【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第9話 優しさの値段――支える手、守る金

外伝 第9話 優しさの値段――支える手、守る金

 

 

夜明け前。

 

許昌の王宮は、まだ深い静けさの中にあった。

 

広い廊下には灯りが僅かに残り、夜番の兵が足音を忍ばせながら巡回している。庭園の池には薄い霧が漂い、風が吹くたび、水面へ小さな波が生まれていた。

 

都の外では、すでに荷車が動き始めている。

 

市場へ野菜を運ぶ農民。

 

城門が開くのを待つ商人。

 

夜通し走ってきた伝令。

 

許昌という巨大な都は、朝が訪れる少し前から目を覚ます。

 

だが。

 

王宮の一角。

 

曹操の私室に近い廊下だけは、普段より静かだった。

 

その理由は。

 

昨夜遅くまで。

 

曹操と時雨の言い合う声が響き続けていたからである。

 

「私の方が先でしょう?」

 

「何の話だ」

 

「真名を許された順番よ!」

 

「曹操は最初から知ってた」

 

「そういう問題ではないわ!」

 

同じ問答が。

 

形を変えながら何度も繰り返された。

 

最初は廊下へ立っていた春蘭が心配し。

 

途中から秋蘭が姉を連れて去り。

 

その後も灯りは消えなかった。

 

曹操が何に納得できず。

 

時雨が何を理解できなかったのか。

 

詳しい内容を知る者はいない。

 

ただ。

 

夜番の兵たちは。

 

魏王と新任の将が。

 

恐ろしく重要でありながら、どこか幼い争いをしているらしいと理解していた。

 

そして。

 

空が白み始める少し前。

 

曹操の部屋の扉が開いた。

 

時雨が出てくる。

 

髪は僅かに乱れ。

 

目の下には薄い疲労の色。

 

それでも足取りは普段と変わらない。

 

腰には黒鞘の剣。

 

懐には将軍印。

 

衣も乱れてはいなかった。

 

ただ。

 

いつも以上に不機嫌そうな顔をしている。

 

扉の内側から。

 

曹操の声が飛んだ。

 

「今夜も来なさい」

 

時雨の足が止まる。

 

「なぜだ」

 

「まだ話は終わっていないわ」

 

「終わった」

 

「私は納得していないもの」

 

「華論たちに真名を許した」

 

「理由も説明した」

 

「黒狼隊に必要だから」

 

「働きを見て信用したから」

 

「それ以外に何がある」

 

「私への気持ちよ」

 

「何の関係がある」

 

「あるわ!」

 

曹操の声が朝の廊下へ響く。

 

夜番の兵たちが、何も聞こえていないように前を向いた。

 

時雨は片手で額を押さえる。

 

「眠れ、曹操」

 

「あなたもでしょう?」

 

「俺は訓練へ行く」

 

「今日は華論へ任せると言ったわ」

 

「様子を見る」

 

「あなたは、人へ任せるという言葉の意味を理解しているの?」

 

「任せることと、見ないことは別だ」

 

「そうやって、また全部自分で背負うつもりでしょう?」

 

時雨は答えなかった。

 

曹操の声が少し低くなる。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「今日一日」

 

「黒狼隊の指揮へ直接口を出すことを禁じるわ」

 

時雨が振り返る。

 

曹操は部屋の中に立っていた。

 

薄い寝衣へ上着だけを羽織り。

 

長い髪を下ろしている。

 

王としてではない。

 

眠る前の一人の女の姿。

 

だが。

 

その瞳には。

 

命令を撤回する意思がない。

 

「何か問題が起きてもか」

 

「華論が判断する」

 

「華論で判断できない時は?」

 

「秋蘭へ相談する」

 

「急ぐ場合は」

 

「あなた以外の誰かが決める」

 

「俺の隊だ」

 

「魏の隊よ」

 

曹操は静かに言った。

 

「あなたの私兵ではない」

 

昨日。

 

黒狼隊へ。

 

時雨自身が告げた言葉だった。

 

張燕の私兵ではない。

 

魏の兵。

 

時雨の命令と魏の命令が食い違えば。

 

最後に従うのは曹操。

 

自分で語った以上。

 

都合が悪い時だけ忘れることはできない。

 

「……分かった」

 

時雨は小さく息を吐く。

 

「今日は口を出さない」

 

「見るだけだ」

 

「見るだけなら許すわ」

 

曹操は満足そうに頷く。

 

「それから」

 

「まだあるのか」

 

「午前中は栄華のところへ行きなさい」

 

時雨の顔が曇る。

 

「なぜだ」

 

「あなたの給金と黒狼隊の支出について、説明を受けるため」

 

「昨日聞いた」

 

「あなたが半分も理解していないと、栄華から報告が来たわ」

 

「理解してる」

 

「では、自分の月給を答えなさい」

 

時雨は黙った。

 

曹操の口元へ。

 

勝ち誇った笑みが浮かぶ。

 

「分かっていないでしょう?」

 

「使う予定がない」

 

「それでも知りなさい」

 

「金は栄華に任せる」

 

「任せるためには」

 

曹操は時雨へ指を向ける。

 

「自分が何を預けているのか、知る必要があるわ」

 

「……分かった」

 

「午後は柳琳のところへ」

 

「今度は何だ」

 

「黒狼隊の負傷兵について相談があるそうよ」

 

「それは行く」

 

時雨は即答した。

 

曹操の眉が僅かに上がる。

 

「栄華のところへは嫌そうなのに?」

 

「怪我人は急ぐ」

 

「金も急ぐ時があるわ」

 

「今は怪我人が先だ」

 

「だから午前は栄華」

 

「午後は柳琳よ」

 

曹操は小さく笑う。

 

「ちょうどいいでしょう?」

 

「何が」

 

「あなたが昨日」

 

「二人へ何を預けたのか」

 

「今日一日で、もっとよく理解しなさい」

 

「曹操が仕組んだのか」

 

「命令を出しただけよ」

 

「同じだ」

 

「違うわ」

 

「何が違う」

 

「気分よ」

 

「面倒だな」

 

時雨は再び歩き出す。

 

後ろから。

 

曹操の声が追ってきた。

 

「今夜も来なさい!」

 

「行かない」

 

「命令よ!」

 

「寝ろ、曹操」

 

時雨の返事が廊下へ響く。

 

扉が閉まる音。

 

直後。

 

曹操の不満そうな声が。

 

閉じた扉の向こうから聞こえた。

 

時雨は聞こえなかったことにして。

 

王宮の外へ向かった。

 

---

 

西部練兵場では。

 

華論が黒狼隊を走らせていた。

 

「速度を落とすっす!」

 

「先頭だけ飛ばすなって、昨日言ったばかりっすよ!」

 

金色のサイドテールを揺らし。

 

華論は隊列の横を馬で走っている。

 

時雨は練兵場の入口に立ち。

 

腕を組んで、その光景を見ていた。

 

口を出すことは禁止されている。

 

そのため。

 

先頭の一人が歩幅を乱した時も。

 

後方の兵が列から半歩外れた時も。

 

黙って見ていた。

 

「時雨様が見ておられます!」

 

石剛が声を上げる。

 

兵たちの動きが僅かに硬くなる。

 

華論がすぐに怒鳴った。

 

「時雨を見るなっす!」

 

「今の指揮官は自分っすよ!」

 

「はっ!」

 

「返事だけじゃなく、足も揃えるっす!」

 

黒狼隊の足音が。

 

少しずつ一つになっていく。

 

華論は。

 

時雨よりも細かかった。

 

前後の間隔。

 

呼吸。

 

足の運び。

 

隊列が曲がる時の速度。

 

一人の遅れが。

 

どこまで全体へ影響するか。

 

一つずつ。

 

理由まで説明しながら修正している。

 

時雨の訓練は。

 

身体で覚えさせる。

 

失敗すれば、もう一度。

 

できるまで走らせる。

 

華論は。

 

なぜ失敗したのかを言葉にする。

 

どちらが正しいというわけではない。

 

兵によって。

 

覚えやすい方法は異なる。

 

時雨は。

 

黙ってその違いを見ていた。

 

自分が口を挟まなくても。

 

訓練は進んでいる。

 

黒狼隊も。

 

華論の命令へ従っている。

 

不満はある。

 

疲労もある。

 

それでも。

 

時雨がいなければ動かない集団ではなくなり始めていた。

 

胸の奥へ。

 

僅かな寂しさと。

 

それ以上の安堵が生まれる。

 

「時雨」

 

華論が馬を寄せてきた。

 

「口を出さないって聞いてたっすけど」

 

「本当に黙ってると気味が悪いっすね」

 

「失礼だな」

 

「いつも何か言うじゃないっすか」

 

「曹操に禁じられた」

 

「なるほど」

 

華論は苦笑する。

 

「信用されてるんだか」

 

「されてないんだか分からないっすね」

 

「任せた」

 

時雨が言う。

 

華論の目が僅かに開く。

 

「昨日も聞いたっすよ」

 

「今日は、口を出さない」

 

「それも含めて任せる」

 

時雨は黒狼隊を見る。

 

「何かあれば」

 

「華論が決めろ」

 

「自分でいいんすか?」

 

「今、指揮してるのは華論だ」

 

「なら華論が決める」

 

当然の言葉。

 

だが。

 

昨日よりも一歩先へ進んだ言葉だった。

 

昨日の時雨は。

 

華論の判断が必要な部分だけを預けた。

 

今日は。

 

自分が見ている前でも。

 

最終的な判断を任せようとしている。

 

華論は笑う。

 

「了解っす、時雨」

 

「黒狼隊」

 

「今日は自分が預かるっす」

 

「ああ」

 

時雨は頷き。

 

練兵場へ背を向けた。

 

数歩進んだところで。

 

後ろから華論の声が飛ぶ。

 

「でも、終わる頃には見に来てほしいっす!」

 

時雨は振り返らない。

 

「なぜだ」

 

「任せた結果くらい」

 

「見てほしいっすよ」

 

時雨は少しだけ考える。

 

「分かった」

 

短く答えた。

 

そして。

 

魏軍の金庫番が待つ役所へ向かった。

 

---

 

栄華の仕事部屋は。

 

時雨が想像していたより地味だった。

 

魏軍の金庫番。

 

その呼び名から。

 

宝物や金貨が積まれた豪華な部屋を想像していたわけではない。

 

だが。

 

少なくとも。

 

もう少し飾りがあると思っていた。

 

実際には。

 

長い机。

 

壁一面の棚。

 

分類された竹簡。

 

木札。

 

算木。

 

鍵のかかった箱。

 

そして。

 

何人もの書記官。

 

部屋にある物のほとんどが。

 

記録と計算のための道具だった。

 

美しい飾り布も。

 

高価な置物もない。

 

窓辺に。

 

小さな花が一輪飾られているだけ。

 

栄華は机の奥へ座り。

 

次々と運ばれてくる竹簡へ目を通していた。

 

「東部砦の矢は?」

 

「先月の使用量から見て、三千本で足ります」

 

「二千五百に」

 

「五百は中央倉へ残しますわ」

 

「ですが、敵襲の可能性が」

 

「報告では、東部の敵影は減少しています」

 

「余分を置くなら」

 

「北の街道警備へ回しなさい」

 

「承知しました」

 

一つ。

 

次。

 

「西部の兵糧は?」

 

「雨で二割が傷みました」

 

「管理責任者を呼びなさい」

 

「罰するのですか?」

 

「原因を聞きます」

 

「倉の屋根なら修理費」

 

「不注意なら処分」

 

「輸送中の事故なら、次の方法を考える」

 

「事実を確認する前に、罰を決めるものではありませんわ」

 

「はっ」

 

さらに次。

 

「黒狼隊の靴」

 

「職人から試作品が届いております」

 

「十足だけ先行支給」

 

「一週間使用させて」

 

「傷み方を記録」

 

「問題がなければ百足」

 

「そこで再び確認します」

 

「最初から千二百足作らないのか」

 

時雨が言った。

 

栄華の目が竹簡から上がる。

 

「いつから、そこにいらしたの?」

 

「少し前」

 

「声をかけなさいませ!」

 

「忙しそうだった」

 

「だからといって」

 

栄華は扇へ手を伸ばしかけ。

 

仕事中であることを思い出したのか。

 

そのまま手を机へ戻した。

 

今日は。

 

普段の華やかな扇を持っていない。

 

代わりに。

 

細い筆を握っている。

 

「なぜ最初から作らない」

 

時雨がもう一度尋ねた。

 

「試作品ですから」

 

栄華は答える。

 

「実際に使わなければ分からない問題があります」

 

「歩けば足へ当たるかもしれない」

 

「雨に濡れれば重くなるかもしれない」

 

「一度に千二百足作り」

 

「失敗すれば」

 

「すべて無駄ですわ」

 

「十足なら」

 

「失敗しても傷は小さい」

 

「ああ」

 

時雨は頷く。

 

「黒山でも同じだ」

 

「何がですの?」

 

「新しい道を作る時」

 

「最初から全部は通さない」

 

「先に少人数で歩く」

 

「崖が崩れないか」

 

「敵に見つかりやすくないか」

 

「水があるか」

 

「確かめてから広げる」

 

栄華の表情が僅かに変わる。

 

「では」

 

「理解できますわね?」

 

「考え方は」

 

「なら話が早いですわ」

 

栄華は自分の前の席を指す。

 

「お座りなさい」

 

時雨は立ったままだった。

 

「座らないの?」

 

「すぐ終わるだろ」

 

「終わりません」

 

「なぜだ」

 

「あなたが何も知らないからです」

 

栄華は机の上へ。

 

数本の竹簡を並べる。

 

「まず」

 

「あなたの給金」

 

「黒狼隊の運営費」

 

「武具の支給額」

 

「食費」

 

「宿舎」

 

「医療費」

 

「予備費」

 

「そして」

 

「あなたが個人で自由に使える金額」

 

時雨は竹簡を見下ろす。

 

「多いな」

 

「あなたが背負っている額ですわ」

 

「金は栄華が管理する」

 

「だからこそ」

 

栄華は真っ直ぐ時雨を見る。

 

「知りなさい」

 

昨日。

 

曹操から聞いた言葉と同じだった。

 

自分が何を預けるのか。

 

知らなければ。

 

本当の意味で任せたことにはならない。

 

時雨は仕方なく席へ座る。

 

栄華は最初の竹簡を開いた。

 

「あなたの月給は」

 

「魏将としての基本給」

 

「黒狼隊指揮官としての手当」

 

「旧燕国統合の特別任務手当」

 

「合わせて、こちらです」

 

栄華が数字を示す。

 

時雨はしばらく見る。

 

「多いのか」

 

栄華の目が細くなる。

 

「比較対象は?」

 

「黒山では給金なんてなかった」

 

「必要な物は倉から出した」

 

「金を持っていても」

 

「使う場所が少なかった」

 

「では」

 

栄華は別の竹簡を出す。

 

「一般兵の月給が、こちら」

 

「黒狼隊の試用兵は、その八割」

 

「中級将校が、この額」

 

「華論たちが、この額」

 

「曹操様は?」

 

「王の私費と国庫を一緒にしないでくださいませ」

 

「違うのか」

 

「当然です!」

 

栄華の声が大きくなる。

 

書記官たちが。

 

一瞬だけこちらを見た。

 

すぐに仕事へ戻る。

 

「曹操様が自由になさる金も」

 

「国の金とは分けております」

 

「国庫は曹操のものじゃないのか」

 

「曹操様が治める国の財です」

 

「個人の所有物ではありません」

 

「曹操なら全部自分のものと言いそうだが」

 

「言葉の意味が違いますわ!」

 

栄華は額へ手を当てた。

 

「曹操様は魏のすべてへ責任を持つ」

 

「だから、すべてを自分のものとおっしゃる」

 

「ですが」

 

「好き勝手に使ってよいという意味ではありません」

 

「曹操様ご自身も」

 

「国の財へ手をつける時は、目的を示されます」

 

「栄華が止めるのか」

 

「必要なら」

 

即答だった。

 

時雨は少し驚いたように栄華を見る。

 

「曹操へ逆らうのか」

 

「逆らうのではありません」

 

「お支えするのです」

 

栄華は胸を張る。

 

「曹操様が欲しい物を」

 

「ただ差し出すだけなら」

 

「誰にでもできます」

 

「それによって」

 

「魏のどこが苦しくなるか」

 

「何を削る必要があるか」

 

「本当に今必要なのか」

 

「それを申し上げるのが、わたくしの役目」

 

「曹操が怒っても?」

 

「怒られますわ」

 

栄華は僅かに遠い目をした。

 

どうやら。

 

実際に何度も怒られたことがあるらしい。

 

「それでも止めます」

 

「止められなければ」

 

「金庫番ではありませんもの」

 

時雨は。

 

机の上に並ぶ竹簡を見る。

 

数字。

 

記録。

 

物資の名。

 

誰へどれだけ与えたか。

 

どこへどれだけ残っているか。

 

時雨には。

 

戦場ほど分かりやすくない。

 

敵がいるわけでもない。

 

剣を振る必要もない。

 

だが。

 

ここにも戦いがある。

 

今日使う金と。

 

明日残す金。

 

目の前で困っている者と。

 

まだ姿の見えない未来の困窮。

 

どちらへ手を伸ばすか。

 

選び続ける戦い。

 

一つ間違えれば。

 

すぐに誰かが死ぬわけではない。

 

だからこそ。

 

間違いへ気づくのが遅れる。

 

気づいた時には。

 

兵糧がない。

 

武器がない。

 

給金が払えない。

 

国そのものが動かなくなる。

 

「栄華」

 

「何ですの?」

 

「怖くないのか」

 

「何がです?」

 

「間違えることが」

 

栄華の表情が。

 

僅かに止まる。

 

時雨は竹簡を見たまま続けた。

 

「武器なら」

 

「失敗した時に分かる」

 

「敵に負ける」

 

「兵が死ぬ」

 

「すぐ見える」

 

「だが金は」

 

「今日の判断が」

 

「何月も後に響く」

 

「どこで間違えたか」

 

「分からなくなる」

 

栄華は。

 

すぐには答えなかった。

 

部屋では。

 

算木を動かす音。

 

竹簡を巻く音。

 

書記官の小さな声。

 

仕事の音だけが続いている。

 

「怖いですわ」

 

やがて。

 

栄華が答えた。

 

声は。

 

いつもの高慢さを少し失っていた。

 

「毎日」

 

「怖いと思っております」

 

時雨が顔を上げる。

 

栄華は。

 

手元の竹簡を見つめている。

 

「わたくしが一つ間違えれば」

 

「武器が届かないかもしれない」

 

「冬を越す食料が不足するかもしれない」

 

「兵の家族が」

 

「給金を受け取れないかもしれない」

 

「数字の向こうに」

 

「人がいることを忘れれば」

 

「金庫番は、ただの守銭奴になります」

 

「だから」

 

栄華は筆を握る指へ。

 

少し力を込めた。

 

「怖くなくなってはいけないと思っています」

 

「怖いから」

 

「何度も確かめる」

 

「他の者へ計算させ」

 

「自分でも計算する」

 

「記録を残し」

 

「後から間違いを探せるようにする」

 

「自分を信用してないのか」

 

「しておりません」

 

栄華は即答した。

 

「人は間違えます」

 

「わたくしも」

 

「曹操様も」

 

「あなたも」

 

「だから制度があるのです」

 

時雨は黙った。

 

曹操も間違う。

 

自分も間違う。

 

時雨は兵たちへ。

 

そう教えた。

 

だが。

 

自分の判断を記録し。

 

後から確かめ。

 

誰かに止めさせる。

 

そこまでの仕組みは。

 

黒山にはなかった。

 

時雨が間違えれば。

 

側近が意見を言うことはあった。

 

それでも最後は。

 

時雨一人が決めた。

 

その時の時雨を止める仕組みも。

 

後から検証する記録も。

 

十分ではなかった。

 

「俺が」

 

時雨が言う。

 

「黒山で使った物も」

 

「記録しておけばよかったな」

 

栄華は彼を見る。

 

「過去のことですか?」

 

「ああ」

 

「どの砦へ」

 

「何をどれだけ送ったか」

 

「誰へ任せたか」

 

「頭の中では覚えてた」

 

「だが」

 

「俺がいなくなれば終わる」

 

「書いておけば」

 

「他の奴でも続けられた」

 

後悔。

 

時雨の声には。

 

深く沈んだ悔いがあった。

 

すべてを覚えることが。

 

自分の役目だと思っていた。

 

忘れなければよい。

 

自分が倒れなければよい。

 

そう考えていた。

 

だが。

 

人は。

 

いつか倒れる。

 

どれだけ強くても。

 

すべてを持ったまま。

 

永遠に立ち続けることはできない。

 

「今から覚えればよいのです」

 

栄華が言う。

 

時雨が彼女を見る。

 

「遅くありません」

 

「黒山でできなかったことを」

 

「魏でなさればよろしい」

 

「あなたが覚えていることを」

 

「記録へ残す」

 

「黒狼隊の者へ教える」

 

「あなた一人の知識を」

 

「魏の知識へ変える」

 

栄華の声は。

 

強く。

 

迷いがなかった。

 

「そのために」

 

「書類を作るのですわ」

 

時雨の顔が僅かに曇る。

 

「結局、そこか」

 

「重要なことです!」

 

「長い文章はいらない」

 

「必要です!」

 

「短くしろ」

 

「内容を削ることは認めません!」

 

「言い方を短くする」

 

「それなら検討いたします」

 

「できるのか」

 

「わたくしを誰だと思っておりますの?」

 

「金庫番」

 

「そうですわ!」

 

栄華は胸を張る。

 

そして。

 

少しだけ口元を緩めた。

 

「あなたに合う書式を考えます」

 

「必要物資」

 

「数」

 

「目的」

 

「使用場所」

 

「管理者」

 

「結果」

 

「これだけは必ず書く」

 

「長いな」

 

「これ以上は減らしません!」

 

「分かった」

 

時雨は頷く。

 

「覚える」

 

栄華が目を瞬く。

 

時雨が。

 

書類を覚えると。

 

自分から言った。

 

たったそれだけ。

 

だが。

 

昨日まで。

 

面倒だ。

 

書記官へ任せる。

 

そう言っていた男が。

 

自分の知識を残すために。

 

制度を学ぼうとしている。

 

「教えろ、栄華」

 

時雨は真っ直ぐ彼女を見る。

 

「俺一人しか知らないことを」

 

「俺がいなくても使えるようにする方法を」

 

栄華の胸へ。

 

小さな熱が生まれた。

 

男は嫌いだ。

 

力を誇り。

 

自分の価値だけを信じ。

 

他人へ責任を押しつける者が嫌いだ。

 

だが。

 

目の前の男は。

 

自分の力を残すためではなく。

 

自分がいなくなった後も。

 

誰かが生きられるようにしようとしている。

 

「仕方ありませんわね」

 

栄華は扇がないことを忘れ。

 

手を口元へ上げかける。

 

途中で止め。

 

僅かに視線を逸らした。

 

「わたくしが」

 

「一から教えて差し上げます」

 

「頼む」

 

「ただし」

 

「何だ」

 

「教えている途中で眠った場合」

 

「給金を減らします」

 

「なぜ金になる」

 

「あなたには、それが最も効くと判断しました」

 

「俺は金を使わない」

 

「では黒狼隊の酒代を減らします」

 

時雨の眉が動く。

 

「それは困る」

 

「でしょう?」

 

栄華は勝ち誇ったように微笑んだ。

 

「金庫番を甘く見ないことですわ」

 

---

 

午前の終わり。

 

時雨は。

 

自分の給金額を覚えた。

 

黒狼隊の月間食費。

 

装備維持費。

 

宿舎の管理費。

 

医療費。

 

予備費。

 

それぞれが。

 

どこから出され。

 

誰の確認を通り。

 

どの記録へ残るのか。

 

すべてを完全に理解したわけではない。

 

だが。

 

少なくとも。

 

昨日までよりは。

 

自分がどれだけの金を預けられているか分かった。

 

部屋を出ようとした時。

 

栄華が呼び止める。

 

「時雨」

 

真名。

 

時雨が振り返る。

 

栄華は。

 

机の引き出しから、小さな布袋を取り出した。

 

「何だ」

 

「あなたの今月分の給金です」

 

「いらない」

 

「受け取りなさいませ!」

 

「使わない」

 

「使うかどうかではありません!」

 

栄華は立ち上がり。

 

時雨の前へ来る。

 

布袋を胸元へ押しつける。

 

中には。

 

硬貨が入っている。

 

それなりの重み。

 

「これは」

 

「あなたが魏のために働いた対価です」

 

「黒狼隊へ使うなと?」

 

「必要なら」

 

「正式な手続きで使いなさい」

 

「これは、あなた自身のために使う金です」

 

「欲しい物はない」

 

「食事」

 

「宿舎で出る」

 

「衣」

 

「曹操が勝手に用意する」

 

「武器」

 

「ある」

 

「酒」

 

「支給される」

 

「……少しくらい、自分で買いなさいませ」

 

栄華は呆れたように言う。

 

「金を使わない者は」

 

「金の価値を正しく知れません」

 

「使いすぎても駄目」

 

「使わなくても駄目」

 

「面倒だな」

 

「生きることは面倒なものですわ」

 

昨日までなら。

 

栄華自身が。

 

このような言葉を言うとは思わなかった。

 

時雨は布袋を見る。

 

「何を買えばいい」

 

「ご自分で考えなさい」

 

「思いつかない」

 

「では」

 

栄華は少し考える。

 

「夕食でも買ってくださいませ」

 

「王宮で出る」

 

「外で」

 

「なぜ」

 

「許昌の民が」

 

「何を食べ」

 

「何を売り」

 

「どれくらいの値で暮らしているか」

 

「ご自分の目で見ればよいでしょう」

 

時雨は栄華を見る。

 

「仕事か」

 

「半分は」

 

「残りは」

 

「あなたが」

 

「自分のために金を使う練習です」

 

「食うのは自分のためだろ」

 

「黒山の民へ味を伝えるため」

 

「黒狼隊へ食べさせられるか確かめるため」

 

「そういう理由をつけることは禁止です」

 

時雨は黙った。

 

栄華には。

 

完全に読まれている。

 

自分のため。

 

その言葉が。

 

時雨には難しい。

 

誰かのためなら。

 

迷わず使える。

 

兵。

 

民。

 

家族を持つ者。

 

腹を空かせた子供。

 

必要な理由がある。

 

だが。

 

自分が欲しいから。

 

自分が食べたいから。

 

それだけで金を使うことへ。

 

どこか罪悪感があった。

 

黒山では。

 

一人が多く食べれば。

 

誰かの分が減ることもあった。

 

一枚の衣を自分へ回せば。

 

冬を越せない者が出ることもあった。

 

だから。

 

時雨は。

 

自分の欲を後へ回すことを覚えた。

 

それが。

 

今も身体へ染みついている。

 

「魏では」

 

栄華が静かに言う。

 

「あなたが一食多く食べたからといって」

 

「誰かが飢えるわけではありません」

 

時雨が僅かに目を細める。

 

「少なくとも」

 

栄華は続ける。

 

「そうならないように」

 

「わたくしたちが国を支えています」

 

「あなたが自分の給金で食事を買い」

 

「店の者が利益を得る」

 

「その者が材料を買い」

 

「農民へ金が渡る」

 

「金は」

 

「倉へ閉じ込めておくだけでは意味がない」

 

「正しく使われ」

 

「人から人へ渡ることで」

 

「国を動かします」

 

「だから」

 

栄華は布袋を。

 

もう一度時雨へ差し出す。

 

「使いなさい」

 

「あなた自身が」

 

「魏の中で生きていることを」

 

「金を通して知りなさいませ」

 

時雨は。

 

しばらく布袋を見た。

 

やがて受け取る。

 

「分かった」

 

「夕方、何か買う」

 

「必ずですわよ」

 

「忘れたら」

 

「確認します」

 

「どうやって」

 

「柳琳へ頼みます」

 

「なぜ柳琳が出てくる」

 

「午後は柳琳とご一緒なのでしょう?」

 

時雨の眉が寄る。

 

「曹操から聞いたのか」

 

「当然です」

 

「皆で俺を見張ってるのか」

 

「あなたが一人で何でも抱え込むからですわ」

 

栄華は平然と答えた。

 

「諦めなさいませ」

 

時雨は布袋を懐へ入れる。

 

官印の隣。

 

魏将としての権限と。

 

魏で働いた対価。

 

異なる重みが。

 

同じ懐へ収まる。

 

「栄華」

 

「何ですの?」

 

「午後」

 

「柳琳と負傷兵の話をする」

 

「その後」

 

「金の話が必要になるかもしれない」

 

「でしょうね」

 

「来られるか」

 

栄華が少し驚く。

 

「わたくしも?」

 

「ああ」

 

「負傷兵が」

 

「兵ではなくなった後の役目を決める」

 

「給金と住む場所も必要だ」

 

「柳琳だけでは決められない」

 

「俺も金は分からない」

 

「だから栄華がいる」

 

昨日。

 

時雨は栄華へ。

 

金と物資を任せると言った。

 

今日。

 

本当に必要な場へ。

 

自分から彼女を呼ぼうとしている。

 

栄華は。

 

ほんの僅かに。

 

嬉しさを覚えた。

 

だが。

 

それを表へ出すつもりはない。

 

「仕方ありませんわね」

 

「午後の仕事を調整いたします」

 

「助かる」

 

「何度も礼を言わなくて結構です」

 

「なぜだ」

 

「その度に」

 

栄華は僅かに顔を逸らす。

 

「調子が狂いますの」

 

「よく分からない」

 

「分からなくて結構ですわ!」

 

栄華の声が。

 

仕事部屋へ響く。

 

書記官たちは。

 

また何も聞いていない顔で。

 

黙々と仕事を続けた。

 

---

 

午後。

 

黒狼隊の治療所には。

 

三人の兵が集められていた。

 

いずれも。

 

長く戦場へ立ってきた者。

 

傷の重さは異なる。

 

一人は。

 

右腕が肩より上へ上がらない。

 

一人は。

 

左目の視力を大きく失っている。

 

最後の一人。

 

名を陳岳という男は。

 

右足へ古い傷を抱えていた。

 

黒山で。

 

時雨と十年以上戦ってきた兵。

 

若い頃は。

 

山道を誰より速く走った。

 

今も剣を振る力はある。

 

だが。

 

長時間歩けば。

 

膝から下へ激しい痛みが走る。

 

昨日の訓練でも。

 

最後まで隠して走り切った。

 

その夜。

 

足が腫れ。

 

自力で立てなくなった。

 

柳琳の判断では。

 

兵として訓練を続ければ。

 

いずれ完全に歩けなくなる。

 

時雨は。

 

三人の前へ座っていた。

 

隣には柳琳。

 

少し離れた場所に栄華。

 

治療所の外には。

 

韓武と石剛が待っている。

 

「話は聞いたか」

 

時雨が尋ねる。

 

三人は頷く。

 

右腕を負傷した兵が。

 

最初に口を開いた。

 

「兵から外れることは」

 

「覚悟しております」

 

「弓は引けません」

 

「槍も長く持てない」

 

「足手まといになるくらいなら」

 

「別の役目をいただきたい」

 

左目を負傷した兵も続く。

 

「私もです」

 

「夜間の見張りは難しい」

 

「ですが」

 

「荷の管理や」

 

「武器の修理ならできます」

 

二人は。

 

すでに自分の傷を受け入れ始めていた。

 

問題は。

 

陳岳だった。

 

俯いたまま。

 

何も言わない。

 

時雨が呼ぶ。

 

「陳岳」

 

「……はい」

 

「お前は」

 

「兵を続けたい」

 

「はい」

 

「歩けないのにか」

 

「歩けます」

 

「昨日、立てなかった」

 

「少し休めば」

 

「柳琳」

 

時雨が呼ぶ。

 

柳琳は。

 

陳岳へ向き直る。

 

「休めば」

 

「今の腫れは引くでしょう」

 

陳岳の顔が僅かに上がる。

 

「なら」

 

「ですが」

 

柳琳は静かに続ける。

 

「次に同じ負担をかければ」

 

「さらに悪くなります」

 

「繰り返せば」

 

「杖がなければ歩けなくなる可能性もあります」

 

陳岳は唇を噛む。

 

「それでも」

 

「俺は戦えます」

 

「戦うだけならな」

 

時雨が言う。

 

陳岳が時雨を見る。

 

「敵が目の前にいる」

 

「一度だけ剣を振る」

 

「それなら戦える」

 

「だが軍は」

 

「そこまで歩く」

 

「戦った後、戻る」

 

「仲間と同じ速度で動く」

 

「それができない」

 

「誰かが支えます」

 

「その誰かが死ぬ」

 

時雨の言葉は冷たい。

 

だが。

 

嘘ではない。

 

戦場で。

 

一人を支えるため。

 

別の一人が剣を振れなくなる。

 

退路で遅れれば。

 

隊全体が危険へ晒される。

 

情だけで。

 

兵へ残すことはできない。

 

「俺は」

 

陳岳の声が震える。

 

「黒山で」

 

「時雨様と戦ってきました」

 

「ずっと」

 

「あなたの背中を追って」

 

「ああ」

 

「燕が終わっても」

 

「黒狼隊にいれば」

 

「まだ、あなたの兵でいられると思った」

 

「兵じゃなくなれば」

 

「俺は」

 

「何者になるんです」

 

治療所へ。

 

重い沈黙が落ちた。

 

時雨は。

 

すぐに答えられなかった。

 

陳岳の恐怖は。

 

足の傷ではない。

 

役目を失うこと。

 

時雨の近くへいる理由を失うこと。

 

それまでの人生が。

 

すべて無駄になること。

 

黒山の者たちにとって。

 

武器を持つことは。

 

生きるための手段だった。

 

同時に。

 

自分の価値を証明する方法でもあった。

 

戦えない者は。

 

守られるだけの存在になる。

 

食料を減らす者になる。

 

そう考える者は多い。

 

時雨自身も。

 

かつては。

 

戦えない自分を想像できなかった。

 

剣を持てなくなれば。

 

何が残る。

 

指揮もできず。

 

民を守れず。

 

誰かの役に立てないなら。

 

生きる意味があるのか。

 

陳岳の言葉は。

 

時雨の中にある。

 

同じ恐怖へ触れていた。

 

「時雨」

 

柳琳が静かに呼ぶ。

 

時雨は彼女を見る。

 

柳琳は。

 

答えを急かさない。

 

ただ。

 

時雨が一人で結論を出さないように。

 

隣へいる。

 

「陳岳さん」

 

柳琳が男へ向き直る。

 

「兵でなくなれば」

 

「時雨の側へいられないとお思いですか?」

 

陳岳は答えない。

 

その沈黙が。

 

答えだった。

 

「治療所の補助を」

 

柳琳は続ける。

 

「お願いしたいと思っています」

 

「俺が?」

 

「はい」

 

「私たちは」

 

「黒山で皆さんが、どのように傷を治していたか知りません」

 

「使っていた薬草」

 

「傷を負った時の移動方法」

 

「山で負傷者を運ぶ方法」

 

「陳岳さんは」

 

「長く戦ってこられた」

 

「多くの怪我人を見てきたはずです」

 

陳岳は僅かに顔を上げる。

 

「ですが」

 

「俺は医者では」

 

「医者になる必要はありません」

 

「傷を負った兵の話を聞く」

 

「怖がる者の隣へいる」

 

「無理を隠す者を見つける」

 

「時雨の前では」

 

「大丈夫だと言い張る方も」

 

「陳岳さんになら」

 

「本当のことを話すかもしれません」

 

陳岳の目が揺れる。

 

時雨は。

 

柳琳の言葉を聞きながら。

 

昨日のことを思い出していた。

 

黒狼隊の者は。

 

時雨の前で弱さを見せない。

 

頭領だったから。

 

期待へ応えようとするから。

 

だから。

 

時雨以外の誰かが。

 

弱さを見る必要がある。

 

柳琳一人では。

 

千二百名すべてを見ることはできない。

 

陳岳が。

 

その役目を担う。

 

それは。

 

兵より劣る役目ではない。

 

別の形で。

 

黒狼隊を守る仕事。

 

「陳岳」

 

時雨が呼ぶ。

 

「はい」

 

「兵から外す」

 

男の顔が歪む。

 

それでも。

 

時雨は言葉を止めない。

 

「だが」

 

「黒狼隊からは外さない」

 

陳岳が目を見開く。

 

「治療所へ入れ」

 

「柳琳の下で」

 

「怪我人を見ろ」

 

「山で使っていた薬草」

 

「傷の縛り方」

 

「担架の作り方」

 

「知ってることを全部教えろ」

 

「字が書けるなら記録しろ」

 

「書けないなら」

 

「誰かに書かせる」

 

栄華が横から口を挟む。

 

「書記官を一人つけますわ」

 

時雨が彼女を見る。

 

「いいのか」

 

「必要でしょう?」

 

「医官へ教えられる知識なら」

 

「黒狼隊だけでなく」

 

「魏軍全体で使えます」

 

栄華は竹簡を開く。

 

「陳岳さんは」

 

「軍属として登録」

 

「給金は正式な兵の七割」

 

「ただし」

 

「治療補助手当を加えます」

 

「宿舎と食事は従来通り」

 

「働きが認められれば」

 

「医療隊の正式な職へ移ることも可能です」

 

陳岳は。

 

栄華と柳琳を交互に見る。

 

そして。

 

最後に時雨を見る。

 

「俺は」

 

「まだ」

 

「時雨様の下にいてよいのですか」

 

時雨の眉が寄る。

 

「俺の下じゃない」

 

陳岳の表情が沈む。

 

「魏の中にいる」

 

時雨は続けた。

 

「黒狼隊の仲間だ」

 

「俺がいなくても」

 

「お前の仕事は残る」

 

「俺のためじゃなく」

 

「怪我をした奴らのために働け」

 

陳岳は黙った。

 

「それでも」

 

時雨は少しだけ言葉を探す。

 

「俺が傷を負った時は」

 

「お前が見ろ」

 

陳岳の顔が上がる。

 

「時雨様が?」

 

「俺も怪我はする」

 

「隠すかもしれない」

 

柳琳が。

 

僅かに笑った。

 

栄華も。

 

呆れたように息を吐く。

 

「隠すと、ご自分で宣言なさるの?」

 

「可能性の話だ」

 

「絶対に隠しますわ」

 

「そうですね」

 

柳琳まで頷く。

 

時雨は二人を見る。

 

「なぜ決めつける」

 

「昨日、疲れていないとおっしゃいました」

 

柳琳が答える。

 

「実際は眠りかけていたでしょう?」

 

「少し目を閉じただけだ」

 

「それを疲れていると言うのです」

 

「その程度なら」

 

「ほら」

 

栄華が指を向ける。

 

「今も認めません」

 

「だから陳岳さん」

 

「この方が怪我を隠した時は」

 

「遠慮なく柳琳へ報告なさい」

 

「栄華にもか」

 

「もちろんです」

 

「なぜ金庫番へ」

 

「治療費を計算します」

 

「逃げ道がないな」

 

「作るつもりもありませんわ」

 

二人のやり取りを聞き。

 

陳岳の口元へ。

 

僅かな笑みが浮かんだ。

 

兵ではなくなる。

 

その事実は消えない。

 

剣を持ち。

 

時雨の背中を追って走る日は終わる。

 

だが。

 

居場所まで失うわけではない。

 

別の役目。

 

別の立ち位置。

 

それでも。

 

同じ黒狼隊。

 

同じ魏。

 

「お受けします」

 

陳岳は深く頭を下げた。

 

「治療所で」

 

「働かせてください」

 

「よし」

 

時雨は短く答える。

 

「ただし」

 

陳岳が顔を上げる。

 

「俺が怪我をしても」

 

「曹操へは言うな」

 

柳琳と栄華が。

 

同時に時雨を見る。

 

「必ず報告します」

 

「当然、報告いたしますわ」

 

「陳岳」

 

「申し訳ありません」

 

陳岳は苦笑する。

 

「それは、お約束できません」

 

時雨は。

 

三人の顔を順に見た。

 

「もう裏切ったのか」

 

「魏のためです」

 

陳岳は答えた。

 

先ほどまで。

 

兵でなくなることを恐れていた男。

 

今は。

 

新しい役目の最初の仕事として。

 

時雨を止めようとしている。

 

時雨は小さく息を吐く。

 

「分かった」

 

「諦める」

 

柳琳の表情が柔らかくなる。

 

栄華は満足そうに頷いた。

 

---

 

残る二人の役目も決まった。

 

右腕が上がらない兵は。

 

武具の修理班へ。

 

黒山で長く。

 

刃を研ぎ。

 

革を縫い。

 

壊れた弓を直してきた経験を持っていた。

 

左目の視力を失った兵は。

 

倉の管理へ。

 

夜間の見張りは難しい。

 

だが。

 

物の数を覚えることに長け。

 

黒山の砦でも。

 

兵糧の配分を手伝っていた。

 

栄華は。

 

二人の能力を聞き取り。

 

給金と役職を決めた。

 

柳琳は。

 

身体へ無理がかからない仕事か確認する。

 

時雨は。

 

本人たちへ。

 

その役目を受ける意思があるか尋ねた。

 

三人の判断。

 

どれか一つだけでは。

 

決められなかった。

 

時雨だけなら。

 

役目を用意して終わったかもしれない。

 

柳琳だけなら。

 

身体と心を優先しすぎ。

 

軍の制度へ組み込めなかったかもしれない。

 

栄華だけなら。

 

数字と規則へ合う仕事を選び。

 

本人の誇りを見落としたかもしれない。

 

三人が。

 

別々の目で見たからこそ。

 

戦えなくなった者へ。

 

新しい居場所を作ることができた。

 

話が終わり。

 

兵たちが治療所を出ていく。

 

陳岳だけが。

 

扉の前で一度振り返った。

 

「時雨様」

 

「なんだ」

 

「俺は」

 

「役に立てますか」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「今までより役に立て」

 

陳岳の目が見開かれる。

 

「怪我人を減らせ」

 

「戻れなくなる奴を」

 

「一人でも少なくしろ」

 

「兵だった時より」

 

「難しい仕事だ」

 

陳岳の顔へ。

 

ゆっくりと力が戻る。

 

「はい」

 

「必ず」

 

男は。

 

深く頭を下げ。

 

今度こそ治療所を出ていった。

 

扉が閉まる。

 

室内には。

 

時雨。

 

柳琳。

 

栄華。

 

三人だけが残った。

 

時雨は。

 

しばらく扉を見ていた。

 

「よかったですね」

 

柳琳が言う。

 

「ああ」

 

「ですが」

 

「何だ」

 

「時雨だけでは」

 

「今日の結論には至らなかったと思います」

 

時雨は柳琳を見る。

 

責める声ではない。

 

ただ。

 

事実を伝えている。

 

「兵ではなくても」

 

「黒狼隊へ残せばいいとは考えた」

 

「はい」

 

「でも」

 

「陳岳さんが」

 

「何を失うと恐れているのか」

 

「すぐには分からなかったでしょう?」

 

時雨は答えない。

 

柳琳の言う通りだった。

 

時雨は。

 

陳岳の足を見た。

 

戦えるか。

 

戦えないか。

 

どの仕事ならできるか。

 

役目を考えた。

 

だが。

 

兵でなくなることが。

 

陳岳にとって。

 

時雨との繋がりを失うことだとは。

 

言われるまで気づかなかった。

 

「俺は」

 

時雨が言う。

 

「役目を与えれば」

 

「居場所になると思ってた」

 

「多くの場合は」

 

「そうだと思います」

 

柳琳は答える。

 

「ですが」

 

「人は役目だけで生きるのではありません」

 

「誰といたいか」

 

「誰に認められたいか」

 

「どこへ帰りたいか」

 

「それも」

 

「居場所を決めます」

 

時雨は。

 

昨日の宴で。

 

自分が口にした言葉を思い出す。

 

帰る場所は。

 

ここになるのかもしれない。

 

許昌。

 

魏。

 

曹操の隣。

 

役職を得たから。

 

官印を持ったから。

 

それだけではなかった。

 

真名を預け。

 

預けられ。

 

戻れば。

 

お帰りと呼ぶ者がいる。

 

だから。

 

帰る場所になる。

 

陳岳も同じだった。

 

兵という役目より。

 

時雨の仲間であり続けられるか。

 

それを恐れていた。

 

「柳琳」

 

「はい」

 

「俺は」

 

「人の気持ちを見るのが苦手らしい」

 

栄華の目が僅かに開く。

 

時雨が。

 

自分の苦手を。

 

言葉にした。

 

黒山の頭領だった男。

 

何でも決め。

 

自分が最後に背負う男。

 

その時雨が。

 

自分には見えないものがあると。

 

認めた。

 

柳琳は。

 

静かに微笑む。

 

「では」

 

「私へお任せください」

 

「全部は任せない」

 

「もちろんです」

 

「時雨も」

 

「見ようとしてください」

 

「分からない時は」

 

「私へ尋ねてください」

 

「聞けば分かるのか」

 

「一緒に考えられます」

 

時雨は頷く。

 

「ああ」

 

「頼む、柳琳」

 

「はい、時雨」

 

二人のやり取りを見ていた栄華が。

 

小さく咳払いした。

 

「わたくしもおりますけれど?」

 

時雨が栄華を見る。

 

「分かってる」

 

「でしたら」

 

「少しくらい、こちらへも何かございませんの?」

 

「何が欲しい」

 

「そういうことではありません!」

 

栄華は扇を広げる。

 

午後になり。

 

いつもの扇を持ってきていた。

 

顔の半分を隠す。

 

「柳琳へは」

 

「頼むと素直におっしゃるのに」

 

「わたくしへは」

 

「金は出せるか」

 

「書類を作れ」

 

「来られるか」

 

「そればかり」

 

「頼んでるだろ」

 

「言い方の問題ですわ!」

 

「またか」

 

「またです!」

 

栄華は時雨へ一歩近づく。

 

「人へ頼ることを覚えるなら」

 

「頼み方も覚えなさいませ!」

 

「どう言えばいい」

 

「まず」

 

栄華は。

 

言おうとして止まる。

 

頭を下げろ。

 

丁寧に頼め。

 

そう言うつもりだった。

 

だが。

 

今朝。

 

時雨は自分へ。

 

教えろと頼んだ。

 

礼儀正しくはない。

 

だが。

 

真剣だった。

 

そして午後。

 

必要な判断へ。

 

栄華がいると。

 

真っ直ぐ言った。

 

形は不器用でも。

 

頼られていることは分かる。

 

「……もう少し」

 

栄華は扇の向こうで言う。

 

「優しくおっしゃいなさい」

 

「優しく?」

 

「はい」

 

時雨は少し考える。

 

「栄華」

 

「何ですの」

 

「金を出してくれ」

 

「全然変わっておりませんわ!」

 

柳琳が。

 

思わず小さく笑った。

 

栄華が彼女を見る。

 

「柳琳まで笑わないでくださいませ!」

 

「申し訳ありません」

 

柳琳は口元へ手を当てる。

 

それでも。

 

笑みは消えていない。

 

時雨は眉を寄せる。

 

「何が違う」

 

「まず理由をおっしゃいなさい!」

 

「陳岳たちの給金が必要だ」

 

「その後!」

 

「頼む」

 

「もう少し!」

 

時雨は黙った。

 

しばらく。

 

真剣に考える。

 

「栄華がいないと」

 

栄華の扇が止まる。

 

「制度へ入れられない」

 

「俺は」

 

「陳岳たちを黒狼隊へ残したい」

 

「だが」

 

「勝手に残せば」

 

「魏の中で役目にならない」

 

「給金も続かない」

 

「だから」

 

時雨は栄華を見る。

 

「栄華の力を借りたい」

 

治療所が。

 

静かになる。

 

柳琳は。

 

優しい目で二人を見ていた。

 

栄華は。

 

扇の向こうへ顔を隠したまま。

 

動かない。

 

「これでいいか」

 

時雨が尋ねる。

 

「……最低限ですわ」

 

声が小さい。

 

「顔が赤いぞ」

 

「夕陽です!」

 

「まだ日が高い」

 

「気のせいですわ!」

 

「そうか」

 

「そうです!」

 

栄華は。

 

勢いよく竹簡を開く。

 

「陳岳さんたちの登録は」

 

「今日中に済ませます」

 

「明日から」

 

「それぞれの部署へ仮配属」

 

「一月後に適性を確認」

 

「問題がなければ正式登録」

 

「よろしいですわね?」

 

「ああ」

 

「助かる」

 

「ですから」

 

栄華は僅かに声を弱める。

 

「何度も礼を言わないでくださいませ」

 

「なぜだ」

 

「……調子が狂うからです」

 

今度は。

 

怒鳴らなかった。

 

時雨は。

 

栄華の扇の向こうを。

 

しばらく見た。

 

だが。

 

それ以上聞かなかった。

 

人の気持ちを見るのが苦手。

 

そう認めたばかりである。

 

分からないなら。

 

無理に答えを出さない。

 

その代わり。

 

覚えておく。

 

栄華は。

 

礼を言われると調子が狂う。

 

嫌ではないらしい。

 

ただ。

 

慣れていない。

 

時雨の中へ。

 

また一つ。

 

栄華という女についての理解が増えた。

 

---

 

治療所を出る頃。

 

太陽は西へ傾き始めていた。

 

練兵場から。

 

黒狼隊の声が聞こえる。

 

華論の訓練は。

 

まだ続いているらしい。

 

時雨は。

 

そちらへ向かおうとする。

 

柳琳が呼び止めた。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「忘れていませんか?」

 

「何を」

 

柳琳は。

 

時雨の懐を指す。

 

「栄華から」

 

「給金を受け取ったでしょう?」

 

時雨の足が止まる。

 

栄華が。

 

勝ち誇ったように笑う。

 

「やはり忘れていましたわね」

 

「忘れてない」

 

「今から訓練場へ行くつもりでしたでしょう?」

 

「終わりを見る」

 

「その後で買えばいい」

 

「日が沈みます」

 

「店はまだ開いてる」

 

「何を買うか決めていますの?」

 

時雨は黙った。

 

何も決めていない。

 

栄華は大きく息を吐く。

 

「仕方ありませんわね」

 

「柳琳」

 

「はい」

 

「この方を市場へ連れていきますわよ」

 

「栄華も行くのか」

 

「確認する責任があります」

 

「仕事は」

 

「部下へ任せます」

 

時雨が僅かに目を細める。

 

「人へ任せるのか」

 

「あなたへ教えたばかりでしょう?」

 

栄華は胸を張る。

 

「わたくしも」

 

「すべてを一人で抱えているわけではありません」

 

「そうか」

 

「感心している場合ではありませんわ」

 

栄華は歩き出す。

 

「まず練兵場へ寄り」

 

「華論の訓練結果を確認」

 

「その後、市場」

 

「夕食を買う」

 

「よろしいですわね?」

 

「俺が決めるんじゃないのか」

 

「放っておけば」

 

「何も買わないでしょう?」

 

「必要な物がなければ」

 

「練習です!」

 

「金を使う練習など聞いたことがない」

 

「今日、聞きましたわ!」

 

栄華の声が響く。

 

柳琳は。

 

二人の後ろを歩きながら。

 

静かに笑っていた。

 

---

 

練兵場では。

 

黒狼隊が最後の隊列訓練を行っていた。

 

朝よりも。

 

動きが揃っている。

 

合図に合わせ。

 

前列が止まり。

 

後列が間隔を詰める。

 

右へ向きを変える。

 

再び走る。

 

完全ではない。

 

何人かは遅れる。

 

号令を聞き逃す者もいる。

 

それでも。

 

時雨が直接指揮していた昨日より。

 

別の形で。

 

部隊として動き始めていた。

 

華論が時雨を見つける。

 

「お、来たっすね!」

 

「どうだ」

 

「見ての通りっす」

 

華論は汗を拭う。

 

「時雨のやり方を壊さず」

 

「魏軍の動きを少し混ぜたっす」

 

「でも」

 

「まだ自分の合図じゃ」

 

「時雨ほど速く反応しないっすね」

 

「時間がかかる」

 

「そうっすね」

 

「でも」

 

華論は黒狼隊を見る。

 

「時雨がいなくても」

 

「ちゃんと動いたっすよ」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

千二百名を見渡す。

 

疲れている。

 

だが。

 

誰も時雨が来るまで訓練を止めていなかった。

 

華論の命令へ従い。

 

自分たちで走り。

 

一日を終えようとしている。

 

「よくやった」

 

時雨が言う。

 

兵たちの姿勢が僅かに上がる。

 

「だが」

 

全員の顔が引き締まる。

 

「まだ遅い」

 

黒狼隊から。

 

小さな落胆が漏れる。

 

「明日は」

 

華論が笑う。

 

「今日の半分くらいでいいっすかね?」

 

兵たちの顔へ。

 

希望が戻る。

 

「半分の距離を」

 

華論は続ける。

 

「二倍の速さでやるっす」

 

希望が消えた。

 

黒狼隊から。

 

低い呻き声が上がる。

 

時雨は僅かに笑う。

 

「華論」

 

「何っすか」

 

「任せる」

 

「了解っす」

 

華論は。

 

明るく答えた。

 

「でも時雨」

 

「なんだ」

 

「明日は」

 

「最初から最後まで見なくていいっすよ」

 

時雨の眉が僅かに動く。

 

「なぜだ」

 

「任せるって」

 

「そういうことっす」

 

「結果だけ」

 

「見に来てほしいっす」

 

「途中で口を出したくなるでしょう?」

 

「ああ」

 

「だったら」

 

「最初から見ない方がいいっす」

 

時雨は。

 

すぐに答えられなかった。

 

見ない。

 

それは。

 

今までの時雨にとって。

 

無責任と同じ意味だった。

 

自分が見なければ。

 

誰かが失敗する。

 

自分が止めなければ。

 

誰かが死ぬ。

 

そう考えてきた。

 

だが。

 

華論は。

 

見なくてよいと言う。

 

信用して任せろと。

 

「怖いっすか?」

 

華論が尋ねる。

 

時雨は彼女を見る。

 

「少しな」

 

正直な答え。

 

華論は。

 

驚いた後。

 

柔らかく笑った。

 

「じゃあ」

 

「少しずつ慣れるっす」

 

昨日。

 

真名を許した時と同じ言葉。

 

少しずつ慣れる。

 

真名を呼ぶことも。

 

呼ばれることも。

 

人へ任せることも。

 

自分が見ていない場所で。

 

仲間が動くことも。

 

「分かった」

 

時雨は頷く。

 

「明日は」

 

「最後だけ見る」

 

「任されたっす」

 

華論が胸を張る。

 

栄華は。

 

少し離れた場所から。

 

二人を見ていた。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「よろしい判断ですわ」

 

「栄華まで」

 

「わたくしも」

 

「あなたが人へ任せることを覚えれば」

 

「余計な支出が減ると期待しています」

 

「結局、金か」

 

「金は大切です」

 

「でも」

 

栄華は僅かに表情を緩める。

 

「それだけではありませんわ」

 

「何だ」

 

「……何でもありません」

 

栄華は視線を逸らす。

 

柳琳は。

 

その横で穏やかに笑っていた。

 

---

 

夕方の市場は。

 

朝とは違う賑わいに包まれていた。

 

仕事を終えた職人。

 

夕食の材料を買う者。

 

酒を求める兵。

 

家族の手を引く親。

 

通りの両側へ。

 

露店が並ぶ。

 

焼いた肉の匂い。

 

煮込み料理の湯気。

 

油で揚げた餅。

 

甘い果実。

 

香辛料。

 

人々の声と。

 

食べ物の匂いが混ざり合う。

 

時雨は。

 

柳琳と栄華の間を歩いていた。

 

珍しい組み合わせだった。

 

黒山の狼。

 

魏軍の良心。

 

魏軍の金庫番。

 

三人が並んで歩く姿へ。

 

市場の者たちが視線を向ける。

 

時雨の顔を知る者は。

 

まだ多くない。

 

だが。

 

腰の剣。

 

紺の衣。

 

魏将の印を示す飾り。

 

そして。

 

曹操の一族である柳琳と栄華が隣にいる。

 

ただの兵ではないことは分かる。

 

「何を買うのです?」

 

栄華が尋ねる。

 

「まだ決めてない」

 

「では」

 

柳琳が露店を見る。

 

「まず歩いてみましょう」

 

「気になるものがあれば」

 

「それを買えばよいと思います」

 

「気になるもの」

 

時雨は。

 

通りを見渡す。

 

焼いた肉。

 

饅頭。

 

魚。

 

果物。

 

菓子。

 

酒。

 

どれも。

 

食べられる。

 

だが。

 

欲しいかと聞かれると。

 

よく分からない。

 

腹は減っている。

 

それでも。

 

自分が何を食べたいか。

 

考える習慣がない。

 

あるものを食べる。

 

傷む前に食べる。

 

全員へ行き渡る物を選ぶ。

 

それが時雨にとっての食事だった。

 

「何でもいい」

 

時雨が言う。

 

栄華が眉を寄せる。

 

「禁止ですわ」

 

「なぜだ」

 

「自分で選ぶ練習です」

 

「では安いもの」

 

「値段だけで決めるのも禁止」

 

「面倒だな」

 

「覚悟なさいませ」

 

栄華は容赦がない。

 

柳琳は。

 

時雨の表情を見ながら。

 

少し考える。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「黒山で」

 

「好きだった食べ物はありますか?」

 

「好き」

 

「食べると」

 

「少し嬉しくなるものです」

 

時雨は。

 

歩きながら考える。

 

山での食事。

 

雑穀。

 

硬い肉。

 

山菜。

 

茸。

 

干した果物。

 

時折。

 

狩りで得た獣の肉。

 

冬。

 

砦へ戻った時。

 

大鍋で煮込まれた汁物。

 

塩気は薄い。

 

具も多くない。

 

だが。

 

冷えた身体へ。

 

熱が戻っていく。

 

「山羊の乳を入れた煮込み」

 

時雨が言った。

 

柳琳が微笑む。

 

「お好きなのですか?」

 

「黒山では」

 

「冬に食べた」

 

「肉と根菜を煮る」

 

「山羊の乳を少し入れる」

 

「腹に溜まる」

 

「それは美味しそうですね」

 

栄華が周囲を見る。

 

「山羊の乳を扱う店は」

 

「この辺りには少ないですわ」

 

「なら別でいい」

 

「すぐ諦めない」

 

栄華は。

 

近くの店主へ声をかける。

 

「この市場で」

 

「北方の乳を扱う店は?」

 

店主は。

 

栄華の顔を見て。

 

すぐに姿勢を正した。

 

「一本北の通りにございます」

 

「西域の品を扱う商人が」

 

「山羊の乳と乾酪を」

 

「ありがとう」

 

栄華は歩き出す。

 

時雨がその横へ並ぶ。

 

「そこまでしなくていい」

 

「買うのは、あなたです」

 

「わたくしは場所を聞いただけ」

 

「だが」

 

「自分が食べたい物を」

 

「一度くらい探しなさいませ」

 

時雨は。

 

栄華の横顔を見る。

 

彼女は。

 

厳しい。

 

命令する。

 

叱る。

 

無駄を許さない。

 

だが。

 

時雨が口にした。

 

僅かな望みを。

 

簡単に捨てなかった。

 

自分のために。

 

何かを欲しがる。

 

その練習をさせようとしている。

 

栄華の優しさは。

 

柳琳のものとは違う。

 

柳琳は。

 

隣へ座る。

 

休めと告げる。

 

心へ触れる。

 

栄華は。

 

前へ立ち。

 

逃げ道を塞ぎ。

 

必要な行動を取らせる。

 

どちらも。

 

時雨一人なら。

 

選ばない道へ連れていく。

 

店へ着く。

 

山羊の乳。

 

乾酪。

 

肉。

 

根菜。

 

香草。

 

時雨は。

 

必要な材料を見て。

 

値段を聞いた。

 

懐から。

 

今日受け取った布袋を出す。

 

硬貨を数える。

 

多いのか。

 

安いのか。

 

まだ感覚は薄い。

 

栄華が。

 

隣から値段を確認する。

 

「適正ですわ」

 

「値切らなくていいのか」

 

「必要ありません」

 

「黒山では」

 

「商人の言い値で買わなかった」

 

「ここでは」

 

「毎回争っていては商売になりません」

 

「価格にも」

 

「おおよその基準があります」

 

「高すぎれば」

 

「誰も買わない」

 

「安すぎれば」

 

「店が潰れる」

 

「互いに続けられる値を探すのが市場です」

 

「戦いと同じだな」

 

「何でも戦いへ例えないでくださいませ」

 

「分かりやすい」

 

時雨は。

 

店主へ金を渡す。

 

自分の給金。

 

自分が働いた対価。

 

自分が食べたいと思った物。

 

それを買う。

 

誰かの食料を奪ったわけではない。

 

国の倉から持ち出したわけでもない。

 

自分が使った金は。

 

店主の手へ渡り。

 

また別の物へ使われる。

 

小さなこと。

 

だが。

 

時雨にとっては。

 

魏の中で。

 

一人の人間として暮らす。

 

最初の行為だった。

 

「買ったな」

 

時雨が言う。

 

「当たり前ですわ」

 

「何か変わったか」

 

「すぐには変わりません」

 

栄華は答える。

 

「ですが」

 

「一度できたなら」

 

「次もできます」

 

柳琳が。

 

荷物を見て微笑む。

 

「せっかくですから」

 

「三人でいただきませんか?」

 

時雨が柳琳を見る。

 

「三人で?」

 

「はい」

 

「時雨が好きだった料理を」

 

「私たちも食べてみたいです」

 

栄華の眉が僅かに上がる。

 

「誰が作るのです?」

 

柳琳が時雨を見る。

 

時雨も柳琳を見る。

 

二人の視線が。

 

栄華へ向く。

 

「なぜ、わたくしを見るのです!」

 

「栄華は作れないのか」

 

「作れます!」

 

「なら」

 

「なぜ、わたくしが作る流れになりますの!」

 

柳琳が小さく笑う。

 

「三人で作りましょう」

 

「時雨が」

 

「黒山での作り方を教えてください」

 

「俺は入れて煮るだけだ」

 

「それなら」

 

「簡単そうですわね」

 

栄華は。

 

少しだけ興味を見せる。

 

「ただし」

 

「食材の量は測ります」

 

「なぜだ」

 

「次に同じ味を作るためです」

 

時雨は。

 

一瞬。

 

言葉を失った。

 

次に。

 

同じ味を作る。

 

記録する。

 

残す。

 

黒山で食べた味を。

 

魏へ持ってくる。

 

時雨しか知らないものを。

 

柳琳と栄華が知る。

 

そして。

 

いつか。

 

時雨がいなくても。

 

同じ料理を作れる者がいる。

 

それは。

 

単なる食事以上の意味を持っていた。

 

「分かった」

 

時雨は頷く。

 

「測れ」

 

「最初から、そのつもりですわ」

 

栄華は満足そうに笑った。

 

---

 

料理を作る場所として選ばれたのは。

 

柳琳の屋敷にある小さな台所だった。

 

王宮の厨房を使えば。

 

流琉や料理人たちが手伝う。

 

だが。

 

今回は。

 

三人だけで作ることになった。

 

栄華は。

 

衣の袖を丁寧にまとめ。

 

髪へ布をかける。

 

柳琳も。

 

動きやすい姿へ整える。

 

時雨は。

 

買ってきた材料を机へ並べた。

 

「肉は」

 

柳琳が尋ねる。

 

「先に焼く」

 

「なぜですか?」

 

「その方が臭みが減る」

 

「黒山では」

 

「新鮮じゃない肉も多かった」

 

「なるほど」

 

栄華は。

 

すぐに木札へ書く。

 

「何を書いてる」

 

「手順です」

 

「肉を焼く」

 

「表面へ色がつくまで」

 

「量は」

 

「適当」

 

「適当では記録になりませんわ!」

 

「肉の大きさで変わる」

 

「では」

 

栄華は肉を一つ持ち上げる。

 

「この大きさなら?」

 

時雨は見る。

 

「表と裏を」

 

「息を十回ずつ」

 

「息?」

 

柳琳が首を傾げる。

 

「時間を測る物がない時」

 

「呼吸で数える」

 

「火の強さでも変わる」

 

「でも目安にはなる」

 

栄華は。

 

少し驚いたように時雨を見る。

 

「黒山なりの記録方法が」

 

「あるではありませんの」

 

「記録じゃない」

 

「覚え方だ」

 

「同じです」

 

栄華は書き加える。

 

肉を焼く。

 

根菜を切る。

 

鍋へ水を入れる。

 

火へかける。

 

灰汁を取り。

 

山羊の乳を加える。

 

塩。

 

香草。

 

時雨の記憶を頼りに。

 

味を整えていく。

 

途中。

 

栄華が塩を量ろうとし。

 

時雨が手で入れようとして争いになった。

 

「一つまみでは分かりません!」

 

「指三本だ」

 

「指の大きさが違います!」

 

「栄華の手なら少し多くしろ」

 

「そういう問題ではありませんわ!」

 

柳琳が。

 

二人の間で笑いながら。

 

小さな匙を用意した。

 

「これで」

 

「一杯ずつ入れてみてはいかがでしょう」

 

「柳琳」

 

「はい」

 

「助かる」

 

「時雨!」

 

栄華が怒鳴る。

 

「なぜ柳琳へだけ、すぐ礼を言うのです!」

 

「助かったから」

 

「わたくしも手伝っていますわ!」

 

「栄華も助かってる」

 

「ついでのように言わないでくださいませ!」

 

台所へ。

 

三人の声が響く。

 

黒山で。

 

時雨は。

 

料理を作る時も。

 

周囲へ命令を出していた。

 

肉を切れ。

 

火を見ろ。

 

水を運べ。

 

自分も働く。

 

だが。

 

すべてを決めるのは時雨だった。

 

今は。

 

栄華が量を記録し。

 

柳琳が味を確かめ。

 

時雨が記憶を伝える。

 

三人で。

 

一つの鍋を作っている。

 

やがて。

 

白い湯気が立つ。

 

山羊の乳の柔らかな香り。

 

肉と根菜。

 

香草。

 

黒山の冬を思い出させる匂い。

 

時雨は。

 

鍋を見つめた。

 

山の砦。

 

冷たい風。

 

雪。

 

大鍋の周囲へ集まる者たち。

 

腹を空かせた子供。

 

傷を負った兵。

 

食事ができたと聞き。

 

顔を上げる人々。

 

その中心に。

 

自分がいた。

 

だが。

 

食べる時も。

 

次の配分を考えていた。

 

誰が多く必要か。

 

誰が病気か。

 

明日の分は残るか。

 

味を楽しむ余裕は。

 

ほとんどなかった。

 

「時雨」

 

柳琳の声が。

 

記憶から引き戻す。

 

「どうしました?」

 

「何でもない」

 

「嘘ですわね」

 

栄華が言う。

 

曹操と同じことを言う。

 

時雨は。

 

二人を見る。

 

柳琳は心配そうに。

 

栄華は鋭く。

 

それぞれ異なる目で見ている。

 

「黒山を思い出した」

 

時雨は正直に答えた。

 

「この匂いで」

 

「皆と食べたのですか?」

 

柳琳が尋ねる。

 

「ああ」

 

「だが」

 

「俺は」

 

「味を覚えてるだけで」

 

「うまいと思って食べたことは少ない」

 

栄華の表情が。

 

僅かに柔らかくなる。

 

「では」

 

彼女は器を三つ用意する。

 

「今日は」

 

「きちんと味わいなさいませ」

 

「誰かへ配る量も」

 

「明日の食料も」

 

「考えなくてよい」

 

「この鍋は」

 

「今日」

 

「わたくしたち三人で食べるために作ったものです」

 

柳琳も頷く。

 

「冷めないうちにいただきましょう」

 

三人は。

 

小さな卓を囲んだ。

 

時雨が。

 

最初の一口を食べる。

 

黒山で食べた味と。

 

完全には同じではない。

 

山羊の乳は。

 

少し濃い。

 

肉も柔らかい。

 

香草も違う。

 

それでも。

 

懐かしい。

 

そして。

 

過去より少しだけ。

 

穏やかな味がした。

 

「どうですの?」

 

栄華が尋ねる。

 

「うまい」

 

「それだけ?」

 

「何を言えばいい」

 

「昨日も曹操様へ同じことをおっしゃったのでしょう?」

 

「酒はうまかった」

 

「もう少し」

 

「感想を言いなさいませ」

 

時雨は。

 

もう一口食べる。

 

「黒山のより」

 

「柔らかい」

 

「悪い意味ですか?」

 

柳琳が尋ねる。

 

「違う」

 

「黒山では」

 

「腹を満たすための味だった」

 

「これは」

 

「食べるための味がする」

 

栄華と柳琳は。

 

その言葉を静かに受け取った。

 

飢えないため。

 

生きるため。

 

身体を動かすため。

 

それだけではない。

 

食べること自体を。

 

楽しむための味。

 

時雨が。

 

それを感じた。

 

「なら」

 

栄華が言う。

 

「お金を使った意味はありましたわね」

 

「ああ」

 

時雨は頷く。

 

「使わなければ」

 

「食べられなかった」

 

「当然です」

 

「金は」

 

「残すだけじゃ駄目なんだな」

 

栄華の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「ようやく」

 

「少しお分かりになりましたのね」

 

「使いすぎても駄目」

 

「使わなくても駄目」

 

「そうです」

 

「難しいな」

 

「だから」

 

栄華は胸を張る。

 

「わたくしがおります」

 

時雨は。

 

栄華を見る。

 

自信に満ちた顔。

 

だが。

 

その自信の下へ。

 

間違えることへの恐怖を抱えている。

 

怖いから。

 

確かめる。

 

記録する。

 

誰かへ任せる。

 

栄華も。

 

時雨と同じだった。

 

重さを感じていないのではない。

 

感じているからこそ。

 

一人で背負わない仕組みを作っている。

 

「栄華」

 

「何ですの?」

 

「怖くなった時は」

 

栄華の手が止まる。

 

「俺か柳琳に言え」

 

栄華が目を見開く。

 

時雨は続ける。

 

「金のことは分からない」

 

「だが」

 

「一人で抱えるよりはましだろ」

 

柳琳が。

 

優しく微笑む。

 

栄華は。

 

すぐには答えなかった。

 

自分は。

 

魏軍の金庫番。

 

弱さを見せてはならない。

 

判断へ迷えば。

 

周囲を不安にさせる。

 

そう考えてきた。

 

だから。

 

怖くても。

 

自分の中で処理した。

 

記録。

 

再計算。

 

確認。

 

制度へ分けることで。

 

感情を表へ出さないようにしてきた。

 

だが。

 

時雨は。

 

自分が苦手なことを認め。

 

柳琳へ頼んだ。

 

華論へ任せた。

 

栄華へ教えを求めた。

 

ならば。

 

栄華も。

 

少しくらい。

 

預けてもよいのかもしれない。

 

「考えておきますわ」

 

小さな返事。

 

時雨は眉を寄せる。

 

「今、分かったと言え」

 

「なぜ曹操様のようなことをおっしゃるの!」

 

「言われたから」

 

「だから、わたくしへ同じことを?」

 

「ああ」

 

栄華は。

 

呆れたように時雨を見る。

 

そして。

 

ふと。

 

笑った。

 

「本当に」

 

「不器用な方ですわね」

 

「栄華に言われたくない」

 

「わたくしは器用です!」

 

「怖いと言えなかった」

 

栄華の笑みが止まる。

 

「……あなたもでしょう?」

 

「ああ」

 

時雨は認めた。

 

「だから」

 

「同じだな」

 

栄華は。

 

何も言えなくなった。

 

柳琳が。

 

二人の間へ穏やかな声を置く。

 

「では」

 

「二人とも」

 

「怖い時は」

 

「私へ話してください」

 

時雨と栄華が。

 

同時に柳琳を見る。

 

柳琳は微笑んでいる。

 

「私も」

 

「一人では支えきれない時は」

 

「お二人へ頼ります」

 

「柳琳もか」

 

「もちろんです」

 

「優しい人は」

 

「何でも一人で受け止められるわけではありません」

 

柳琳の声は。

 

静かだった。

 

だが。

 

その言葉には。

 

自分自身への戒めがあった。

 

魏軍の良心。

 

優しい。

 

穏やか。

 

誰かの弱さを預かる。

 

それを期待される。

 

だが。

 

柳琳も人間だ。

 

傷つく。

 

疲れる。

 

迷う。

 

すべてを受け止めれば。

 

いつか潰れる。

 

「時雨」

 

「栄華」

 

柳琳は二人を見る。

 

「私が」

 

「無理をしているように見えた時は」

 

「止めてください」

 

時雨は。

 

すぐに頷く。

 

「ああ」

 

栄華も。

 

少し遅れて答える。

 

「当然ですわ」

 

「あなたこそ」

 

「人の心配ばかりして」

 

「ご自分を後回しになさるのですから」

 

柳琳は困ったように笑う。

 

「そうでしょうか」

 

「そうです」

 

「そうだな」

 

時雨まで同意する。

 

柳琳は。

 

二人を見比べる。

 

「お二人に言われると」

 

「少し複雑ですね」

 

「なぜだ」

 

「どちらも」

 

「自分を後回しにする方ですから」

 

時雨と栄華が黙る。

 

三人は。

 

互いを見た。

 

そして。

 

誰からともなく。

 

小さく笑った。

 

似ていない。

 

柳琳は優しい。

 

栄華は厳しい。

 

時雨は不器用。

 

だが。

 

三人とも。

 

自分より先に。

 

誰かを支えようとする。

 

方法が違うだけ。

 

だからこそ。

 

足りない部分を。

 

互いに補える。

 

---

 

食事が終わった後。

 

栄華は。

 

記録した木札を確認した。

 

「肉の量」

 

「根菜」

 

「山羊の乳」

 

「塩」

 

「香草」

 

「手順も、おおよそ分かりました」

 

「次は」

 

「流琉へ見せます」

 

「なぜだ」

 

「大量に作れるよう」

 

「調整していただくためです」

 

時雨の目が僅かに開く。

 

「黒狼隊へ出せるのか」

 

「毎日は難しいでしょう」

 

「ですが」

 

「冬の訓練後」

 

「身体を温める食事として」

 

「月に何度かなら可能かもしれません」

 

「費用は?」

 

「今から計算します」

 

「高いならやめろ」

 

「すぐにやめろと言わない!」

 

栄華は怒鳴る。

 

「山羊の乳が高いなら」

 

「牛乳で代用する」

 

「肉を変える」

 

「一部だけ乾酪を使う」

 

「味を残しながら」

 

「費用を下げる方法を考えます」

 

「それが」

 

栄華は木札を持ち上げる。

 

「記録する意味ですわ」

 

一度作って終わりではない。

 

誰か一人の記憶だけで終わらせない。

 

残し。

 

変え。

 

広げる。

 

黒山の味が。

 

魏軍の食事へ変わるかもしれない。

 

時雨一人の過去が。

 

国の中へ残る。

 

「栄華」

 

「何ですの」

 

「頼む」

 

時雨は。

 

今度は。

 

それだけを言った。

 

だが。

 

栄華には。

 

十分だった。

 

「任せなさいませ」

 

彼女は胸を張る。

 

「無駄なく」

 

「美味しく」

 

「黒狼隊の皆さんへ届く形にしてみせますわ」

 

柳琳が微笑む。

 

「楽しみですね」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

残った煮込みを見た。

 

「曹操にも」

 

「食わせるか」

 

栄華と柳琳が。

 

同時に時雨を見る。

 

「何だ」

 

「いえ」

 

柳琳が笑う。

 

「曹操様がお喜びになると思います」

 

栄華も。

 

扇で口元を隠す。

 

「ご自分から」

 

「何かを差し上げようとなさるのですね」

 

「昨日」

 

「機嫌を直せと言われた」

 

「まだ悪いのですか?」

 

「多分」

 

「では」

 

栄華は少し考える。

 

「ちょうどよろしいでしょう」

 

「時雨が」

 

「ご自分の給金で材料を買い」

 

「ご自分の過去の味を」

 

「曹操様へ差し上げる」

 

「きっと」

 

「何よりの贈り物になりますわ」

 

時雨は眉を寄せる。

 

「ただの煮込みだ」

 

「そう思っているのは」

 

「時雨だけです」

 

柳琳が言う。

 

「曹操様は」

 

「時雨が何を大切にしてきたか」

 

「知りたいのだと思います」

 

「黒山の味をお渡しすることは」

 

「時雨の過去を」

 

「少しお預けすることになります」

 

過去を預ける。

 

時雨は。

 

鍋を見る。

 

燕国。

 

黒山。

 

王だった頃。

 

頭領だった頃。

 

民と食べた物。

 

自分だけが覚えている味。

 

それを。

 

曹操へ食べさせる。

 

自分の中へ閉じ込めていたものを。

 

一つ。

 

渡す。

 

「そうか」

 

時雨は小さく答える。

 

「なら」

 

「持っていく」

 

栄華が頷く。

 

「器はこちらで用意します」

 

「柳琳」

 

「はい」

 

「味を見てくれ」

 

「もちろんです」

 

三人は。

 

残った煮込みを。

 

丁寧に器へ移した。

 

---

 

その夜。

 

曹操の部屋。

 

時雨が扉を開けると。

 

曹操は机へ向かい。

 

竹簡を読んでいた。

 

時雨が来たことに気づき。

 

顔を上げる。

 

「遅いわ」

 

「市場へ行ってた」

 

「誰と?」

 

「柳琳と栄華」

 

曹操の目が細くなる。

 

「二人と?」

 

「ああ」

 

「何をしていたの?」

 

「飯を作った」

 

「三人で?」

 

「ああ」

 

曹操は。

 

ゆっくりと竹簡を置く。

 

笑みはある。

 

だが。

 

昨日と同じ。

 

不機嫌な気配が。

 

僅かに漂い始める。

 

「随分と楽しそうね」

 

「栄華とは喧嘩した」

 

「柳琳とは?」

 

「話した」

 

「何を?」

 

「色々」

 

「詳しく話しなさい」

 

「その前に」

 

時雨は。

 

持ってきた器を机へ置く。

 

曹操の視線が。

 

器へ向く。

 

「何?」

 

「煮込み」

 

「見れば分かるわ」

 

「俺が買った」

 

曹操の目が。

 

僅かに見開かれる。

 

「あなたが?」

 

「ああ」

 

「自分の給金で?」

 

「栄華に使えと言われた」

 

曹操の眉が寄る。

 

「栄華に言われたから?」

 

「俺が食べたかった」

 

曹操の表情が止まる。

 

時雨は続ける。

 

「黒山で」

 

「冬に食べた料理だ」

 

「山羊の乳と」

 

「肉と根菜を煮る」

 

「柳琳と栄華に手伝ってもらった」

 

「残ったから」

 

「曹操にも持ってきた」

 

曹操は。

 

器を見つめた。

 

昨日。

 

時雨は。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳へ真名を許した。

 

それが。

 

気に入らなかった。

 

自分だけのものが。

 

減っていくように感じた。

 

だが。

 

今日。

 

時雨は。

 

彼女たちと過ごすことで。

 

新しい何かを得た。

 

そして。

 

得たものを。

 

曹操へ持ってきた。

 

真名を分けたから。

 

曹操のものが減ったわけではない。

 

むしろ。

 

時雨が魏の者たちと繋がるほど。

 

時雨の中にあるものが。

 

曹操のもとへも届く。

 

「食べるか」

 

時雨が尋ねる。

 

「もちろんよ」

 

曹操は。

 

器を自分の前へ引き寄せる。

 

匙を取る。

 

一口。

 

ゆっくりと味わう。

 

「どうだ」

 

「そうね」

 

曹操は少し考える。

 

「優しい味ね」

 

時雨の眉が僅かに動く。

 

「柳琳も入ってるからな」

 

「料理に人は入りません」

 

「そういう意味じゃない」

 

「分かってるわ」

 

曹操は。

 

もう一口食べる。

 

「でも」

 

「少し頑固な味もするわ」

 

「栄華か」

 

「あなたよ」

 

「なぜだ」

 

「何となく」

 

曹操は笑う。

 

「それと」

 

「温かい」

 

「煮込みだからな」

 

「そういう意味ではないわ」

 

「分かりにくいな」

 

「あなたが鈍いのよ」

 

いつものやり取り。

 

だが。

 

昨日までの不機嫌さは。

 

少しずつ消えていた。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「ありがとう」

 

曹操が。

 

静かに言う。

 

時雨は。

 

僅かに目を細めた。

 

「栄華が記録した」

 

「次も作れる」

 

「そう」

 

「黒狼隊にも出せるかもしれない」

 

「そう」

 

「だから」

 

「俺しか知らない味じゃなくなる」

 

曹操は。

 

匙を置く。

 

「寂しい?」

 

時雨は。

 

少しだけ考える。

 

「少しな」

 

今日。

 

何度目かの。

 

正直な言葉。

 

「だが」

 

「悪くない」

 

「俺がいなくても」

 

「作れる奴がいる」

 

「それでも」

 

「俺と食べたことは」

 

「残るんだろ」

 

曹操の蒼い瞳が。

 

柔らかくなる。

 

「ええ」

 

「残るわ」

 

「味が同じでも」

 

「誰と食べたかは違う」

 

「あなたがいなくても作れる」

 

「でも」

 

曹操は。

 

時雨を見る。

 

「あなたと食べたいと思うことは」

 

「なくならない」

 

いなくても動ける。

 

それでも。

 

いてほしい。

 

同じ言葉が。

 

今日。

 

何度も時雨の前へ現れた。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳。

 

曹操。

 

皆が。

 

違う形で。

 

同じことを伝えている。

 

「少し分かった」

 

時雨が言う。

 

「何が?」

 

「俺がいなくてもよいことと」

 

「俺がいなくてよいことは」

 

「違う」

 

曹操は。

 

満足そうに微笑んだ。

 

「ようやく?」

 

「ああ」

 

「随分かかったわね」

 

「難しい」

 

「なら」

 

曹操は時雨の袖を掴む。

 

「忘れないよう」

 

「何度でも教えてあげる」

 

「面倒だな」

 

「でも」

 

曹操は。

 

時雨が持ってきた煮込みを。

 

もう一口食べる。

 

「今日は許してあげる」

 

「何を」

 

「華論たちへ真名を許したこと」

 

「まだ怒ってたのか」

 

「少しだけね」

 

「なら」

 

時雨は曹操を見る。

 

「柳琳と栄華にも」

 

「今日、色々預けた」

 

曹操の動きが止まる。

 

「何を?」

 

「柳琳には」

 

「人の気持ちを見ること」

 

「栄華には」

 

「俺の知識を残す方法と」

 

「金の使い方」

 

曹操の目が細くなる。

 

「随分と」

 

「たくさん預けたのね」

 

「ああ」

 

「でも」

 

時雨は続ける。

 

「二人からも預かった」

 

「柳琳が無理をしてたら止める」

 

「栄華が怖くなったら」

 

「話を聞く」

 

曹操の表情が。

 

僅かに変わる。

 

時雨は。

 

支えられるだけではない。

 

相手の重さも。

 

自分へ預けさせようとしている。

 

一方的な依存ではない。

 

互いに支える関係。

 

曹操が。

 

時雨へ望んでいたもの。

 

「そう」

 

曹操は静かに言った。

 

「よい一日だったのね」

 

「疲れた」

 

「でしょうね」

 

「書類を覚えた」

 

「栄華に?」

 

「ああ」

 

「人の気持ちも教えられた」

 

「柳琳に?」

 

「ああ」

 

曹操は笑う。

 

「二人とも」

 

「よい教師でしょう?」

 

「厳しい」

 

「栄華はね」

 

「柳琳も」

 

「優しいが」

 

「逃げられない」

 

「そこが柳琳の強さよ」

 

曹操は。

 

残った煮込みを。

 

ゆっくり食べる。

 

時雨は。

 

その隣へ座る。

 

今夜は。

 

曹操から命じられる前に。

 

自分から近い場所を選んだ。

 

曹操は。

 

それに気づいた。

 

だが。

 

口には出さない。

 

言えば。

 

時雨が離れるかもしれない。

 

代わりに。

 

時雨の杯へ。

 

酒を注ぐ。

 

「今夜は」

 

「昨日の続きはしないのか」

 

時雨が尋ねる。

 

「そうね」

 

曹操は微笑む。

 

「今日は」

 

「あなたが自分から持ってきたものを」

 

「ゆっくり味わうわ」

 

「煮込みは、もう食べ終わる」

 

「料理だけではないもの」

 

「何だ」

 

「今日の話」

 

曹操は時雨を見る。

 

「栄華に何を教えられ」

 

「柳琳と何を話し」

 

「黒狼隊の者へ」

 

「どんな居場所を作ったのか」

 

「最初から話しなさい」

 

時雨は小さく息を吐く。

 

「長くなるぞ」

 

「夜は長いわ」

 

昨日と同じ言葉。

 

だが。

 

今夜の声は。

 

不機嫌ではなかった。

 

時雨は杯を取り。

 

一口飲む。

 

そして。

 

朝。

 

栄華の仕事部屋へ行ったところから。

 

話し始めた。

 

---

 

その頃。

 

柳琳の屋敷では。

 

栄華が。

 

料理の記録をまとめていた。

 

肉の量。

 

根菜。

 

乳。

 

塩。

 

香草。

 

火へかける時間。

 

黒山での作り方。

 

許昌で手に入る材料。

 

費用。

 

大量に作る場合の変更案。

 

柳琳は。

 

隣で静かに茶を飲んでいる。

 

「栄華」

 

「何ですの?」

 

「楽しそうですね」

 

栄華の筆が止まる。

 

「仕事ですわ」

 

「そうですね」

 

「遊びではありません」

 

「はい」

 

柳琳は微笑む。

 

「でも」

 

「時雨に頼られたことが」

 

「嬉しかったのではありませんか?」

 

栄華の頬が。

 

僅かに赤くなる。

 

「違いますわ!」

 

「わたくしは」

 

「必要な仕事をしただけ!」

 

「そうですね」

 

「それ以上でも」

 

「それ以下でもありません!」

 

「はい」

 

柳琳の返事は。

 

あまりにも素直だった。

 

かえって。

 

栄華は落ち着かない。

 

「柳琳」

 

「はい」

 

「あなたこそ」

 

「時雨へ」

 

「随分と自然に頼られていたではありませんの」

 

「そうでしょうか」

 

「人の気持ちが分からない」

 

「だから教えてほしいと」

 

「ほとんど告白のようなものですわ」

 

「告白?」

 

柳琳が首を傾げる。

 

栄華は。

 

自分で言ってから。

 

何か違う気がして。

 

扇を広げた。

 

「忘れなさい!」

 

「はい」

 

「すぐ忘れないでくださいませ!」

 

「どちらですか?」

 

「もう!」

 

栄華の声が。

 

静かな屋敷へ響く。

 

柳琳は。

 

小さく笑った。

 

「でも」

 

「よかったと思います」

 

「何がですの?」

 

「時雨が」

 

「自分に見えないものを」

 

「認められたことです」

 

「そうですわね」

 

栄華も。

 

今度は否定しなかった。

 

「それに」

 

柳琳は続ける。

 

「栄華も」

 

「怖いとお話しできました」

 

栄華の手が止まる。

 

「あれは」

 

「話の流れです」

 

「それでも」

 

「時雨は覚えています」

 

「でしょうね」

 

栄華は。

 

少しだけ困ったように息を吐く。

 

「あの方は」

 

「妙なところで」

 

「人の言葉を忘れませんもの」

 

「だから」

 

柳琳は微笑む。

 

「怖い時は」

 

「本当に話してもよいと思います」

 

「あなたにも?」

 

「もちろんです」

 

「時雨にも?」

 

柳琳は頷く。

 

「はい」

 

栄華は。

 

しばらく。

 

手元の木札を見る。

 

魏軍の財。

 

兵の給金。

 

武具。

 

食料。

 

未来。

 

自分が守るべきもの。

 

その重さを。

 

誰かへ完全に渡すことはできない。

 

だが。

 

怖いと言うだけなら。

 

重さを少し。

 

分けられるのかもしれない。

 

「考えておきますわ」

 

栄華が言う。

 

柳琳は。

 

何も急かさなかった。

 

「はい」

 

それだけ答える。

 

部屋には。

 

筆の音が戻る。

 

黒山の料理が。

 

魏の記録へ変わっていく。

 

一人の記憶が。

 

皆のものへ変わっていく。

 

そして。

 

その記録の傍らで。

 

柳琳と栄華もまた。

 

時雨から預かった言葉を。

 

自分たちの中へ。

 

静かに残していた。

 

人を支えるということは。

 

代わりにすべてを背負うことではない。

 

金を守るということは。

 

使わせないことではない。

 

優しくするということは。

 

何でも許すことではない。

 

守る。

 

止める。

 

預ける。

 

頼る。

 

それらを。

 

一人で行う必要はない。

 

時雨。

 

柳琳。

 

栄華。

 

三人は。

 

あまりにも違う。

 

だからこそ。

 

同じものを。

 

別の方向から支えることができる。

 

黒山の狼は。

 

剣で守ることしか知らなかった。

 

だが魏には。

 

傷へ触れる手があり。

 

未来へ残す金がある。

 

そして。

 

そのどちらも。

 

剣と同じほど。

 

人を生かす力を持っていた。

 

時雨が。

 

そのことを本当の意味で知ったのは。

 

戦場ではなく。

 

一つの治療所と。

 

一つの市場と。

 

三人で囲んだ。

 

小さな鍋の前だった。




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