【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第5話 黒き軍旗

外伝 第5話 黒き軍旗

 

 

 

 

夜が明けるより早く、城の中では人の動く音が始まっていた。

 

石畳を踏む足音。

 

武器を運ぶ音。

 

兵糧庫の扉が開閉する重い響き。

 

昨日まで燕国の旗が掲げられていた城は、一夜にして別の顔を見せ始めていた。

 

城壁の上には、すでに魏の旗が翻っている。

 

黒地に白い燕は降ろされ、代わって風を受けているのは魏の軍旗。

 

旗が変わっただけだというのに、城全体の空気まで違って感じられた。

 

だが、城内にいる者たちの心が、同じように簡単に変わるはずもない。

 

昨日まで自分たちは燕の兵だった。

 

張燕を頭領と仰ぎ、魏と戦う覚悟を決めていた。

 

それが今朝からは魏の法に従い、魏の軍へ組み込まれる。

 

頭では理解していても、心が追いつかない。

 

兵たちは言葉少なに荷を運び、武器を一か所へ集めていた。

 

顔には疲労。

 

戸惑い。

 

そして消えない警戒。

 

魏兵たちも同じだった。

 

一万もの反乱兵が昨日まで敵だったのだ。

 

武器を置いたとはいえ、完全に信用できるはずがない。

 

城内では元燕兵と魏兵が互いに距離を取り、視線だけを交わしていた。

 

一触即発。

 

そう表現するには静かすぎる。

 

だが、火のついていない薪が積み上げられているような危うさがあった。

 

誰かが一言余計なことを言えば。

 

誰かが相手の肩へぶつかれば。

 

誰かが腰の剣へ手を伸ばせば。

 

昨日流れなかった血が、今日になって流れるかもしれない。

 

その緊張の中心にいるはずの時雨は、城の中庭で一人、槍を振っていた。

 

曹操から剣は返されていない。

 

城の武器庫から借りた、何の装飾もない長槍。

 

穂先の刃も平凡。

 

柄には細かな傷が残り、使い込まれている。

 

だが時雨は不満を言わなかった。

 

両手で槍を握り、静かに構える。

 

朝霧が中庭へ薄く残っている。

 

吐く息が白い。

 

一度、槍を突く。

 

鋭い風切り音。

 

踏み込む。

 

引き戻す。

 

横へ薙ぐ。

 

動きに無駄はない。

 

速さを見せるためではなく、身体の感覚を確かめるような鍛錬だった。

 

時雨は槍を得意としているわけではない。

 

剣の方が遥かに慣れている。

 

それでも黒山では、武器を選べない状況が多かった。

 

敵から奪った槍。

 

折れた刀。

 

農具。

 

石。

 

時には素手。

 

使えるものを使う。

 

それが賊として生きる者の戦い方だった。

 

「朝から熱心ね」

 

背後から声がした。

 

時雨は槍を止めない。

 

「起きたのか」

 

「私を誰だと思っているの?」

 

曹操は中庭へ入ってくる。

 

昨夜の寝間着姿ではない。

 

すでに軍装へ着替え、黄金の髪も整えられていた。

 

その後ろには夏侯淵がいる。

 

少し離れたところで、夏侯惇も腕を組んで時雨を睨んでいた。

 

「曹操様がお声をかけているのだ。槍を止めろ」

 

「話しながらでも振れる」

 

夏侯惇の眉が跳ね上がる。

 

「その態度を改めろと言っている!」

 

「朝から元気だな」

 

「貴様はそればかりだ!」

 

時雨は最後の突きを放ち、ようやく槍を下ろした。

 

汗が額から頬へ流れている。

 

昨日は一滴の血も流さず反乱を収めた。

 

だが心の疲労は、戦場で一日剣を振るった時より重かった。

 

だからこそ身体を動かしていた。

 

考えすぎれば、余計なものまで背負い込む。

 

腕を振り。

 

足を踏み。

 

呼吸を整える。

 

それだけで頭の中が静かになる。

 

曹操は時雨の手にある槍を見る。

 

「その武器、気に入ったの?」

 

「別に」

 

「なら、なぜ使っているの」

 

「剣がないからだ」

 

「返してほしいと頼めば?」

 

時雨は曹操を見る。

 

彼女の腰には、今も黒い鞘の剣がある。

 

「預けてると言っただろ」

 

「一万の兵を説得したのだから、返す理由にはなると思うけれど」

 

「なら返したいのか」

 

曹操は少し笑った。

 

「いいえ」

 

「なら聞くな」

 

「あなたがどんな顔で答えるか見たかっただけよ」

 

「朝から暇だな」

 

「暇ではないわ」

 

曹操は中庭を見渡す。

 

城内では兵たちが慌ただしく動き始めている。

 

「だから、あなたを呼びに来たの」

 

「何をする」

 

「仕事よ」

 

時雨の顔が露骨に曇る。

 

「昨日やれと言われたばかりだろ」

 

「その昨日の命令を、今日から実行するのよ」

 

「一万を魏軍へ組み込め、だったな」

 

「ええ」

 

曹操は頷く。

 

「ただし、その前に問題があるわ」

 

夏侯淵が一歩前へ出る。

 

「元燕兵の中に、兵として使えぬ者が多い」

 

時雨の眉が動く。

 

「使えない?」

 

「規律の話ではない」

 

夏侯淵は落ち着いた声で続ける。

 

「年齢、身体、負傷、装備」

 

「昨日武器を置いた一万の中には、老人も少年も多く混じっている」

 

「戦える者だけではない」

 

時雨は何も言わなかった。

 

分かっていた。

 

黒山では兵と民の境界が曖昧だった。

 

敵が来れば、畑を耕していた男も武器を持った。

 

家を守るため、女も弓を引いた。

 

十五にもならない少年が伝令へ走り、六十を過ぎた老人が城壁から石を落とした。

 

生き残るためには、誰もが戦うしかなかった。

 

だが魏軍は違う。

 

軍として戦う者。

 

民として生産を支える者。

 

役割が分かれている。

 

それを一万全員へ説明し、選別しなければならない。

 

「数を減らすつもりか」

 

時雨が尋ねる。

 

「当然でしょう?」

 

曹操が答える。

 

「戦えない者を軍へ置けば、食料を浪費するだけ」

 

「それに、本人たちにとってもよくない」

 

「兵から外すと言えば、反発する奴が出る」

 

「でしょうね」

 

「昨日まで燕のために戦うつもりだった」

 

「武器を置けと言われ、今度は兵ではないと言われる」

 

「捨てられたと思う」

 

曹操は時雨を真っ直ぐ見た。

 

「だから、あなたにやらせるのよ」

 

「俺が?」

 

「彼らはあなたの言葉なら聞く」

 

「昨日まではな」

 

「今日も聞くわ」

 

曹操は言い切った。

 

「少なくとも、私や春蘭が言うよりは」

 

夏侯惇が不満そうに顔をしかめる。

 

「曹操様。私が命じれば、全員従わせてみせます」

 

「恐怖で、でしょう?」

 

「軍には規律が必要です!」

 

「もちろんよ」

 

曹操は否定しない。

 

「でも今必要なのは、従わせることではない」

 

「自分で選ばせることよ」

 

夏侯惇は黙った。

 

曹操は時雨へ向き直る。

 

「兵として残る者」

 

「農地へ戻る者」

 

「街道整備へ回る者」

 

「工匠や輸送を担当する者」

 

「一万を分けなさい」

 

「簡単に言うな」

 

「簡単ではないから、あなたに命じているの」

 

時雨は槍を肩へ担いだ。

 

「曹操は、俺を便利に使いすぎじゃないか」

 

「あなたは私のものなのだから、便利に使うのは当然でしょう?」

 

「その言葉で全部片づけるつもりか」

 

「便利だもの」

 

曹操は満足げに微笑んだ。

 

時雨はため息をつく。

 

「分かった」

 

「ずいぶん素直ね」

 

「やらなきゃ終わらない」

 

「ええ」

 

曹操の表情から、僅かに笑みが消える。

 

「それに、もう一つ」

 

「まだあるのか」

 

「魏兵との間で喧嘩が起きているわ」

 

時雨の目が細くなる。

 

「どこだ」

 

「西側の兵舎」

 

夏侯淵が答える。

 

「まだ大きな争いにはなっていない」

 

「だが、このまま放置すれば流血する」

 

「原因は?」

 

「元燕兵の一人が、魏兵から賊と呼ばれた」

 

時雨の表情が変わった。

 

怒りではない。

 

むしろ冷たくなる。

 

「それで?」

 

「殴った」

 

「誰が」

 

「元燕兵が」

 

「殴られた魏兵も応戦した」

 

「周りが止めたが、双方とも仲間を集め始めている」

 

時雨は槍を夏侯淵へ投げた。

 

夏侯淵は片手で受け止める。

 

「どこだ」

 

「案内するわ」

 

曹操が先に歩き始める。

 

時雨も続く。

 

夏侯惇はその背中を見ながら、妹へ小さく尋ねた。

 

「秋蘭」

 

「何だ、姉者」

 

「あいつは、怒っているのか」

 

「分からんか」

 

「顔は変わっていない」

 

「顔に出にくいだけだ」

 

夏侯淵は槍を近くの兵へ渡す。

 

「賊と呼ばれることに、自分では慣れているのだろう」

 

「だが、自分の民がそう呼ばれることは許せない」

 

夏侯惇は眉を寄せた。

 

「元は賊ではないか」

 

「そうだ」

 

「なら、間違ってはいない」

 

「姉者」

 

夏侯淵は静かに姉を見る。

 

「正しい言葉が、常に必要な言葉とは限らない」

 

夏侯惇は答えなかった。

 

その言葉を理解できないわけではない。

 

ただ、納得するまでに少し時間が必要だった。

 

---

 

西側の兵舎では、すでに百人近い兵が集まっていた。

 

中央を挟み、左右に分かれている。

 

片側は魏兵。

 

もう片側は元燕兵。

 

互いに睨み合い、手には武器こそ持っていないものの、拳は固く握られていた。

 

地面には二人の男が座らされている。

 

一人は魏兵。

 

唇が切れ、頬が腫れている。

 

もう一人は元燕兵。

 

眉の上から血が流れ、衣の袖で押さえていた。

 

双方とも、まだ怒りが収まっていない。

 

「どけ」

 

時雨が人混みへ入る。

 

元燕兵たちが道を開ける。

 

「張燕殿」

 

「時雨様」

 

「頭領」

 

最後の呼び方に、時雨の目が鋭くなった。

 

「その呼び方はやめろ」

 

元燕兵は慌てて口を閉じる。

 

魏兵側もざわめいた。

 

曹操が来ていることに気づき、すぐに姿勢を正える。

 

「曹操様!」

 

「礼はいいわ」

 

曹操は双方を見渡した。

 

「何があったのか、本人たちから聞きましょう」

 

地面に座る魏兵へ視線を向ける。

 

「話しなさい」

 

魏兵は立ち上がろうとしたが、曹操が片手で止めた。

 

「そのままでいいわ」

 

「はっ」

 

男は一度、元燕兵を睨んだ。

 

「兵糧を運んでいる途中、荷の置き方について揉めました」

 

「こいつらが勝手に道を塞いでいたので、注意を」

 

「注意だと!」

 

元燕兵が立ち上がろうとする。

 

時雨が肩を押さえた。

 

「黙ってろ」

 

低い声。

 

それだけで男は座り直した。

 

魏兵が続ける。

 

「注意したところ、言うことを聞かず」

 

「それで?」

 

曹操が促す。

 

魏兵は言いにくそうに口を閉じた。

 

「賊は命令も分からないのか、と」

 

曹操の瞳が冷たくなる。

 

「言ったのね」

 

「……はい」

 

「それで殴られた」

 

「はい」

 

時雨は元燕兵を見る。

 

「お前は」

 

「賊と言われました」

 

「それだけか」

 

「それだけとは何です!」

 

男は怒りを露わにする。

 

「我らは武器を捨てた!」

 

「燕の旗も降ろした!」

 

「曹操様へ従うと決めた!」

 

「それでも賊と呼ばれるなら、何のために!」

 

「だから殴ったのか」

 

「はい!」

 

時雨は男の顔をしばらく見た。

 

そして、魏兵へ視線を移す。

 

「お前は、こいつらを賊だと思ってるのか」

 

魏兵は時雨を警戒しながら答えた。

 

「昨日まで反乱していた者たちです」

 

「答えになってない」

 

「……はい」

 

周囲の元燕兵たちに怒りが広がる。

 

「やはり我らを見下している!」

 

「魏へ従っても同じではないか!」

 

「黙れ!」

 

夏侯惇の怒声が響いた。

 

全員が静まる。

 

「曹操様の御前だ!」

 

「勝手に騒ぐな!」

 

夏侯惇の威圧は凄まじかった。

 

元燕兵だけではない。

 

魏兵たちまで背筋を伸ばす。

 

時雨は夏侯惇を一瞥する。

 

「助かった」

 

「礼などいらん!」

 

「まだ何も言ってない」

 

「今、助かったと言っただろう!」

 

「礼じゃなくて感想だ」

 

「同じだ!」

 

曹操が小さく息を吐く。

 

「春蘭」

 

「はい!」

 

「今は静かに」

 

夏侯惇は悔しそうに一歩下がった。

 

時雨は改めて二人を見る。

 

「まず、お前」

 

元燕兵へ言う。

 

「殴ったのは間違いだ」

 

男の顔が歪む。

 

「ですが!」

 

「腹が立ったのは分かる」

 

「だが、気に入らない言葉を言われるたびに殴ってたら、軍には入れない」

 

「俺たちは、ずっとそうしてきました」

 

「黒山ではな」

 

時雨は淡々と答える。

 

「強い奴が正しい」

 

「嫌なら殴れ」

 

「殴り返されたら、さらに殴れ」

 

「それで終わる場所だった」

 

元燕兵たちは黙って聞いている。

 

時雨の言葉は、自分たちの生き方そのものだった。

 

「だが、魏軍では違う」

 

「命令がある」

 

「法がある」

 

「仲間同士で勝手に殴り合えば、敵と戦う前に軍が壊れる」

 

「なら、我らだけが我慢しろと?」

 

「違う」

 

時雨は魏兵へ向き直る。

 

「お前も間違いだ」

 

魏兵の顔が強張る。

 

「俺は事実を言っただけです」

 

「違う」

 

「何が違うのです」

 

「こいつらは、もう賊じゃない」

 

時雨の声が兵舎へ響く。

 

「昨日、武器を置いた」

 

「曹操へ従った」

 

「なら魏の民だ」

 

「魏軍へ入るかはこれから決める」

 

「だが少なくとも、お前が勝手に賊と呼んでいい相手じゃない」

 

魏兵は納得できないように唇を噛む。

 

「我らは長く曹操様へ仕えてきました」

 

「敵と戦い、仲間を失い」

 

「それなのに、昨日まで刃を向けていた者が、今日から同じ民だと言われても」

 

「無理か」

 

時雨が尋ねる。

 

魏兵は答えなかった。

 

「無理だろうな」

 

時雨はあっさり言った。

 

周囲の者たちが意外そうに彼を見る。

 

「昨日の敵を、今日から仲間だと思え」

 

「そんな命令で人の気持ちは変わらない」

 

「なら、どうすればよいのです」

 

魏兵が尋ねる。

 

「仕事をしろ」

 

「何?」

 

「一緒に働け」

 

時雨は双方を見渡した。

 

「道を作る」

 

「兵糧を運ぶ」

 

「訓練する」

 

「同じ場所で寝る」

 

「同じ釜の飯を食う」

 

「それでも気に入らないなら、気に入らないままでいい」

 

「無理に仲良くなる必要はない」

 

「だが、命令を守れ」

 

「背中を預けられる程度には相手を知れ」

 

「仲間になるかどうかは、その後だ」

 

曹操は時雨の横顔を見ていた。

 

彼は理想を語らない。

 

互いに理解し合え。

 

過去を忘れろ。

 

憎しみを捨てろ。

 

そんな美しい言葉は使わない。

 

嫌いなら嫌いでいい。

 

疑うなら疑え。

 

それでも同じ場所で働け。

 

必要な時には守れ。

 

時雨の考える共同体は、常に現実から始まる。

 

黒山で百万を一つへまとめた方法も、きっと同じだったのだろう。

 

志で束ねたのではない。

 

今日を生きるために必要だから、互いを受け入れさせた。

 

「二人とも立て」

 

時雨が言う。

 

魏兵と元燕兵が立ち上がる。

 

「名前は」

 

「魏軍第五歩兵隊、陳順です」

 

魏兵が答える。

 

「燕西方軍、楊信」

 

元燕兵が続ける。

 

時雨の眉が寄る。

 

「燕西方軍はもうない」

 

楊信の表情が僅かに曇る。

 

「……楊信です」

 

「よし」

 

時雨は二人を向かい合わせた。

 

「陳順」

 

「はっ」

 

「賊と言ったことを詫びろ」

 

陳順の顔が強張る。

 

「ですが」

 

「嫌なら、魏軍から外れろ」

 

「張燕!」

 

夏侯惇が声を上げる。

 

「勝手に魏兵を追放する権限は――」

 

「ない」

 

時雨はあっさり認めた。

 

「なら!」

 

「だから曹操に聞く」

 

曹操を見る。

 

「命令を守れない兵を、置いておくのか」

 

曹操は少しも迷わなかった。

 

「いらないわ」

 

陳順の顔から血の気が引く。

 

「曹操様!」

 

「私は昨日、彼らを魏の民として受け入れた」

 

曹操の声は冷たい。

 

「それを否定する者は、私の決定を否定する者」

 

「違う?」

 

「……いいえ」

 

陳順は唇を噛む。

 

そして楊信へ向き直った。

 

「賊と呼んだことは……悪かった」

 

声には不満が残っている。

 

心からの謝罪ではない。

 

だが、時雨はそれ以上を求めなかった。

 

「楊信」

 

「はい」

 

「殴ったことを詫びろ」

 

楊信も陳順を睨んだまま答える。

 

「殴ったことは悪かった」

 

「次にやったら」

 

時雨は二人を見る。

 

「俺が殴る」

 

周囲が静まり返る。

 

曹操が眉を上げた。

 

「規律を教える方法としては、ずいぶん賊らしいわね」

 

「分かりやすいだろ」

 

「否定はしないわ」

 

夏侯惇は腕を組む。

 

「私なら斬る」

 

「だから春蘭には任せられない」

 

「何だと!」

 

再び怒鳴り声が響く。

 

だが先ほどまでの張り詰めた空気は、少しだけ緩んでいた。

 

魏兵の中から、小さな笑いが漏れる。

 

元燕兵たちも互いの顔を見る。

 

完全に納得したわけではない。

 

憎しみも警戒も残っている。

 

それでも、曹操が自分たちを魏の民だと明言した。

 

時雨が双方を同じように叱った。

 

一方だけを庇わなかった。

 

その事実は大きかった。

 

「全員、聞け」

 

時雨が声を張る。

 

兵舎にいた者たちが一斉に姿勢を正える。

 

「今日から選別を始める」

 

「兵として残りたい奴」

 

「農地へ戻る奴」

 

「工事へ回る奴」

 

「輸送をやる奴」

 

「自分で決めろ」

 

元燕兵の一人が尋ねる。

 

「兵を選べば、全員残れるのですか」

 

「無理だ」

 

時雨は即答した。

 

ざわめきが広がる。

 

「身体を見る」

 

「年齢も見る」

 

「使える武器も見る」

 

「戦えない奴は外す」

 

「それでは、捨てられる者が出ます!」

 

「捨てない」

 

時雨の声が強くなる。

 

「兵じゃなくなるだけだ」

 

「働く場所は曹操が用意する」

 

全員の視線が曹操へ向く。

 

曹操は当然のように頷いた。

 

「街道整備」

 

「開墾」

 

「倉の管理」

 

「輸送」

 

「工房」

 

「働ける場所はいくらでもあるわ」

 

「兵でなければ、誇りを失うとでも言うの?」

 

誰も答えない。

 

「国を支えるのは兵だけではない」

 

曹操は城壁の外へ視線を向ける。

 

「兵が戦えるのは、食料を作る者がいるから」

 

「武器を作る者がいるから」

 

「道を整える者がいるから」

 

「そのすべてが魏の力よ」

 

時雨は曹操を横目で見る。

 

「珍しく、いいことを言うな」

 

「珍しく?」

 

曹操の眉が上がる。

 

「今のは聞かなかったことにしてやる」

 

「誰に向かって言っているの?」

 

「曹操」

 

「分かっているわ!」

 

周囲の兵たちが今度こそ笑った。

 

声はまだ小さい。

 

だが魏兵と元燕兵の両方から聞こえた。

 

曹操は笑いを止めなかった。

 

むしろ、その光景を満足そうに見ていた。

 

一緒に笑える。

 

それは一緒に戦えるより先に生まれる、小さな繋がりだった。

 

「張燕」

 

曹操が呼ぶ。

 

「なんだ」

 

「選別は今日中に始めなさい」

 

「一万いるんだぞ」

 

「だから急ぐのよ」

 

「人手が足りない」

 

「春蘭と秋蘭を使いなさい」

 

夏侯惇が胸を張る。

 

「任せてください!」

 

時雨は夏侯惇を見る。

 

「基準を守れるか」

 

「私を誰だと思っている!」

 

「戦えそうなら全員兵に残しそうだ」

 

「当然だ! 鍛えればよい!」

 

「駄目だな」

 

「なぜだ!」

 

夏侯淵が姉の肩へ手を置く。

 

「姉者は、武力の試験を担当すればいい」

 

「他の判断は私と張燕で行う」

 

「秋蘭!」

 

「姉者に年齢や病歴の確認は向かん」

 

「私にもできる!」

 

「では、読み書きの確認も頼む」

 

夏侯惇は言葉に詰まった。

 

時雨が小さく笑う。

 

「無理だな」

 

「貴様!」

 

「春蘭」

 

曹操の声が飛ぶ。

 

「はい!」

 

「武力の確認だけにしなさい」

 

「……御意」

 

夏侯惇は悔しそうに頭を下げた。

 

時雨は兵たちへ向き直る。

 

「一刻後、中庭へ集まれ」

 

「武器は持つな」

 

「兵になりたい奴から並べ」

 

「命令だ」

 

一瞬の沈黙。

 

やがて元燕兵たちが声を揃える。

 

「はっ!」

 

魏兵たちも続いた。

 

「御意!」

 

二つの返事が重なる。

 

まだ完全に同じではない。

 

声の調子も違う。

 

頭を下げる相手も違う。

 

それでも最初の一歩だった。

 

---

 

一刻後。

 

城の中庭は、数千人の男たちで埋め尽くされていた。

 

兵として残ることを望んだ者だけで、この数。

 

残りは別の場所で、農地や工事への配属を待っている。

 

時雨は中庭の高台へ立ち、並んだ者たちを見渡した。

 

年齢も装備もばらばら。

 

筋肉のついた壮年の男。

 

身体の細い若者。

 

白髪の老人。

 

まだ少年と呼ぶべき顔の者。

 

傷を負ったまま立っている者も多い。

 

「多すぎるな」

 

時雨が呟く。

 

隣にいる夏侯淵が頷く。

 

「三千ほどか」

 

「兵として残せるのは」

 

「半分以下だろう」

 

「もっと少ない」

 

時雨は列の端にいる老人を見る。

 

六十は過ぎている。

 

背筋は伸びているが、左足を僅かに引きずっていた。

 

その隣には十四ほどの少年。

 

身体は小さい。

 

弓を背負っているが、腕の筋肉がまだ十分ではない。

 

「どうする」

 

夏侯淵が尋ねる。

 

「一人ずつ見る」

 

「時間がかかるぞ」

 

「まとめて決めれば、見落とす」

 

時雨は高台から降りる。

 

最初の列へ向かう。

 

「名前」

 

「周忠」

 

「年齢」

 

「四十二」

 

「武器」

 

「槍です」

 

「怪我は」

 

「右肩に古傷が」

 

時雨は男の肩を触る。

 

腕を上げさせる。

 

動きが途中で止まった。

 

「槍は無理だ」

 

男の顔が曇る。

 

「ですが、まだ戦えます」

 

「片手剣なら」

 

「使ったことは」

 

「少し」

 

「秋蘭」

 

時雨が呼ぶ。

 

夏侯淵が来る。

 

「短剣を持たせて試せ」

 

「分かった」

 

次の男。

 

「名前」

 

「杜安」

 

「年齢」

 

「十九」

 

「武器」

 

「何でも使えます」

 

時雨は男の手を見る。

 

掌に剣だこがない。

 

弓の跡もない。

 

「嘘をつくな」

 

男の顔が強張る。

 

「嘘では」

 

「鍬しか握ってない手だ」

 

「俺は戦えます!」

 

「なぜ兵になりたい」

 

男は答えない。

 

時雨は待った。

 

やがて、男が小さく言う。

 

「兵なら、食料を多くもらえると」

 

周囲の者たちがざわめく。

 

時雨は怒らなかった。

 

「家族は」

 

「母と妹がいます」

 

「なら輸送へ行け」

 

「ですが」

 

「荷を運べ」

 

「賃金を受け取れ」

 

「兵より死ぬ可能性は低い」

 

「家族へ食料も送れる」

 

男は迷っていた。

 

兵であることへの憧れ。

 

賊の中では、戦える者の方が上だった。

 

武器を持つ者が食料を優先される。

 

その価値観が身体に染みついている。

 

「戦えないことは恥じゃない」

 

時雨が言った。

 

「生きる方法を間違える方が恥だ」

 

男はゆっくり頭を下げた。

 

「……輸送へ行きます」

 

「そうしろ」

 

次。

 

また次。

 

時雨は一人ずつ見ていった。

 

夏侯淵も横で記録を取る。

 

身体。

 

年齢。

 

得意な武器。

 

家族。

 

過去の負傷。

 

何を望んでいるか。

 

それをすべて聞いていく。

 

途中から曹操も中庭の縁へ現れた。

 

高台へ座り、黙って様子を見ている。

 

時雨は気づいていたが、声をかけなかった。

 

作業は昼を過ぎても続いた。

 

老人が一人、時雨の前へ立つ。

 

朝、遠くから見えていた男だ。

 

「名前」

 

「黄嵩」

 

「年齢」

 

「六十四」

 

「帰れ」

 

時雨は即答した。

 

老人の眉が吊り上がる。

 

「まだ何も聞いておられぬ!」

 

「左足」

 

「古傷です」

 

「走れないだろ」

 

「城壁なら守れます」

 

「守らなくていい」

 

「張燕殿!」

 

老人は怒鳴った。

 

「私は黒山で三十年戦った!」

 

「官軍の槍も、騎馬の突撃も退けた!」

 

「若い者に負けるつもりはない!」

 

「そうか」

 

時雨は老人の前へ立つ。

 

「なら俺と走るか」

 

黄嵩は言葉に詰まる。

 

「城壁を一周」

 

「俺について来られたら残す」

 

老人は拳を握った。

 

だが答えない。

 

自分でも分かっている。

 

走れない。

 

戦場へ出れば、他の者の足を引っ張る。

 

それでも兵を辞めたくない。

 

戦うことしか知らない。

 

武器を置けば、自分が何者なのか分からなくなる。

 

時雨はその顔を見て、少しだけ声を落とした。

 

「何ができる」

 

「戦えます」

 

「他にだ」

 

老人は黙る。

 

「昔、何をしてた」

 

「木を切っていました」

 

「山道も作ったか」

 

「……はい」

 

「なら街道整備へ行け」

 

「若い奴へ教えろ」

 

「斧の使い方も」

 

「崩れにくい道の作り方も」

 

「お前が知ってることを残せ」

 

黄嵩の目が揺れる。

 

「戦うより価値が低いとでも思ってるのか」

 

時雨は続ける。

 

「道がなければ、兵糧は届かない」

 

「兵糧がなければ、兵は戦えない」

 

「お前が道を作れば、何百人も生きる」

 

老人は長く黙っていた。

 

やがて、ゆっくりと頭を下げる。

 

「……街道へ参ります」

 

「頼む」

 

その一言に、黄嵩は驚いたように顔を上げた。

 

時雨はすでに次の者へ向かっていた。

 

高台から見ていた曹操は、微かに笑みを浮かべる。

 

時雨は命じるだけではない。

 

その者が何を失うのか。

 

何を与えれば生き方を変えられるのか。

 

無意識に見抜いている。

 

百万を率いた才。

 

本人が認めようとしないだけで、それは確かに存在していた。

 

だが。

 

曹操は中庭の端へ視線を向けた。

 

そこに一人の若い兵が立っている。

 

選別の列へ加わらず。

 

魏兵でもなく。

 

元燕兵たちの動きをじっと見ていた。

 

粗末な灰色の衣。

 

腰には武器がない。

 

だが立ち方に隙がない。

 

農民ではない。

 

兵でもない。

 

その目だけが、異様に冷静だった。

 

曹操の表情から笑みが消える。

 

「秋蘭」

 

近くにいた夏侯淵を呼ぶ。

 

「はい」

 

「あの男を知っている?」

 

夏侯淵が視線を向ける。

 

「いいえ」

 

「元燕兵では?」

 

「少なくとも、先ほどの名簿にはない」

 

曹操の目が細くなる。

 

「城門は閉じていたはずね」

 

「はい」

 

「なら、昨夜から紛れ込んでいた」

 

「捕らえますか」

 

曹操はすぐには答えなかった。

 

灰色の衣の男は、時雨だけを見ている。

 

憎悪でも尊敬でもない。

 

値踏みするような目。

 

やがて男は、時雨へ近づき始めた。

 

列を横切り。

 

兵たちの間を抜け。

 

まっすぐ高台の下へ向かう。

 

夏侯淵の手が弓へ伸びる。

 

曹操が小さく命じた。

 

「まだ動かないで」

 

男は時雨の前で止まった。

 

「次」

 

時雨は顔を上げる。

 

「名前」

 

灰色の衣の男は笑った。

 

「張燕」

 

周囲の空気が変わる。

 

呼びかけではない。

 

答えとして、時雨の名を口にした。

 

時雨の目が鋭くなる。

 

「俺の名じゃない」

 

「知っている」

 

「なら、お前の名を言え」

 

男は懐へ手を入れた。

 

夏侯淵が弓を引く。

 

夏侯惇も大剣へ手をかけた。

 

元燕兵たちが一斉に身構える。

 

時雨だけは動かなかった。

 

男が取り出したのは、小さな木札だった。

 

表面に刻まれているのは、見慣れない紋章。

 

魏のものではない。

 

燕のものでもない。

 

「南から来た」

 

男は静かに言った。

 

「張燕という男を見に」

 

「誰の命令だ」

 

時雨が尋ねる。

 

男は笑みを深くする。

 

「劉備」

 

その名が出た瞬間。

 

中庭の空気が凍りついた。

 

曹操が立ち上がる。

 

夏侯姉妹の目が鋭くなる。

 

元燕兵たちは意味が分からず、周囲を見回している。

 

時雨は男を真っ直ぐ見た。

 

「劉備が、俺に何の用だ」

 

「勧誘だ」

 

男は平然と答えた。

 

「曹操へ降るより、劉備様の下へ来ないかと」

 

次の瞬間。

 

夏侯惇の大剣が抜かれた。

 

「貴様!」

 

怒声が中庭を震わせる。

 

魏兵たちが一斉に武器を構える。

 

元燕兵たちにも動揺が走る。

 

曹操は男を見つめたまま、冷たい声で言った。

 

「私の城へ入り込み」

 

「私の将へ声をかける」

 

「随分と大胆ね」

 

男は曹操へ頭を下げるでもなく、薄く笑う。

 

「返事を聞くまでは帰れない」

 

時雨が一歩前へ出た。

 

「なら、ここで聞け」

 

男の視線が時雨へ戻る。

 

中庭にいたすべての者が息を潜めた。

 

魏へ降ったばかりの張燕。

 

一万の元燕兵。

 

まだ固まりきっていない忠誠。

 

そこへ差し込まれた、別の選択肢。

 

曹操の下か。

 

劉備の下か。

 

時雨が何を答えるか。

 

その一言は、ここにいる者すべての未来を変える。

 

曹操は時雨を見ていた。

 

疑ってはいない。

 

そう思いたかった。

 

だが心の奥に、わずかな苛立ちが生まれている。

 

時雨は自分のもの。

 

それを他者が欲しがる。

 

ただそれだけで、許しがたい。

 

男は静かに問いかけた。

 

「張燕」

 

「あなたは本当に、曹操の下で生きるつもりか」

 

時雨は答えなかった。

 

一瞬の沈黙。

 

風が吹き、城壁の魏旗が大きく鳴った。




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