外伝 第7話 預けられた名――黒き狼、魏の懐へ
許昌の城壁が見え始めたのは、太陽が最も高く昇る少し前だった。
長い街道の先。
平野を切り取るように築かれた巨大な城壁が、薄い霞の向こうから徐々に姿を現していく。
黒山に点在していた砦とは、何もかもが違った。
山の斜面へ木と石を組み上げ、地形そのものを守りへ変えた黒山の城塞。
対して許昌は、広大な平地へ人の意志によって築き上げられた都だった。
高く、厚い城壁。
等間隔に並ぶ見張り台。
堀に架けられた頑丈な橋。
その内側には、城壁越しにも分かるほど多くの建物がひしめいている。
煙突から上がる炊事の煙。
風に乗って届く人々の声。
遠く響く鐘の音。
百万を超える人間が黒山にいたといっても、その多くは百を超える砦や村へ散らばって暮らしていた。
これほど多くの人間が、一つの場所で秩序を保ちながら生活する光景は、時雨にとって今も見慣れないものだった。
そして今日。
その許昌へ向かっているのは、曹操と夏侯姉妹だけではない。
時雨の背後には、千二百の黒狼隊がいた。
黒い軍旗。
中央に描かれた銀色の狼。
隊列の先頭で掲げられた新しい旗が、夏の日差しを受けながら力強く揺れている。
兵たちの歩みは、出発した時よりも整っていた。
わずか数日の訓練。
それだけで魏軍の精鋭になれるはずはない。
歩幅にはまだ僅かな乱れがある。
列と列の間隔も一定ではない。
長い行軍に慣れていない者が疲労を見せるたび、周囲の者が小声で注意を促していた。
それでも彼らは、かつてのように好き勝手に歩いてはいなかった。
先頭だけが進み、後方が取り残されることもない。
遅れた者がいれば、前を歩く者が速度を落とす。
命じられたからではない。
黒狼隊として許昌へ入る以上、無様な姿を見せたくない。
その思いが、千二百人の足を揃えていた。
時雨は馬上から、時折背後を振り返っていた。
そのたびに石剛や韓武が姿勢を正し、周囲の兵へ目を配る。
元燕兵の集団ではない。
賊の群れでもない。
魏軍へ加わるために進む、黒狼隊。
まだ仮初めの名にすぎない。
魏の軍籍へ正式に登録されたわけでもなければ、許昌の者たちに認められたわけでもない。
それでも、自分たちが何者になろうとしているのか。
少なくとも、彼ら自身は理解し始めていた。
「顔が険しいわね」
隣を進む曹操が言った。
時雨は前へ視線を戻す。
「いつも通りだ」
「そうかしら。いつも以上に面倒そうな顔をしているわ」
「実際、面倒だからな」
「許昌へ戻ることが?」
「千二百を連れて入ることがだ」
時雨は正面の城門を見る。
許昌の西門前には、すでに多くの人間が集まっていた。
知らせを聞きつけた民。
警備の兵。
役人。
商人。
そして、魏王の帰還を迎えるために並んだ文官や武官。
距離があるため顔までは分からない。
だが、歓迎一色ではないことだけは見て取れた。
曹操の帰還を待つ者たちの列とは別に、城壁の上には弓兵が配置されている。
矢をつがえてはいない。
それでも、警戒していることは明らかだった。
黒狼隊の旗が見えた瞬間。
城門前に集まった者たちの間へ、波のようなざわめきが広がった。
「ずいぶん歓迎されているな」
時雨が言う。
「当然でしょう?」
曹操は平然としている。
「昨日まで反乱軍だった千二百人が、武装したまま都へ近づいているのよ」
「武器を置かせるか」
「いいえ」
曹操は即座に否定した。
「持たせたまま入るわ」
時雨が曹操を見る。
「本気か」
「私が冗談で命令を出すと思う?」
「たまに出すだろ」
「出さないわ」
「俺の部屋を隣にしたのは」
「必要な警備よ」
「夜中に勝手に入ってくるのもか」
「王宮の見回りよ」
「酒を持って?」
「細かい男ね」
曹操は不満そうに言いながらも、すぐに城門へ視線を戻した。
「武器を取り上げて都へ入れれば、彼らは捕虜に見える」
「捕虜ではないの?」
少し後ろから夏侯惇が尋ねる。
曹操は振り返らない。
「違うわ」
「ですが、正式に魏軍へ加えられたわけではありません」
「だから今日、加えるのよ」
「もし妙な動きをすれば」
「その時は春蘭が止めなさい」
曹操はあまりにも簡単に言った。
夏侯惇は胸を張る。
「お任せください! 一人として曹操様へ近づけません!」
黒狼隊の前列を歩いていた兵たちの顔が僅かに引きつる。
時雨は横目で夏侯惇を見た。
「全員を敵に回すような言い方をするな」
「警告だ!」
「これから同じ軍になる」
「まだ認められていない!」
「だから認められるために行くんだろ」
「貴様に言われずとも分かっている!」
夏侯惇の怒声に、黒狼隊の中から小さな笑いが漏れる。
すぐに韓武が振り返り、目で制した。
だが夏侯惇には聞こえていたらしい。
「今、笑った者は誰だ!」
列全体が、何事もなかったように前を向く。
「返事をしろ!」
「姉者」
夏侯淵が静かに呼ぶ。
「何だ、秋蘭」
「城門が近い。今は隊列を乱させぬ方がよい」
「む……」
夏侯惇は不満そうに口を閉じた。
時雨は馬上で小さく笑う。
「随分と扱いに慣れてるな」
「誰のことだ」
夏侯惇が睨む。
「春蘭」
「貴様に真名を呼ぶことは許していない!」
夏侯惇の怒声が、先ほど以上の大きさで街道へ響いた。
黒狼隊の兵たちだけでなく。
城門前の魏兵たちまで、一斉にこちらを見る。
時雨は僅かに眉を寄せた。
「曹操が呼んでるから覚えただけだ」
「覚えても呼ぶな!」
「分かった、夏侯惇」
「その言い方も腹が立つ!」
「姉者」
夏侯淵のため息が聞こえる。
曹操は口元へ指を当て、笑いを堪えていた。
「楽しそうだな」
時雨が言う。
「ええ。帰還の道中が退屈せずに済んだわ」
「俺たちは見世物か」
「私の将なのだから、多少は私を楽しませなさい」
「給金に含まれてるのか」
「含めておきましょう」
「勝手に決めるな」
言い合っている間にも、許昌の城門は近づいてくる。
やがて、先頭を進んでいた魏兵が大きな声を上げた。
「魏王・曹操様、ご帰還!」
城壁の上で太鼓が鳴った。
一度。
二度。
三度。
重い音が都の内外へ響き渡る。
閉ざされていた門が、軋みながら開いていく。
門の内側。
大通りの左右には、数えきれないほどの民が集まっていた。
曹操の姿を見た瞬間、大きな歓声が上がる。
「曹操様!」
「お帰りなさいませ!」
「魏王様!」
幾重にも重なる声。
黒山で、時雨が民から向けられていたものとは違う。
黒山の者たちが時雨へ向けていたのは、信頼と依存が入り混じった声だった。
この男がいれば、生きられる。
この男が倒れれば、自分たちも終わる。
切実さを伴った声。
許昌の民が曹操へ向ける声には、もっと明るい力があった。
王が帰ってきた。
国が今日も続いている。
守られている者たちが、当然のように明日を信じている声。
曹操は馬上から片手を上げる。
ただそれだけで、歓声がさらに大きくなった。
堂々とした姿。
民の声を受けることに慣れた微笑み。
黒山で時雨と酒を飲み。
服を汚したと文句を言い。
剣を返す返さないで争った少女とは思えない。
曹操は確かに、この国の中心だった。
しかし。
歓声は長く続かなかった。
曹操の隣を進む時雨。
その背後に続く黒狼隊。
黒地に銀狼の旗。
見慣れない装備。
魏軍とは異なる、不揃いな姿。
それらが城門をくぐると、民の声は徐々に小さくなった。
戸惑い。
恐れ。
疑い。
大通りの端にいた母親が、幼い子供を自分の背後へ隠す。
商人らしき男が、荷車を道の端へ寄せる。
老人が眉をひそめ、黒狼隊の兵たちを睨む。
小声が広がる。
「黒山賊だ」
「本当に都へ入れるのか」
「反乱を起こしていた奴らだろう」
「張燕もいる」
「曹操様は、なぜあのような男を」
黒狼隊の兵たちにも聞こえていた。
歩みが僅かに乱れる。
何人かの顔に怒りが浮かぶ。
それでも、誰も列から外れなかった。
手を武器へ伸ばす者もいない。
時雨が、馬上から彼らを見ている。
たとえ背を向けていても。
自分たちの動きをすべて感じ取っている。
兵たちには、それが分かっていた。
「前を見ろ」
時雨が声を張った。
大声ではない。
だが千二百人の耳へ、はっきりと届いた。
「俺たちは見世物じゃない」
「止まるな」
「列を崩すな」
「はっ!」
黒狼隊が一斉に答える。
大通りの空気が震えた。
民たちが驚いて後ずさる。
だが時雨は、彼らへ言葉を続けなかった。
賊ではないと叫んでも、信じられるはずがない。
魏の兵になると説明しても、今日初めて姿を見た者には分からない。
言葉ではなく。
これからの行動で示すしかない。
自分が黒山の民へ何度も教えてきたことだった。
人間は、名乗りを変えただけでは別のものになれない。
毎日。
同じ命令を守り。
同じ仕事を果たし。
同じ場所へ立ち続ける。
それを見た周囲が、ようやく新しい名を認める。
黒狼隊は今。
その最初の一歩を許昌で踏み出していた。
曹操は時雨の横顔を見る。
「何も言わないのね」
「何をだ」
「彼らへ、黒狼隊を受け入れろと」
「命令して受け入れさせるつもりか」
「必要なら、そうするわ」
「今はやめろ」
時雨は前を見たまま言う。
「民が怖がるのは当然だ」
「昨日まで敵だった」
「俺たちが、先に変わったところを見せる」
曹操は少しだけ目を細めた。
「時間がかかるわ」
「分かってる」
「あなたは随分と気が長くなったのね」
「黒山で百万をまとめるのに、何年かかったと思ってる」
「あなたが気長だったとは思えないけれど」
「気に入らない奴を殴るだけじゃ、百万にはならない」
「最初は殴ったのね」
「必要ならな」
「それを許昌でやったら、私が罰するわよ」
「やらない」
「本当に?」
「先に殴られたら考える」
「やらないと言い切りなさい」
時雨は答えなかった。
曹操が呆れたように息を吐く。
それでも彼女の口元には、僅かな笑みがあった。
---
城門から王宮へ続く大通りの先。
魏の重臣たちが待っていた。
最前列には荀彧。
その隣に郭嘉と程昱。
少し後ろには許褚と典韋。
さらに文官や武官が並び、その後方を王宮の兵たちが固めている。
時雨は遠目でも、荀彧の機嫌が悪いことを察した。
腕を組み。
眉間へ深い皺を寄せ。
黒狼隊を見る視線は、抜き身の剣より鋭い。
曹操が馬を止める。
重臣たちが一斉に膝をついた。
「曹操様、ご帰還を心よりお待ちしておりました」
荀彧が頭を下げる。
「留守中の政務、ご苦労だったわ」
「もったいなきお言葉にございます」
曹操が馬から降りる。
夏侯姉妹も続いた。
時雨も地面へ降りると、黒狼隊へ手で合図を送る。
千二百の兵が動きを止める。
一斉ではない。
僅かなずれが生じた。
それでも列は崩れなかった。
荀彧の目が、銀狼の旗から時雨へ移る。
「張燕」
「なんだ」
「曹操様の御前です!」
「だから何だ」
「まず頭を下げなさい!」
荀彧の声が大通りへ響く。
黒狼隊がざわめく。
魏の重臣が、自分たちの指揮官へ公然と怒鳴った。
石剛の眉が動く。
韓武が小さく首を横へ振り、動くなと示した。
時雨は荀彧を見た。
「帰る途中、ずっと隣にいた」
「今さら頭を下げる必要があるか」
「公式の場では礼節というものがあります!」
「ここは道だろ」
「王宮へ続く大通りです!」
「道じゃないか」
荀彧の顔が赤くなる。
「貴様という男は!」
「桂花」
曹操が口を挟む。
荀彧は悔しそうに時雨を睨みながらも、すぐに曹操へ向き直った。
「失礼いたしました」
「気持ちは分かるけれど、今はよしなさい」
「ですが!」
「張燕に礼儀を覚えさせるのは、後でゆっくりやればいいわ」
時雨が曹操を見る。
「やらないぞ」
「命令よ」
「聞いてない」
「今言ったわ」
「勝手に増やすな」
荀彧の肩が震えている。
怒りを抑えるためか。
あるいは、曹操と時雨のやり取りへ口を挟むべきか迷っているのか。
郭嘉が扇で口元を隠しながら、僅かに笑った。
「曹操様」
「何かしら、稟」
「お二人とも、お疲れではないようで安心いたしました」
「私をこの男と一緒にしないで」
「曹操も元気だろ」
「あなたが疲れさせるのよ」
程昱が眠そうな目で時雨を見る。
「お帰りなさいませー、張燕殿ー」
「ああ」
「元気そうですねー」
「そっちも眠そうだな」
「これは元からですー」
許褚が程昱の後ろから顔を出した。
「張燕さん、お帰りなさい!」
「ただいま、でいいのか」
「許昌に戻ってきたんだから、いいと思います!」
許褚は明るく笑う。
その隣にいる典韋は、少し緊張した様子で頭を下げた。
「お、お帰りなさいませ、張燕様」
「様はいらない」
「で、ですが、将軍になられると聞きましたので」
「まだなってない」
「これからなるのよ」
曹操が当然のように言った。
荀彧がすぐに反応する。
「曹操様!」
「何?」
「その件については、王宮で改めてご検討いただきたく!」
「検討は終わっているわ」
「しかし!」
荀彧は黒狼隊を見る。
「昨日まで反乱軍だった者たちを、都へ武装したまま入れるだけでも異例です」
「その指揮官を、正式な将へ任命するなど!」
「問題がある?」
曹操の声は穏やかだった。
その穏やかさが、かえって荀彧を緊張させる。
「張燕の能力は認めます」
荀彧は慎重に言葉を選んだ。
「黒山の民をまとめ、反乱を無血で収めた功績も」
「しかし、魏へ加わってまだ日が浅い」
「忠誠を証明するには、あまりにも時間が足りません」
「忠誠なら誓ったわ」
「言葉だけでは!」
「私が信じた」
曹操は一言で遮った。
大通りの空気が静まる。
「それでは足りない?」
荀彧は唇を噛む。
曹操の判断へ、公然と異を唱えることはできる。
それが軍師の役目でもある。
だが曹操が、自分の見る目そのものを問うた。
それ以上反対することは。
自分が仕える主君を信じていないと認めることになる。
「……足りぬとは、申しません」
「なら決まりね」
曹操は黒狼隊へ視線を向ける。
「この者たちは西部の練兵場へ」
「既存の魏兵とは区画を分けなさい」
「武器は取り上げず、ただし夜間の持ち出しは禁止」
「食事と給金は、同じ階級の魏兵に準じる」
荀彧の眉が動く。
「同じ待遇を与えるのですか」
「同じ兵にするのだから、当然でしょう?」
「まだ正式な兵ではありません」
「だから、準じると言ったのよ」
曹操は時雨を見る。
「張燕」
「なんだ」
「今日中に全員の名簿を作りなさい」
「今日中?」
「ええ」
「千二百いる」
「知っているわ」
「無理だ」
「韓武や石剛を使えばいいでしょう?」
「文字を書けない奴も多い」
「魏の役人を貸すわ」
「最初からそう言え」
「あなたが困る顔を見たかったの」
「性格が悪いな」
「褒め言葉として受け取るわ」
黒狼隊の兵たちから、再び小さな笑いが起きた。
荀彧は額へ手を当てる。
「曹操様」
「何?」
「このような男を、本当に将へなさるのですか」
「ええ」
「今すぐ考え直すことを、強くお勧めいたします」
「却下よ」
曹操は楽しそうに笑った。
---
黒狼隊が西部練兵場へ移された後。
時雨は王宮へ連れていかれた。
連れていかれた。
時雨自身の感覚では、その表現が最も正しい。
黒狼隊の名簿。
宿舎の割り振り。
食料の確認。
負傷者の手当て。
今すぐ見なければならないものはいくらでもあった。
だが曹操は、すべて韓武と石剛へ任せるよう命じ。
時雨を王宮へ同行させた。
「逃げない」
王宮の廊下を歩きながら、時雨は言った。
「信用してるわ」
「なら袖を掴むな」
曹操は時雨の衣の袖を握っていた。
強く引いているわけではない。
ただ、離れる意思がないことを示すように掴んでいる。
「あなたは目を離すと、すぐ別の場所へ行くでしょう?」
「仕事をしに行く」
「今から行うことも仕事よ」
「任命式なんて、立ってるだけだろ」
「とても重要よ」
「腹は膨れない」
「あなたは何でも食事で測るのね」
「食えないものは、急がなくても死なない」
「国は儀礼でも動くの」
曹操は足を止めた。
時雨も止まる。
長い廊下。
左右には庭園。
少し離れた場所には、護衛として夏侯姉妹がいる。
さらに後ろを、荀彧、郭嘉、程昱、許褚、典韋が続いていた。
「あなたは、自分が何者になったかを理解していない」
曹操が言う。
「魏の将だろ」
「それを理解していないと言っているの」
「分かりにくいな」
曹操は時雨の袖から手を離した。
その代わり、時雨の胸元へ指を当てる。
「あなたが自分で名乗るだけでは足りない」
「私があなたを将として認め」
「重臣たちがあなたを同じ魏の臣として認め」
「兵と民へ示す」
「それで初めて、張燕は魏の将になる」
時雨は少しだけ考えた。
黒山では違った。
頭領を倒せば、自分が次の頭領。
力を示せば、それで終わり。
周囲が認めるかどうかは、後からついてきた。
だが魏では。
地位は個人の力だけで決まらない。
王が認め。
同僚が受け入れ。
法と記録へ残す。
それによって、一人の役割が国の中へ組み込まれる。
「面倒だが、必要ということか」
「そうよ」
「最初からそう言え」
「何度も言っているわ」
「分かりにくい」
「理解力の問題ではなくて?」
「説明する側の問題だ」
荀彧が後ろから声を上げた。
「曹操様のご説明に問題などありません!」
時雨が振り返る。
「聞いてたのか」
「同じ廊下を歩いているのですから当然でしょう!」
「桂花は耳がいいな」
「真名で呼ぶな!」
荀彧の顔が一瞬で赤くなった。
時雨は眉を寄せる。
「曹操が呼んでるから覚えた」
「覚えるな!」
「無理を言うな」
「少なくとも口へ出すな!」
「なら荀彧でいいか」
「それが当然です!」
荀彧は肩で息をしている。
郭嘉が扇の陰で笑い。
程昱は変わらぬ眠そうな顔で歩いている。
許褚は何かを言いたそうに二人を見比べ。
典韋は、これ以上喧嘩にならないか心配そうにしていた。
曹操は全員を見回す。
その目に、何かを思いついたような光が宿る。
時雨はその変化を見逃さなかった。
「曹操」
「何?」
「今、余計なことを考えただろ」
「失礼ね」
「顔に出てる」
「私が何を考えているか分かるの?」
「面倒な命令を増やす時の顔だ」
曹操の笑みが深くなる。
時雨は嫌な予感を覚えた。
「やめろ」
「まだ何も言っていないわ」
「だから先に止めてる」
「却下よ」
「ほらな」
曹操は機嫌よく歩き出した。
その背中を見ながら。
時雨は今日一番深いため息をついた。
---
任命式が行われる大広間には、魏の文武百官が集まっていた。
最奥。
数段高い玉座に、曹操が座る。
その左右には夏侯惇と夏侯淵。
さらに荀彧、郭嘉、程昱ら軍師が並び。
許褚と典韋をはじめ、曹操直属の将たちがその後ろを固めている。
中央には赤い敷物が伸びていた。
扉から玉座まで。
時雨一人が歩くために用意された道。
その両側へ並んだ文官たちが、一斉に時雨を見ている。
好奇。
警戒。
不満。
畏怖。
向けられる感情は様々だった。
黒山の百万を率いた男。
燕国の王。
曹操へ国ごと降伏した張燕。
そして今日。
魏将として任命される男。
噂だけが先に広がり。
本人を見るのは初めてという者も多い。
時雨は大広間へ入る前。
儀礼を担当する役人から、細かな説明を受けていた。
中央まで歩く。
片膝をつく。
頭を下げる。
曹操から任命を受ける。
命令があるまで顔を上げない。
与えられた印と官服を受け取る。
決められた言葉で忠誠を誓う。
長かった。
途中から聞くのが面倒になり。
時雨は半分ほどしか覚えていなかった。
だから中央まで歩き。
曹操の前へ立ったところで。
普通に立ち止まった。
膝をつかない。
頭も下げない。
大広間がざわめく。
儀礼を担当する役人が、顔を青くした。
荀彧のこめかみに青筋が浮かぶ。
曹操は玉座から時雨を見る。
「張燕」
「なんだ」
「何か忘れていない?」
「何をだ」
「跪くところよ」
時雨は少しだけ周囲を見る。
「必要か」
「必要です!」
荀彧の声が飛んだ。
「魏王より官位を賜るのです!」
「臣下として、当然の礼を!」
「昨日、曹操の隣から逃げないと誓った」
「それとこれとは別です!」
「分かりにくいな」
「何がですか!」
「忠誠を見せろと言うから見せた」
「今日は形を見せろと言う」
「どっちが本物だ」
大広間が静まる。
文官たちが顔を見合わせる。
時雨にとっては純粋な疑問だった。
曹操へ仕えると決めた。
裏切らないと誓った。
その言葉は本心だ。
今さら膝をつくことで、何が増えるのか。
曹操は玉座へ頬杖をつく。
「どちらも本物よ」
「二ついるのか」
「ええ」
「面倒だな」
「国とはそういうものよ」
時雨はしばらく曹操を見た。
彼女が、自分を屈服させるために膝を求めているわけではない。
それくらいは分かった。
曹操は時雨の意思を欲しがる。
ただ頭を下げるだけの男なら、そもそも手に入れようとしなかった。
今求めているのは。
魏という国の中で。
張燕が曹操の臣となったことを、全員へ見せる形。
個人的な約束ではなく。
公の立場として受け入れるための儀礼。
「一度だけだぞ」
時雨が言う。
「儀礼のたびに必要よ」
「聞いてない」
「今言ったわ」
「やめるか」
時雨が踵を返そうとする。
「待ちなさい!」
曹操の声が響く。
笑いを堪えるような声だった。
「今回は一度でよいわ」
「本当だろうな」
「今後については、また話し合いましょう」
「決めてないのと同じだな」
それでも時雨は向き直った。
ゆっくりと片膝を床へつく。
頭を下げる。
その動作は儀礼として洗練されたものではない。
武人が戦場で、主へ命令を求める時の姿勢に近い。
だが。
黒山の王だった男が。
魏王の前へ自ら膝をついた。
大広間にいる全員が、その事実を見届けた。
曹操の表情から笑みが消える。
玉座から立ち上がる。
階段を一段ずつ降り。
時雨の前へ立つ。
「張燕」
「はい、と言うところか」
「ええ」
「……はい」
時雨の返事に、大広間の何人かが僅かに驚いた。
荀彧も目を見開く。
時雨は敬語を使ったわけではない。
それでも。
命令を受ける者として、曹操の声へ応えた。
曹操は満足そうに目を細める。
「汝を魏の将へ任ずる」
「黒狼隊千二百を預ける」
「旧燕国の兵と民を魏へ組み込み」
「その力をもって、魏の敵を討ちなさい」
「ただし」
曹操の声が僅かに低くなる。
「勝手に死ぬことは許さない」
時雨は顔を上げないまま言った。
「任命式で言うことか」
「最も重要な命令よ」
「皆が聞いてるぞ」
「だから言っているの」
曹操は一歩近づく。
「返事は?」
時雨は短く息を吐いた。
「分かった」
「正式な場よ」
「承知した」
「もう少し丁寧に」
「注文が多いな」
曹操の眉が動く。
時雨は僅かに口元を上げた。
「謹んで、お受けする」
大広間に。
小さなどよめきが生まれた。
時雨が、そのような言葉を使えるとは思われていなかったらしい。
曹操も一瞬驚き。
すぐに楽しそうな笑みを浮かべた。
「できるではないの」
「聞いたことはある」
「普段から使いなさい」
「断る」
「今のあなたは、少し可愛げがあったわ」
「忘れろ」
「嫌よ」
曹操は側に控えていた役人から、将軍印を受け取った。
掌に収まるほどの印。
魏の官印。
張燕という名と。
黒狼隊を率いる権限が刻まれている。
曹操はそれを時雨へ差し出した。
時雨が両手で受け取る。
重くはない。
剣よりも遥かに軽い。
それでも。
掌へ載せられた瞬間。
かつて王として抱えていたものとは違う重みが伝わってきた。
燕国では。
時雨の言葉が法だった。
印など必要なかった。
時雨が命じれば、人が動いた。
それは強い。
だが、同時に危うい。
時雨がいなくなれば、何も残らない。
今受け取った印は。
時雨個人の力を示すものではない。
魏という国が、張燕へ権限を預けた証。
時雨がいなくなっても。
記録が残り。
役目が残り。
次の者へ引き継がれる。
国の中へ組み込まれるとは。
そういうことなのかもしれない。
時雨は印を見つめ。
やがて曹操を見上げた。
「落とすなよ」
曹操が言う。
「落とさない」
「失くしたら?」
「探す」
「見つからなければ?」
「作り直せ」
「国の印を何だと思っているの!」
「小さいから失くしそうだ」
「絶対に失くさないで!」
大広間の緊張が、僅かに緩んだ。
文官の中から。
笑いを堪える咳払いが聞こえる。
荀彧は顔を押さえていた。
「曹操様」
「何、桂花」
「任命を取り消すなら、今が最後の機会です」
「取り消さないわ」
「この男に官印を預けるなど、不安しかありません!」
「なら桂花が管理を手伝いなさい」
「なぜ私が!」
「軍政を担う者として当然でしょう?」
荀彧は言葉に詰まった。
時雨は官印を懐へ入れる。
「頼むな、桂花」
「真名で呼ぶな!」
怒声が大広間へ響いた。
今度こそ、何人もの者が笑った。
---
任命式が終わった後も、時雨は解放されなかった。
通常であれば。
官位を受け。
重臣へ挨拶を済ませ。
そのまま黒狼隊のもとへ戻れるはずだった。
だが曹操は、時雨を自分の執務室へ連れていった。
夏侯惇。
夏侯淵。
荀彧。
郭嘉。
程昱。
許褚。
典韋。
曹操の中枢を支える者たちも全員集められている。
広い室内。
中央には大きな机。
その上には黒山や旧燕国領の地図。
積み上げられた竹簡。
各地から届いた報告書。
窓から差し込む午後の日差しが、机の上へ長い影を作っていた。
曹操は自分の席へ座る。
他の者たちも、それぞれ決まった場所へ立った。
時雨だけが、何の説明も受けていない。
壁際へ立とうとすると。
曹操が自分の隣を指す。
「こちらへ」
「軍議か」
「少し違うわ」
「なら、ここでいい」
時雨は机の端。
曹操から二人分ほど離れた場所へ立った。
曹操は不満そうに眉を寄せる。
「もっと近く」
「聞こえる」
「命令よ」
時雨は仕方なく一歩近づく。
まだ距離がある。
曹操が無言で時雨を見る。
時雨がもう一歩近づく。
肩が触れるほどではない。
だが、曹操が手を伸ばせば衣へ届く距離。
「これでいいだろ」
「ひとまずは」
「ひとまず?」
「後で考えるわ」
「考えるな」
荀彧が苛立った声を上げる。
「曹操様!」
「何?」
「私たちは、何のために集められたのでしょうか」
「張燕を正式に迎え入れるためよ」
「任命式は、先ほど終わりました」
「官位の話ではないわ」
曹操は机へ肘をつき。
指を組む。
その瞳に宿る光を見て。
時雨は廊下で感じた嫌な予感が、まだ終わっていなかったことを悟った。
「曹操」
「何?」
「余計なことをするな」
「まだ何も言っていないでしょう?」
「その顔は知ってる」
「なら話が早いわね」
曹操は全員を見渡した。
「今日から張燕は、魏の正式な将となった」
「黒狼隊の指揮官であるだけではない」
「旧燕国の民と兵を統合する役目を担い」
「今後、軍議にも常に参加させる」
「つまり」
曹操の声が少しだけ柔らかくなる。
「この場にいる全員と、命を預け合う関係になるわ」
誰も言葉を挟まない。
夏侯惇だけが、僅かに胸を張った。
夏侯淵は静かに時雨を見る。
郭嘉と程昱は曹操の意図を読もうとしている。
許褚と典韋は、まだ話の行き先が分からない様子だった。
荀彧は。
明確に警戒していた。
「ですから」
曹操は微笑んだ。
「全員、張燕へ真名を教えなさい」
時間が止まった。
そう錯覚するほど。
室内は完全な静寂へ包まれた。
最初に反応したのは夏侯惇だった。
「なっ……!」
声が裏返る。
荀彧の顔から血の気が引き。
直後、一気に赤くなった。
郭嘉の扇が止まる。
程昱は眠そうな目を、ほんの僅かに大きくした。
許褚は口を開け。
典韋は両手で頬を押さえている。
時雨だけが、曹操の言葉の重さをすぐには理解できなかった。
「もう知ってるぞ」
全員の視線が時雨へ向く。
「曹操が普段から呼んでるからな」
「知っていることと」
荀彧が震える声で言う。
「本人から預けられることは、まったく違います!」
「同じ名前だろ」
「違います!」
今までで最も大きな荀彧の怒声だった。
時雨は少し身体を後ろへ引く。
「耳元で怒鳴るな」
「貴様が無神経なことを言うからです!」
「事実だ」
「真名とは!」
荀彧は胸元へ手を当てる。
「その者の魂に触れる名!」
「信頼し、心を許した者にのみ、呼ぶことを許すものです!」
「知ってる」
「なら、なぜ同じだなどと!」
「音は同じだろ」
「意味が違うと説明しているでしょう!」
荀彧は顔を真っ赤にしている。
怒りだけではない。
羞恥。
戸惑い。
そして、曹操の命令であっても簡単には従えないという強い抵抗。
夏侯惇も勢いよく前へ出た。
「曹操様!」
「何、春蘭」
「なぜ、この男に真名を!」
「理由は、今説明したでしょう?」
「私はまだ、こいつを完全には信用しておりません!」
「知っているわ」
「ならば!」
「だからこそよ」
曹操の言葉に。
夏侯惇が止まる。
「張燕を遠ざけたまま、信用できるようになると思う?」
「それは……」
「あなたたちは、私の最も近くにいる」
曹操は全員を見る。
「張燕も、これからそこへ加わる」
「互いに距離を置き」
「腹の内を隠し」
「いつまでも元賊だ、新参者だと疑い続ける」
「その状態で、戦場へ共に立てるの?」
夏侯惇は答えられない。
曹操は荀彧へ視線を向けた。
「桂花」
「……はい」
「あなたは張燕の軍政を助けることになる」
「黒山の民を魏の法へ組み込むには、彼の知識が必要」
「そして張燕には、あなたの知識が必要」
「互いに嫌っていても構わないわ」
「ですが」
「信頼する努力はしなさい」
荀彧は唇を噛んだ。
曹操は郭嘉と程昱を見る。
「稟、風」
「はい」
「はいー」
「張燕の持つ山岳戦の知識は、魏にとって大きな力になる」
「あなたたちが策を立て」
「彼が実行する」
「あるいは彼の策を、あなたたちが国全体へ広げる」
「そのためには、互いを知らなければならない」
郭嘉が扇を閉じる。
「曹操様のお考えは理解いたしました」
「ですが、真名を命令によって預けさせることは」
「本来なら、するべきではないでしょうね」
曹操は認めた。
時雨が曹操を見る。
「ならやめろ」
「嫌よ」
「自分で間違ってると言っただろ」
「本来なら、よ」
曹操は時雨へ蒼い瞳を向ける。
「けれど、あなたは普通の方法では何年経っても距離を縮めないでしょう?」
「必要な話はする」
「それだけでは足りないわ」
「何が足りない」
「あなたは、自分が必要とされる側にいることへ慣れている」
曹操の言葉に。
時雨の目が僅かに細くなる。
「黒山では皆があなたを頼った」
「けれど、あなたは誰かを頼ることをしなかった」
「魏でも同じように、一人で全部背負おうとするつもりでしょう?」
時雨は答えない。
「私はそれを許さない」
曹操は静かに言った。
「この者たちの名を知りなさい」
「知識を借り」
「力を借り」
「命を預けなさい」
「そして皆も」
曹操は重臣たちへ視線を戻す。
「張燕へ預けなさい」
「彼だけを仲間の外へ置くことは、私が許さない」
室内へ。
重い沈黙が落ちた。
曹操の命令は強引だった。
真名は、主君が命じたからといって簡単に渡すものではない。
それでも。
曹操が命じた理由は。
単なる気まぐれでも。
時雨を自分の所有物として見せつけるためだけでもなかった。
時雨を魏の中枢へ入れる。
形だけではなく。
本当に仲間として組み込む。
そのために。
自分の最も信頼する者たちへ、心の一部を差し出せと命じている。
時雨は曹操の横顔を見る。
「俺の意見は」
「聞きましょう」
「いらない」
曹操の眉が動く。
「何ですって?」
「真名を教えられても、呼ばない」
全員の顔が時雨へ向く。
「なぜ?」
曹操が尋ねる。
「命令されて教えるものじゃないんだろ」
時雨は荀彧を見る。
「本人が嫌なら、俺はいらない」
「別に、名前を知らなくても戦える」
「お前……」
荀彧の声から。
僅かに怒りが消える。
時雨は夏侯惇を見る。
「夏侯惇も、俺を信用してない」
「当然だ!」
「なら、無理に預ける必要はない」
「俺も、預けろとは言わない」
「貴様に拒まれる筋合いはない!」
夏侯惇が反射的に怒鳴る。
時雨は眉を寄せた。
「嫌なんじゃないのか」
「嫌だ!」
「ならいいだろ」
「よくない!」
「どっちだ」
「私にも分からん!」
夏侯惇の怒声へ。
程昱が小さく笑った。
「春蘭様らしいですねー」
「風! 笑うな!」
「まだ真名を呼ぶことは許されていませんよー」
「お前は曹操様から許されているだろう!」
「そうでしたー」
夏侯惇は頭を抱えた。
時雨は曹操へ向き直る。
「俺は命令しない」
「曹操が命じても、呼ぶかは俺が決める」
「あなたは私の命令へ逆らうつもり?」
「真名を呼べとは言ってない」
曹操は黙った。
確かに。
教えろとは命じた。
時雨へ呼べとは、まだ言っていない。
「言葉の隙を突くのが好きね」
「曹操が曖昧だからだ」
「では命じるわ」
曹操は口を開きかけ。
そこで止まった。
時雨の目が。
いつになく真剣だった。
「曹操」
「何?」
「これは、曹操が決めることじゃない」
誰かの真名を。
誰へ預けるか。
曹操が許可を出すことはできる。
主従の間で、信頼を結ばせるために勧めることもできる。
だが。
最後に決めるのは本人。
時雨はそう言っている。
自分の意思を消すなと曹操へ求めた男が。
他の者の意思も、同じように尊重しようとしていた。
曹操は長く時雨を見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「そうね」
その答えに。
全員が驚いた。
曹操は自分の命令を撤回することが少ない。
一度欲しいと決めたものを、簡単に諦める女でもない。
「命令の仕方を変えるわ」
曹操は席から立ち上がる。
「私は、あなたたちへ張燕と向き合うことを命じる」
「真名を預けるかどうかは、自分で決めなさい」
「ただし」
曹操の瞳が鋭くなる。
「過去だけを理由に拒絶することは許さない」
「今の張燕を見て」
「自分の意思で決めなさい」
命令でありながら。
選択を残した言葉だった。
時雨も反対しなかった。
最初に動いたのは。
意外にも夏侯淵だった。
一歩前へ出る。
落ち着いた瞳で、時雨を見る。
「張燕」
「なんだ」
「私は、まだお前のすべてを信用しているわけではない」
「ああ」
「だが」
夏侯淵は姉へ視線を向け。
次に曹操を見る。
「姉者と曹操様が、お前を信じようとしている」
「それに」
「西部での働きは、この目で見た」
「反乱軍へ戻ることもできた」
「劉備の誘いへ乗ることもできた」
「それでも、お前は魏へ帰った」
時雨は黙って聞いている。
夏侯淵は。
僅かに表情を緩めた。
「私の真名は秋蘭」
「お前が魏のために戦い」
「曹操様を守る限り」
「この名を呼ぶことを許す」
静かな言葉だった。
大げさな誓いではない。
まだ条件もある。
完全な信頼ではない。
それでも。
夏侯淵が自分の意思で、一歩を踏み出した。
時雨はすぐに返事をしなかった。
軽く扱ってよい言葉ではないと理解したからだ。
「分かった」
やがて時雨は頷く。
「秋蘭」
夏侯淵の目が僅かに細くなる。
実際に呼ばれることで。
初めて、自分が真名を預けたのだという実感が生まれたのだろう。
「それで」
時雨は続ける。
「俺の真名は時雨だ」
「知っている」
「知ってることと、預けられることは違うんだろ」
夏侯淵が一瞬、目を見開く。
荀彧も。
郭嘉も。
曹操さえ。
時雨を見た。
「俺も、秋蘭に呼ぶことを許す」
夏侯淵は何も言わなかった。
だが、その口元へ。
はっきりとした笑みが浮かんだ。
「分かった、時雨」
自分の真名が。
初めて魏の者の口から呼ばれる。
黒山の者たちが呼ぶ時とは違った。
彼らにとって時雨は頭領だった。
王だった。
守るべき中心。
夏侯淵が呼んだ真名には。
同じ場所へ立つ者としての響きがあった。
時雨の胸へ。
不思議な感覚が残る。
嫌ではない。
ただ。
少し落ち着かなかった。
「なぜ秋蘭が先なのだ!」
夏侯惇が叫んだ。
全員が彼女を見る。
「姉者?」
夏侯淵が首を傾げる。
「いや、その……!」
夏侯惇は顔を赤くする。
「私が先に曹操様へ仕えている!」
「姉者、それは関係ないだろう」
「関係ある!」
「真名を預けたくないのではなかったか」
「それとこれとは別だ!」
「またか」
時雨が呟く。
夏侯惇が彼を睨む。
「何だ!」
「分からないなら、無理しなくていい」
「貴様に気遣われる必要はない!」
「気遣ってない」
「なら、なぜ止める!」
「嫌そうだからだ」
「嫌ではない!」
夏侯惇は言い切り。
直後。
自分が何を言ったのか気づいた。
顔が一気に赤くなる。
時雨は黙る。
夏侯淵が僅かに笑う。
曹操は、非常に楽しそうだった。
「春蘭」
「曹操様!」
「続けなさい」
「ですが!」
「自分で決めたのでしょう?」
夏侯惇はしばらく言葉を失い。
やがて時雨の前へ立った。
背筋を伸ばす。
まるで決闘へ臨むような表情だった。
「張燕!」
「なんだ」
「私の真名は春蘭だ!」
「知ってる」
「今は黙って聞け!」
「分かった」
「私は!」
夏侯惇は拳を握る。
「今もお前を完全には信用していない!」
「ああ」
「曹操様への態度も気に入らん!」
「ああ」
「すぐに私を馬鹿にすることも!」
「してない」
「している!」
「分かったから続けろ」
「命令するな!」
話が進まない。
夏侯淵が額へ手を当てる。
荀彧は苛立ち。
郭嘉は楽しそうに見守り。
程昱は欠伸を噛み殺していた。
曹操だけが。
急かすことなく夏侯惇を待った。
夏侯惇は大きく息を吸う。
「だが」
声が少しだけ落ち着く。
「お前が曹操様の隣へ立つと誓ったことは聞いた」
「黒山の者を守るため、燕国を捨てたことも」
「反乱を血を流さず収めたことも見た」
「お前が曹操様を裏切れば」
「私は必ず、お前を斬る」
「ああ」
「だが」
夏侯惇は真っ直ぐ時雨を見る。
「お前が曹操様を守る限り」
「私はお前の隣で戦う」
「だから」
僅かに言葉が詰まる。
それでも。
夏侯惇は目を逸らさなかった。
「春蘭と呼ぶことを許す」
時雨も。
彼女から目を逸らさなかった。
「分かった」
短く答える。
「春蘭」
夏侯惇の肩が僅かに跳ねた。
真名を呼んだだけ。
それなのに。
普段、曹操や夏侯淵から呼ばれる時とは、まるで違う反応だった。
時雨は続ける。
「俺の真名は時雨」
「春蘭にも、呼ぶことを許す」
「う、うむ!」
夏侯惇は力強く頷く。
「時雨!」
声が大きい。
近くで呼ばれたため、時雨は僅かに顔をしかめた。
「怒鳴るな」
「怒鳴っていない!」
「耳が痛い」
「真名を呼んだのだぞ!」
「知ってる」
「もう少し何かないのか!」
「何を求めてる」
「私にも分からん!」
夏侯惇は再び混乱した。
曹操が堪えきれず笑う。
夏侯淵も肩を震わせていた。
時雨は、ほんの少しだけ口元を緩める。
春蘭は。
分かりにくいが、嘘をつかない。
怒れば怒鳴る。
疑えば睨む。
認めれば。
自分から一歩を踏み出す。
黒山にも、似たような者はいた。
扱いやすいとは言えない。
だが。
背中を預けるには、悪くない。
次に前へ出たのは郭嘉だった。
「では、私も」
扇を閉じ。
時雨へ向き合う。
「曹操様がお認めになり」
「春蘭様と秋蘭様が真名を預けた」
「それだけでも、十分な理由ではあります」
「自分では決めないのか」
時雨が尋ねる。
郭嘉は微笑む。
「もちろん、自分でも決めます」
「あなたの言葉は粗野で」
「態度は不遜」
「軍議の順序を守らず」
「曹操様への礼節も足りない」
「褒めてないな」
「まだ途中です」
郭嘉は扇を口元へ当てる。
「ですが」
「現実を見誤らず」
「民が今日食べる物を何より先に考える」
「そして、ご自身の価値を武器として使いながら」
「その命を自分のものだと思っていない」
時雨の眉が僅かに寄る。
「最後は褒めてないだろ」
「ええ」
郭嘉の目から笑みが消える。
「そこは改めていただきます」
「曹操様だけでなく」
「私たちも、あなたが死ぬことを許しません」
時雨は答えなかった。
その沈黙を。
郭嘉は拒絶とは受け取らなかった。
「私の真名は稟」
「これから同じ軍議へ立つ者として」
「あなたへ預けます」
「分かった、稟」
時雨は頷く。
「俺も時雨と呼ばせる」
「光栄です、時雨殿」
「殿はいらない」
「では、時雨」
郭嘉は自然に呼び直した。
声に迷いがない。
時雨も。
思ったほど抵抗を感じなかった。
「次は風ですねー」
程昱がゆっくり前へ出る。
「自分で言うのか」
時雨が尋ねる。
「はいー」
「私の真名は風ですー」
「時雨殿は、すでに何度も聞いていると思いますがー」
「本人から改めてお伝えしますー」
眠そうな声。
だが。
その目は普段よりも少しだけ真剣だった。
「時雨殿は、山の獣のような方ですねー」
「褒めてるのか」
「半分くらいはー」
「残りは」
「危なっかしくて、目を離せないという意味ですー」
程昱は微笑む。
「でもー」
「狼は一度群れを選べば、簡単には捨てないとも聞きますー」
「曹操様が信じるならー」
「風も、信じてみようと思いますー」
「だからー」
「風と呼ぶことを許しますー」
時雨は少しだけ目を細める。
程昱の言葉は柔らかい。
だが。
その奥で何を考えているのか、簡単には読めない。
ただ。
嘘を言っていないことだけは分かった。
「分かった、風」
「はいー、時雨様ー」
「様はいらない」
「ではー、時雨さんー」
「さんもいらない」
「時雨ちゃんー」
「それはもっと嫌だ」
「注文が多いですねー」
「風に言われたくない」
程昱は楽しそうに笑った。
次に許褚が前へ出る。
「ボクもいいですか?」
曹操が頷く。
許褚は時雨の前へ立つ。
小柄な身体。
だが。
時雨には、その内側へ秘められた力が分かる。
初めて見た時から。
並の武人ではないと感じていた。
「ボクの真名は季衣です!」
許褚は明るく言った。
「張燕さん……じゃなくて、時雨さんは」
「最初はちょっと怖かったです」
「そうか」
「はい」
「でも、村の人たちを殺さないように話して」
「反乱した人たちも助けて」
「兵になれない人にも仕事を探して」
許褚は両手を背中へ回す。
「優しい人なんだと思いました」
「優しくない」
「そうですか?」
「必要なことをしただけだ」
「それを優しいって言うんじゃないですか?」
時雨は答えられなかった。
許褚は笑う。
「だから、季衣って呼んでください」
「ボクも時雨さんって呼びます!」
「分かった、季衣」
「はい、時雨さん!」
許褚は嬉しそうに笑った。
その後ろから。
典韋が恐る恐る前へ出る。
「わ、私も……」
緊張のためか。
顔が赤い。
両手を胸元で握り。
何度か深呼吸をしている。
「無理しなくていい」
時雨が言う。
典韋は驚いたように顔を上げる。
「嫌なら、曹操の命令でも言わなくていい」
「い、嫌ではありません!」
「そうか」
「ただ、その……」
典韋は時雨の目を見て。
すぐに視線を逸らす。
「私の真名は、流琉です」
小さな声。
それでも。
室内にはっきり届いた。
「曹操様が認められた方ですし」
「季衣も、信じると言っています」
「それに」
典韋は少し迷い。
「時雨様は、食べ物を大事にされる方だと聞きました」
時雨は眉を上げる。
「そこか」
「はい」
典韋は料理を好む。
食事を大切にする者へ。
自然と好感を持つのだろう。
「黒山では、食べ物を粗末にすると殴られた」
「殴られたのですか?」
「俺が殴った」
「そ、そうでしたか」
典韋は僅かに引きつった。
それでも。
すぐに柔らかな笑みへ戻る。
「では」
「流琉と呼んでください」
「私も、時雨様とお呼びします」
「様はいらない」
「ですが」
「呼びにくいなら、張燕でもいい」
「い、いえ!」
典韋は慌てて首を振る。
「時雨、とお呼びします」
「分かった、流琉」
典韋の顔がさらに赤くなる。
「はい、時雨」
声は小さい。
だが嬉しそうだった。
そして。
残ったのは荀彧だけだった。
全員の視線が集まる。
荀彧は腕を組み。
時雨を睨んでいる。
「無理しなくていいぞ」
時雨が言った。
「貴様に言われなくても分かっています!」
「なら終わりでいいな」
「なぜ勝手に終わらせるのです!」
「言いたくないんだろ」
「言いたくありません!」
「じゃあいい」
「よくありません!」
時雨は本気で分からなくなってきた。
夏侯惇と似ている。
嫌だと言いながら。
終わらせようとすると怒る。
「桂花」
曹操が呼ぶ。
荀彧が曹操を見る。
「命令はしないわ」
「……はい」
「あなたが決めなさい」
荀彧は唇を強く結ぶ。
時雨へ真名を預ける。
それは。
彼を同じ魏の臣として認めること。
曹操の側に立つ者として。
自分の内側へ一歩、入れること。
荀彧にとって。
簡単にできるはずがない。
時雨は礼儀を守らない。
曹操へ敬語も使わない。
命令に口答えし。
自分の正しさを疑わず。
何より。
曹操から特別に扱われている。
荀彧が長年かけて得た場所へ。
降伏して数日しか経っていない男が、当然のように立っている。
気に入るはずがない。
「私は」
荀彧が口を開く。
声は硬い。
「あなたが嫌いです」
「ああ」
時雨はすぐに頷く。
「態度も」
「考え方も」
「曹操様との距離も」
「すべて気に入りません」
「知ってる」
「最後まで聞きなさい!」
「分かった」
荀彧は一度、息を整える。
「ですが」
「あなたが提示した街道整備の策は正しかった」
「黒山の者へ仕事を与え」
「食料を運ぶ道を、自ら作らせる」
「行政として合理的です」
「また、元燕兵の扱いについても」
「一方的に庇うのではなく」
「魏の法へ従わせようとしている」
「それも認めます」
時雨は黙って聞いている。
「何より」
荀彧は曹操を見る。
「曹操様が、あなたを必要としている」
「私は曹操様の覇道を支える軍師」
「曹操様が必要とされる者を」
「私個人の感情だけで遠ざけることはできません」
荀彧は再び時雨を見る。
強い瞳。
怒りは残っている。
嫌悪も消えていない。
それでも。
自分の役目と。
自分の意思で。
時雨を受け入れようとしている。
「私の真名は桂花」
一言ずつ。
確かめるように告げる。
「ただし!」
荀彧は時雨へ指を突きつけた。
「曹操様へ無礼を働いた時!」
「魏へ不利益を与えた時!」
「少しでも裏切る素振りを見せた時!」
「即座に呼ぶことを禁じます!」
「分かった」
「そして、普段から必要以上に呼ばないでください!」
「どれくらいが必要以上だ」
「私へ用がない時は呼ばない!」
「用があればいいのか」
「仕方なくです!」
「分かった、桂花」
荀彧の顔が一気に赤くなった。
実際に呼ばれる覚悟が。
まだできていなかったらしい。
「い、今すぐ呼ぶ必要はなかったでしょう!」
「用があった」
「何です!」
「俺の真名を教える」
荀彧が言葉を止める。
時雨は真っ直ぐ彼女を見る。
「俺の真名は時雨」
「桂花にも、呼ぶことを許す」
荀彧は目を見開いた。
時雨が。
自分へ真名を預けた。
曹操の命令だからではない。
他の者へ預けたから、ついでにでもない。
自分が預けたものへ。
同じ重さで返した。
「……そう」
荀彧の声から。
僅かに力が抜ける。
「では」
少しだけ視線を逸らす。
「必要な時は、時雨と呼びます」
「ああ」
「勘違いしないでください!」
荀彧は再び顔を上げる。
「認めたわけではありません!」
「真名を預けたのにか」
「同僚として、最低限の信頼を示しただけです!」
「それを認めたと言うんじゃないのか」
「違います!」
「分かりにくいな」
「あなたが鈍いのです!」
また言い合いが始まる。
曹操はそれを止めなかった。
むしろ。
満足そうに眺めていた。
命令だけでは。
この光景は生まれなかった。
時雨が拒み。
彼女たちへ選ばせ。
彼女たちが自分の意思で一歩を踏み出した。
完全な信頼ではない。
夏侯惇も。
荀彧も。
時雨への疑いを残している。
時雨もまた。
彼女たちへ、すべてを預けたわけではない。
それでも。
名前を交わした。
呼ぶことを許した。
呼ばれることを受け入れた。
それは。
魏の懐へ入るための。
最初の扉だった。
「これで全員ね」
曹操が言う。
時雨は荀彧との言い合いを止め。
曹操を見る。
「曹操は」
「何?」
「俺に真名を教えないのか」
室内が静まる。
夏侯姉妹。
軍師たち。
許褚と典韋。
全員の顔が曹操へ向いた。
曹操は一瞬。
本当に僅かな一瞬だけ。
言葉を失った。
すぐに。
いつもの覇王の笑みへ戻る。
「あなたは私を曹操と呼ぶのでしょう?」
「ああ」
「なら必要ないわ」
「俺だけ真名を知らないのか」
「そうなるわね」
「不公平だな」
曹操の眉が動く。
「不満?」
「別に」
時雨はあっさり答えた。
曹操の笑みが僅かに引きつる。
「別に?」
「曹操が教えたくないなら、それでいい」
「知りたくないの?」
「本人が嫌なら、いらないと言っただろ」
「私が命じれば?」
「自分で自分に命じるのか」
「例えばの話よ」
「曹操は曹操でいい」
時雨に深い意図はなかった。
最初に会った時から。
曹操は曹操だった。
覇王。
主君。
自分の命と剣を手に入れた女。
他の名で呼ぶ姿を。
今は想像できなかった。
だが曹操にとって。
その答えは、少し違って聞こえた。
真名を知らなくても。
曹操という名だけで十分。
他の誰でもない。
曹操自身を見ている。
その言葉に。
ほんの少しだけ機嫌が直る。
「そう」
曹操は穏やかに笑った。
「なら、今はそれでいいわ」
「今は?」
「いずれ、あなたがどうしても知りたいと願ったら」
曹操は時雨の衣の胸元へ指を当てる。
「考えてあげる」
「多分、願わない」
「願いなさい」
「命令か」
「そうよ」
「真名を知りたいと思えと?」
「ええ」
「無茶を言うな」
「あなたなら、いつか思うわ」
曹操は自信に満ちている。
時雨は呆れたように彼女を見る。
他の者たちは。
二人のやり取りを、何とも言えない表情で見ていた。
夏侯惇は不満そうで。
夏侯淵は僅かに笑い。
荀彧は時雨を睨み。
郭嘉と程昱は面白そうに観察し。
許褚は純粋に首を傾げ。
典韋はなぜか顔を赤くしている。
時雨は全員を見渡す。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
これまでも、曹操が呼ぶ声を聞いていた。
ただの音として覚えていた名。
今は違う。
それぞれの顔と。
言葉と。
託された信頼が結びついている。
妙な感覚だった。
黒山では。
多くの者が時雨へ真名を預けた。
だが。
時雨から誰かへ預けることは少なかった。
守る者。
従う者。
命令する相手。
そういう関係ばかりだった。
今は。
同じ場所へ立つ者たちへ。
自分の名を渡した。
仲間。
その言葉が。
自分と彼女たちの間に当てはまるのか。
時雨には、まだ分からない。
だが。
少なくとも。
もう完全な他人ではなかった。
「話は終わりか」
時雨が尋ねる。
「ええ」
曹操が答える。
「なら黒狼隊のところへ戻る」
「待ちなさい」
「まだあるのか」
「今夜、あなたの正式な任命を祝う宴を開くわ」
時雨の顔が曇る。
「いらない」
「必要よ」
「さっき儀礼は終わった」
「今度は重臣たちとの親睦」
「今、真名を預けられた」
「それだけでは足りないわ」
「まだ何をする」
「酒を飲み」
「食事をし」
「互いを知るの」
「仕事がある」
「韓武と石剛へ任せなさい」
「俺が指揮官だ」
「だからこそ、人へ任せることを覚えなさい」
時雨は言葉に詰まる。
曹操は勝ち誇ったように微笑む。
「黒山の頭領ではなく」
「魏の将になるのでしょう?」
「都合よく使うな」
「正しい言葉は、何度でも使うものよ」
「断る」
「命令よ」
「酒は出るのか」
「ええ」
「なら考える」
「食事も流琉が作るわ」
時雨は典韋を見る。
「うまいのか」
典韋は驚き。
すぐに力強く頷いた。
「はい! 精一杯お作りします!」
「なら行く」
曹操の眉が上がる。
「私の命令より、流琉の料理なの?」
「飯は大事だ」
「私より?」
「比べるものじゃない」
「答えなさい」
「面倒だな」
曹操が時雨の袖を掴む。
「今夜、私の隣から離れないこと」
「なぜだ」
「あなたの宴だからよ」
「主役は動き回るものじゃない」
「私は主君として監督するの」
「誰を」
「あなたを」
「宴で何をすると思ってる」
「酔って逃げるかもしれないでしょう?」
「逃げない」
「では隣でいいわね」
「話が繋がってない」
「命令よ」
「そればかりだな」
室内に笑いが広がる。
先ほどまで。
真名を預けるという重い選択をしていた者たち。
その緊張が。
少しずつ解けていく。
時雨は不満そうな顔をしていた。
だが。
本気で嫌がってはいない。
それを。
この場にいる者たちは、少しずつ理解し始めていた。
---
その夜。
王宮の一室には、豪華な料理と酒が並べられた。
正式な宴と呼ぶには人数が少ない。
集まったのは。
曹操。
時雨。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
昼間、真名を交わした者たちだけだった。
曹操は当然のように時雨を自分の隣へ座らせた。
春蘭が反対し。
桂花も反対し。
曹操が命令で黙らせるまで、かなりの時間がかかった。
時雨の前には。
流琉が作った料理が並んでいる。
柔らかく煮込んだ肉。
香草を使った魚。
野菜の甘味を生かした汁物。
白く炊き上げられた米。
時雨は一口食べ。
黙った。
流琉が不安そうに様子を見る。
「お、お口に合いませんでしたか?」
時雨はもう一口食べる。
「うまい」
短い言葉。
それだけで。
流琉の顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「黒山の連中にも食わせたいな」
時雨が何気なく言う。
流琉は少し考え。
「同じものを全員分は難しいですが」
「大量に作れる料理なら、考えられます」
時雨が彼女を見る。
「頼めるか」
「はい!」
「流琉」
真名を呼ぶ。
典韋――流琉は。
一瞬驚き。
すぐに笑った。
「任せてください、時雨」
その会話を見ていた曹操が。
少しだけ不満そうに杯を置く。
「私には料理を褒めないのに」
「曹操は作ってないだろ」
「食材を用意したのは私よ」
「育てたのは農民だ」
「またその話?」
「事実だ」
曹操は時雨の杯へ酒を注ぐ。
「なら、私が選んだ酒を褒めなさい」
時雨は一口飲む。
「うまい」
「心がこもっていないわ」
「味は本物だ」
「もう少し私を喜ばせる言い方を覚えなさい」
「酒より難しい注文だな」
向かいでは。
季衣が大量の料理を食べている。
春蘭は酒を勢いよく飲み。
秋蘭は姉が飲みすぎないよう、さりげなく杯を遠ざけていた。
桂花は時雨と曹操の距離が近すぎると不満を口にし。
稟が扇でなだめ。
風はすでに眠そうに舟を漕いでいる。
奇妙な宴だった。
黒山では。
食事の場でも警戒を解けなかった。
砦の頭領が集まれば。
誰かが喧嘩を始める。
毒を恐れ。
武器を手放さず。
背後の壁を取り合った。
今夜。
時雨の腰には剣がある。
だが。
柄へ手を伸ばす必要を感じない。
誰も背後から斬りかからない。
酒へ毒が入っているか、疑う必要もない。
誰かが笑い。
誰かが怒り。
誰かが食べ。
誰かが眠そうにしている。
守られている者たちの宴。
いや。
互いに守る者たちの宴。
時雨は杯を持ったまま。
しばらく彼女たちを見ていた。
「どうしたの?」
曹操が尋ねる。
「何でもない」
「嘘ね」
「なぜ分かる」
「あなたの顔を見ていたもの」
「食事中に人の顔を見るな」
「私のものを、私が見て何が悪いの?」
時雨は杯を飲み干す。
曹操がすぐに次を注ぐ。
「名前を預けられた感想は?」
「落ち着かない」
「嬉しくないの?」
「嫌ではない」
「素直ではないわね」
「事実だ」
曹操は自分の杯を傾ける。
「あなたは今日」
「正式に魏の将となり」
「この者たちの真名を預かった」
「もう、後戻りはできないわ」
「最初から戻るつもりはない」
「黒山へも?」
時雨は少しだけ黙った。
黒山。
百を超える砦。
百万の民。
自分が長く守ってきた場所。
帰りたいと思わないわけではない。
山の空気。
土の匂い。
夜の風。
見慣れた景色。
すべてが懐かしい。
だが。
戻ることと。
以前と同じ自分へ戻ることは違う。
「行くことはある」
時雨は答える。
「黒山の連中の様子を見るためにな」
「でも」
時雨は室内を見渡す。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
最後に。
隣の曹操を見る。
「帰る場所は、ここになるのかもしれない」
曹操の手が止まった。
周囲の声も。
一瞬だけ遠くなる。
時雨自身。
口にしてから、その言葉の重さへ気づいた。
帰る場所。
許昌。
魏。
曹操のいる場所。
まだ完全には馴染んでいない。
民からは恐れられ。
文官からは疑われ。
黒狼隊の居場所も仮のもの。
それでも。
ここにいる者たちへ真名を預け。
真名を預けられた。
戻った時に。
お帰りと声をかける者がいる。
それを。
帰る場所と呼ぶのかもしれない。
曹操は。
ゆっくりと笑った。
覇王としての笑みではない。
誰にも見せつけるためではない。
ただ。
自分が欲しかった言葉を、ようやく受け取った者の笑み。
「そう」
曹操は小さく答える。
「なら、覚えておきなさい」
「何をだ」
「あなたがどこへ行っても」
曹操は時雨の杯へ酒を注ぐ。
「帰る場所は、私の隣よ」
「許昌じゃないのか」
「私が許昌にいなければ?」
「ついて来いと言うつもりか」
「当然でしょう?」
「面倒だな」
「でも、来るのでしょう?」
時雨は曹操を見る。
蒼い瞳。
傲慢な笑み。
自分の未来まで勝手に決めようとする女。
「多分な」
「多分?」
曹操の眉が動く。
「曹操が道を間違えなければ」
「その時は、あなたが止めるのでしょう?」
「ああ」
「なら問題ないわ」
曹操は満足そうに杯を掲げた。
「張燕」
「なんだ」
「いいえ」
曹操は少しだけ言い直す。
「時雨」
初めて。
曹操がその名を呼んだ。
室内の空気が変わる。
春蘭が目を見開き。
秋蘭が静かに微笑む。
桂花は驚き。
稟と風は互いに視線を交わす。
季衣と流琉は嬉しそうに時雨を見る。
時雨自身も。
予想していなかった呼び方に、言葉を失った。
曹操は真名を教えていない。
時雨も、曹操へ真名を求めなかった。
それでも。
曹操は時雨の真名を呼んだ。
主君としてだけではなく。
一人の男を、自分の近くへ迎え入れるように。
「魏へようこそ」
曹操が言う。
「今さらだな」
「正式には今日からよ」
「面倒な国だ」
「その国を、あなたも作るの」
時雨は少しだけ笑う。
「分かった、曹操」
真名ではない。
いつもと同じ呼び方。
だが。
その響きは、昨日までと僅かに違っていた。
主君を呼ぶ名。
隣へ立つと決めた女の名。
そして。
帰る場所の中心にいる者の名。
「しっかり働きなさい、時雨」
「酒を飲んでる時まで仕事の話をするな」
「明朝、軍議よ」
「聞いてない」
「今言ったわ」
「朝は弱い」
「春蘭に迎えへ行かせる」
「自分で起きる」
「賢明ね」
春蘭が杯を置き、力強く頷く。
「任せてください、曹操様! 時雨が起きなければ、寝台ごと運びます!」
「やめろ、春蘭」
「なぜだ!」
「部屋が壊れる」
「私の力を侮るな!」
「だから言ってる」
「時雨!」
春蘭の怒声が響く。
秋蘭が姉をなだめ。
桂花が時雨の無礼を責め。
季衣が笑い。
流琉が新しい料理を運び。
稟が杯を傾け。
風がいつの間にか机へ伏して眠っている。
曹操はそのすべてを見ながら。
満足そうに笑っていた。
許昌の夜。
黒山とは違う。
整えられた静けさの中。
一つの部屋から、賑やかな声が漏れている。
黒山の狼は。
まだ魏へ完全に馴染んだわけではない。
疑う者もいる。
恐れる者もいる。
受け入れられない者もいる。
けれど。
今日。
時雨は官印を受け取った。
魏の将として膝をついた。
そして。
七つの真名を預けられ。
自らの真名を預け返した。
名とは。
ただ人を呼ぶための音ではない。
ここにいてよいと。
互いに認めるための証。
命を預け。
背中を預け。
それでも帰ってこいと願うための絆。
燕国は終わった。
黒山賊も消えた。
王だった張燕は。
今。
魏将・張燕として。
時雨という一人の男として。
新しい名の輪へ迎え入れられた。
その夜。
時雨は初めて。
許昌の静けさを。
よそ者としてではなく。
帰る場所の夜として聞いていた。
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