【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

278 / 283
外伝 第6話 狼の居場所――曹操の将として

外伝 第6話 狼の居場所――曹操の将として

 

 

 

 

劉備の使者が城を去った翌朝。

 

空には薄い雲がかかっていた。

 

陽は昇っているものの光は弱く、城壁の上に翻る魏の旗も、どこか色を失ったように見える。

 

昨夜、雨が降った。

 

長く続く雨ではなかったが、乾いていた地面を濡らすには十分だった。

 

石畳の隙間には水が残り、城の軒先からは時折、雨粒が落ちている。

 

兵たちが歩くたび、湿った足音が響いた。

 

昨日までの城内とは、明らかに空気が違っていた。

 

劉備の名を出した使者。

 

時雨への勧誘。

 

そして、その場にいた一万の元燕兵。

 

使者の言葉は、すぐに城全体へ広まった。

 

張燕は曹操ではなく、劉備へ仕えるのではないか。

 

黒山の者を連れて魏から離れるのではないか。

 

そもそも時雨は、本当に曹操へ忠誠を誓ったのか。

 

様々な噂が、夜の間に生まれていた。

 

中には、時雨が劉備の使者を斬らずに帰したことへ不満を持つ者もいた。

 

敵の間者をなぜ生かした。

 

劉備と通じているのではないか。

 

魏を裏切るための芝居ではないのか。

 

噂というものは、事実よりも早く広がる。

 

そして、広がる過程で形を変える。

 

時雨が使者の言葉を最後まで聞いた。

 

それだけの事実が。

 

夜が明ける頃には、時雨が劉備の誘いを受け入れたことになっていた。

 

西側の兵舎では、朝から魏兵と元燕兵の間に目に見えない壁が戻っていた。

 

前日。

 

共に笑い。

 

共に選別へ立ち会い。

 

わずかながらも同じ軍へ進み始めていた者たち。

 

その距離が、再び開いている。

 

魏兵は元燕兵を疑い。

 

元燕兵は魏兵の視線を気にする。

 

誰も言葉には出さない。

 

しかし、互いの腰にある武器へ目を向けていた。

 

一度生まれた信頼は、簡単には育たない。

 

だが疑いは、たった一夜で大きくなる。

 

時雨は兵舎の屋根の上から、その様子を見ていた。

 

濡れた瓦へ腰を下ろし、片膝を立てている。

 

手には、朝食として渡された饅頭。

 

中には肉が詰められていた。

 

黒山では滅多に食べられなかったものだ。

 

許昌へ来てから、食事の質だけは格段に良くなっている。

 

だが時雨は半分ほど食べたところで手を止めていた。

 

腹が減っていないわけではない。

 

考えることが多すぎるだけだった。

 

「ずいぶん高いところが好きなのね」

 

下から声がした。

 

時雨は視線を落とす。

 

曹操が兵舎の前に立っていた。

 

その後ろには夏侯惇と夏侯淵。

 

さらに数人の護衛兵がいる。

 

時雨は饅頭へ噛みついた。

 

「山育ちだからな」

 

「降りてきなさい」

 

「話なら聞こえる」

 

「私が見上げて話すのは気に入らないわ」

 

「覇王は面倒だな」

 

「あなたほどではないわ」

 

時雨は残りの饅頭を口へ放り込むと、屋根の端へ立った。

 

そのまま地上へ飛び降りる。

 

膝を軽く曲げて衝撃を逃がす。

 

水たまりの泥が僅かに跳ね、時雨の衣の裾を汚した。

 

曹操はその汚れを見て眉を寄せる。

 

「せっかく新しい衣を与えたのに」

 

「服は汚れるものだ」

 

「もう少し大切に扱いなさい」

 

「動くための服だろ」

 

「あなたの見栄えを整えるためでもあるわ」

 

時雨は自分の衣を見下ろす。

 

紺色の布。

 

銀の刺繍。

 

黒山にいた頃には、絶対に身につけなかった服装だった。

 

「俺に見栄えが必要か」

 

「私の将なのだから必要よ」

 

「面倒だな」

 

夏侯惇が一歩前へ出る。

 

「曹操様がお与えになった物へ、文句ばかり言うな!」

 

「春蘭」

 

夏侯淵が姉を止める。

 

「今日はその話をしに来たのではない」

 

夏侯惇は口を閉じた。

 

だが不満そうな視線は、時雨から外れない。

 

昨日の一件がある。

 

夏侯惇も時雨を疑っている。

 

使者の勧誘へ、時雨は即座に答えなかった。

 

その沈黙を、夏侯惇は見逃していない。

 

曹操が時雨を見上げる。

 

「なぜ昨日、すぐに断らなかったの?」

 

やはり、その話だった。

 

時雨は周囲を見る。

 

兵舎の窓。

 

廊下。

 

中庭。

 

何人もの兵が、こちらを気にしている。

 

聞こえないふりをしている。

 

だが全員が耳を澄ませていた。

 

「ここで話すのか」

 

「ええ」

 

曹操は堂々と答えた。

 

「皆が聞きたがっているもの」

 

時雨は眉を寄せる。

 

「本人たちに聞けばいい」

 

兵舎の窓から顔を覗かせていた魏兵たちが、慌てて姿を隠す。

 

曹操は小さく笑った。

 

「聞く勇気がないから、噂になるのよ」

 

「面倒な連中だな」

 

「あなたも同じでしょう?」

 

「俺が何だ」

 

「肝心なことほど、自分から話そうとしない」

 

時雨は答えなかった。

 

否定できない。

 

曹操は時雨の目を見る。

 

「劉備の使者は、あなたへ何を提示したの?」

 

「黒山の民を劉備の領地へ移す」

 

「税を軽くする」

 

「元燕兵の扱いは俺に任せる」

 

「そしてあなたへ将軍の地位を与える」

 

夏侯淵が続けた。

 

昨日、使者が語った条件だ。

 

悪くない。

 

むしろ、時雨にとっては魅力的な条件だった。

 

黒山の民を守れる。

 

元配下を自分の指揮下へ置ける。

 

曹操ほど厳しい支配を受けずに済む。

 

使者の言葉が真実なら。

 

時雨が劉備へ移る理由は、十分にあった。

 

「それで迷ったのか」

 

夏侯惇が問いかける。

 

声には責める色がある。

 

時雨は夏侯惇を見る。

 

「ああ」

 

周囲の空気が変わった。

 

兵舎の中で、何かが倒れる音がした。

 

元燕兵たちも息を呑む。

 

曹操の表情から笑みが消える。

 

時雨は続けた。

 

「条件だけなら、迷うだろ」

 

「貴様!」

 

夏侯惇の手が大剣へ伸びる。

 

「春蘭」

 

曹操の一言が、その動きを止めた。

 

夏侯惇は悔しそうに拳を握る。

 

「最後まで聞きなさい」

 

曹操の声は冷静だった。

 

だが、その瞳は時雨を鋭く見ている。

 

時雨は曹操から目を逸らさない。

 

「黒山の民を守る」

 

「俺にとっては、それが一番大事だ」

 

「劉備が本当に守れるなら、考える価値はある」

 

「私では守れないと?」

 

曹操の声が低くなる。

 

「そうは言ってない」

 

「では、なぜ迷ったの?」

 

「比べたからだ」

 

時雨は当然のように答えた。

 

「誰かに仕えるなら、何を任せられるか見る」

 

「曹操だから無条件で従うつもりはない」

 

「あなたは私のものよ」

 

「それでもだ」

 

時雨は一歩も退かない。

 

「俺が自分で選べなくなったら、俺を手に入れた意味がないだろ」

 

曹操の目が細くなる。

 

初めて軍議へ出た夜。

 

時雨は言った。

 

命も。

 

剣も。

 

頭も使え。

 

だが意思は消すな。

 

曹操は、その牙を残すことを認めた。

 

ならば時雨は、主君である曹操さえ見定める。

 

それは反抗ではない。

 

時雨なりの主従だった。

 

「それで?」

 

曹操が問う。

 

「比べた結果、どうだったの」

 

時雨は少し間を置いた。

 

兵舎の周囲に、さらに人が集まり始めている。

 

魏兵。

 

元燕兵。

 

荷を運んでいた者。

 

選別から外れ、街道工事へ向かう準備をしていた者。

 

誰もが足を止めている。

 

時雨は彼らを見渡した。

 

「劉備は、俺が欲しいわけじゃない」

 

「どういう意味?」

 

夏侯淵が尋ねる。

 

「黒山の百万が欲しい」

 

「一万の兵が欲しい」

 

「俺を旗にすれば、そいつらがついてくると思ってる」

 

「それは曹操も同じだろ」

 

曹操へ視線を戻す。

 

「あなた、私を侮辱しているの?」

 

「違う」

 

時雨は首を横に振る。

 

「曹操も最初は、百万ごと俺を手に入れようとした」

 

「今もそうだろ」

 

「ええ」

 

曹操は否定しない。

 

「価値のあるものは、すべて欲しいわ」

 

「だが、曹操は百万を俺の付属物として見てない」

 

時雨の言葉に、曹操の眉が僅かに動く。

 

「黒山の民を、魏の民にした」

 

「道を作らせる」

 

「農地を与える」

 

「兵になれない奴にも仕事を与える」

 

「俺がいなくても、そいつらが生きられるようにしようとしてる」

 

兵たちが静かに聞いている。

 

「劉備の使者は違った」

 

時雨は昨日の言葉を思い出していた。

 

張燕が来れば。

 

張燕が率いれば。

 

張燕が黒山の者をまとめれば。

 

使者は何度もそう言った。

 

時雨の下へ百万を置く。

 

時雨へ一万の兵を与える。

 

一見すれば、時雨の力を認めている。

 

だが実際には。

 

百万の重さを、再び時雨一人へ戻そうとしている。

 

「劉備の下へ行けば、俺はまた頭領になる」

 

「百万を背負う」

 

「何か起きるたびに、俺が前へ出る」

 

「俺が死ねば、全部が崩れる」

 

時雨は自分の胸へ手を当てた。

 

「それじゃ、燕と同じだ」

 

誰も言葉を挟まなかった。

 

燕国は時雨という一人の男へ頼りすぎた。

 

食料。

 

戦。

 

争いの調停。

 

砦の配置。

 

他の勢力との交渉。

 

何もかも時雨が最後に決めた。

 

時雨がいる限り、燕国は持ちこたえた。

 

だが、時雨が倒れれば終わる国でもあった。

 

国ではなく。

 

一人の男を中心に集まった巨大な群れ。

 

時雨は、それを自分の手で終わらせた。

 

「曹操は違う」

 

時雨は続ける。

 

「俺がいなくても魏は動く」

 

「夏侯惇がいる」

 

「夏侯淵がいる」

 

「荀彧も、郭嘉も、程昱もいる」

 

「役人がいて、法がある」

 

「俺が死んでも、黒山の民が一緒に死ぬ必要はない」

 

曹操の瞳が僅かに揺れる。

 

時雨は、自分がいなくなった後のことまで考えている。

 

かつてなら。

 

自分が死ぬなら、それで終わりだと思っていた男。

 

今は、自分が死んだ後も残るものを見ている。

 

「だから曹操を選んだ」

 

時雨ははっきりと言った。

 

「劉備より、曹操の方が黒山の民を任せられる」

 

「それだけ?」

 

曹操が尋ねる。

 

声は平静を装っている。

 

だが時雨には分かった。

 

曹操は満足していない。

 

民を任せられるから。

 

仕組みがあるから。

 

それだけの理由で選ばれたことが、気に入らない。

 

「他に何がいる」

 

「私自身を選んだわけではないの?」

 

兵たちの前で問うことではない。

 

夏侯惇が驚いたように曹操を見る。

 

夏侯淵も僅かに目を細めた。

 

時雨は頭を掻いた。

 

「面倒な質問をするな」

 

「答えなさい」

 

「命令か」

 

「そうよ」

 

曹操は一歩、時雨へ近づく。

 

「劉備ではなく」

 

「魏でもなく」

 

「私を選んだ理由を答えなさい」

 

時雨は黙った。

 

兵たちは息を潜めている。

 

まるで戦場のような緊張だった。

 

剣も槍も向けられていない。

 

だが時雨にとっては、一万の反乱兵を説得した時より答えにくい問いだった。

 

曹操という女を選んだ理由。

 

自分でも、完全には言葉にできていない。

 

初めて会った時。

 

曹操は時雨の降伏を受け入れた。

 

国も。

 

民も。

 

命も。

 

すべてを欲しがった。

 

傲慢で。

 

欲深く。

 

時雨の意思まで自分のものだと言い切った。

 

普通なら、仕える相手として選ばない。

 

もっと扱いやすい君主はいる。

 

もっと優しく、時雨の言葉を聞く者もいるだろう。

 

それでも時雨は曹操の隣にいる。

 

「曹操は」

 

時雨が口を開く。

 

「俺を楽に死なせない」

 

曹操の眉が僅かに上がる。

 

「何よ、それ」

 

「俺が死んで責任を取ろうとしたら、逃げだと言った」

 

「生きて背負えと言った」

 

「それが理由?」

 

「俺に、そう言った奴はいなかった」

 

黒山では。

 

誰もが時雨へ期待した。

 

守ってほしい。

 

戦ってほしい。

 

勝ってほしい。

 

最後まで生きてほしいと願う者はいても。

 

死んで終わらせることを禁じた者はいなかった。

 

時雨は常に。

 

自分の命を最後の手段として残していた。

 

守れないなら死ぬ。

 

負けたなら死ぬ。

 

民を逃がすためなら死ぬ。

 

それで責任を果たせると思っていた。

 

曹操だけが。

 

その死を許さなかった。

 

「俺の剣を取った」

 

「命を取った」

 

「その上で、生きろと命じた」

 

時雨は曹操の腰にある黒い鞘を見る。

 

「だから、曹操を選んだ」

 

「最後まで俺を使う気がある」

 

「俺が勝手に終わることを許さない」

 

「それなら」

 

時雨は少しだけ笑った。

 

「俺も、最後まで曹操を見てみようと思った」

 

曹操は何も言わなかった。

 

蒼い瞳が時雨を見つめている。

 

周囲の兵たちも沈黙していた。

 

時雨の言葉は忠誠の誓いではない。

 

曹操のためなら何でもする。

 

命令へ絶対に従う。

 

そういう分かりやすいものではなかった。

 

最後まで見る。

 

曹操がどこまで行くのか。

 

自分をどう使うのか。

 

その隣で確かめる。

 

時雨なりの。

 

不器用な選択だった。

 

「そう」

 

やがて曹操は小さく答えた。

 

口元に笑みが浮かぶ。

 

最初は穏やかな笑み。

 

しかし次第に、獲物を完全に捕らえた覇王の笑みへ変わっていく。

 

「なら、二度と迷わないことね」

 

「それは無理だ」

 

「今、私を選んだと言ったでしょう?」

 

「選ぶことと迷わないことは別だ」

 

「またその理屈?」

 

「考えずに従う方が危険だろ」

 

曹操の笑みが引きつる。

 

「少しは余韻というものを理解しなさい」

 

「余韻で飯は食えない」

 

「本当に可愛げがないわね」

 

「俺に何を求めてる」

 

「すべてよ」

 

曹操は即答した。

 

「あなたの力も」

 

「考えも」

 

「忠誠も」

 

「感情も」

 

「すべて私のものにする」

 

時雨は嫌そうな顔をする。

 

「欲張りだな」

 

「今さらでしょう?」

 

曹操は時雨の胸元へ指を突きつける。

 

「それと」

 

「まだあるのか」

 

「自分が死んだ後の話を、簡単にしないで」

 

時雨の表情が僅かに変わる。

 

曹操の声は低かった。

 

怒りがある。

 

明確な怒り。

 

「あなたが死んでも魏は残る」

 

「黒山の民も生きられる」

 

「確かに、それは必要なことよ」

 

「けれど」

 

曹操は時雨の衣を掴んだ。

 

「だからといって、あなたが死んでもよい理由にはならない」

 

「死ぬつもりはない」

 

「あなたは、必要なら簡単に命を捨てる」

 

「昨日も一万の中へ入った」

 

「曹操も一緒だっただろ」

 

「話を逸らさないで」

 

時雨は言葉を止める。

 

曹操は周囲の兵へ構わず続けた。

 

「あなたがいなくても動く国を作る」

 

「それは私の役目」

 

「でも、あなたがいなくてよい国を作るつもりはない」

 

兵たちの間に小さなざわめきが生まれる。

 

夏侯惇は複雑な顔で時雨を見た。

 

夏侯淵は何も言わない。

 

だが、曹操の言葉の重さを理解している。

 

時雨は曹操を見下ろす。

 

「違いが分からない」

 

「分かりなさい」

 

「無茶を言うな」

 

「命令よ」

 

「命令なら仕方ないな」

 

時雨は小さく息を吐いた。

 

「考えておく」

 

「今、分かったと言いなさい」

 

「嘘は言いたくない」

 

「張燕」

 

曹操の声が低くなる。

 

時雨は少し考え。

 

「俺が死んだら、曹操が困る」

 

「そういうことか」

 

「違うわ!」

 

曹操の声が兵舎へ響いた。

 

一瞬の静寂。

 

その後。

 

どこからともなく、笑いが漏れた。

 

元燕兵の一人だった。

 

慌てて口を押さえる。

 

だが遅い。

 

隣の魏兵も肩を震わせている。

 

次第に笑いが広がった。

 

昨日まで互いを疑っていた者たちが。

 

曹操と時雨の噛み合わない会話を見て、同時に笑っている。

 

曹操の頬が僅かに赤くなる。

 

「何がおかしいの!」

 

兵たちは一斉に姿勢を正した。

 

「何でもございません!」

 

魏兵と元燕兵の声が、見事に揃った。

 

時雨は曹操を見る。

 

「息が合ってきたな」

 

「あなたのせいよ!」

 

「俺は何もしてない」

 

「あなたがいるだけで私の威厳が損なわれるの!」

 

「なら離れるか」

 

時雨が一歩下がろうとする。

 

曹操は衣を掴んだまま離さなかった。

 

「誰が離れてよいと言ったの?」

 

「面倒だな」

 

「諦めなさい」

 

曹操は時雨を引き寄せる。

 

体格差があるため、実際には時雨が僅かに身体を傾けただけだった。

 

それでも曹操は満足そうだった。

 

「全員、聞きなさい」

 

曹操が兵たちへ向き直る。

 

笑いは消え。

 

兵たちが背筋を伸ばす。

 

「張燕は、劉備の誘いを断った」

 

「彼は魏の将として、ここに残る」

 

「そして」

 

曹操は時雨を見上げた。

 

「この一万を、魏の軍へ変える」

 

その言葉に、元燕兵たちの表情が引き締まる。

 

「ただし」

 

曹操の声が冷たくなる。

 

「まだ私は、あなたたちを魏兵とは認めていない」

 

兵たちに緊張が走った。

 

「武器を置いただけでは足りない」

 

「張燕へ従うだけでも足りない」

 

「魏の法を守り」

 

「魏の民を守り」

 

「魏のために働く」

 

「それができて初めて、あなたたちは魏の兵となる」

 

一人の元燕兵が声を上げる。

 

「我らへ、魏のために死ねと申されますか」

 

曹操はその男を見る。

 

「違うわ」

 

「魏のために生きなさい」

 

時雨が曹操へ視線を向ける。

 

それは。

 

曹操が時雨へ命じた言葉と同じだった。

 

「死ぬことは最後の手段」

 

「兵の役目は、勇敢に死ぬことではない」

 

「敵に勝ち」

 

「仲間を守り」

 

「生きて戻ることよ」

 

曹操は一万の者へ語る。

 

「あなたたちが過去に何者だったかは問わない」

 

「賊だった者」

 

「農民だった者」

 

「流民だった者」

 

「燕の兵だった者」

 

「すべて魏の中で、新しい役目を与える」

 

「ただし」

 

「自ら変わる意思のない者は、必要ない」

 

曹操の言葉は厳しい。

 

だが拒絶ではない。

 

魏へ入る道を示している。

 

過去を消せとは言わない。

 

ただ、過去だけに生きることを許さない。

 

「返事は?」

 

曹操が問う。

 

最初に膝をついたのは、石剛だった。

 

昨日。

 

巨大な斧を置き、燕国の終わりを受け入れた男。

 

「曹操様」

 

声にはまだ慣れない響きがある。

 

それでも、はっきりと名を呼んだ。

 

「我らに機会をくださるなら」

 

「必ず、魏の兵として認められてみせます」

 

韓武も隣へ膝をつく。

 

「私も、お誓いいたします」

 

二人に続き。

 

一人。

 

また一人。

 

元燕兵たちが膝をついていく。

 

完全な忠誠ではない。

 

多くの者は、時雨が選んだ曹操だから従う。

 

その段階にすぎない。

 

だが最初は、それでよかった。

 

「御意!」

 

数千の声が城へ響く。

 

曹操は満足そうに頷いた。

 

時雨は膝をつく者たちを見渡している。

 

「張燕」

 

曹操が呼ぶ。

 

「なんだ」

 

「あなたも返事をしなさい」

 

「聞いてただろ」

 

「皆の前で」

 

「必要か」

 

「必要よ」

 

時雨はため息をつく。

 

一万の兵。

 

魏兵。

 

夏侯姉妹。

 

そのすべての視線が集まっている。

 

時雨は曹操を見た。

 

「俺は魏に残る」

 

「それだけ?」

 

「曹操に仕える」

 

「続けて」

 

「まだあるのか」

 

曹操は笑みを浮かべる。

 

「私を裏切らないと誓いなさい」

 

時雨は即答しなかった。

 

夏侯惇の目が鋭くなる。

 

兵たちも息を潜めた。

 

「誓えないの?」

 

曹操が尋ねる。

 

「言葉の意味を決めたい」

 

「どういうこと?」

 

「曹操が間違った時も、黙って従うことを忠誠と言うなら誓えない」

 

荀彧がいれば怒鳴っていただろう。

 

夏侯惇も顔を険しくする。

 

だが曹操は、時雨の答えを待った。

 

「俺は、曹操が間違ってると思ったら止める」

 

「命令にも反対する」

 

「必要なら喧嘩もする」

 

「それでも」

 

時雨は真っ直ぐ曹操を見る。

 

「曹操を他の奴へ売らない」

 

「敵へ渡さない」

 

「曹操が魏の王でいる限り、その隣から逃げない」

 

一度、言葉を切る。

 

「それでいいなら誓う」

 

曹操は時雨を見つめ続けた。

 

やがて。

 

ゆっくりと口元を緩める。

 

「ええ」

 

「それでいいわ」

 

曹操が欲しかったのは。

 

命令へ逆らわない道具ではない。

 

意志を持ったまま。

 

牙を持ったまま。

 

それでも自らの隣を選ぶ男。

 

「なら誓う」

 

時雨は膝をつかなかった。

 

頭も下げない。

 

ただ曹操の前に立ち。

 

自分の胸へ右手を当てる。

 

「俺は張燕」

 

「真名は時雨」

 

周囲の元燕兵たちが息を呑む。

 

真名。

 

それは、その者の本質に触れる名。

 

誰にでも明かすものではない。

 

呼ぶことを許すかどうか。

 

それ自体が、深い意味を持つ。

 

時雨はすでに黒山の者たちへ真名を知られている。

 

だが魏の兵たちの前で。

 

曹操へ仕える誓いと共に名乗ることは、まったく別の意味を持っていた。

 

「魏王・曹操の将として」

 

「俺の意思で、その隣に立つ」

 

「曹操が俺を捨てない限り」

 

「俺も曹操を捨てない」

 

静寂。

 

風が城壁の魏旗を鳴らす。

 

曹操の蒼い瞳が、大きく見開かれていた。

 

時雨らしい言葉だった。

 

絶対の忠誠ではない。

 

曹操が捨てない限り。

 

条件がある。

 

対等ですらあろうとする、傲慢な誓い。

 

だが。

 

その誓いに嘘はない。

 

「よく言ったわ」

 

曹操は時雨へ手を伸ばす。

 

腰に差していた黒い鞘の剣。

 

時雨から預かっていた剣を抜き取り。

 

鞘ごと差し出した。

 

時雨は剣を見る。

 

「返すのか」

 

「ええ」

 

「気が変わった?」

 

「違うわ」

 

曹操は剣から手を離さない。

 

「これは、あなたが私へ預けたもの」

 

「そして今、私があなたへ与える」

 

「同じ剣だろ」

 

「意味が違うのよ」

 

曹操は柄へ手を置く。

 

「張燕の剣ではない」

 

「魏将・張燕へ、魏王である私が与える剣」

 

「私の敵を斬り」

 

「私の民を守り」

 

「私の覇道を切り開くための剣よ」

 

時雨は剣を見つめた。

 

長く使ってきた武器。

 

黒山で何人もの敵を斬った。

 

仲間を守った。

 

時には同じ黒山の者を斬ることもあった。

 

燕王として持っていた剣。

 

それが今。

 

別の意味を与えられようとしている。

 

「受け取りなさい」

 

曹操が命じる。

 

時雨は右手を伸ばした。

 

曹操の手ごと、鞘を掴む。

 

「曹操」

 

「何?」

 

「一度返したら、また勝手に取るなよ」

 

曹操の眉が動く。

 

「あなたのものは私のものよ」

 

「子供みたいなことを言うな」

 

「必要ならいつでも取り上げるわ」

 

「返せ」

 

「まだ渡していないでしょう?」

 

二人の手が同じ鞘を掴んでいる。

 

時雨が引く。

 

曹操も離さない。

 

力では時雨が勝っている。

 

だが無理に奪えば、曹操が転ぶ。

 

時雨は力を入れられない。

 

曹操はそれを分かっている。

 

「離せ」

 

「私の剣として使うと誓いなさい」

 

「俺の剣だ」

 

「私が与えるのだから、私の剣よ」

 

「無茶苦茶だな」

 

「覇王だもの」

 

「便利な言葉だな」

 

「でしょう?」

 

数千の兵たちが、再び二人のやり取りを見つめている。

 

石剛が韓武へ小さく囁く。

 

「いつも、あのような感じなのか」

 

「私も昨日からしか知らん」

 

韓武が答える。

 

「だが、おそらく毎日こうなる」

 

「魏は大丈夫なのか」

 

「曹操様が楽しそうだから、大丈夫なのだろう」

 

二人の声が夏侯惇へ届く。

 

「曹操様を何だと思っている!」

 

「申し訳ございません!」

 

石剛と韓武が同時に頭を下げる。

 

その隙に。

 

時雨は曹操の手から剣を引き取った。

 

「あっ」

 

曹操が声を上げる。

 

時雨はすぐに剣を腰へ差した。

 

久しぶりの重み。

 

鞘が腰へ触れる感覚。

 

右手を柄へ置く。

 

身体の一部が戻ったようだった。

 

「油断したな」

 

時雨が笑う。

 

曹操の頬が僅かに引きつる。

 

「返しなさい」

 

「もう俺の剣だ」

 

「私が与える儀式の途中だったのよ!」

 

「長い」

 

「張燕!」

 

曹操が時雨へ手を伸ばす。

 

時雨は一歩下がる。

 

曹操がさらに近づく。

 

時雨はまた下がる。

 

「逃げるな!」

 

「取られるからな」

 

「返しなさい!」

 

「嫌だ」

 

「命令よ!」

 

「剣を使えと言っただろ」

 

「まだ言葉が終わっていないの!」

 

周囲の兵たちから笑いが起きる。

 

今度は誰も、すぐに口を閉ざさなかった。

 

魏兵。

 

元燕兵。

 

同じ城にいる者たちが。

 

同じ主君と。

 

同じ将を見て笑っている。

 

昨日まで。

 

彼らの間には、敵と味方の境界があった。

 

今日も完全には消えていない。

 

過去の戦い。

 

仲間の死。

 

積み重なった恨み。

 

それが一日でなくなることはない。

 

それでも。

 

同じ旗の下で笑えるようになった。

 

それは、小さく見えて大きな変化だった。

 

曹操は追うのをやめ。

 

兵たちを睨む。

 

「笑っている暇があるなら、訓練の準備をなさい!」

 

「はっ!」

 

兵たちは一斉に動き出した。

 

その動きは速い。

 

先ほどまでの重い空気が嘘のようだった。

 

夏侯淵が時雨の隣へ来る。

 

「剣が戻ったな」

 

「ああ」

 

「どうだ」

 

時雨は腰の重みを確かめる。

 

「落ち着く」

 

「そうか」

 

夏侯淵は僅かに笑う。

 

「ならば、これからは丸腰を理由に逃げられんな」

 

「何からだ」

 

「仕事からだ」

 

時雨の顔が曇る。

 

夏侯淵は曹操と似たことを言うようになっていた。

 

「秋蘭」

 

夏侯惇が呼ぶ。

 

「張燕と話している暇があれば、選別の続きだ!」

 

「姉者は武力試験だけだぞ」

 

「分かっている!」

 

「老人へ無理をさせるな」

 

「分かっていると言っている!」

 

「少年もだ」

 

「分かっている!」

 

「姉者」

 

「何だ!」

 

「昨日、十四の少年を残そうとしたな」

 

夏侯惇の動きが止まる。

 

「才能があった」

 

「まだ身体ができていない」

 

「鍛えればよい!」

 

「時雨」

 

夏侯淵が呼ぶ。

 

「どう思う」

 

夏侯惇の視線も時雨へ向く。

 

時雨は少し考える。

 

「伝令なら使える」

 

「ほら見ろ!」

 

夏侯惇が胸を張る。

 

「ただし前線には出さない」

 

「なぜだ!」

 

「死ぬからだ」

 

「守ればよい!」

 

「誰が」

 

「私が!」

 

時雨は呆れたように夏侯惇を見る。

 

「春蘭は敵へ突っ込むだろ」

 

「当然だ!」

 

「守れないな」

 

「何だと!」

 

夏侯惇の怒声が響く。

 

元燕兵たちが、そのやり取りを見ながら笑う。

 

もう。

 

夏侯惇を恐ろしい魏の猛将としてだけ見てはいなかった。

 

強く。

 

声が大きく。

 

曹操を何より大切にし。

 

少し単純で。

 

からかわれるとすぐに怒る女。

 

人は、相手の顔が見えるほど。

 

憎み続けることが難しくなる。

 

時雨はそのことを、黒山で何度も見てきた。

 

別の砦。

 

別の頭領。

 

別の考え。

 

最初は争っていた者たちも。

 

同じ火を囲み。

 

同じ食事をし。

 

同じ敵と戦えば。

 

いつか仲間になる。

 

魏と元燕兵も。

 

きっと同じだ。

 

時間はかかる。

 

争いも起きる。

 

血が流れることもあるかもしれない。

 

それでも。

 

道はもう始まっている。

 

---

 

昼。

 

城の中庭に、新たな部隊が並んでいた。

 

選別を通った元燕兵。

 

数は千二百。

 

昨日まで一万いた者たちの中で。

 

正式に兵として残ることを認められた者たちだ。

 

残る者は。

 

街道整備。

 

輸送。

 

開墾。

 

武器の製造。

 

城の修復。

 

様々な役目へ分けられた。

 

最初は不満を口にする者もいた。

 

だが。

 

兵以外の役目にも賃金と食料が出ること。

 

家族を近くへ移せること。

 

働きによって土地を与えられる可能性があること。

 

それらが伝えられると。

 

多くの者は武器を置く道を選んだ。

 

戦うことしかできないと思っていた者たちが。

 

別の生き方を選び始めた。

 

中庭の正面には曹操。

 

その左右に夏侯惇と夏侯淵。

 

時雨は少し離れた場所に立っている。

 

腰には、戻った剣。

 

黒い鞘が紺色の衣に映えていた。

 

曹操が千二百の兵へ告げる。

 

「あなたたちは、今日から魏軍の預かりとなる」

 

正式な魏兵ではない。

 

まだ試用。

 

訓練と働き次第で。

 

初めて魏の軍籍へ加えられる。

 

「指揮官は張燕」

 

兵たちの目が時雨へ向く。

 

「ただし」

 

曹操は続ける。

 

「張燕の私兵ではない」

 

「魏の兵よ」

 

「張燕の命令と、魏の命令が食い違った時は?」

 

曹操が問いかける。

 

誰も答えられない。

 

昨日まで。

 

彼らにとって時雨の命令は絶対だった。

 

その時雨が。

 

曹操へ従えと言っている。

 

しかし。

 

もし二人が違う命令を出せば。

 

どちらを選ぶべきか。

 

曹操は時雨を見る。

 

「あなたから答えなさい」

 

時雨は千二百の前へ出た。

 

「曹操の命令に従え」

 

ざわめきが起こる。

 

石剛が問う。

 

「張燕殿の命令と違っても、ですか」

 

「ああ」

 

「では、張燕殿が誤っていると?」

 

「俺も間違う」

 

時雨は平然と答えた。

 

「曹操も間違う」

 

曹操の眉が動く。

 

「そこで私まで加える必要がある?」

 

「事実だろ」

 

兵たちから小さな笑いが漏れる。

 

曹操は不満そうに腕を組んだ。

 

時雨は続ける。

 

「だが魏軍である以上、最後に従うのは曹操だ」

 

「俺が違う命令を出したら」

 

「まず理由を聞け」

 

「それでも命令が変わらなければ」

 

時雨は腰の剣へ手を置く。

 

「曹操へ報告しろ」

 

「私たちが、張燕殿を?」

 

一人の兵が驚く。

 

「ああ」

 

「密告になりませんか」

 

「軍を壊す命令に従う方が悪い」

 

時雨は兵たちを見渡す。

 

「俺を頭領だと思うな」

 

「俺は曹操の将」

 

「お前らも曹操の兵になる」

 

「昔のままじゃ駄目だ」

 

それは。

 

元燕兵だけでなく。

 

時雨自身へ向けた言葉でもあった。

 

頭領ではない。

 

王でもない。

 

すべてを一人で決める立場ではない。

 

魏の中には。

 

上がいる。

 

横がいる。

 

下がいる。

 

それぞれが考え。

 

互いを止める。

 

時雨も、その仕組みへ入らなければならない。

 

「分かったか」

 

千二百の兵が声を揃える。

 

「はっ!」

 

以前の。

 

頭領へ向ける声ではない。

 

魏の将へ向ける返事。

 

時雨は僅かに目を細める。

 

曹操が前へ出る。

 

手には一本の旗。

 

魏の旗ではない。

 

黒い布。

 

中央には、銀色の狼が描かれている。

 

時雨の眉が寄る。

 

「何だ、それ」

 

「あなたの隊の旗よ」

 

曹操は当然のように答える。

 

「聞いてない」

 

「今見せたもの」

 

「狼なのか」

 

「ええ」

 

「俺は燕だったんだが」

 

「燕国は終わったでしょう?」

 

曹操は旗を広げる。

 

黒地に銀狼。

 

かつての燕旗と同じ黒を使いながら。

 

描かれているものは違う。

 

空を飛ぶ燕ではない。

 

地を走る狼。

 

群れを率い。

 

敵へ牙を剥き。

 

決めた相手の隣を歩く獣。

 

「黒山の狼」

 

曹操は時雨を見る。

 

「あなたに相応しいでしょう?」

 

「誰が考えた」

 

「私よ」

 

「暇なのか」

 

「昨日の夜に決めたわ」

 

「寝ろ」

 

「あなたに言われたくない」

 

曹操は旗を時雨へ差し出す。

 

「受け取りなさい」

 

今度は剣の時のように、引っ張り合いにはならなかった。

 

時雨は旗を受け取る。

 

布が風を受け。

 

銀の狼が大きく揺れる。

 

千二百の兵たちが、その旗を見上げている。

 

燕の旗ではない。

 

だが魏の旗だけでもない。

 

彼らが過去を捨てず。

 

新しい軍へ変わるための旗。

 

「この部隊の名は?」

 

夏侯淵が尋ねる。

 

曹操は時雨へ視線を向ける。

 

「指揮官に決めさせましょう」

 

「俺が?」

 

「ええ」

 

時雨は旗を見る。

 

黒山。

 

燕国。

 

魏。

 

自分が歩いてきた道。

 

そして。

 

これから、この者たちが進む道。

 

「黒狼隊」

 

時雨は短く答えた。

 

曹操が眉を上げる。

 

「そのままね」

 

「分かりやすい方がいい」

 

石剛が膝をつく。

 

「黒狼隊」

 

その名を繰り返す。

 

韓武も続く。

 

「悪くありません」

 

次第に兵たちが声を上げる。

 

「黒狼隊!」

 

「我らは黒狼隊だ!」

 

声が大きくなる。

 

燕兵ではない。

 

賊でもない。

 

魏軍・黒狼隊。

 

新しい名。

 

新しい旗。

 

新しい居場所。

 

時雨は旗を高く掲げた。

 

「浮かれるな」

 

歓声が止まる。

 

「まだ魏兵として認められてない」

 

「訓練について来られない奴は外す」

 

「規律を守れない奴も外す」

 

「仲間へ手を出す奴は、俺が殴る」

 

兵たちの顔が引き締まる。

 

夏侯惇が大剣を肩へ担ぐ。

 

「そして、私の鍛錬について来られぬ者も外す!」

 

千二百の顔から血の気が引いた。

 

「春蘭も教えるのか」

 

時雨が曹操へ尋ねる。

 

「ええ」

 

「聞いてない」

 

「今言ったわ」

 

「死人が出るぞ」

 

「出さん!」

 

夏侯惇が怒鳴る。

 

「私を何だと思っている!」

 

「加減を知らない奴」

 

「知っている!」

 

「昨日、三人倒れた」

 

「あれは根性が足りん!」

 

「だから駄目だと言ってる」

 

夏侯淵が姉の肩へ手を置く。

 

「姉者」

 

「何だ!」

 

「今日は私も見る」

 

「私一人で十分だ!」

 

「それが不安なのだ」

 

千二百の兵たちは顔を見合わせた。

 

これから始まる訓練。

 

魏の猛将・夏侯惇。

 

冷静な夏侯淵。

 

黒山の狼・張燕。

 

楽なはずがない。

 

燕国を再興するため戦う方が。

 

あるいは簡単だったかもしれない。

 

だが。

 

彼らは逃げなかった。

 

列を整え。

 

姿勢を正える。

 

時雨はその姿を見る。

 

まだ動きは揃っていない。

 

立ち方もばらばら。

 

武器の持ち方も違う。

 

魏軍の精鋭と比べれば。

 

兵と呼ぶのも難しい。

 

それでも。

 

目だけは死んでいなかった。

 

「始めるぞ」

 

時雨が言う。

 

「はっ!」

 

黒狼隊の声が城へ響いた。

 

---

 

訓練は、予想通り厳しいものとなった。

 

最初に行われたのは走り込み。

 

城壁の周囲を五周。

 

完全装備ではない。

 

武器も持たせていない。

 

それでも。

 

山や砦で戦ってきた者たちの中には。

 

長い距離を一定の速度で走る訓練へ慣れていない者が多かった。

 

賊の戦いは短い。

 

奇襲。

 

待ち伏せ。

 

奪って逃げる。

 

長く隊列を維持しながら進むことは少ない。

 

最初の一周で隊列が崩れた。

 

速い者が前へ出る。

 

遅い者が後ろへ下がる。

 

仲間を置いていく。

 

「止まれ!」

 

時雨の声が飛ぶ。

 

全員が足を止める。

 

「前の奴」

 

先頭を走っていた者たちが振り返る。

 

「何のために速く走った」

 

一人が答える。

 

「早く終わらせるためです!」

 

「後ろは」

 

「遅い者の責任です」

 

時雨はその男の前へ歩く。

 

「戦場でも置いていくのか」

 

「足の遅い者へ合わせれば、全員が危険になります」

 

「場合によってはな」

 

時雨は列の後ろを見る。

 

息を切らす者。

 

膝へ手をつく者。

 

「だが今の命令は、全員で五周だ」

 

「速さを競えとは言ってない」

 

「軍は、一人で走る場所じゃない」

 

時雨は先頭の男へ指を向ける。

 

「次はお前が最後尾」

 

「遅い奴を連れて来い」

 

「遅れたら?」

 

「全員が最初からやり直しだ」

 

兵たちが息を呑む。

 

「それでは、速い者が損をします!」

 

「そうだ」

 

時雨は即答した。

 

「軍では、仲間の弱さも自分の負担になる」

 

「嫌なら一人で戦え」

 

「一人では無理だから軍になる」

 

男は唇を噛む。

 

やがて。

 

後ろへ向かって走っていった。

 

再開。

 

今度は、少し速度が落ちた。

 

先頭の者が後ろを見る。

 

遅れた者へ声をかける。

 

腕を貸す。

 

完全ではない。

 

だが。

 

列が一つになり始めていた。

 

高台から見ていた曹操は、満足そうに目を細める。

 

「悪くないわね」

 

隣にいる夏侯淵が頷く。

 

「張燕は、個人の武を上げるより先に、集団を作ろうとしている」

 

「黒山では、逆だったのでは?」

 

「おそらくな」

 

夏侯淵は走る兵たちを見る。

 

「個人が生き残れる力を持たなければ、群れに加われない」

 

「だが魏軍では、群れを守ることが強さになる」

 

「張燕自身も、変わろうとしている」

 

曹操は時雨を見る。

 

兵たちの横を走り。

 

遅れた者を怒鳴り。

 

時には背中を押す。

 

自分だけなら、誰より速く走れる。

 

だが今は。

 

一番遅い者に合わせている。

 

「そうね」

 

曹操は小さく笑う。

 

「私の将らしくなってきたわ」

 

「まだ三日ほどだが」

 

「十分よ」

 

曹操は自信満々に言った。

 

「私の隣にいれば、人は成長するもの」

 

夏侯淵は答えなかった。

 

曹操の影響があることは否定しない。

 

だが。

 

時雨は曹操によって作り変えられているわけではない。

 

元から持っていたものが。

 

曹操の隣で表へ出始めている。

 

その違いを。

 

曹操も本当は理解しているのだろう。

 

---

 

夕方。

 

訓練を終えた黒狼隊は、中庭へ倒れ込んでいた。

 

五周。

 

隊列訓練。

 

槍の基本。

 

盾の連携。

 

号令に合わせた移動。

 

魏軍では基礎にすぎない。

 

だが元燕兵たちにとっては。

 

今までの戦い方を一度壊される一日だった。

 

石剛は地面へ大の字になっている。

 

巨大な身体が汗で濡れていた。

 

「こんな訓練に……何の意味がある」

 

隣で韓武が息を整える。

 

「私に聞くな」

 

「張燕殿は、もっと実戦的な訓練をなさると思っていた」

 

「走って並ぶだけで、一日が終わったぞ」

 

時雨が二人の前へ立つ。

 

「文句があるのか」

 

石剛は身体を起こす。

 

「あります」

 

「言ってみろ」

 

「我らは戦えます」

 

「魏軍との実戦経験もある」

 

「今さら子供のように走り方や並び方を学ぶ必要があるのですか」

 

「ある」

 

「なぜです」

 

「お前らは、俺の合図しか見てないからだ」

 

石剛の眉が寄る。

 

時雨は黒狼隊全体を見る。

 

「黒山では、俺が前へ出た」

 

「俺が動けば、お前らも動いた」

 

「俺が止まれば、お前らも止まった」

 

「それで戦えた」

 

「なら、何が悪いのです」

 

「俺がいない時はどうする」

 

石剛は答えられない。

 

「俺が倒れたら」

 

「見えなくなったら」

 

「別の場所へ行ったら」

 

「お前らは勝手に動く」

 

「それぞれが自分の判断で戦う」

 

「それで何度も部隊が崩れた」

 

元燕兵たちは黙る。

 

思い当たることがある。

 

時雨が別の戦場へ移った時。

 

急に指揮が乱れた。

 

誰の命令を聞くかで争った。

 

勝てる戦いを落としたこともある。

 

「魏軍は違う」

 

時雨は夏侯姉妹を見る。

 

「曹操がいなくても春蘭が動かす」

 

「春蘭がいなければ秋蘭が動かす」

 

「誰が指揮しても、同じ号令で同じように動く」

 

「それが軍だ」

 

「黒山のやり方を捨てろと?」

 

韓武が尋ねる。

 

「全部は捨てない」

 

「山での戦い」

 

「奇襲」

 

「地形の使い方」

 

「それはお前らの方が魏兵より上だ」

 

時雨は地面へしゃがむ。

 

「だが強いところだけ残せばいい」

 

「弱いところまで抱える必要はない」

 

石剛は長く黙った。

 

やがて。

 

地面へ両手をつき、立ち上がる。

 

「分かりました」

 

「明日も走ります」

 

「明日は倍だ」

 

石剛の顔が固まる。

 

「倍?」

 

「十周」

 

「今の話を聞いた直後に、なぜ増えるのです!」

 

「今日、全員で五周できた」

 

「なら明日は十周だ」

 

「理屈が乱暴です!」

 

時雨は笑う。

 

「黒山らしいだろ」

 

石剛が言葉を失う。

 

周囲から笑いが起きた。

 

韓武も苦笑する。

 

黒山を捨てろと言いながら。

 

時雨自身は、黒山の荒っぽさを残している。

 

それでいい。

 

すべてを捨てる必要はない。

 

変えるもの。

 

残すもの。

 

それを選びながら。

 

新しい軍になればいい。

 

曹操が中庭へ降りてくる。

 

「楽しそうね」

 

「どこがだ」

 

「よい部隊になりそうでしょう?」

 

時雨は疲れ切った兵たちを見る。

 

「時間はかかる」

 

「どれくらい?」

 

「半年」

 

曹操の眉が動く。

 

「長いわ」

 

「三月じゃ足りない」

 

「二月で使えるようにしなさい」

 

「無理だ」

 

「命令よ」

 

「無理なものは無理だ」

 

「では三月」

 

「半年」

 

「四月」

 

「半年」

 

「張燕」

 

曹操の目が鋭くなる。

 

時雨も譲らない。

 

夏侯淵が間へ入る。

 

「曹操様」

 

「何?」

 

「基礎を整えるだけなら、三月」

 

「実戦で使える部隊へするなら、さらに三月」

 

「合わせて半年が妥当かと」

 

曹操は少し考える。

 

「では三月後に、小規模な任務へ出す」

 

「そこで結果を見て判断する」

 

時雨が頷く。

 

「それならいい」

 

曹操は満足そうに微笑む。

 

「決まりね」

 

「仕事を増やすのが好きだな」

 

「あなたが働く姿を見るのが好きなのよ」

 

「変わった趣味だ」

 

「あなたに言われたくないわ」

 

曹操は黒狼隊の旗を見上げる。

 

夕陽を受け。

 

銀色の狼が赤く染まっている。

 

その背後には。

 

魏の旗。

 

二つの旗が。

 

同じ風を受けていた。

 

「張燕」

 

「なんだ」

 

「許昌へ戻るわ」

 

時雨が曹操を見る。

 

「もうか」

 

「この城の問題は、ひとまず収まった」

 

「私には都で待つ仕事がある」

 

「黒狼隊は?」

 

「あなたが連れて帰りなさい」

 

「千二百を?」

 

「ええ」

 

時雨の眉が寄る。

 

「許昌の連中が警戒するぞ」

 

「だからこそ連れていくのよ」

 

曹操は城門の向こうを見る。

 

「隠しておけば、いつまでも賊の軍だと思われる」

 

「魏の都を歩かせ」

 

「魏の兵と同じ場所で訓練させ」

 

「魏の民へ姿を見せる」

 

「反発も起きる」

 

「起こるでしょうね」

 

「喧嘩も」

 

「止めなさい」

 

「俺が全部か」

 

「黒狼隊の指揮官でしょう?」

 

時雨は大きく息を吐く。

 

「面倒だな」

 

「でも、嫌ではないでしょう?」

 

曹操が尋ねる。

 

時雨は黒狼隊を見る。

 

疲れ切りながらも。

 

新しい旗の下にいる者たち。

 

昨日まで。

 

自分へ燕国の再興を求めた者たち。

 

今日は。

 

魏の兵になるため走っている。

 

「嫌なら、引き受けてない」

 

曹操は微笑む。

 

「素直ね」

 

「事実を言っただけだ」

 

「それで十分よ」

 

曹操は時雨の隣へ立つ。

 

肩が触れるほど近く。

 

時雨は離れなかった。

 

「帰ったら、正式な任命式を行うわ」

 

「いらない」

 

「必要よ」

 

「面倒だ」

 

「黒狼隊の指揮官として、皆へ示す必要がある」

 

「今示しただろ」

 

「許昌の重臣へも示すの」

 

時雨の顔が曇る。

 

「桂花が怒るな」

 

「間違いなく怒るでしょうね」

 

「行きたくなくなった」

 

「逃がさないわ」

 

曹操は時雨の袖を掴む。

 

「あなたは魏の将」

 

「私の隣へ立つと誓ったでしょう?」

 

時雨は城壁の上を見る。

 

魏の旗。

 

黒狼隊の旗。

 

その向こうには。

 

許昌へ続く道がある。

 

黒山へ戻る道ではない。

 

燕国を再興する道でもない。

 

新しい場所。

 

自分が選んだ場所へ続く道。

 

「分かった」

 

時雨は答える。

 

「許昌へ帰る」

 

曹操は満足そうに頷いた。

 

翌朝。

 

城門が開かれた。

 

先頭には曹操。

 

その隣に時雨。

 

後ろには夏侯惇と夏侯淵。

 

そして。

 

黒地に銀狼の旗を掲げた、千二百の兵。

 

昨日まで燕国の最後の反乱軍だった者たちが。

 

今日。

 

魏軍となるため、許昌へ向けて歩き始める。

 

街道の左右には。

 

村人たちが立っていた。

 

魏の旗を見て、不安そうな者。

 

時雨を見て、頭を下げる者。

 

黒狼隊の旗を見て、戸惑う者。

 

時雨は誰へも手を振らなかった。

 

王のように振る舞うつもりはない。

 

ただ前を見る。

 

「張燕」

 

馬上の曹操が呼ぶ。

 

「なんだ」

 

「今、どんな気分?」

 

「面倒だ」

 

「それ以外」

 

時雨は少し考えた。

 

黒山を出た時。

 

背後には百万がいた。

 

だが自分は一人だった。

 

今。

 

背後には千二百。

 

隣には曹操。

 

少し後ろには夏侯姉妹。

 

行く先には。

 

自分を歓迎しない魏の者たちがいる。

 

それでも。

 

孤独ではない。

 

「悪くない」

 

時雨は答えた。

 

曹操が笑う。

 

「そう」

 

「なら、もっと悪くなくしてあげるわ」

 

「余計なことをするな」

 

「私があなたの人生を決めるのよ」

 

「俺の意思を消すなと言っただろ」

 

「消さないわ」

 

曹操は前を向く。

 

「ただ、あなたが自分で想像できない場所まで連れていくだけ」

 

時雨はその横顔を見る。

 

傲慢で。

 

欲深く。

 

自信に満ちた覇王。

 

本当に。

 

どこまで行くつもりなのか。

 

最後まで見る。

 

そう誓った。

 

ならば。

 

少しくらいは付き合ってやる。

 

時雨は口元を僅かに上げた。

 

「落馬するなよ、曹操」

 

「誰に言っているの?」

 

「連れていくと言ったのは曹操だ」

 

「なら、しっかりついて来なさい」

 

「俺の方が速い」

 

「張燕」

 

「冗談だ」

 

「あなたの冗談は分かりにくいのよ」

 

二人の会話を。

 

後ろの兵たちが聞いている。

 

黒狼隊の中から。

 

小さな笑いが漏れた。

 

それはやがて列全体へ広がる。

 

夏侯惇が振り返り、怒鳴る。

 

「行軍中だ! 私語を慎め!」

 

兵たちは声を揃える。

 

「はっ!」

 

笑いを噛み殺した返事。

 

夏侯淵は姉の横で、僅かに笑っていた。

 

許昌へ続く道の上。

 

黒い狼の旗が風を受ける。

 

燕国は終わった。

 

だが。

 

そこで生きた者たちは、終わっていない。

 

過去を抱えたまま。

 

新しい国へ入っていく。

 

張燕も同じだった。

 

黒山の頭領。

 

燕国の王。

 

その名を捨てたわけではない。

 

すべてを背負い。

 

それでも今は。

 

魏王・曹操の将として歩く。

 

黒山の狼が。

 

本当の意味で魏の牙となるために。

 

その最初の軍が。

 

この日、許昌へ向けて進み始めた。




感想、評価、お気に入りよろしくお願い致しますあ

次の作品の主人公とルートは誰がいい?

  • 高順呂布ルート(ヒロイン恋、霞)
  • 朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
  • 周倉関羽ルート(ヒロイン愛紗)
  • 孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。