外伝 第8話 三つの眼差し――魏を支える者たち
許昌の朝は、黒山よりも早い。
山では、陽が尾根を越えるまで夜が残る。
深い谷には薄闇が溜まり、砦の見張りが交代する頃になっても、冷たい空気は眠りから覚めきらない。鳥の声が増え、朝靄の向こうから木々の輪郭が浮かび始めて、ようやく一日が動き出す。
許昌には、朝を待つ静けさがなかった。
空が白み始めるより先に、城門では荷車が列を作る。
市場では商人が店を開き、井戸の周囲には水を汲む者たちが集まる。兵舎では起床を告げる鐘が鳴り、役所では夜番の官吏が報告書を抱えて次の者へ仕事を引き継ぐ。
都そのものが、眠りながらも動き続けている。
巨大な獣のようだった。
数えきれない人間の足音を血の流れとし。
倉へ運ばれる兵糧を肉とし。
文官が書き残す竹簡を神経として。
魏という国は、曹操が目を閉じている間にも呼吸を続けていた。
その朝。
西部練兵場では、黒狼隊千二百名が整列していた。
黒地に銀の狼を描いた旗が、朝の弱い風を受けている。
許昌へ入った翌日。
正式な任命を受けた時雨にとって、魏将として迎える最初の朝だった。
「遅い」
時雨の低い声が、練兵場へ落ちる。
千二百名の兵たちは息を止めた。
まだ太陽は城壁の向こうにある。
空は淡い青へ変わり始めたばかり。
起床を告げる鐘さえ鳴っていない。
それでも時雨は、すでに完全な軍装だった。
腰には曹操から返された黒鞘の剣。
紺の衣の上へ軽い革鎧をまとい、両腕を組んで兵たちを見渡している。
その前には、昨夜の宴で酒を飲んでいた男とは思えないほど冷静な顔が並んでいた。
もっとも。
時雨自身は、宴の酒をほとんど残していない。
春蘭に杯を重ねられ。
曹操に注がれ。
季衣に食事を勧められ。
流琉の料理を食べ続け。
部屋へ戻った頃には夜もかなり深くなっていた。
それでも、黒山で生きてきた時雨にとって。
酒を飲んだ翌朝に動けないことは、理由にならなかった。
襲撃する敵は。
こちらが二日酔いだからと待ってくれない。
食料を求める民は。
頭領が眠いからと腹を空かせることをやめない。
「集合は日の出前と言った」
時雨が続ける。
「日の出前です」
前列にいる韓武が答える。
「全員揃っている」
「整列が遅い」
時雨は列の間へ入る。
肩が僅かに前へ出ている者。
隣との間隔が開いている者。
革紐を正しく締めていない者。
一人ずつ確認しながら歩いていく。
「俺が来てから揃った奴が三十七人」
「武器を忘れて取りに戻った奴が九人」
「鎧を間違えて持ってきた奴が二人」
最後の二人へ視線を向ける。
身体の大きさが異なる鎧を身につけた兵が、気まずそうに顔を伏せた。
片方の胸当ては小さすぎて、紐が今にも切れそうになっている。
もう片方は大きすぎて、肩の部分がずり落ちていた。
「何をどう間違えた」
「暗かったもので……」
「隣へ置いてあった鎧を……」
二人が小さく答える。
「戦場で間違えたら、敵は笑って待ってくれるか」
「……いいえ」
「今日一日、そのままで訓練しろ」
二人の顔が青くなる。
「時雨様、それでは動きにくく――」
「だから覚える」
「自分の装備は、自分の命だ」
「間違えるな」
「はっ!」
二人が姿勢を正す。
時雨は列の前へ戻った。
「今日は城外まで走る」
黒狼隊の顔が僅かに引きつる。
「距離は?」
石剛が恐る恐る尋ねる。
「西門を出て、北の河まで」
「そこから南へ回り、東門から入る」
「最後に許昌の外周を一周」
石剛の表情が固まる。
「それは……何里ほどでしょうか」
「知らん」
「知らないのですか!」
「昨日、地図で見た」
「道は分かる」
「距離は走れば分かる」
「無茶です!」
「無茶かどうかは、走ってから言え」
時雨は当然のように答えた。
黒狼隊から低い呻き声が漏れる。
「声が小さい」
「はっ!」
「返事だけは揃ってきたな」
時雨が僅かに口元を上げた、その時だった。
練兵場の入口から、聞き慣れない声が飛んできた。
「いやいやいや、それはさすがに雑すぎるっすよ!」
明るく。
よく通る声。
軽い口調でありながら、練兵場にいる全員の注意を引きつける力があった。
時雨が振り返る。
門の側に、三人の女が立っていた。
最初に目へ入ったのは、中央より少し前へ出ている女だった。
陽光を思わせる金色の髪。
左右のどちらにも結ばず、片側だけへ流した長い髪を高い位置で束ねた、特徴的なサイドテール。
動きやすさを重視した軽装の鎧。
腰には細身の剣。
姿勢に堅苦しさはなく、片手を腰へ当てて笑っている。
「距離も分からず走らせる指揮官なんて、初めて見たっす」
女は呆れたように言った。
「黒山では、それでよかったかもしれないっすけど」
「ここは許昌っすよ?」
時雨は女を見る。
「誰だ」
「あー」
女の笑みが僅かに引きつる。
「先に名乗るべきだったっすね」
胸へ片手を当てる。
「曹仁っす」
「曹操様の一族で、魏軍の将を務めてるっす」
「よろしく頼むっすよ、張燕殿」
曹仁。
その名には覚えがあった。
魏軍の中で各地の守備を任され、城の防衛や部隊の運用に長けた将。
華々しい戦功ばかりが語られる者ではない。
だが。
崩れかけた陣を支え。
奪われかけた城を守り。
不足した兵をまとめて戦線を維持する。
魏という国が広がるほど、その存在は重要になる。
曹操の軍を支える柱の一つ。
「曹仁か」
「一応、年上の先輩なんすけどね」
「年齢は知らない」
「そういう問題じゃないっす」
曹仁は苦笑した。
その後ろ。
右側に立つ女は、あからさまに不機嫌そうだった。
丁寧に整えられた衣。
戦場よりも、宮中や役所が似合う装い。
腰まで伸びた髪も乱れ一つなく、指先まで隙なく整っている。
美しい顔立ちだった。
しかし。
時雨を見る目には、氷のような冷たさがある。
まるで。
視界へ入るだけで汚れたものを見つけたような表情。
「ご挨拶くらい、もう少しまともにできませんの?」
女は扇を開いた。
口元を隠す。
「これだから粗野な殿方は嫌いですわ」
「誰だ」
時雨が尋ねる。
女の眉が跳ねた。
「わたくしをご存じない?」
「知らないから聞いてる」
「魏の軍費を誰が管理しているとお思いですの?」
「桂花か」
「荀彧様は軍政全体ですわ!」
女は扇を強く閉じた。
乾いた音が練兵場へ響く。
「武具の調達」
「兵糧の購入」
「給金の支払い」
「遠征費用の算出」
「各軍の予算管理」
「その一切を任されております」
胸を張る。
「曹洪と申しますわ」
「魏軍の金庫番と呼ばれておりますの」
「以後、お見知りおきを」
「金を握ってるのか」
「品のない言い方をなさらないで!」
「事実だろ」
「管理しておりますの!」
「同じじゃないか」
「全然違いますわ!」
曹洪の声が練兵場へ響く。
黒狼隊の兵たちが、どこか既視感を覚えたように互いの顔を見る。
荀彧と時雨が初めて会った時と、似た空気だった。
最後の一人は。
他の二人より少し後ろへ立っていた。
穏やかな顔立ち。
柔らかな眼差し。
武官らしい鎧をまといながらも、周囲へ威圧感を与えない。
曹仁が明るい陽だとすれば。
曹洪は磨かれた刃。
そしてその女は。
静かな水のようだった。
時雨と目が合う。
女は小さく微笑んだ。
「曹純と申します」
丁寧に頭を下げる。
「昨日、正式に魏へお入りになったと伺いました」
「直接お目にかかるのは初めてですね」
「よろしくお願いいたします、張燕殿」
「曹純か」
「はい」
「二人と違って静かだな」
「どういう意味っすか!」
「わたくしを一緒になさらないでくださいませ!」
曹仁と曹洪の声が重なった。
曹純は困ったように笑う。
「二人とも、悪い者ではありません」
「華論は少し言葉が軽く」
「栄華は少し厳しいだけです」
「柳琳!」
曹仁が慌てて声を上げる。
「真名を出してるっす!」
曹洪も目を見開いた。
「曹操様以外に呼ばせるつもりはございませんのよ!」
曹純は僅かに口元へ手を当てた。
「申し訳ありません」
「いつもの癖で」
時雨は三人を順番に見る。
「華論」
曹仁の肩が跳ねる。
「栄華」
曹洪の顔が引きつる。
「柳琳」
曹純は困ったように微笑んだ。
「覚えた」
「呼ばないでほしいっす!」
「呼ぶことを許しておりませんわ!」
曹仁と曹洪が同時に抗議する。
時雨は眉を寄せた。
「呼んでない」
「今、呼んだっすよ!」
「確認しただけだ」
「口に出した時点で呼んでいるんですの!」
「面倒だな」
「その言葉で片づけないでほしいっす!」
曹仁が頭を抱える。
曹純だけは。
怒るでもなく、時雨を見ていた。
彼が真名の意味を軽んじているわけではない。
昨日。
魏の重臣たちから真名を預けられたばかり。
むしろ。
本人が許さなければ呼ばないという考えを持っている。
今の言葉も。
曹純がうっかり口へした名を確認したにすぎないのだろう。
それでも。
真名を聞いた瞬間に、三つとも正しく覚えた。
この男は。
人の名を。
思った以上に大切に記憶している。
「それで」
時雨は三人を見る。
「何の用だ」
「曹操様の命令っす」
曹仁が答えた。
「黒狼隊の訓練と編制を確認して」
「魏軍として必要な物を洗い出すように言われたっす」
曹洪が扇を開く。
「わたくしは、必要経費の査定ですわ」
「あなた方が許昌へ入ってから」
「食料、衣類、鎧、武器、寝具」
「支出が跳ね上がっておりますの」
「千二百人増えたからな」
「分かり切ったことを得意げに言わないでくださいませ!」
曹洪は鋭い目で時雨を睨む。
「そもそも!」
「新参の部隊へ、既存の魏兵と同等の装備を与える必要がありますの?」
「曹操が決めた」
「曹操様がお決めになったことへ異論はございません」
「ですが、無駄を省くのはわたくしの役目」
曹洪は黒狼隊の列を見る。
装備は不揃い。
黒山で使用していた武器を、そのまま持っている者も多い。
刃こぼれした剣。
継ぎはぎの革鎧。
長さの異なる槍。
中には。
武器と呼ぶにはあまりに粗末な鉈や、農具を加工した物を持つ者さえいる。
「全員へ新品を支給するなど、認められませんわ」
「誰が全部新品にしろと言った」
「申請書には、鎧千二百、槍八百、弓三百、剣五百と――」
「俺は書いてない」
時雨が遮る。
曹洪の動きが止まる。
「何ですって?」
「申請書なんて知らない」
「では、誰が」
全員の視線が韓武へ向く。
韓武の顔が強張った。
「私です」
「時雨様が、装備を確認するようにと」
「必要な数をまとめました」
時雨は韓武を見る。
「全部新しくしろとは言ってない」
「ですが、魏軍として戦うならば」
「使える物は使え」
「壊れてる物だけ替える」
曹洪が時雨を見つめる。
「新品の装備が欲しくないのですの?」
「欲しい」
「なら」
「だが金がかかる」
時雨は自分の兵たちへ視線を向けた。
「千二百人分を一度に揃えれば」
「別の場所で足りなくなる」
「黒狼隊だけが魏軍じゃない」
曹洪の目が僅かに細くなる。
時雨は続けた。
「刃を研げば使える剣は残す」
「鎧は革を張り替える」
「槍は柄だけ取り替えればいい物もある」
「弓は俺たちで直せる」
「金を使うなら」
時雨は少し考える。
「靴と食料を先にしろ」
「靴?」
曹仁が尋ねる。
「ああ」
「黒山では山道を歩く」
「足が潰れた兵は戦えない」
「許昌の兵が履く靴は、平地にはいいが山では滑る」
「黒狼隊へ支給するなら、底を厚くして滑り止めをつける」
「それから食料」
「兵糧は支給されてるっすよ?」
「量じゃない」
「中身だ」
時雨は黒狼隊の兵たちを見る。
「こいつらは、今まで塩気の強い干し肉と雑穀を食ってきた」
「急に白米と柔らかい肉ばかり食わせると腹を壊す」
「昨日、二十一人が厠から出てこなかった」
列の中で。
何人かが気まずそうに視線を逸らした。
曹仁が口元を押さえる。
「それは……困るっすね」
「笑うな」
「笑ってないっす」
「口が笑ってる」
「気のせいっす」
曹洪は扇の陰で小さく咳払いした。
「つまり」
「新品の武器よりも」
「黒狼隊の体質と戦法へ合った物資を優先しろ、と?」
「ああ」
「金は限られてるんだろ」
「当然ですわ」
「なら、使う順番を決める」
時雨は曹洪を見る。
「金庫番なら」
「何に使えば兵が生きるか、一緒に考えろ」
曹洪の眉が上がる。
「わたくしへ命令なさるおつもり?」
「頼んでる」
「その口調が頼み事ですの?」
「他にどう言う」
「まず頭を下げて」
「嫌だ」
「即答しないでくださいませ!」
曹洪の声が響く。
それでも。
先ほどまでの露骨な敵意は。
僅かに薄れていた。
時雨は。
自分の部隊へ贅沢な装備を求めているわけではない。
元燕兵を特別扱いしろとも言わない。
限られた金の中で。
本当に必要なものを見極めようとしている。
曹洪が最も嫌うのは。
地位を利用し、己の軍へだけ金を流そうとする将だった。
兵の歓心を買うため。
不要な褒美を求め。
見栄のために豪華な装備を揃え。
その費用がどこから出るのか考えない男たち。
だから曹洪は男を嫌う。
力を誇り。
金を使うだけ使い。
後始末を他人へ押しつける者を、何人も見てきた。
目の前の男も。
黒山の王だった。
百万を従えた頭領。
贅沢を当然とする人物だと。
そう考えていた。
だが。
時雨は新品の鎧より。
兵の靴と腹を心配している。
「……よろしいですわ」
曹洪が言った。
「靴と兵糧について、詳しく書面へまとめなさい」
「書けない」
「何ですって?」
「魏の書式は分からない」
「字は?」
「読めるし書ける」
「では書けますでしょう!」
「魏の役人が使う言葉は長い」
「必要物資、理由、数」
「それだけでいいだろ」
「駄目ですわ!」
曹洪は扇で時雨を指す。
「支出には記録が必要ですの!」
「誰が、いつ、何の目的で、どれだけ使ったのか!」
「それを残さなければ、不正を防げませんわ!」
「長いと読む奴が減る」
「読ませるのが役人の仕事です!」
「兵は読まない」
「あなたが読みなさい!」
「面倒だな」
「またそれですの!」
曹仁が笑いながら二人の間へ入る。
「まあまあ、栄――じゃなくて曹洪」
「自分で書かせるより、書記官を一人つけた方が早いっすよ」
「甘やかしてはいけませんわ!」
「でも張燕殿が書類を一枚作る間に」
「書記官なら十枚作れるっす」
曹洪は言葉に詰まる。
効率という意味では、曹仁の言う通りだった。
「……一人だけですわ」
「助かる」
「ただし!」
曹洪が時雨を睨む。
「最終確認は、ご自身でなさいませ!」
「分かった」
「内容を読まずに印を押したら」
「官印ごと取り上げますわよ!」
時雨は懐へ手を当てる。
「曹操と同じことを言うな」
「曹操様も心配されて当然ですわ!」
「昨日も失くしそうだと言ったそうっすね」
曹仁が横から言う。
「誰に聞いた」
「春蘭様っす」
「あいつ、余計なことを」
「時雨が官印を落とした時は、私が拾う! って張り切ってたっす」
「落とさない」
「どうっすかねえ」
曹仁は楽しそうに笑った。
時雨は彼女を見た。
「曹仁」
「何っすか」
「距離が分からないのは、許昌の道を知らないからだ」
「案内しろ」
「え?」
「城外を走る」
「曹仁は知ってるだろ」
「まあ、知ってるっすけど」
「なら一緒に来い」
曹仁の笑みが固まった。
「自分も走るんすか?」
「口を出した」
「最後まで見ろ」
「いや、自分は確認役で」
「馬に乗るのか」
「そのつもりっす」
「兵は走る」
「確認する奴だけ馬か」
曹仁は周囲を見る。
黒狼隊の兵たちが。
無言で彼女を見ている。
口元に笑みを浮かべている者もいた。
「……走ればいいんすよね?」
「ああ」
「曹仁殿なら余裕でしょう」
韓武が言う。
「魏軍の名将と伺っております」
石剛も続いた。
「我らより先に疲れることはありますまい」
「煽るのやめてもらえるっすか!」
曹仁は頭を掻く。
そして。
大きく息を吐いた。
「分かったっす」
「一緒に走るっすよ!」
腰の剣を確かめ。
身体を軽く動かす。
金のサイドテールが大きく揺れた。
「ただし!」
曹仁は時雨へ指を向ける。
「自分が道を案内する以上」
「途中の隊列と速度については、自分の指示も聞いてもらうっす」
「いい」
時雨は即答した。
曹仁が目を瞬く。
「反対しないんすか?」
「道を知ってる奴の命令を聞く」
「当たり前だろ」
曹仁はしばらく時雨を見る。
もっと反発されると思っていた。
黒山の頭領。
自分の方法へ口を出されることを嫌う男。
そう聞いていた。
だが。
時雨は必要な能力を持つ者へ、躊躇なく権限を渡す。
地位や年齢ではない。
今、誰の判断が正しいか。
それだけを見ている。
「なるほど」
曹仁が小さく呟く。
「何だ」
「別に何でもないっす」
曹仁は笑う。
「じゃあ、行くっすよ」
「黒狼隊の皆さん」
「許昌の道を教えてやるっす!」
「おう!」
黒狼隊から声が上がった。
時雨が眉を寄せる。
「返事が違う」
兵たちが一斉に姿勢を正す。
「はっ!」
「最初からそうしろ」
曹仁が時雨の横へ並ぶ。
「細かいっすね」
「軍だからな」
「距離も知らず走らせる人が言うっすか?」
「道は知ってる」
「距離は知らない」
「それを雑って言うんすよ」
「走れば同じだ」
「全然違うっす!」
二人を先頭に。
黒狼隊が動き始める。
練兵場の外へ出て。
西門へ向かう隊列。
朝の許昌に。
揃い始めた足音が響く。
曹洪はその背中を見送っていた。
隣では曹純が穏やかに笑っている。
「楽しそうですね」
「どこがですの?」
「華論が、です」
曹洪は鼻を鳴らす。
「単純なだけですわ」
「でも」
曹純は遠ざかる時雨を見る。
「張燕殿も、少し楽しそうでした」
「無愛想な顔しかしておりませんでしたわ」
「そうでしょうか」
曹純には。
時雨の口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。
同じ道を走る者。
自分の知らないものを教える者。
それは時雨にとって。
命令を下す相手とは異なる。
隣へ立つ者だった。
---
城外へ出た黒狼隊は。
曹仁の指揮で、北へ進んだ。
最初に時雨が想定していた道とは、少し異なる。
時雨は最短距離を選ぶつもりだった。
だが曹仁は。
荷車の多い街道を避け。
朝露で滑りやすい低地を外し。
途中に水場がある道を選んだ。
距離だけなら、僅かに長い。
しかし。
千二百名の隊列が通るには、こちらの方が安全だった。
「先頭、速度を落とすっす!」
曹仁が声を上げる。
「後ろが曲がり角を抜けてないっすよ!」
伝令が列の後方へ走る。
時雨も振り返る。
森の縁を回る道。
先頭はすでに直線へ出ているが。
最後尾はまだ曲がり角の向こうにいる。
「見えないな」
時雨が言う。
「だから、ここで先頭が飛ばすと隊列が千切れるっす」
曹仁が答える。
「山道なら、もっと短い間隔で動くだろ」
「黒山ではどうしてたんすか?」
「十人から二十人に分ける」
「別々の道を通す」
「合流場所だけ決める」
「なるほど」
曹仁は頷く。
「山なら、それが正しいっす」
「でも平地で大軍を動かすなら」
「列を分けすぎると、敵の騎兵に各個撃破されるっす」
「分かってる」
「分かってるなら」
「なぜ先頭だけ速く走らせるんすか」
「こいつらが、自分で後ろを見るか試した」
曹仁が時雨を見る。
「訓練だったんすか?」
「ああ」
「距離を知らなかったのは」
「本当だ」
「そこは本当なんすね!」
曹仁の声が裏返る。
時雨は僅かに笑う。
「曹仁」
「何っすか」
「よく見てるな」
「何をっすか?」
「全体を」
時雨は走りながら、曹仁へ視線を向ける。
「前にいるのに、後ろの乱れが分かる」
「兵の息が落ちる前に、速度を変える」
「水を飲ませる場所も」
「道の幅も見てる」
曹仁は一瞬、言葉を失った。
時雨の言い方は淡々としている。
褒めようとしているようには聞こえない。
ただ。
見たものを、そのまま言葉へしている。
だからこそ。
嘘がない。
「城を守る時は」
曹仁が答える。
「目の前の敵だけ見てたら負けるっす」
「壁の傷」
「矢の数」
「兵の疲れ」
「食料」
「井戸」
「門の蝶番」
「全部見ないといけないっす」
「俺は自分で見られない物を、他の奴へ任せる」
「それができる人は少ないっす」
曹仁は前を向く。
「大抵の将は」
「自分で見てないと不安になるっす」
「でも一人の目で見られる範囲なんて、たかが知れてる」
「ああ」
時雨は短く頷いた。
「俺も、それで燕を終わらせた」
曹仁の横顔から笑みが消える。
時雨は淡々と続けた。
「全部、俺が決めた」
「最後まで見た」
「俺がいなければ動かない国になった」
「だから終わらせた」
曹仁は何も言わなかった。
安易に慰めることはできない。
だが。
時雨が自分へ隊列の一部を預けた理由は理解できた。
彼は。
同じ失敗を繰り返さないために。
意識して他者の目を借りようとしている。
それは。
黒山の王ではなく。
魏の将として変わろうとする姿だった。
「じゃあ」
曹仁が言う。
「これからは自分の目も使ってほしいっす」
「必要ならな」
「必要じゃなくても、たまには頼ってほしいっすよ」
「なぜだ」
「同じ魏軍の将だからっす」
曹仁は笑った。
明るく。
迷いのない笑み。
「時雨殿一人に、全部見られたら」
「自分たちの仕事がなくなるっす」
「楽でいいだろ」
「それじゃ困るっす!」
「働きたいのか」
「役に立ちたいんすよ」
「同じか」
「少し違うっす」
時雨は曹仁を見る。
彼女の言葉は軽い。
語尾も。
表情も。
真剣な話をしていても、どこか明るい。
だが。
軽いからといって。
中身まで軽いわけではなかった。
むしろ。
重いものを。
周囲へ重く感じさせず背負うための話し方なのかもしれない。
黒山にもいた。
苦しい時ほど笑う者。
飢えている時ほど冗談を言う者。
自分が沈めば周囲まで沈むと知っている者。
曹仁も。
そういう人間なのだろう。
「分かった」
時雨が言う。
「何がっすか?」
「必要なら頼る」
「必要じゃなくてもっす」
「それは約束できない」
「頑固っすねえ」
「曹仁もな」
「自分は柔軟っすよ」
「なら諦めろ」
「そこは柔軟にならないっす」
二人の言い合いを。
少し後ろの兵たちが聞いていた。
黒狼隊の中から、小さな笑いが漏れる。
曹仁が振り返る。
「笑ってる余裕があるなら、速度を上げるっすよ!」
兵たちの顔から笑みが消える。
「はっ!」
「時雨殿」
「なんだ」
「ここから河まで駆け足っす」
「全員か」
「全員っす」
「遅れたら?」
「時雨殿の責任っす」
「俺が背負うのか」
「指揮官っすから」
時雨は口元を上げる。
「いいだろ」
黒狼隊へ向き直る。
「聞いたな!」
「河まで走る!」
「一人も置いていくな!」
「はっ!」
声が響く。
隊列が。
一斉に速度を上げた。
---
昼前。
黒狼隊は許昌へ戻った。
多くの者が汗と土にまみれている。
しかし。
列は崩れていなかった。
最後尾まで。
全員が同じ速度で練兵場へ入る。
曹仁も自分の足で走り切った。
額には汗。
金色の髪も少し乱れている。
時雨が隣を見る。
「思ったより走れるな」
「思ったよりは余計っす!」
曹仁は肩で息をしながら言い返す。
「一応、将軍っすよ!」
「将軍でも走れない奴はいる」
「誰のことっすか?」
「知らない」
「知ってる顔っすね」
「気のせいだ」
曹仁は疑わしそうに時雨を見る。
その時。
練兵場の中央に立っていた曹洪が、扇を広げた。
隣には曹純。
そして。
十数名の役人と荷車が並んでいる。
荷車には。
大量の靴。
布。
革。
塩。
乾燥させた豆。
雑穀。
いくつもの木箱が積まれていた。
時雨が足を止める。
「何だ、これは」
「見れば分かりませんの?」
曹洪が答える。
「試用品ですわ」
「試用品?」
「黒狼隊用の靴を作るため」
「何人かの足を測らせていただきます」
曹洪は扇で荷車を示す。
「山歩きに適した底」
「足首を固定する紐」
「濡れても重くなりにくい革」
「あなたの話だけでは不十分でしたので」
「職人を連れてきましたわ」
時雨は木箱の一つを開ける。
中には。
何種類もの靴底が入っていた。
厚い革。
縄を編み込んだもの。
細かな木片を埋めたもの。
「早いな」
時雨が言う。
「当然ですわ」
曹洪は胸を張る。
「金を使わないことだけが、金庫番の役目ではありませんの」
「必要な場所へ」
「必要な時に」
「必要なだけ使う」
「そのために、日頃から無駄を削っております」
時雨は靴底を手に取る。
指で曲げ。
表面をなぞる。
「これは滑る」
「こちらは?」
「重い」
「では、これは」
「悪くない」
時雨は縄を編み込んだ靴底を見る。
「だが、雨で腐る」
職人の一人が前へ出る。
「油を染み込ませれば、長持ちいたします」
「どれくらいだ」
「使い方にもよりますが、三月ほど」
「三月で替えるのか」
「底だけ交換できます」
「なら使える」
時雨は頷く。
曹洪が役人へ目で合図する。
すぐに記録が取られた。
「兵糧も」
曹洪が続ける。
「流琉へ相談し」
「黒狼隊の者が慣れている雑穀を混ぜた食事へ変更しますわ」
「白米を減らすのか」
「最初の一月だけです」
「徐々に割合を変える」
「腹を壊す兵へ給金を払うほど、魏は裕福ではございませんもの」
時雨の口元が僅かに上がる。
「言い方は悪いが、助かる」
「褒めても何も出ませんわよ」
「礼を言っただけだ」
「……そう」
曹洪は一瞬だけ目を逸らした。
男からの礼など。
聞き慣れている。
多くは。
自分の都合を通すため。
機嫌を取るため。
次の金を引き出すため。
表面だけの言葉。
だが時雨の礼は。
短く。
飾りがなく。
見返りを求めていなかった。
本当に助かったから。
ただそう言った。
「それから」
曹洪は気を取り直すように扇を開く。
「黒狼隊の給金についてですわ」
兵たちに緊張が走る。
正式な魏兵へなるための試用期間。
その間の給金が。
既存の魏兵と同じなのか。
少ないのか。
家族を抱える者にとって、最も重要な問題だった。
「曹操様の命により」
曹洪は竹簡を開く。
「基本給は既存兵の八割」
「訓練期間中の食事と宿舎は無償」
「任務へ出た場合は、通常の魏兵と同額の手当」
「三月後の査定を通過すれば、正式な軍籍へ登録」
「給金も同額といたします」
兵たちの間にざわめきが起こる。
時雨が片手を上げる。
すぐに静まった。
「八割の理由は」
時雨が尋ねる。
「まだ正式な兵ではないからですわ」
「訓練を受け」
「装備を支給され」
「宿舎と食事を与えられている」
「その費用を考えれば、十分な額です」
「家族がいる奴は」
「別途申請により、家族へ食料券を支給します」
曹洪は時雨の問いを予測していたように答えた。
「ただし、不正があれば即座に打ち切り」
「存在しない家族を申告した者は、軍籍から外します」
時雨は兵たちを見る。
「聞いたな」
「嘘をつくな」
「一人でも不正をすれば」
「黒狼隊全体が疑われる」
「はっ!」
「家族へ送る分が足りない奴は、俺に言え」
曹洪の扇が止まる。
「時雨殿」
曹仁が小声で呼ぶ。
「個人で補填するつもりっすか?」
「必要なら」
「駄目ですわ」
曹洪が即座に言った。
時雨が彼女を見る。
「なぜだ」
「指揮官が私財を使って兵へ金を配れば」
「兵は国ではなく、あなた個人へ恩を感じます」
「結果として私兵化が進みますわ」
「だが足りない奴は」
「制度で支えます」
曹洪の声が強くなる。
「あなたが一人で救うのではなく」
「魏が救うのです」
時雨は黙った。
以前なら。
自分の食料を減らし。
自分の蓄えを崩し。
足りない者へ与えた。
それで救える人数なら。
迷わなかった。
しかし。
百万を相手に。
それを続けた結果。
すべてが時雨個人へ依存した。
曹洪の言葉は。
時雨が燕を終わらせた理由と繋がっている。
「制度にない場合は」
時雨が尋ねる。
「作ります」
曹洪は答えた。
「必要性を示し」
「不正を防ぐ方法を考え」
「継続できる財源を用意する」
「それが国ですわ」
時雨はしばらく曹洪を見た。
男嫌い。
お嬢様のような口調。
高慢で。
自分を見下している女。
そう思っていた。
だが。
彼女は金を守っているのではない。
国が明日も動くように。
必要な者へ支援が届くように。
使い切らず。
奪わせず。
残し続けている。
金庫番。
その言葉から想像していたより。
遥かに重い役目だった。
「曹洪」
「何ですの?」
「俺が勝手に配りそうなら止めろ」
曹洪の目が僅かに見開かれる。
「命令ですの?」
「頼んでる」
「また、その言い方」
「他を知らない」
曹洪は小さく息を吐く。
「仕方ありませんわね」
「あなたが余計なことをなさらぬよう」
「わたくしが厳しく管理いたします」
「頼む」
「ただし」
曹洪は時雨を指す。
「わたくしの許可なく、兵へ金品を配った場合」
「一月分の給金を減らしますわ」
「俺のか」
「当然です」
「曹操へ言う」
「曹操様から、すでに許可をいただいておりますわ」
時雨の顔が曇る。
「先に手を回したのか」
「金庫番を甘く見ないでくださいませ」
曹洪は勝ち誇ったように微笑んだ。
その表情を見て。
曹仁が小さく笑う。
「栄華、楽しそうっすね」
「真名を呼ばないでくださいませ!」
曹洪の顔が一気に赤くなる。
黒狼隊の兵たちから笑いが漏れた。
「笑わない!」
曹洪の声が響く。
曹純は。
その様子を穏やかに見ていた。
---
午後。
黒狼隊の装備確認が始まった。
一人ずつ。
靴を脱ぎ。
足の大きさを測り。
鎧や武器の状態を確認する。
曹仁は部隊編制を見るため。
韓武や石剛から、各兵の得意分野を聞いていた。
曹洪は役人たちへ指示を出し。
必要物資を記録している。
時雨も装備の確認へ立ち会っていた。
そして曹純は。
練兵場の端に設けられた治療所で、負傷者や体調を崩した兵の様子を見ていた。
医師ではない。
だが。
兵の話を聞き。
必要な者を医官へ回し。
無理をしている者を訓練から外す判断をしている。
「大丈夫です」
一人の兵が言った。
右足を僅かに庇っている。
「少し捻っただけです」
「明日には走れます」
曹純は男の足首へ触れた。
腫れを確かめる。
「痛みますね」
「この程度なら」
「この程度で無理をして」
「一月歩けなくなった兵を、何人も見ています」
曹純の声は穏やかだった。
責めてはいない。
しかし。
反論を許さない強さがある。
「今日は休んでください」
「明日も走らなくて構いません」
「ですが、訓練へ遅れます」
「治すことも訓練の一つです」
男は悔しそうに俯く。
「自分だけ休めば」
「仲間へ迷惑が」
「だからこそ」
曹純は微笑む。
「早く治すのです」
「無理をして長く抜ける方が」
「皆が困ります」
男はしばらく黙り。
やがて頭を下げた。
「分かりました」
「ありがとうございます、曹純様」
曹純が次の兵へ向かおうとした時。
背後から時雨の声がした。
「言うことを聞いたか」
負傷した兵が慌てて立とうとする。
「動くな」
時雨が止める。
「曹純が休めと言ったなら休め」
「ですが、時雨様」
「命令だ」
「……はっ」
兵はようやく力を抜いた。
時雨は曹純を見る。
「助かる」
「私は何も」
「こいつらは怪我を隠す」
「戦えないと思われたくないからな」
時雨は治療所にいる兵たちを見渡した。
古傷。
捻挫。
訓練による疲労。
中には。
黒山時代から治療せず放置していた傷を持つ者もいる。
「俺が言うと」
「大丈夫だと言い張る」
「曹純が言えば聞く」
曹純は少し驚いたように時雨を見る。
「張燕殿が、怖いからでは?」
「それもある」
時雨は否定しなかった。
「だが」
「こいつらは俺に弱いところを見せたがらない」
「頭領だったからな」
「今も、ですか」
「ああ」
「俺が頭領じゃないと言っても」
「すぐには変わらない」
曹純は時雨の横顔を見る。
彼は。
自分へ向けられる信頼を喜んでいない。
少なくとも。
無条件には喜べない。
兵たちが傷を隠し。
自分の前で強く見せようとする。
それは。
時雨が彼らにとって絶対の存在だった証。
同時に。
時雨へ頼りながら。
本当の自分を見せられない関係でもある。
「では」
曹純が言った。
「私が、皆さんの弱いところを見る役目をいたします」
「いいのか」
「はい」
「魏の兵は」
「強いところだけで戦うのではありません」
「疲れた時」
「怪我をした時」
「怖くなった時」
「誰かへ助けを求められることも」
「軍の強さだと思います」
時雨は曹純を見る。
優しい言葉だった。
だが。
ただ甘いわけではない。
戦場を知る者の言葉。
人は。
常に強くはいられない。
どれほど勇敢な兵も。
傷を負う。
恐怖を感じる。
迷う。
その時。
弱さを隠して一人で潰れるのか。
仲間へ預けて立ち直るのか。
軍の強さは。
後者を選べるかどうかで決まる。
「魏軍の良心」
時雨が呟く。
曹純が首を傾げる。
「何でしょう?」
「そう呼ばれてるんだろ」
「どなたから聞いたのですか?」
「秋蘭」
「少し恥ずかしい呼ばれ方です」
曹純は困ったように笑う。
「ですが」
「皆がそう思ってくださるなら」
「その名に恥じないようにしたいですね」
「大変だな」
「張燕殿ほどではありません」
「俺は良心じゃない」
「そうでしょうか」
曹純は穏やかに時雨を見る。
「黒狼隊の方々を」
「ずっと気にかけておられます」
「指揮官だからな」
「それだけですか?」
「ああ」
時雨は答えた。
曹純は。
それ以上追及しなかった。
時雨は自分が優しいと認めない。
必要だから。
指揮官だから。
守ると決めたから。
すべてを役目へ言い換える。
だが。
役目だけで。
一人一人の靴や腹の調子まで覚えられる者は少ない。
「張燕殿」
曹純が呼ぶ。
「なんだ」
「お疲れではありませんか?」
「別に」
「昨夜は宴」
「今朝から訓練」
「その後も、休まず装備の確認をなさっています」
「眠くない」
「そうではなく」
曹純は時雨の目を見る。
「誰かへ任せてもよいのではありませんか」
時雨の表情が僅かに止まる。
曹仁も。
曹洪も。
同じことを別の形で示していた。
道を知る者へ任せる。
金を扱う者へ任せる。
そして曹純は。
人の心と身体を支えることを、自分へ任せろと言っている。
「曹操に言われたか」
「いいえ」
曹純は首を横へ振る。
「私が、そう思いました」
時雨は黙った。
曹純の言葉には。
命令がない。
理屈で追い詰めることもない。
ただ。
時雨が疲れているのではないかと見て。
休んでもよいのではないかと告げる。
黒山では。
誰も時雨へ言わなかった言葉。
正確には。
言えなかった言葉。
頭領が休めば。
誰が決める。
時雨が止まれば。
誰が守る。
民は。
時雨の身体を心配しながらも。
休ませることを恐れていた。
曹操は。
生きろと命じた。
曹純は。
休んでもよいと告げる。
どちらも。
時雨が役目を果たすためだけの存在ではないと。
そう扱っている。
「少しだけなら」
時雨が言った。
曹純が微笑む。
「はい」
「日陰へ椅子を用意します」
「そこまでしなくていい」
「では、木陰へ座りましょう」
「曹純もか」
「私も少し疲れましたから」
嘘だった。
曹純の顔には。
疲労の色はほとんどない。
それでも。
時雨一人だけを休ませれば。
彼は落ち着かない。
だから自分も休むと言う。
時雨は気づいたが。
指摘しなかった。
二人は練兵場の端。
大きな木の下へ腰を下ろした。
兵たちの声。
武器を確認する音。
曹洪が役人へ指示を出す声。
曹仁が部隊編制について韓武と話す声。
すべてが。
少し離れた場所から聞こえる。
時雨は木の幹へ背を預けた。
目を閉じるつもりはなかった。
ただ。
ほんの一時だけ。
自分が見なくても動いている黒狼隊を眺める。
韓武が兵をまとめ。
石剛が荷を運び。
曹仁が隊を分け。
曹洪が物資を記録し。
曹純が負傷者を診る。
時雨が立たなくても。
誰かが動いている。
燕国では。
望んでも作れなかった光景だった。
「悪くないな」
時雨が呟く。
曹純が隣で尋ねる。
「何がですか?」
「俺が何もしなくても、進んでる」
「それを望んでおられたのでは?」
「ああ」
時雨は短く答える。
「だが」
「実際に見ると、妙な気分だ」
「寂しいですか?」
時雨は曹純を見る。
「なぜそうなる」
「必要とされないように感じる方もいますから」
時雨は再び練兵場へ視線を戻す。
「少しはな」
正直な言葉だった。
自分がいなくても動く集団を望んだ。
それでも。
自分が必要とされないことへ。
何も感じないわけではない。
時雨は長く。
誰かに必要とされることで、生きる場所を得てきた。
守れと言われ。
戦えと言われ。
判断を求められた。
それがなくなれば。
自分に何が残るのか。
まだ分からない。
「必要とされることと」
曹純が言った。
「すべてを任されることは、違います」
「そうか」
「はい」
「張燕殿がいなくても」
「黒狼隊は訓練できます」
「物資も受け取れます」
「怪我人の治療もできます」
「ですが」
曹純は時雨を見る。
「張燕殿がいるから」
「皆さんは黒狼隊でいようと思えるのではないでしょうか」
「また俺に頼るのか」
「最初は、仕方ありません」
「でも」
「いつかは」
「張燕殿がいなくても黒狼隊であり続け」
「それでも、張燕殿にいてほしいと思う」
「そのような関係になればよいのだと思います」
いなくても動ける。
それでも。
いてほしい。
曹操が言った言葉と似ていた。
あなたがいなくても動く国を作る。
だが。
あなたがいなくてよい国を作るつもりはない。
時雨には。
まだ完全には理解できない。
ただ。
曹操だけの考えではないらしい。
魏には。
人を使い潰すのではなく。
役目を分け。
互いに支え。
それでも、その者自身を必要とする考えがある。
少なくとも。
曹純はそう思っている。
「曹純」
「はい」
「ありがとう」
曹純が僅かに目を見開く。
時雨は前を向いたまま。
「少し分かった」
「それなら、よかったです」
曹純は柔らかく笑った。
二人の間へ。
穏やかな沈黙が落ちる。
しばらくして。
時雨の瞼が、僅かに下がり始めた。
曹純は何も言わない。
眠りへ落ちるほどではない。
ほんの短い休息。
誰かが見ている場所で。
背中を壁へ預けず。
目を閉じかける。
それは時雨にとって。
剣を預けるより難しいことだった。
曹純は。
彼を起こさないよう。
静かに兵たちを見守り続けた。
---
夕刻。
黒狼隊の装備確認が終わった。
千二百人分。
一日で完全に終わったわけではない。
だが。
必要な武器。
修理できる装備。
交換すべき靴。
治療が必要な兵。
今後の部隊編制。
大まかな形は見え始めていた。
練兵場中央。
時雨の前に。
曹仁、曹洪、曹純が並んでいる。
曹仁は竹簡を一つ持っていた。
「黒狼隊は」
「軽装歩兵六百」
「弓兵二百」
「工兵と斥候を合わせて二百」
「残り二百を予備にするのがよさそうっす」
「騎兵は」
時雨が尋ねる。
「馬に慣れてる者が少なすぎるっす」
「無理に騎兵を作るより」
「山や森で動ける部隊として育てた方がいいっすよ」
「俺もそう思う」
「ただし」
曹仁は続ける。
「伝令と偵察用に、騎乗できる者を五十ほど選ぶっす」
「戦うための騎兵じゃなく」
「見るための足っす」
「分かった」
「素直っすね」
「曹仁の方が知ってる」
時雨は当然のように言う。
「だから任せる」
曹仁は一瞬。
言葉を失った。
任せる。
簡単な一言。
だが。
一軍の編制へ口を出すことを。
時雨は躊躇なく認めた。
自分を信頼していない者へ。
将は部隊を預けない。
少なくとも。
曹仁はそう考えている。
「分かったっす」
曹仁は竹簡を抱え直す。
「黒狼隊を」
「魏で一番しぶとい部隊にしてやるっす」
「一番強いじゃないのか」
「強い部隊は負ける時があるっす」
曹仁は笑う。
「しぶとい部隊は」
「負けても生き残るっす」
「それでいい」
時雨も僅かに笑った。
次に。
曹洪が竹簡を広げる。
「初期費用を計算いたしましたわ」
「靴と装備修理」
「兵糧の調整」
「負傷者の治療費」
「想定よりは少なく済みます」
「だが」
「何ですの?」
「工兵へ道具を持たせたい」
「つるはし」
「斧」
「縄」
「小型の鋸」
曹洪の眉が寄る。
「申請にはございませんでしたわ」
「今思いついた」
「思いつきで費用を増やさないでくださいませ!」
「だが必要だ」
「理由は?」
「黒狼隊は山と森で戦う」
「道を作り」
「障害物を壊し」
「逆に道を塞ぐ」
「武器だけじゃ足りない」
曹洪は少し考える。
「工兵二百名全員へ?」
「最初は百」
「残りは道具を共有する」
「壊れた時の予備は」
「五十人分」
「保管場所は」
「黒狼隊の倉」
「管理責任者は」
「韓武」
「定期点検は」
「十日ごと」
曹洪が口を閉じる。
時雨は。
質問へすぐ答えた。
単なる思いつきではない。
話しながら。
必要な数。
管理する者。
使い方まで考えている。
「……分かりましたわ」
曹洪は竹簡へ書き加える。
「予算を調整いたします」
「助かる」
「ただし」
曹洪は顔を上げる。
「破損や紛失が多い場合」
「次の支給は減らします」
「当然だ」
「そして」
「あなたが勝手に数を増やした場合」
「その分は、あなたの給金から引きます」
「まだ言うのか」
「何度でも言いますわ」
「あなたは目を離すと」
「すぐ自分で何とかしようとなさるでしょう?」
「曹操みたいなことを言うな」
「曹操様が正しいのです」
「それは場合による」
「今は正しいですわ!」
時雨は小さく息を吐く。
「分かった、曹洪」
「よろしい」
曹洪は満足そうに頷いた。
最後に曹純が報告する。
「訓練を一時休ませる者が三十二名」
「軽い負傷で、明後日から復帰できる者が十八名」
「医官の診察が必要な者が十一名」
「長期の治療が必要と思われる者が三名です」
時雨の眉が僅かに寄る。
「三人は兵へ戻れるか」
「一人は難しいと思います」
「古傷が悪化しています」
「本人は」
「残りたいと」
「そうか」
時雨は兵舎の方を見る。
兵であること。
武器を持つこと。
時雨の下へいること。
それしか自分の価値を見つけられない者は多い。
「俺が話す」
「はい」
曹純は頷く。
「ただ」
「張燕殿から、兵ではいられないと告げれば」
「ご本人は捨てられたと思うかもしれません」
「ああ」
「ですから」
曹純は穏やかに続ける。
「別の役目を、先に用意してはいかがでしょう」
「治療所の補助は?」
「傷の経験がある者なら」
「負傷者の気持ちも分かる」
曹純の目が柔らかくなる。
「とてもよいと思います」
「では」
時雨は曹洪を見る。
「給金は出せるか」
「すぐにわたくしを見るのですの?」
「金庫番だろ」
「まったく」
曹洪は竹簡をめくる。
「軍属として登録すれば可能ですわ」
「兵よりは少なくなりますが」
「宿舎と食事は、そのまま与えられます」
「ならそれでいい」
時雨は曹純へ向き直る。
「一緒に話してくれ」
「もちろんです」
曹純は微笑んだ。
三人の報告が終わる。
時雨はしばらく。
彼女たちを見ていた。
曹仁。
明るい口調の奥で、軍全体を見ている。
曹洪。
厳しい言葉で金を守り、その金が本当に必要な者へ届く道を作る。
曹純。
兵の傷と弱さを見つけ、戦えなくなった後の居場所まで考える。
三人とも。
曹操の一族。
だが。
曹操と似ているわけではない。
それぞれが。
自分のやり方で魏を支えている。
黒山では。
時雨一人がやろうとしていた仕事だった。
軍を動かし。
食料を集め。
金を分け。
負傷者の面倒を見て。
役目を失った者へ次の場所を探す。
それを。
魏では別々の者が担っている。
だから。
誰か一人が倒れても。
国が止まらない。
「曹操は」
時雨が呟く。
「何っすか?」
曹仁が尋ねる。
「よく集めたな」
「何をですの?」
曹洪が眉を寄せる。
「こういう奴らを」
時雨は三人を見る。
「自分と違う目を持つ奴を」
「曹操の命令に従うだけじゃない」
「自分で見て」
「自分で考える」
「だから魏は動くんだな」
三人は。
すぐには答えなかった。
時雨の言葉は。
曹操だけを称えているのではない。
曹仁たち自身の働きを。
魏を支える者として認めている。
「今さら気づいたっすか?」
曹仁が笑う。
「魏は曹操様一人の国じゃないっす」
「曹操様を中心に」
「自分たちが支えてる国っすよ」
「当然ですわ」
曹洪も胸を張る。
「曹操様が覇道を進まれるため」
「わたくしたちが足元を固めておりますの」
曹純は静かに頷く。
「そして」
「これからは張燕殿も、その一人です」
「俺もか」
「はい」
「もう魏の将なのですから」
時雨は懐へ手を当てる。
そこには。
昨日受け取った官印がある。
まだ。
自分のものという感覚は薄い。
それでも。
重さは少しずつ分かり始めている。
「なら」
時雨は三人へ向き直る。
「俺の真名を預ける」
突然の言葉だった。
曹仁の目が大きくなる。
曹洪の扇が止まる。
曹純も驚いたように瞬きをした。
「俺の真名は時雨」
「知ってると思うが」
「知ってることと」
時雨は一度、言葉を切る。
昨日。
桂花から言われた言葉を思い出す。
本人から預けられることは。
知っていることとは違う。
「俺が呼ばせることは別らしい」
曹仁が小さく笑う。
「らしいって」
「時雨殿、まだ分かってないっすね」
「全部は分からない」
「だが」
時雨は三人を順番に見る。
「曹仁へ、黒狼隊の編制を任せる」
「曹洪へ、金と物資を任せる」
「曹純へ、兵の身体と居場所を任せる」
「命を預けるのと」
「そんなに変わらない」
「だから」
「時雨と呼ぶことを許す」
夕方の風が。
銀狼の旗を揺らした。
三人は。
時雨の言葉を受け止めていた。
命令されたからではない。
曹操が許したからでもない。
時雨自身が。
今日一日で。
三人の働きを見て。
必要だと思い。
信じると決めた。
その証として。
自分から真名を預けた。
最初に口を開いたのは曹仁だった。
「ずるいっすね」
「何がだ」
「先に預けられたら」
「こっちも返したくなるっす」
曹仁は金色の髪を揺らしながら笑う。
「自分の真名は華論っす」
「時雨が」
「魏の将として戦う限り」
「そして」
「一人で全部抱え込まず」
「自分たちの目を使ってくれる限り」
「華論って呼ぶことを許すっす」
時雨は頷く。
「分かった、華論」
曹仁――華論の肩が僅かに跳ねる。
自分から許した。
それでも。
実際に呼ばれると。
胸の内へ何かが触れたような感覚があった。
「本当にすぐ呼ぶっすね」
「許しただろ」
「そうっすけど」
華論は頬を掻く。
「何か、落ち着かないっす」
「なら曹仁に戻すか」
「それは嫌っす」
「どっちだ」
「自分でも分からないっす!」
華論は頭を抱えた。
時雨は僅かに笑う。
次に。
曹洪が扇を閉じた。
「わたくしは」
硬い声。
警戒が完全に消えたわけではない。
むしろ。
時雨へ真名を預ける意味を。
誰よりも慎重に考えている。
「殿方が嫌いですわ」
「知ってる」
「あなたのように粗野で」
「礼儀を知らず」
「書類を面倒がり」
「自分の金を勝手に兵へ配ろうとする殿方は」
「特に嫌いですの」
「そこまで言うか」
「事実ですわ」
曹洪は顎を上げる。
だが。
その目には。
最初に会った時の冷たさだけではない。
「ですが」
「兵のためならば」
「新品の武器を諦め」
「金の使い道を考え」
「自分が間違えそうなら、わたくしへ止めろと頼む」
「その点だけは」
「認めて差し上げてもよろしいですわ」
「それだけか」
「十分です!」
曹洪は顔を僅かに赤くする。
「わたくしの真名は栄華」
「魏の財を守り」
「あなたが無駄遣いをしないよう監視する者として」
「呼ぶことを許します」
「監視されるのか」
「当然ですわ」
「それでも呼んでよいと?」
「よいと言っております!」
「分かった」
時雨は曹洪を見る。
「栄華」
曹洪の顔が一気に赤くなった。
扇を開き。
口元を隠す。
「な、何ですの」
「呼んだだけだ」
「真名は」
「用もなく呼ぶものではございません!」
「昨日、桂花にも言われた」
「荀彧様のおっしゃる通りですわ!」
「だが」
時雨は少し考える。
「礼を言いたかった」
栄華が目を瞬く。
「何のですの」
「黒狼隊のために」
「金を使うだけじゃなく」
「残す方法を考えてくれた」
「助かった、栄華」
栄華は。
すぐに答えられなかった。
扇の向こう。
頬が赤い。
男の言葉など。
信用しない。
甘い礼を言い。
隙があれば利用しようとする。
そのような者を嫌ってきた。
だが。
時雨の言葉には。
媚びがない。
真名を呼んだからといって。
距離を無理に縮めようともしない。
ただ。
働きを見て。
必要だと認め。
礼を言う。
「……当然のことをしたまでですわ」
栄華は小さく答える。
「わたくしは魏軍の金庫番」
「必要な部隊へ」
「必要な物を届けるのが役目ですもの」
「ああ」
「それと」
栄華は扇を僅かに下げる。
「あなたが私財を配ろうとしたら」
「本当に給金を減らしますから」
「分かってる」
「返事が軽いですわ!」
「気をつける」
「絶対ですわよ!」
「栄華は心配性だな」
「誰のせいですの!」
華論が横で笑う。
「もう随分仲よさそうっすね」
「どこがですの!」
「仲はよくない」
時雨も答える。
「二人とも、そこは揃うんすね」
華論は腹を抱えて笑った。
最後に。
曹純が時雨の前へ立つ。
静かな微笑み。
彼女だけは。
真名を預けることへ迷いがないように見えた。
「私の真名は柳琳です」
曹純――柳琳は。
穏やかな声で告げる。
「今日」
「張燕殿が皆さんを大切にしていることが」
「よく分かりました」
「俺は指揮官だから」
「はい」
柳琳は否定しない。
「それでも」
「役目を理由にして」
「人を大切にできることも」
「素晴らしいことだと思います」
時雨は黙る。
柳琳は続ける。
「時雨が」
「一人で休めない時は」
「私も隣で休みます」
「弱いところを見せられない時は」
「私が、皆さんの弱さを預かります」
「そして」
「時雨自身が疲れた時も」
「私へ預けてください」
曹純の真名。
柳琳。
その名に込められた信頼は。
柔らかく。
それでいて。
時雨が逃げられないほど真っ直ぐだった。
「そんなに預けるものはない」
「今は、そう思っていて構いません」
「いつか必要になった時に」
「思い出してください」
時雨はしばらく。
柳琳を見ていた。
自分の弱さ。
疲れ。
迷い。
それを誰かへ預ける。
まだ。
やり方は分からない。
だが。
拒絶する必要もないのかもしれない。
「分かった、柳琳」
「はい、時雨」
柳琳は優しく微笑んだ。
その呼び方に。
時雨は目を細める。
曹操。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
そして。
華論。
栄華。
柳琳。
魏へ入ってから。
時雨の周囲には。
真名で呼び合う者が増えた。
黒山では。
多くの名を預けられた。
だが。
それは時雨を中心とする関係だった。
頭領と配下。
王と民。
守る者と、守られる者。
魏では違う。
時雨も名を預ける。
相手から受け取るだけではない。
互いに。
自分の内側へ入ることを許す。
それは。
時雨にとって。
国へ降ることよりも。
剣を預けることよりも。
難しい変化だった。
「何をしているの?」
聞き慣れた声がした。
全員が振り返る。
練兵場の入口に。
曹操が立っていた。
隣には春蘭と秋蘭。
少し後ろに桂花。
どうやら。
視察へ来たらしい。
曹操は時雨と三人を見比べる。
「随分と親しそうね」
「曹操様!」
華論が姿勢を正す。
「黒狼隊の確認、完了したっす!」
「ご苦労だったわ」
曹操は微笑む。
しかし。
蒼い瞳は、時雨から離れない。
「それで」
「今、何を話していたの?」
時雨が答える。
「真名を預けられた」
曹操の笑みが止まった。
「誰に?」
「三人に」
「華論」
曹仁が僅かに肩を跳ねさせる。
「栄華」
曹洪が扇で顔を隠す。
「柳琳」
曹純は穏やかに微笑んだ。
曹操の目が細くなる。
「そう」
声は落ち着いている。
だが。
周囲の空気が僅かに冷えた。
春蘭が嫌な予感を覚えたように秋蘭を見る。
秋蘭は静かに息を吐いた。
桂花の眉間には深い皺が寄っている。
「三人とも」
曹操が言う。
「私の命令で?」
「違う」
時雨が答えた。
「自分たちで許した」
曹操の瞳が時雨を捉える。
「あなたからも?」
「ああ」
「時雨と呼ばせた」
「そう」
曹操はまた一歩、時雨へ近づく。
「随分と簡単に」
「自分の真名を預けるようになったのね」
「簡単じゃない」
「今日一日見た」
「必要だと思った」
「私の時は?」
「何がだ」
「私には」
曹操は時雨の胸元へ指を当てる。
「自分から真名を預けるまで」
「どれだけ時間がかかったかしら」
「曹操は最初から知ってただろ」
「知っていることと」
曹操の声が低くなる。
「あなたから預けられることは違うのでしょう?」
昨日。
時雨が使った言葉。
曹操は。
しっかり覚えていた。
「曹操には預けた」
「ええ」
「なら問題ないだろ」
「問題よ」
「なぜだ」
「私だけのものが減っていくわ」
時雨は眉を寄せる。
「俺は物じゃない」
「私のものよ」
「その意味は」
「分かっているわ」
曹操は言葉を重ねる。
「あなたの意思を消すつもりはない」
「誰と信頼を結ぶかも」
「あなたが決めればいい」
「でも」
僅かに頬を膨らませる。
「気に入らないものは、気に入らないの」
時雨は曹操を見下ろす。
覇王。
魏の王。
巨大な国を動かす女。
その曹操が。
時雨の真名を他の者が呼ぶことへ。
子供のように不満を見せている。
「面倒だな」
時雨が言う。
「あなたにだけは言われたくないわ!」
曹操の声が練兵場へ響いた。
黒狼隊の兵たちが。
一斉に何も聞いていない顔をする。
華論は笑いを堪え。
栄華は呆れ。
柳琳は静かに微笑んでいた。
春蘭が時雨を指す。
「時雨!」
「何だ」
「曹操様を悲しませるな!」
「悲しんでるのか」
「違うわ!」
曹操が即座に否定する。
「では怒らせるな!」
「怒ってるのか」
「少しだけよ!」
「どっちだ」
「察しなさい!」
時雨は秋蘭を見る。
「分かるか」
「私へ振るな、時雨」
秋蘭は僅かに笑う。
桂花が前へ出た。
「そもそも!」
「なぜ、この男へ次々と真名を預けるのです!」
「桂花も預けただろ」
「わ、私は曹操様がお認めになったから!」
「三人も曹操の一族だ」
「そういう問題ではありません!」
「分かりにくいな」
「あなたが鈍いのです!」
練兵場へ。
再び賑やかな声が響く。
時雨は。
自分を囲む者たちを見る。
華論が笑い。
栄華が扇の陰でため息をつき。
柳琳が皆を穏やかに見守る。
春蘭が怒鳴り。
秋蘭が姉をなだめ。
桂花が時雨を責め。
そして曹操は。
不満そうでありながら。
どこか満足そうだった。
時雨が。
魏の者たちと繋がりを増やしている。
自分一人だけへ依存せず。
誰かへ仕事を任せ。
誰かの知識を借り。
誰かの優しさを受け入れ始めている。
それは。
曹操が望んだことだった。
ただ。
想像していたより。
時雨が周囲へ受け入れられるのが早い。
そのことが。
少しだけ気に入らない。
矛盾している。
曹操自身。
分かっている。
それでも。
欲しいものを誰かと分けることを。
覇王は好まなかった。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「なんだ」
「今夜は私の部屋へ来なさい」
周囲の空気が止まる。
「なぜだ」
「今日の報告を聞くためよ」
「ここで聞けばいい」
「ゆっくり聞くの」
「書類は」
「桂花がまとめるわ」
桂花が驚く。
「私がですか!?」
「お願いね」
「曹操様のご命令とあらば!」
「時雨は口で報告しなさい」
「華論たちもいるだろ」
「三人からは、すでに報告書を受け取るわ」
「俺だけか」
「ええ」
曹操は微笑む。
「私の隣で」
「今日一日のことを、最初から最後まで話しなさい」
時雨は華論を見る。
華論は視線を逸らし。
口笛を吹くふりをした。
栄華は扇で口元を隠し。
柳琳は小さく笑っている。
「曹操」
「何?」
「機嫌を直せ」
「悪くないわ」
「悪いだろ」
「なら」
曹操は時雨へ一歩近づく。
「今夜、直しなさい」
「どうやって」
「自分で考えるの」
「無茶を言うな」
「命令よ」
時雨は深く息を吐いた。
「分かった」
「行く」
曹操の笑みが。
僅かに柔らかくなる。
「素直でよろしい」
「ただし」
時雨は続ける。
「華論たちへ頼んだことも」
「曹操に説明する」
「黒狼隊へ必要なことだからな」
曹操は三人を見る。
華論。
栄華。
柳琳。
自らの一族。
自分が信頼し。
魏を支える役目を預けた者たち。
そして今日。
時雨も彼女たちを見て。
自分の意思で信頼を預けた。
「ええ」
曹操は頷いた。
「聞かせなさい」
「あなたが」
「彼女たちの何を見て」
「何を任せようと思ったのか」
「全部ね」
「長くなるぞ」
「夜は長いわ」
「眠る時間が減る」
「明日の朝は遅くしてあげる」
「黒狼隊の訓練がある」
「華論へ任せなさい」
時雨は華論を見る。
「できるか」
「もちろんっす」
華論は胸を張る。
「明日は、自分が黒狼隊を走らせるっす」
兵たちの顔が強張った。
今日。
時雨と並んで走った曹仁。
軽い口調の裏で。
時雨より細かく速度と隊列を見ていた。
彼女が訓練を任された場合。
楽になるとは思えない。
「距離は」
時雨が尋ねる。
「測ってあるっす」
華論は笑う。
「今日の一・五倍っす」
黒狼隊から絶望の声が漏れた。
「華論!」
「真名を呼ぶな!」
反射的に叫んだ華論が。
すぐに自分で止まる。
「あ」
時雨は眉を寄せる。
「許しただろ」
「そうだったっす」
華論は頭を掻く。
「まだ慣れないっすね」
「俺もだ」
「じゃあ」
華論は笑った。
「少しずつ慣れるっすよ、時雨」
「ああ」
時雨も頷く。
「頼む、華論」
そのやり取りを。
曹操がじっと見ている。
「時雨」
「なんだ」
「今夜は、絶対に私の隣から離れないこと」
「またか」
「返事は?」
「分かった」
「もう一度」
「分かった、曹操」
曹操はようやく満足そうに微笑んだ。
夕陽が沈み始める。
許昌の城壁が赤く染まり。
黒狼隊の銀狼旗が、長い影を地面へ伸ばしている。
黒山の狼は。
魏へ降った。
剣を預け。
命を預け。
国を預けた。
だが。
魏の中へ本当に入るために必要だったのは。
それだけではなかった。
道を見る目。
金を守る手。
弱さを受け止める心。
自分にはないものを持つ者へ。
仕事を預ける。
判断を預ける。
兵を預ける。
そして。
名を預ける。
曹仁――華論。
曹洪――栄華。
曹純――柳琳。
三人の名が。
時雨の中へ新しく刻まれた。
それは。
曹操の命令によって結ばれた縁ではない。
一日を共に過ごし。
働きを見て。
言葉を交わし。
自分の意思で選んだ絆。
燕国では。
時雨がすべてを背負った。
魏では。
背負うものを分けられる。
それでも。
時雨自身が不要になるわけではない。
いなくても動ける。
だが。
いてほしいと思われる。
その意味を。
時雨はまだ。
完全には理解していなかった。
けれど。
華論へ部隊を預け。
栄華へ金を預け。
柳琳へ兵の弱さを預けた時。
胸の奥にあった重さが。
ほんの僅かに軽くなったことだけは。
確かに感じていた。
そしてその夜。
曹操の部屋で。
なぜ三人へ真名を許したのかを。
何度も。
何度も。
不機嫌な覇王が納得するまで説明させられることになるのだが。
それはまた。
魏王の部屋から夜遅くまで聞こえた。
「私の方が先でしょう?」
「何の話だ」
「真名を許された順番よ!」
「曹操は最初から知ってた」
「そういう問題ではないわ!」
「分かりにくいな」
「あなたが鈍いのよ!」
という声と。
廊下で待機していた春蘭の。
「曹操様! 時雨がご無礼を働いておりませんか!」
という怒声から。
王宮中の者が。
嫌でも知ることとなった。
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