだ。

 

「なら、帰りましょう」

 

「どこへ」

 

「許昌へ決まっているでしょう?」

 

「ここで処理がある」

 

「桂花たちに任せるわ」

 

「反乱軍の編入は」

 

「あなたにも手伝ってもらう」

 

「なら、すぐに帰れないだろ」

 

「今夜は城に泊まるわ」

 

曹操は当然のように言った。

 

夏侯惇が聞けば、城内の安全確認だけで夜が明けるほど騒ぐだろう。

 

時雨は城門の方を見る。

 

「春蘭が怒るぞ」

 

「いつものことでしょう?」

 

「放っておくのか」

 

「あなたから説明しなさい」

 

「なぜ俺が」

 

「私を守ると宣言したでしょう?」

 

時雨は言葉に詰まる。

 

曹操は楽しそうに笑った。

 

「早速、役目を果たしてもらうわ」

 

「……あれは、こういう意味じゃない」

 

「私が決めることよ」

 

「言うと思った」

 

二人の後ろで、韓武と石剛は顔を見合わせていた。

 

つい先ほどまで、燕国の終わりを嘆いていたはずなのに。

 

曹操と時雨の会話を聞いていると、妙に力が抜けていく。

 

恐ろしい覇王。

 

冷酷な魏王。

 

その隣に立つ、かつての燕王。

 

二人の間にあるものは、支配だけではない。

 

まだ信頼と呼ぶには不安定。

 

情と呼ぶには早い。

 

それでも確かに、互いを必要とし始めている。

 

石剛は小さく息を吐いた。

 

「韓武」

 

「何だ」

 

「頭領は、本当に戻られぬのだな」

 

「ああ」

 

韓武は時雨の背中を見る。

 

「だが、消えたわけではない」

 

「そうだな」

 

石剛も頷いた。

 

燕王はいなくなった。

 

黒山賊の頭領もいなくなった。

 

だが張燕という男は、以前よりもはっきりとそこにいる。

 

曹操の隣で。

 

自分の意思を持ちながら。

 

魏の未来を作る者として。

 

城門が開かれる。

 

待機していた夏侯惇が真っ先に飛び込んできた。

 

「曹操様ぁ!」

 

大剣を背負ったまま、地面を揺らす勢いで駆けてくる。

 

「ご無事ですか!」

 

「無事よ」

 

「怪我は!」

 

「ないわ」

 

「張燕!」

 

夏侯惇が時雨を睨む。

 

「なぜ予定より遅い!」

 

「まだ半刻経ってない」

 

「私には一刻にも二刻にも感じられた!」

 

「それは知らない」

 

「貴様ぁ!」

 

怒声が城内へ響く。

 

つい先ほどまで泣いていた元燕兵たちが、その様子を呆然と見ている。

 

夏侯淵は遅れて入ってくると、地面へ置かれた一万の武器を見渡した。

 

「成功したようだな」

 

「ああ」

 

時雨が答える。

 

夏侯淵は時雨を見る。

 

「曹操様を守ったか」

 

「見ての通りだ」

 

「そうか」

 

それだけを言い、僅かに頷く。

 

信頼の最初の一歩。

 

夏侯淵は時雨を、監視すべき敵ではなく、曹操を守る将として見始めていた。

 

夏侯惇はまだ時雨へ怒鳴っている。

 

「曹操様を城内へ連れ込むなど!」

 

「曹操が勝手についてきた」

 

「責任を押しつけるな!」

 

「事実だ」

 

「お前が止めればよかったのだ!」

 

「止められると思うか」

 

夏侯惇が言葉に詰まる。

 

時雨は曹操を見る。

 

曹操は満足げに腕を組んでいる。

 

「無理だろ」

 

「……確かに」

 

夏侯惇が小さく答えた。

 

夏侯淵が姉を見る。

 

「姉者」

 

「何だ」

 

「今、同意したな」

 

「していない!」

 

「聞こえたぞ」

 

「気のせいだ!」

 

周囲の魏兵から笑いが漏れる。

 

元燕兵たちの中にも、思わず笑う者がいた。

 

最初は小さな笑い。

 

やがて、それが少しずつ広がっていく。

 

燕の旗を失った城で。

 

魏と燕の兵が、同じ光景を見て笑っている。

 

それはまだ一つの軍ではない。

 

互いに警戒もある。

 

恨みも残っている。

 

だが戦いではなく、笑いから始まる関係もある。

 

曹操はその光景を見つめていた。

 

この一万を魏軍へ加えるには、時間がかかるだろう。

 

規律を教え。

 

部隊を組み替え。

 

魏の兵たちとの争いを抑える。

 

やるべきことは多い。

 

けれど、不可能ではない。

 

中心には時雨がいる。

 

燕の過去を知り。

 

魏の未来を選んだ男。

 

この男を境に、二つの勢力を繋ぐことができる。

 

「張燕」

 

曹操が呼ぶ。

 

「なんだ」

 

「あなたへ最初の正式な役目を与えるわ」

 

時雨が顔をしかめる。

 

「また増えるのか」

 

「ええ」

 

曹操は地面へ置かれた武器と、一万の元燕兵を見渡した。

 

「この者たちを、魏軍へ編入できる兵へ鍛えなさい」

 

「俺が?」

 

「あなた以外に誰がいるの?」

 

「春蘭に任せろ」

 

夏侯惇が胸を張る。

 

「私ならば、すぐに魏軍の精鋭へ鍛え上げてご覧に入れます!」

 

元燕兵たちの顔が一斉に青くなる。

 

時雨は彼らの反応を見た。

 

「無理だな」

 

「何がだ!」

 

「半分は逃げる」

 

「逃がすものか!」

 

「残り半分は死ぬ」

 

「私の鍛錬を何だと思っている!」

 

「それが答えだろ」

 

夏侯惇が大剣へ手を伸ばす。

 

夏侯淵が姉の腕を押さえた。

 

「落ち着け、姉者」

 

「秋蘭! 止めるな!」

 

「曹操様の御前だ」

 

その一言で夏侯惇は動きを止めた。

 

曹操は楽しそうに笑いながら、時雨へ告げる。

 

「決まりね」

 

「断る」

 

「命令よ」

 

「他に仕事がある」

 

「この仕事より優先するものは?」

 

時雨は答えられない。

 

一万の元部下を、魏の中で生きられるようにする。

 

それは時雨自身が望んだことでもある。

 

曹操は分かった上で命じている。

 

「……分かった」

 

「聞こえないわ」

 

時雨の眉が寄る。

 

「やる」

 

「誰の命令で?」

 

「調子に乗るな」

 

曹操の笑みが深くなる。

 

「張燕」

 

声が低くなった。

 

時雨はしばらく曹操を睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐く。

 

「曹操の命令でやる」

 

「よろしい」

 

曹操は満足そうに頷いた。

 

石剛と韓武は、時雨へ深く頭を下げる。

 

「よろしくお願いいたします」

 

「頭領」

 

時雨の目が鋭くなる。

 

二人は慌てて言い直した。

 

「張燕様」

 

「様もいらない」

 

「では……張燕殿」

 

「それでいい」

 

曹操が僅かに眉をひそめる。

 

「私の将なのだから、もう少し威厳を持ちなさい」

 

「呼び方で強くなるわけじゃない」

 

「軍の秩序に関わるわ」

 

「なら曹操が決めろ」

 

「いいの?」

 

「面倒だからな」

 

曹操の瞳が楽しげに光る。

 

「では、考えておくわ」

 

時雨は嫌な予感を覚えた。

 

「妙な官位をつけるなよ」

 

「どうかしら」

 

「今すぐ自分で決める」

 

「遅いわ」

 

曹操は時雨の袖を掴み、城の奥へ歩き出す。

 

「今夜の部屋を確認するわよ」

 

「俺は兵舎でいい」

 

「駄目」

 

「なぜだ」

 

「あなたは私の護衛でしょう?」

 

「春蘭たちがいる」

 

「城の中では、あなたが一番信頼されているもの」

 

「元燕兵にだろ」

 

「だからよ」

 

曹操は振り返り、傲然と微笑んだ。

 

「今夜も、私の隣の部屋で寝なさい」

 

城内の全員が固まった。

 

夏侯惇が絶叫する。

 

「曹操様ぁ!?」

 

荀彧がこの場にいれば、それ以上の声を上げていただろう。

 

時雨は額へ手を当てる。

 

「やっぱり許昌に帰ればよかったな」

 

「もう遅いわ」

 

曹操は楽しそうに時雨を引いていく。

 

夕陽に染まる城。

 

降ろされた燕の旗。

 

代わって、城壁には魏の旗が掲げられ始めていた。

 

一万の反乱兵は武器を捨てた。

 

燕国は完全に歴史の中へ消えた。

 

そして黒山の狼は、過去へ背を向けるのではなく、正面から別れを告げた。

 

その隣には、覇王・曹操がいる。

 

まだ忠誠ではない。

 

服従でもない。

 

だが時雨は、一万の元部下を前に宣言した。

 

曹操を害する者は、自分の敵だと。

 

その言葉を、曹操は決して忘れない。

 

欲しいものを手に入れた覇王は、もう手放す気などなかった。

 

この日。

 

張燕は初めて、魏の将として一つの戦いに勝利した。

 

一人も斬らず。

 

一滴の血も流さず。

 

言葉だけで一万の兵を降した。

 

その功績は、やがて許昌へ届く。

 

そして魏の重臣たちも認めざるを得なくなる。

 

黒山の狼は、曹操の情によって生かされた捕虜ではない。

 

魏の天下に必要な牙なのだと。

 

もっとも。

 

本人だけは、その夜に与えられた豪華な部屋を前にして、心底嫌そうな顔をしていた。

 

「曹操」

 

「何?」

 

「なぜ寝台が一つしかない」

 

「城に最も良い客室が、ここだけだったのよ」

 

「隣の部屋は」

 

「春蘭と秋蘭が使うわ」

 

「俺は床で寝る」

 

「許さないわ」

 

「なぜだ」

 

曹操は寝台へ腰を下ろし、当然のように言い放った。

 

「私のものを床で寝かせる趣味はないもの」

 

時雨は深く息を吐く。

 

城の外では、燕国の最後の旗が丁寧に畳まれていた。

 

城の内では、魏の覇王と黒山の狼による、戦よりも面倒な夜が始まろうとしていた。




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