外伝 第9話 優しさの値段――支える手、守る金
夜明け前。
許昌の王宮は、まだ深い静けさの中にあった。
広い廊下には灯りが僅かに残り、夜番の兵が足音を忍ばせながら巡回している。庭園の池には薄い霧が漂い、風が吹くたび、水面へ小さな波が生まれていた。
都の外では、すでに荷車が動き始めている。
市場へ野菜を運ぶ農民。
城門が開くのを待つ商人。
夜通し走ってきた伝令。
許昌という巨大な都は、朝が訪れる少し前から目を覚ます。
だが。
王宮の一角。
曹操の私室に近い廊下だけは、普段より静かだった。
その理由は。
昨夜遅くまで。
曹操と時雨の言い合う声が響き続けていたからである。
「私の方が先でしょう?」
「何の話だ」
「真名を許された順番よ!」
「曹操は最初から知ってた」
「そういう問題ではないわ!」
同じ問答が。
形を変えながら何度も繰り返された。
最初は廊下へ立っていた春蘭が心配し。
途中から秋蘭が姉を連れて去り。
その後も灯りは消えなかった。
曹操が何に納得できず。
時雨が何を理解できなかったのか。
詳しい内容を知る者はいない。
ただ。
夜番の兵たちは。
魏王と新任の将が。
恐ろしく重要でありながら、どこか幼い争いをしているらしいと理解していた。
そして。
空が白み始める少し前。
曹操の部屋の扉が開いた。
時雨が出てくる。
髪は僅かに乱れ。
目の下には薄い疲労の色。
それでも足取りは普段と変わらない。
腰には黒鞘の剣。
懐には将軍印。
衣も乱れてはいなかった。
ただ。
いつも以上に不機嫌そうな顔をしている。
扉の内側から。
曹操の声が飛んだ。
「今夜も来なさい」
時雨の足が止まる。
「なぜだ」
「まだ話は終わっていないわ」
「終わった」
「私は納得していないもの」
「華論たちに真名を許した」
「理由も説明した」
「黒狼隊に必要だから」
「働きを見て信用したから」
「それ以外に何がある」
「私への気持ちよ」
「何の関係がある」
「あるわ!」
曹操の声が朝の廊下へ響く。
夜番の兵たちが、何も聞こえていないように前を向いた。
時雨は片手で額を押さえる。
「眠れ、曹操」
「あなたもでしょう?」
「俺は訓練へ行く」
「今日は華論へ任せると言ったわ」
「様子を見る」
「あなたは、人へ任せるという言葉の意味を理解しているの?」
「任せることと、見ないことは別だ」
「そうやって、また全部自分で背負うつもりでしょう?」
時雨は答えなかった。
曹操の声が少し低くなる。
「時雨」
「なんだ」
「今日一日」
「黒狼隊の指揮へ直接口を出すことを禁じるわ」
時雨が振り返る。
曹操は部屋の中に立っていた。
薄い寝衣へ上着だけを羽織り。
長い髪を下ろしている。
王としてではない。
眠る前の一人の女の姿。
だが。
その瞳には。
命令を撤回する意思がない。
「何か問題が起きてもか」
「華論が判断する」
「華論で判断できない時は?」
「秋蘭へ相談する」
「急ぐ場合は」
「あなた以外の誰かが決める」
「俺の隊だ」
「魏の隊よ」
曹操は静かに言った。
「あなたの私兵ではない」
昨日。
黒狼隊へ。
時雨自身が告げた言葉だった。
張燕の私兵ではない。
魏の兵。
時雨の命令と魏の命令が食い違えば。
最後に従うのは曹操。
自分で語った以上。
都合が悪い時だけ忘れることはできない。
「……分かった」
時雨は小さく息を吐く。
「今日は口を出さない」
「見るだけだ」
「見るだけなら許すわ」
曹操は満足そうに頷く。
「それから」
「まだあるのか」
「午前中は栄華のところへ行きなさい」
時雨の顔が曇る。
「なぜだ」
「あなたの給金と黒狼隊の支出について、説明を受けるため」
「昨日聞いた」
「あなたが半分も理解していないと、栄華から報告が来たわ」
「理解してる」
「では、自分の月給を答えなさい」
時雨は黙った。
曹操の口元へ。
勝ち誇った笑みが浮かぶ。
「分かっていないでしょう?」
「使う予定がない」
「それでも知りなさい」
「金は栄華に任せる」
「任せるためには」
曹操は時雨へ指を向ける。
「自分が何を預けているのか、知る必要があるわ」
「……分かった」
「午後は柳琳のところへ」
「今度は何だ」
「黒狼隊の負傷兵について相談があるそうよ」
「それは行く」
時雨は即答した。
曹操の眉が僅かに上がる。
「栄華のところへは嫌そうなのに?」
「怪我人は急ぐ」
「金も急ぐ時があるわ」
「今は怪我人が先だ」
「だから午前は栄華」
「午後は柳琳よ」
曹操は小さく笑う。
「ちょうどいいでしょう?」
「何が」
「あなたが昨日」
「二人へ何を預けたのか」
「今日一日で、もっとよく理解しなさい」
「曹操が仕組んだのか」
「命令を出しただけよ」
「同じだ」
「違うわ」
「何が違う」
「気分よ」
「面倒だな」
時雨は再び歩き出す。
後ろから。
曹操の声が追ってきた。
「今夜も来なさい!」
「行かない」
「命令よ!」
「寝ろ、曹操」
時雨の返事が廊下へ響く。
扉が閉まる音。
直後。
曹操の不満そうな声が。
閉じた扉の向こうから聞こえた。
時雨は聞こえなかったことにして。
王宮の外へ向かった。
---
西部練兵場では。
華論が黒狼隊を走らせていた。
「速度を落とすっす!」
「先頭だけ飛ばすなって、昨日言ったばかりっすよ!」
金色のサイドテールを揺らし。
華論は隊列の横を馬で走っている。
時雨は練兵場の入口に立ち。
腕を組んで、その光景を見ていた。
口を出すことは禁止されている。
そのため。
先頭の一人が歩幅を乱した時も。
後方の兵が列から半歩外れた時も。
黙って見ていた。
「時雨様が見ておられます!」
石剛が声を上げる。
兵たちの動きが僅かに硬くなる。
華論がすぐに怒鳴った。
「時雨を見るなっす!」
「今の指揮官は自分っすよ!」
「はっ!」
「返事だけじゃなく、足も揃えるっす!」
黒狼隊の足音が。
少しずつ一つになっていく。
華論は。
時雨よりも細かかった。
前後の間隔。
呼吸。
足の運び。
隊列が曲がる時の速度。
一人の遅れが。
どこまで全体へ影響するか。
一つずつ。
理由まで説明しながら修正している。
時雨の訓練は。
身体で覚えさせる。
失敗すれば、もう一度。
できるまで走らせる。
華論は。
なぜ失敗したのかを言葉にする。
どちらが正しいというわけではない。
兵によって。
覚えやすい方法は異なる。
時雨は。
黙ってその違いを見ていた。
自分が口を挟まなくても。
訓練は進んでいる。
黒狼隊も。
華論の命令へ従っている。
不満はある。
疲労もある。
それでも。
時雨がいなければ動かない集団ではなくなり始めていた。
胸の奥へ。
僅かな寂しさと。
それ以上の安堵が生まれる。
「時雨」
華論が馬を寄せてきた。
「口を出さないって聞いてたっすけど」
「本当に黙ってると気味が悪いっすね」
「失礼だな」
「いつも何か言うじゃないっすか」
「曹操に禁じられた」
「なるほど」
華論は苦笑する。
「信用されてるんだか」
「されてないんだか分からないっすね」
「任せた」
時雨が言う。
華論の目が僅かに開く。
「昨日も聞いたっすよ」
「今日は、口を出さない」
「それも含めて任せる」
時雨は黒狼隊を見る。
「何かあれば」
「華論が決めろ」
「自分でいいんすか?」
「今、指揮してるのは華論だ」
「なら華論が決める」
当然の言葉。
だが。
昨日よりも一歩先へ進んだ言葉だった。
昨日の時雨は。
華論の判断が必要な部分だけを預けた。
今日は。
自分が見ている前でも。
最終的な判断を任せようとしている。
華論は笑う。
「了解っす、時雨」
「黒狼隊」
「今日は自分が預かるっす」
「ああ」
時雨は頷き。
練兵場へ背を向けた。
数歩進んだところで。
後ろから華論の声が飛ぶ。
「でも、終わる頃には見に来てほしいっす!」
時雨は振り返らない。
「なぜだ」
「任せた結果くらい」
「見てほしいっすよ」
時雨は少しだけ考える。
「分かった」
短く答えた。
そして。
魏軍の金庫番が待つ役所へ向かった。
---
栄華の仕事部屋は。
時雨が想像していたより地味だった。
魏軍の金庫番。
その呼び名から。
宝物や金貨が積まれた豪華な部屋を想像していたわけではない。
だが。
少なくとも。
もう少し飾りがあると思っていた。
実際には。
長い机。
壁一面の棚。
分類された竹簡。
木札。
算木。
鍵のかかった箱。
そして。
何人もの書記官。
部屋にある物のほとんどが。
記録と計算のための道具だった。
美しい飾り布も。
高価な置物もない。
窓辺に。
小さな花が一輪飾られているだけ。
栄華は机の奥へ座り。
次々と運ばれてくる竹簡へ目を通していた。
「東部砦の矢は?」
「先月の使用量から見て、三千本で足ります」
「二千五百に」
「五百は中央倉へ残しますわ」
「ですが、敵襲の可能性が」
「報告では、東部の敵影は減少しています」
「余分を置くなら」
「北の街道警備へ回しなさい」
「承知しました」
一つ。
次。
「西部の兵糧は?」
「雨で二割が傷みました」
「管理責任者を呼びなさい」
「罰するのですか?」
「原因を聞きます」
「倉の屋根なら修理費」
「不注意なら処分」
「輸送中の事故なら、次の方法を考える」
「事実を確認する前に、罰を決めるものではありませんわ」
「はっ」
さらに次。
「黒狼隊の靴」
「職人から試作品が届いております」
「十足だけ先行支給」
「一週間使用させて」
「傷み方を記録」
「問題がなければ百足」
「そこで再び確認します」
「最初から千二百足作らないのか」
時雨が言った。
栄華の目が竹簡から上がる。
「いつから、そこにいらしたの?」
「少し前」
「声をかけなさいませ!」
「忙しそうだった」
「だからといって」
栄華は扇へ手を伸ばしかけ。
仕事中であることを思い出したのか。
そのまま手を机へ戻した。
今日は。
普段の華やかな扇を持っていない。
代わりに。
細い筆を握っている。
「なぜ最初から作らない」
時雨がもう一度尋ねた。
「試作品ですから」
栄華は答える。
「実際に使わなければ分からない問題があります」
「歩けば足へ当たるかもしれない」
「雨に濡れれば重くなるかもしれない」
「一度に千二百足作り」
「失敗すれば」
「すべて無駄ですわ」
「十足なら」
「失敗しても傷は小さい」
「ああ」
時雨は頷く。
「黒山でも同じだ」
「何がですの?」
「新しい道を作る時」
「最初から全部は通さない」
「先に少人数で歩く」
「崖が崩れないか」
「敵に見つかりやすくないか」
「水があるか」
「確かめてから広げる」
栄華の表情が僅かに変わる。
「では」
「理解できますわね?」
「考え方は」
「なら話が早いですわ」
栄華は自分の前の席を指す。
「お座りなさい」
時雨は立ったままだった。
「座らないの?」
「すぐ終わるだろ」
「終わりません」
「なぜだ」
「あなたが何も知らないからです」
栄華は机の上へ。
数本の竹簡を並べる。
「まず」
「あなたの給金」
「黒狼隊の運営費」
「武具の支給額」
「食費」
「宿舎」
「医療費」
「予備費」
「そして」
「あなたが個人で自由に使える金額」
時雨は竹簡を見下ろす。
「多いな」
「あなたが背負っている額ですわ」
「金は栄華が管理する」
「だからこそ」
栄華は真っ直ぐ時雨を見る。
「知りなさい」
昨日。
曹操から聞いた言葉と同じだった。
自分が何を預けるのか。
知らなければ。
本当の意味で任せたことにはならない。
時雨は仕方なく席へ座る。
栄華は最初の竹簡を開いた。
「あなたの月給は」
「魏将としての基本給」
「黒狼隊指揮官としての手当」
「旧燕国統合の特別任務手当」
「合わせて、こちらです」
栄華が数字を示す。
時雨はしばらく見る。
「多いのか」
栄華の目が細くなる。
「比較対象は?」
「黒山では給金なんてなかった」
「必要な物は倉から出した」
「金を持っていても」
「使う場所が少なかった」
「では」
栄華は別の竹簡を出す。
「一般兵の月給が、こちら」
「黒狼隊の試用兵は、その八割」
「中級将校が、この額」
「華論たちが、この額」
「曹操様は?」
「王の私費と国庫を一緒にしないでくださいませ」
「違うのか」
「当然です!」
栄華の声が大きくなる。
書記官たちが。
一瞬だけこちらを見た。
すぐに仕事へ戻る。
「曹操様が自由になさる金も」
「国の金とは分けております」
「国庫は曹操のものじゃないのか」
「曹操様が治める国の財です」
「個人の所有物ではありません」
「曹操なら全部自分のものと言いそうだが」
「言葉の意味が違いますわ!」
栄華は額へ手を当てた。
「曹操様は魏のすべてへ責任を持つ」
「だから、すべてを自分のものとおっしゃる」
「ですが」
「好き勝手に使ってよいという意味ではありません」
「曹操様ご自身も」
「国の財へ手をつける時は、目的を示されます」
「栄華が止めるのか」
「必要なら」
即答だった。
時雨は少し驚いたように栄華を見る。
「曹操へ逆らうのか」
「逆らうのではありません」
「お支えするのです」
栄華は胸を張る。
「曹操様が欲しい物を」
「ただ差し出すだけなら」
「誰にでもできます」
「それによって」
「魏のどこが苦しくなるか」
「何を削る必要があるか」
「本当に今必要なのか」
「それを申し上げるのが、わたくしの役目」
「曹操が怒っても?」
「怒られますわ」
栄華は僅かに遠い目をした。
どうやら。
実際に何度も怒られたことがあるらしい。
「それでも止めます」
「止められなければ」
「金庫番ではありませんもの」
時雨は。
机の上に並ぶ竹簡を見る。
数字。
記録。
物資の名。
誰へどれだけ与えたか。
どこへどれだけ残っているか。
時雨には。
戦場ほど分かりやすくない。
敵がいるわけでもない。
剣を振る必要もない。
だが。
ここにも戦いがある。
今日使う金と。
明日残す金。
目の前で困っている者と。
まだ姿の見えない未来の困窮。
どちらへ手を伸ばすか。
選び続ける戦い。
一つ間違えれば。
すぐに誰かが死ぬわけではない。
だからこそ。
間違いへ気づくのが遅れる。
気づいた時には。
兵糧がない。
武器がない。
給金が払えない。
国そのものが動かなくなる。
「栄華」
「何ですの?」
「怖くないのか」
「何がです?」
「間違えることが」
栄華の表情が。
僅かに止まる。
時雨は竹簡を見たまま続けた。
「武器なら」
「失敗した時に分かる」
「敵に負ける」
「兵が死ぬ」
「すぐ見える」
「だが金は」
「今日の判断が」
「何月も後に響く」
「どこで間違えたか」
「分からなくなる」
栄華は。
すぐには答えなかった。
部屋では。
算木を動かす音。
竹簡を巻く音。
書記官の小さな声。
仕事の音だけが続いている。
「怖いですわ」
やがて。
栄華が答えた。
声は。
いつもの高慢さを少し失っていた。
「毎日」
「怖いと思っております」
時雨が顔を上げる。
栄華は。
手元の竹簡を見つめている。
「わたくしが一つ間違えれば」
「武器が届かないかもしれない」
「冬を越す食料が不足するかもしれない」
「兵の家族が」
「給金を受け取れないかもしれない」
「数字の向こうに」
「人がいることを忘れれば」
「金庫番は、ただの守銭奴になります」
「だから」
栄華は筆を握る指へ。
少し力を込めた。
「怖くなくなってはいけないと思っています」
「怖いから」
「何度も確かめる」
「他の者へ計算させ」
「自分でも計算する」
「記録を残し」
「後から間違いを探せるようにする」
「自分を信用してないのか」
「しておりません」
栄華は即答した。
「人は間違えます」
「わたくしも」
「曹操様も」
「あなたも」
「だから制度があるのです」
時雨は黙った。
曹操も間違う。
自分も間違う。
時雨は兵たちへ。
そう教えた。
だが。
自分の判断を記録し。
後から確かめ。
誰かに止めさせる。
そこまでの仕組みは。
黒山にはなかった。
時雨が間違えれば。
側近が意見を言うことはあった。
それでも最後は。
時雨一人が決めた。
その時の時雨を止める仕組みも。
後から検証する記録も。
十分ではなかった。
「俺が」
時雨が言う。
「黒山で使った物も」
「記録しておけばよかったな」
栄華は彼を見る。
「過去のことですか?」
「ああ」
「どの砦へ」
「何をどれだけ送ったか」
「誰へ任せたか」
「頭の中では覚えてた」
「だが」
「俺がいなくなれば終わる」
「書いておけば」
「他の奴でも続けられた」
後悔。
時雨の声には。
深く沈んだ悔いがあった。
すべてを覚えることが。
自分の役目だと思っていた。
忘れなければよい。
自分が倒れなければよい。
そう考えていた。
だが。
人は。
いつか倒れる。
どれだけ強くても。
すべてを持ったまま。
永遠に立ち続けることはできない。
「今から覚えればよいのです」
栄華が言う。
時雨が彼女を見る。
「遅くありません」
「黒山でできなかったことを」
「魏でなさればよろしい」
「あなたが覚えていることを」
「記録へ残す」
「黒狼隊の者へ教える」
「あなた一人の知識を」
「魏の知識へ変える」
栄華の声は。
強く。
迷いがなかった。
「そのために」
「書類を作るのですわ」
時雨の顔が僅かに曇る。
「結局、そこか」
「重要なことです!」
「長い文章はいらない」
「必要です!」
「短くしろ」
「内容を削ることは認めません!」
「言い方を短くする」
「それなら検討いたします」
「できるのか」
「わたくしを誰だと思っておりますの?」
「金庫番」
「そうですわ!」
栄華は胸を張る。
そして。
少しだけ口元を緩めた。
「あなたに合う書式を考えます」
「必要物資」
「数」
「目的」
「使用場所」
「管理者」
「結果」
「これだけは必ず書く」
「長いな」
「これ以上は減らしません!」
「分かった」
時雨は頷く。
「覚える」
栄華が目を瞬く。
時雨が。
書類を覚えると。
自分から言った。
たったそれだけ。
だが。
昨日まで。
面倒だ。
書記官へ任せる。
そう言っていた男が。
自分の知識を残すために。
制度を学ぼうとしている。
「教えろ、栄華」
時雨は真っ直ぐ彼女を見る。
「俺一人しか知らないことを」
「俺がいなくても使えるようにする方法を」
栄華の胸へ。
小さな熱が生まれた。
男は嫌いだ。
力を誇り。
自分の価値だけを信じ。
他人へ責任を押しつける者が嫌いだ。
だが。
目の前の男は。
自分の力を残すためではなく。
自分がいなくなった後も。
誰かが生きられるようにしようとしている。
「仕方ありませんわね」
栄華は扇がないことを忘れ。
手を口元へ上げかける。
途中で止め。
僅かに視線を逸らした。
「わたくしが」
「一から教えて差し上げます」
「頼む」
「ただし」
「何だ」
「教えている途中で眠った場合」
「給金を減らします」
「なぜ金になる」
「あなたには、それが最も効くと判断しました」
「俺は金を使わない」
「では黒狼隊の酒代を減らします」
時雨の眉が動く。
「それは困る」
「でしょう?」
栄華は勝ち誇ったように微笑んだ。
「金庫番を甘く見ないことですわ」
---
午前の終わり。
時雨は。
自分の給金額を覚えた。
黒狼隊の月間食費。
装備維持費。
宿舎の管理費。
医療費。
予備費。
それぞれが。
どこから出され。
誰の確認を通り。
どの記録へ残るのか。
すべてを完全に理解したわけではない。
だが。
少なくとも。
昨日までよりは。
自分がどれだけの金を預けられているか分かった。
部屋を出ようとした時。
栄華が呼び止める。
「時雨」
真名。
時雨が振り返る。
栄華は。
机の引き出しから、小さな布袋を取り出した。
「何だ」
「あなたの今月分の給金です」
「いらない」
「受け取りなさいませ!」
「使わない」
「使うかどうかではありません!」
栄華は立ち上がり。
時雨の前へ来る。
布袋を胸元へ押しつける。
中には。
硬貨が入っている。
それなりの重み。
「これは」
「あなたが魏のために働いた対価です」
「黒狼隊へ使うなと?」
「必要なら」
「正式な手続きで使いなさい」
「これは、あなた自身のために使う金です」
「欲しい物はない」
「食事」
「宿舎で出る」
「衣」
「曹操が勝手に用意する」
「武器」
「ある」
「酒」
「支給される」
「……少しくらい、自分で買いなさいませ」
栄華は呆れたように言う。
「金を使わない者は」
「金の価値を正しく知れません」
「使いすぎても駄目」
「使わなくても駄目」
「面倒だな」
「生きることは面倒なものですわ」
昨日までなら。
栄華自身が。
このような言葉を言うとは思わなかった。
時雨は布袋を見る。
「何を買えばいい」
「ご自分で考えなさい」
「思いつかない」
「では」
栄華は少し考える。
「夕食でも買ってくださいませ」
「王宮で出る」
「外で」
「なぜ」
「許昌の民が」
「何を食べ」
「何を売り」
「どれくらいの値で暮らしているか」
「ご自分の目で見ればよいでしょう」
時雨は栄華を見る。
「仕事か」
「半分は」
「残りは」
「あなたが」
「自分のために金を使う練習です」
「食うのは自分のためだろ」
「黒山の民へ味を伝えるため」
「黒狼隊へ食べさせられるか確かめるため」
「そういう理由をつけることは禁止です」
時雨は黙った。
栄華には。
完全に読まれている。
自分のため。
その言葉が。
時雨には難しい。
誰かのためなら。
迷わず使える。
兵。
民。
家族を持つ者。
腹を空かせた子供。
必要な理由がある。
だが。
自分が欲しいから。
自分が食べたいから。
それだけで金を使うことへ。
どこか罪悪感があった。
黒山では。
一人が多く食べれば。
誰かの分が減ることもあった。
一枚の衣を自分へ回せば。
冬を越せない者が出ることもあった。
だから。
時雨は。
自分の欲を後へ回すことを覚えた。
それが。
今も身体へ染みついている。
「魏では」
栄華が静かに言う。
「あなたが一食多く食べたからといって」
「誰かが飢えるわけではありません」
時雨が僅かに目を細める。
「少なくとも」
栄華は続ける。
「そうならないように」
「わたくしたちが国を支えています」
「あなたが自分の給金で食事を買い」
「店の者が利益を得る」
「その者が材料を買い」
「農民へ金が渡る」
「金は」
「倉へ閉じ込めておくだけでは意味がない」
「正しく使われ」
「人から人へ渡ることで」
「国を動かします」
「だから」
栄華は布袋を。
もう一度時雨へ差し出す。
「使いなさい」
「あなた自身が」
「魏の中で生きていることを」
「金を通して知りなさいませ」
時雨は。
しばらく布袋を見た。
やがて受け取る。
「分かった」
「夕方、何か買う」
「必ずですわよ」
「忘れたら」
「確認します」
「どうやって」
「柳琳へ頼みます」
「なぜ柳琳が出てくる」
「午後は柳琳とご一緒なのでしょう?」
時雨の眉が寄る。
「曹操から聞いたのか」
「当然です」
「皆で俺を見張ってるのか」
「あなたが一人で何でも抱え込むからですわ」
栄華は平然と答えた。
「諦めなさいませ」
時雨は布袋を懐へ入れる。
官印の隣。
魏将としての権限と。
魏で働いた対価。
異なる重みが。
同じ懐へ収まる。
「栄華」
「何ですの?」
「午後」
「柳琳と負傷兵の話をする」
「その後」
「金の話が必要になるかもしれない」
「でしょうね」
「来られるか」
栄華が少し驚く。
「わたくしも?」
「ああ」
「負傷兵が」
「兵ではなくなった後の役目を決める」
「給金と住む場所も必要だ」
「柳琳だけでは決められない」
「俺も金は分からない」
「だから栄華がいる」
昨日。
時雨は栄華へ。
金と物資を任せると言った。
今日。
本当に必要な場へ。
自分から彼女を呼ぼうとしている。
栄華は。
ほんの僅かに。
嬉しさを覚えた。
だが。
それを表へ出すつもりはない。
「仕方ありませんわね」
「午後の仕事を調整いたします」
「助かる」
「何度も礼を言わなくて結構です」
「なぜだ」
「その度に」
栄華は僅かに顔を逸らす。
「調子が狂いますの」
「よく分からない」
「分からなくて結構ですわ!」
栄華の声が。
仕事部屋へ響く。
書記官たちは。
また何も聞いていない顔で。
黙々と仕事を続けた。
---
午後。
黒狼隊の治療所には。
三人の兵が集められていた。
いずれも。
長く戦場へ立ってきた者。
傷の重さは異なる。
一人は。
右腕が肩より上へ上がらない。
一人は。
左目の視力を大きく失っている。
最後の一人。
名を陳岳という男は。
右足へ古い傷を抱えていた。
黒山で。
時雨と十年以上戦ってきた兵。
若い頃は。
山道を誰より速く走った。
今も剣を振る力はある。
だが。
長時間歩けば。
膝から下へ激しい痛みが走る。
昨日の訓練でも。
最後まで隠して走り切った。
その夜。
足が腫れ。
自力で立てなくなった。
柳琳の判断では。
兵として訓練を続ければ。
いずれ完全に歩けなくなる。
時雨は。
三人の前へ座っていた。
隣には柳琳。
少し離れた場所に栄華。
治療所の外には。
韓武と石剛が待っている。
「話は聞いたか」
時雨が尋ねる。
三人は頷く。
右腕を負傷した兵が。
最初に口を開いた。
「兵から外れることは」
「覚悟しております」
「弓は引けません」
「槍も長く持てない」
「足手まといになるくらいなら」
「別の役目をいただきたい」
左目を負傷した兵も続く。
「私もです」
「夜間の見張りは難しい」
「ですが」
「荷の管理や」
「武器の修理ならできます」
二人は。
すでに自分の傷を受け入れ始めていた。
問題は。
陳岳だった。
俯いたまま。
何も言わない。
時雨が呼ぶ。
「陳岳」
「……はい」
「お前は」
「兵を続けたい」
「はい」
「歩けないのにか」
「歩けます」
「昨日、立てなかった」
「少し休めば」
「柳琳」
時雨が呼ぶ。
柳琳は。
陳岳へ向き直る。
「休めば」
「今の腫れは引くでしょう」
陳岳の顔が僅かに上がる。
「なら」
「ですが」
柳琳は静かに続ける。
「次に同じ負担をかければ」
「さらに悪くなります」
「繰り返せば」
「杖がなければ歩けなくなる可能性もあります」
陳岳は唇を噛む。
「それでも」
「俺は戦えます」
「戦うだけならな」
時雨が言う。
陳岳が時雨を見る。
「敵が目の前にいる」
「一度だけ剣を振る」
「それなら戦える」
「だが軍は」
「そこまで歩く」
「戦った後、戻る」
「仲間と同じ速度で動く」
「それができない」
「誰かが支えます」
「その誰かが死ぬ」
時雨の言葉は冷たい。
だが。
嘘ではない。
戦場で。
一人を支えるため。
別の一人が剣を振れなくなる。
退路で遅れれば。
隊全体が危険へ晒される。
情だけで。
兵へ残すことはできない。
「俺は」
陳岳の声が震える。
「黒山で」
「時雨様と戦ってきました」
「ずっと」
「あなたの背中を追って」
「ああ」
「燕が終わっても」
「黒狼隊にいれば」
「まだ、あなたの兵でいられると思った」
「兵じゃなくなれば」
「俺は」
「何者になるんです」
治療所へ。
重い沈黙が落ちた。
時雨は。
すぐに答えられなかった。
陳岳の恐怖は。
足の傷ではない。
役目を失うこと。
時雨の近くへいる理由を失うこと。
それまでの人生が。
すべて無駄になること。
黒山の者たちにとって。
武器を持つことは。
生きるための手段だった。
同時に。
自分の価値を証明する方法でもあった。
戦えない者は。
守られるだけの存在になる。
食料を減らす者になる。
そう考える者は多い。
時雨自身も。
かつては。
戦えない自分を想像できなかった。
剣を持てなくなれば。
何が残る。
指揮もできず。
民を守れず。
誰かの役に立てないなら。
生きる意味があるのか。
陳岳の言葉は。
時雨の中にある。
同じ恐怖へ触れていた。
「時雨」
柳琳が静かに呼ぶ。
時雨は彼女を見る。
柳琳は。
答えを急かさない。
ただ。
時雨が一人で結論を出さないように。
隣へいる。
「陳岳さん」
柳琳が男へ向き直る。
「兵でなくなれば」
「時雨の側へいられないとお思いですか?」
陳岳は答えない。
その沈黙が。
答えだった。
「治療所の補助を」
柳琳は続ける。
「お願いしたいと思っています」
「俺が?」
「はい」
「私たちは」
「黒山で皆さんが、どのように傷を治していたか知りません」
「使っていた薬草」
「傷を負った時の移動方法」
「山で負傷者を運ぶ方法」
「陳岳さんは」
「長く戦ってこられた」
「多くの怪我人を見てきたはずです」
陳岳は僅かに顔を上げる。
「ですが」
「俺は医者では」
「医者になる必要はありません」
「傷を負った兵の話を聞く」
「怖がる者の隣へいる」
「無理を隠す者を見つける」
「時雨の前では」
「大丈夫だと言い張る方も」
「陳岳さんになら」
「本当のことを話すかもしれません」
陳岳の目が揺れる。
時雨は。
柳琳の言葉を聞きながら。
昨日のことを思い出していた。
黒狼隊の者は。
時雨の前で弱さを見せない。
頭領だったから。
期待へ応えようとするから。
だから。
時雨以外の誰かが。
弱さを見る必要がある。
柳琳一人では。
千二百名すべてを見ることはできない。
陳岳が。
その役目を担う。
それは。
兵より劣る役目ではない。
別の形で。
黒狼隊を守る仕事。
「陳岳」
時雨が呼ぶ。
「はい」
「兵から外す」
男の顔が歪む。
それでも。
時雨は言葉を止めない。
「だが」
「黒狼隊からは外さない」
陳岳が目を見開く。
「治療所へ入れ」
「柳琳の下で」
「怪我人を見ろ」
「山で使っていた薬草」
「傷の縛り方」
「担架の作り方」
「知ってることを全部教えろ」
「字が書けるなら記録しろ」
「書けないなら」
「誰かに書かせる」
栄華が横から口を挟む。
「書記官を一人つけますわ」
時雨が彼女を見る。
「いいのか」
「必要でしょう?」
「医官へ教えられる知識なら」
「黒狼隊だけでなく」
「魏軍全体で使えます」
栄華は竹簡を開く。
「陳岳さんは」
「軍属として登録」
「給金は正式な兵の七割」
「ただし」
「治療補助手当を加えます」
「宿舎と食事は従来通り」
「働きが認められれば」
「医療隊の正式な職へ移ることも可能です」
陳岳は。
栄華と柳琳を交互に見る。
そして。
最後に時雨を見る。
「俺は」
「まだ」
「時雨様の下にいてよいのですか」
時雨の眉が寄る。
「俺の下じゃない」
陳岳の表情が沈む。
「魏の中にいる」
時雨は続けた。
「黒狼隊の仲間だ」
「俺がいなくても」
「お前の仕事は残る」
「俺のためじゃなく」
「怪我をした奴らのために働け」
陳岳は黙った。
「それでも」
時雨は少しだけ言葉を探す。
「俺が傷を負った時は」
「お前が見ろ」
陳岳の顔が上がる。
「時雨様が?」
「俺も怪我はする」
「隠すかもしれない」
柳琳が。
僅かに笑った。
栄華も。
呆れたように息を吐く。
「隠すと、ご自分で宣言なさるの?」
「可能性の話だ」
「絶対に隠しますわ」
「そうですね」
柳琳まで頷く。
時雨は二人を見る。
「なぜ決めつける」
「昨日、疲れていないとおっしゃいました」
柳琳が答える。
「実際は眠りかけていたでしょう?」
「少し目を閉じただけだ」
「それを疲れていると言うのです」
「その程度なら」
「ほら」
栄華が指を向ける。
「今も認めません」
「だから陳岳さん」
「この方が怪我を隠した時は」
「遠慮なく柳琳へ報告なさい」
「栄華にもか」
「もちろんです」
「なぜ金庫番へ」
「治療費を計算します」
「逃げ道がないな」
「作るつもりもありませんわ」
二人のやり取りを聞き。
陳岳の口元へ。
僅かな笑みが浮かんだ。
兵ではなくなる。
その事実は消えない。
剣を持ち。
時雨の背中を追って走る日は終わる。
だが。
居場所まで失うわけではない。
別の役目。
別の立ち位置。
それでも。
同じ黒狼隊。
同じ魏。
「お受けします」
陳岳は深く頭を下げた。
「治療所で」
「働かせてください」
「よし」
時雨は短く答える。
「ただし」
陳岳が顔を上げる。
「俺が怪我をしても」
「曹操へは言うな」
柳琳と栄華が。
同時に時雨を見る。
「必ず報告します」
「当然、報告いたしますわ」
「陳岳」
「申し訳ありません」
陳岳は苦笑する。
「それは、お約束できません」
時雨は。
三人の顔を順に見た。
「もう裏切ったのか」
「魏のためです」
陳岳は答えた。
先ほどまで。
兵でなくなることを恐れていた男。
今は。
新しい役目の最初の仕事として。
時雨を止めようとしている。
時雨は小さく息を吐く。
「分かった」
「諦める」
柳琳の表情が柔らかくなる。
栄華は満足そうに頷いた。
---
残る二人の役目も決まった。
右腕が上がらない兵は。
武具の修理班へ。
黒山で長く。
刃を研ぎ。
革を縫い。
壊れた弓を直してきた経験を持っていた。
左目の視力を失った兵は。
倉の管理へ。
夜間の見張りは難しい。
だが。
物の数を覚えることに長け。
黒山の砦でも。
兵糧の配分を手伝っていた。
栄華は。
二人の能力を聞き取り。
給金と役職を決めた。
柳琳は。
身体へ無理がかからない仕事か確認する。
時雨は。
本人たちへ。
その役目を受ける意思があるか尋ねた。
三人の判断。
どれか一つだけでは。
決められなかった。
時雨だけなら。
役目を用意して終わったかもしれない。
柳琳だけなら。
身体と心を優先しすぎ。
軍の制度へ組み込めなかったかもしれない。
栄華だけなら。
数字と規則へ合う仕事を選び。
本人の誇りを見落としたかもしれない。
三人が。
別々の目で見たからこそ。
戦えなくなった者へ。
新しい居場所を作ることができた。
話が終わり。
兵たちが治療所を出ていく。
陳岳だけが。
扉の前で一度振り返った。
「時雨様」
「なんだ」
「俺は」
「役に立てますか」
時雨は。
少し考える。
「今までより役に立て」
陳岳の目が見開かれる。
「怪我人を減らせ」
「戻れなくなる奴を」
「一人でも少なくしろ」
「兵だった時より」
「難しい仕事だ」
陳岳の顔へ。
ゆっくりと力が戻る。
「はい」
「必ず」
男は。
深く頭を下げ。
今度こそ治療所を出ていった。
扉が閉まる。
室内には。
時雨。
柳琳。
栄華。
三人だけが残った。
時雨は。
しばらく扉を見ていた。
「よかったですね」
柳琳が言う。
「ああ」
「ですが」
「何だ」
「時雨だけでは」
「今日の結論には至らなかったと思います」
時雨は柳琳を見る。
責める声ではない。
ただ。
事実を伝えている。
「兵ではなくても」
「黒狼隊へ残せばいいとは考えた」
「はい」
「でも」
「陳岳さんが」
「何を失うと恐れているのか」
「すぐには分からなかったでしょう?」
時雨は答えない。
柳琳の言う通りだった。
時雨は。
陳岳の足を見た。
戦えるか。
戦えないか。
どの仕事ならできるか。
役目を考えた。
だが。
兵でなくなることが。
陳岳にとって。
時雨との繋がりを失うことだとは。
言われるまで気づかなかった。
「俺は」
時雨が言う。
「役目を与えれば」
「居場所になると思ってた」
「多くの場合は」
「そうだと思います」
柳琳は答える。
「ですが」
「人は役目だけで生きるのではありません」
「誰といたいか」
「誰に認められたいか」
「どこへ帰りたいか」
「それも」
「居場所を決めます」
時雨は。
昨日の宴で。
自分が口にした言葉を思い出す。
帰る場所は。
ここになるのかもしれない。
許昌。
魏。
曹操の隣。
役職を得たから。
官印を持ったから。
それだけではなかった。
真名を預け。
預けられ。
戻れば。
お帰りと呼ぶ者がいる。
だから。
帰る場所になる。
陳岳も同じだった。
兵という役目より。
時雨の仲間であり続けられるか。
それを恐れていた。
「柳琳」
「はい」
「俺は」
「人の気持ちを見るのが苦手らしい」
栄華の目が僅かに開く。
時雨が。
自分の苦手を。
言葉にした。
黒山の頭領だった男。
何でも決め。
自分が最後に背負う男。
その時雨が。
自分には見えないものがあると。
認めた。
柳琳は。
静かに微笑む。
「では」
「私へお任せください」
「全部は任せない」
「もちろんです」
「時雨も」
「見ようとしてください」
「分からない時は」
「私へ尋ねてください」
「聞けば分かるのか」
「一緒に考えられます」
時雨は頷く。
「ああ」
「頼む、柳琳」
「はい、時雨」
二人のやり取りを見ていた栄華が。
小さく咳払いした。
「わたくしもおりますけれど?」
時雨が栄華を見る。
「分かってる」
「でしたら」
「少しくらい、こちらへも何かございませんの?」
「何が欲しい」
「そういうことではありません!」
栄華は扇を広げる。
午後になり。
いつもの扇を持ってきていた。
顔の半分を隠す。
「柳琳へは」
「頼むと素直におっしゃるのに」
「わたくしへは」
「金は出せるか」
「書類を作れ」
「来られるか」
「そればかり」
「頼んでるだろ」
「言い方の問題ですわ!」
「またか」
「またです!」
栄華は時雨へ一歩近づく。
「人へ頼ることを覚えるなら」
「頼み方も覚えなさいませ!」
「どう言えばいい」
「まず」
栄華は。
言おうとして止まる。
頭を下げろ。
丁寧に頼め。
そう言うつもりだった。
だが。
今朝。
時雨は自分へ。
教えろと頼んだ。
礼儀正しくはない。
だが。
真剣だった。
そして午後。
必要な判断へ。
栄華がいると。
真っ直ぐ言った。
形は不器用でも。
頼られていることは分かる。
「……もう少し」
栄華は扇の向こうで言う。
「優しくおっしゃいなさい」
「優しく?」
「はい」
時雨は少し考える。
「栄華」
「何ですの」
「金を出してくれ」
「全然変わっておりませんわ!」
柳琳が。
思わず小さく笑った。
栄華が彼女を見る。
「柳琳まで笑わないでくださいませ!」
「申し訳ありません」
柳琳は口元へ手を当てる。
それでも。
笑みは消えていない。
時雨は眉を寄せる。
「何が違う」
「まず理由をおっしゃいなさい!」
「陳岳たちの給金が必要だ」
「その後!」
「頼む」
「もう少し!」
時雨は黙った。
しばらく。
真剣に考える。
「栄華がいないと」
栄華の扇が止まる。
「制度へ入れられない」
「俺は」
「陳岳たちを黒狼隊へ残したい」
「だが」
「勝手に残せば」
「魏の中で役目にならない」
「給金も続かない」
「だから」
時雨は栄華を見る。
「栄華の力を借りたい」
治療所が。
静かになる。
柳琳は。
優しい目で二人を見ていた。
栄華は。
扇の向こうへ顔を隠したまま。
動かない。
「これでいいか」
時雨が尋ねる。
「……最低限ですわ」
声が小さい。
「顔が赤いぞ」
「夕陽です!」
「まだ日が高い」
「気のせいですわ!」
「そうか」
「そうです!」
栄華は。
勢いよく竹簡を開く。
「陳岳さんたちの登録は」
「今日中に済ませます」
「明日から」
「それぞれの部署へ仮配属」
「一月後に適性を確認」
「問題がなければ正式登録」
「よろしいですわね?」
「ああ」
「助かる」
「ですから」
栄華は僅かに声を弱める。
「何度も礼を言わないでくださいませ」
「なぜだ」
「……調子が狂うからです」
今度は。
怒鳴らなかった。
時雨は。
栄華の扇の向こうを。
しばらく見た。
だが。
それ以上聞かなかった。
人の気持ちを見るのが苦手。
そう認めたばかりである。
分からないなら。
無理に答えを出さない。
その代わり。
覚えておく。
栄華は。
礼を言われると調子が狂う。
嫌ではないらしい。
ただ。
慣れていない。
時雨の中へ。
また一つ。
栄華という女についての理解が増えた。
---
治療所を出る頃。
太陽は西へ傾き始めていた。
練兵場から。
黒狼隊の声が聞こえる。
華論の訓練は。
まだ続いているらしい。
時雨は。
そちらへ向かおうとする。
柳琳が呼び止めた。
「時雨」
「なんだ」
「忘れていませんか?」
「何を」
柳琳は。
時雨の懐を指す。
「栄華から」
「給金を受け取ったでしょう?」
時雨の足が止まる。
栄華が。
勝ち誇ったように笑う。
「やはり忘れていましたわね」
「忘れてない」
「今から訓練場へ行くつもりでしたでしょう?」
「終わりを見る」
「その後で買えばいい」
「日が沈みます」
「店はまだ開いてる」
「何を買うか決めていますの?」
時雨は黙った。
何も決めていない。
栄華は大きく息を吐く。
「仕方ありませんわね」
「柳琳」
「はい」
「この方を市場へ連れていきますわよ」
「栄華も行くのか」
「確認する責任があります」
「仕事は」
「部下へ任せます」
時雨が僅かに目を細める。
「人へ任せるのか」
「あなたへ教えたばかりでしょう?」
栄華は胸を張る。
「わたくしも」
「すべてを一人で抱えているわけではありません」
「そうか」
「感心している場合ではありませんわ」
栄華は歩き出す。
「まず練兵場へ寄り」
「華論の訓練結果を確認」
「その後、市場」
「夕食を買う」
「よろしいですわね?」
「俺が決めるんじゃないのか」
「放っておけば」
「何も買わないでしょう?」
「必要な物がなければ」
「練習です!」
「金を使う練習など聞いたことがない」
「今日、聞きましたわ!」
栄華の声が響く。
柳琳は。
二人の後ろを歩きながら。
静かに笑っていた。
---
練兵場では。
黒狼隊が最後の隊列訓練を行っていた。
朝よりも。
動きが揃っている。
合図に合わせ。
前列が止まり。
後列が間隔を詰める。
右へ向きを変える。
再び走る。
完全ではない。
何人かは遅れる。
号令を聞き逃す者もいる。
それでも。
時雨が直接指揮していた昨日より。
別の形で。
部隊として動き始めていた。
華論が時雨を見つける。
「お、来たっすね!」
「どうだ」
「見ての通りっす」
華論は汗を拭う。
「時雨のやり方を壊さず」
「魏軍の動きを少し混ぜたっす」
「でも」
「まだ自分の合図じゃ」
「時雨ほど速く反応しないっすね」
「時間がかかる」
「そうっすね」
「でも」
華論は黒狼隊を見る。
「時雨がいなくても」
「ちゃんと動いたっすよ」
「ああ」
時雨は。
千二百名を見渡す。
疲れている。
だが。
誰も時雨が来るまで訓練を止めていなかった。
華論の命令へ従い。
自分たちで走り。
一日を終えようとしている。
「よくやった」
時雨が言う。
兵たちの姿勢が僅かに上がる。
「だが」
全員の顔が引き締まる。
「まだ遅い」
黒狼隊から。
小さな落胆が漏れる。
「明日は」
華論が笑う。
「今日の半分くらいでいいっすかね?」
兵たちの顔へ。
希望が戻る。
「半分の距離を」
華論は続ける。
「二倍の速さでやるっす」
希望が消えた。
黒狼隊から。
低い呻き声が上がる。
時雨は僅かに笑う。
「華論」
「何っすか」
「任せる」
「了解っす」
華論は。
明るく答えた。
「でも時雨」
「なんだ」
「明日は」
「最初から最後まで見なくていいっすよ」
時雨の眉が僅かに動く。
「なぜだ」
「任せるって」
「そういうことっす」
「結果だけ」
「見に来てほしいっす」
「途中で口を出したくなるでしょう?」
「ああ」
「だったら」
「最初から見ない方がいいっす」
時雨は。
すぐに答えられなかった。
見ない。
それは。
今までの時雨にとって。
無責任と同じ意味だった。
自分が見なければ。
誰かが失敗する。
自分が止めなければ。
誰かが死ぬ。
そう考えてきた。
だが。
華論は。
見なくてよいと言う。
信用して任せろと。
「怖いっすか?」
華論が尋ねる。
時雨は彼女を見る。
「少しな」
正直な答え。
華論は。
驚いた後。
柔らかく笑った。
「じゃあ」
「少しずつ慣れるっす」
昨日。
真名を許した時と同じ言葉。
少しずつ慣れる。
真名を呼ぶことも。
呼ばれることも。
人へ任せることも。
自分が見ていない場所で。
仲間が動くことも。
「分かった」
時雨は頷く。
「明日は」
「最後だけ見る」
「任されたっす」
華論が胸を張る。
栄華は。
少し離れた場所から。
二人を見ていた。
「時雨」
「なんだ」
「よろしい判断ですわ」
「栄華まで」
「わたくしも」
「あなたが人へ任せることを覚えれば」
「余計な支出が減ると期待しています」
「結局、金か」
「金は大切です」
「でも」
栄華は僅かに表情を緩める。
「それだけではありませんわ」
「何だ」
「……何でもありません」
栄華は視線を逸らす。
柳琳は。
その横で穏やかに笑っていた。
---
夕方の市場は。
朝とは違う賑わいに包まれていた。
仕事を終えた職人。
夕食の材料を買う者。
酒を求める兵。
家族の手を引く親。
通りの両側へ。
露店が並ぶ。
焼いた肉の匂い。
煮込み料理の湯気。
油で揚げた餅。
甘い果実。
香辛料。
人々の声と。
食べ物の匂いが混ざり合う。
時雨は。
柳琳と栄華の間を歩いていた。
珍しい組み合わせだった。
黒山の狼。
魏軍の良心。
魏軍の金庫番。
三人が並んで歩く姿へ。
市場の者たちが視線を向ける。
時雨の顔を知る者は。
まだ多くない。
だが。
腰の剣。
紺の衣。
魏将の印を示す飾り。
そして。
曹操の一族である柳琳と栄華が隣にいる。
ただの兵ではないことは分かる。
「何を買うのです?」
栄華が尋ねる。
「まだ決めてない」
「では」
柳琳が露店を見る。
「まず歩いてみましょう」
「気になるものがあれば」
「それを買えばよいと思います」
「気になるもの」
時雨は。
通りを見渡す。
焼いた肉。
饅頭。
魚。
果物。
菓子。
酒。
どれも。
食べられる。
だが。
欲しいかと聞かれると。
よく分からない。
腹は減っている。
それでも。
自分が何を食べたいか。
考える習慣がない。
あるものを食べる。
傷む前に食べる。
全員へ行き渡る物を選ぶ。
それが時雨にとっての食事だった。
「何でもいい」
時雨が言う。
栄華が眉を寄せる。
「禁止ですわ」
「なぜだ」
「自分で選ぶ練習です」
「では安いもの」
「値段だけで決めるのも禁止」
「面倒だな」
「覚悟なさいませ」
栄華は容赦がない。
柳琳は。
時雨の表情を見ながら。
少し考える。
「時雨」
「なんだ」
「黒山で」
「好きだった食べ物はありますか?」
「好き」
「食べると」
「少し嬉しくなるものです」
時雨は。
歩きながら考える。
山での食事。
雑穀。
硬い肉。
山菜。
茸。
干した果物。
時折。
狩りで得た獣の肉。
冬。
砦へ戻った時。
大鍋で煮込まれた汁物。
塩気は薄い。
具も多くない。
だが。
冷えた身体へ。
熱が戻っていく。
「山羊の乳を入れた煮込み」
時雨が言った。
柳琳が微笑む。
「お好きなのですか?」
「黒山では」
「冬に食べた」
「肉と根菜を煮る」
「山羊の乳を少し入れる」
「腹に溜まる」
「それは美味しそうですね」
栄華が周囲を見る。
「山羊の乳を扱う店は」
「この辺りには少ないですわ」
「なら別でいい」
「すぐ諦めない」
栄華は。
近くの店主へ声をかける。
「この市場で」
「北方の乳を扱う店は?」
店主は。
栄華の顔を見て。
すぐに姿勢を正した。
「一本北の通りにございます」
「西域の品を扱う商人が」
「山羊の乳と乾酪を」
「ありがとう」
栄華は歩き出す。
時雨がその横へ並ぶ。
「そこまでしなくていい」
「買うのは、あなたです」
「わたくしは場所を聞いただけ」
「だが」
「自分が食べたい物を」
「一度くらい探しなさいませ」
時雨は。
栄華の横顔を見る。
彼女は。
厳しい。
命令する。
叱る。
無駄を許さない。
だが。
時雨が口にした。
僅かな望みを。
簡単に捨てなかった。
自分のために。
何かを欲しがる。
その練習をさせようとしている。
栄華の優しさは。
柳琳のものとは違う。
柳琳は。
隣へ座る。
休めと告げる。
心へ触れる。
栄華は。
前へ立ち。
逃げ道を塞ぎ。
必要な行動を取らせる。
どちらも。
時雨一人なら。
選ばない道へ連れていく。
店へ着く。
山羊の乳。
乾酪。
肉。
根菜。
香草。
時雨は。
必要な材料を見て。
値段を聞いた。
懐から。
今日受け取った布袋を出す。
硬貨を数える。
多いのか。
安いのか。
まだ感覚は薄い。
栄華が。
隣から値段を確認する。
「適正ですわ」
「値切らなくていいのか」
「必要ありません」
「黒山では」
「商人の言い値で買わなかった」
「ここでは」
「毎回争っていては商売になりません」
「価格にも」
「おおよその基準があります」
「高すぎれば」
「誰も買わない」
「安すぎれば」
「店が潰れる」
「互いに続けられる値を探すのが市場です」
「戦いと同じだな」
「何でも戦いへ例えないでくださいませ」
「分かりやすい」
時雨は。
店主へ金を渡す。
自分の給金。
自分が働いた対価。
自分が食べたいと思った物。
それを買う。
誰かの食料を奪ったわけではない。
国の倉から持ち出したわけでもない。
自分が使った金は。
店主の手へ渡り。
また別の物へ使われる。
小さなこと。
だが。
時雨にとっては。
魏の中で。
一人の人間として暮らす。
最初の行為だった。
「買ったな」
時雨が言う。
「当たり前ですわ」
「何か変わったか」
「すぐには変わりません」
栄華は答える。
「ですが」
「一度できたなら」
「次もできます」
柳琳が。
荷物を見て微笑む。
「せっかくですから」
「三人でいただきませんか?」
時雨が柳琳を見る。
「三人で?」
「はい」
「時雨が好きだった料理を」
「私たちも食べてみたいです」
栄華の眉が僅かに上がる。
「誰が作るのです?」
柳琳が時雨を見る。
時雨も柳琳を見る。
二人の視線が。
栄華へ向く。
「なぜ、わたくしを見るのです!」
「栄華は作れないのか」
「作れます!」
「なら」
「なぜ、わたくしが作る流れになりますの!」
柳琳が小さく笑う。
「三人で作りましょう」
「時雨が」
「黒山での作り方を教えてください」
「俺は入れて煮るだけだ」
「それなら」
「簡単そうですわね」
栄華は。
少しだけ興味を見せる。
「ただし」
「食材の量は測ります」
「なぜだ」
「次に同じ味を作るためです」
時雨は。
一瞬。
言葉を失った。
次に。
同じ味を作る。
記録する。
残す。
黒山で食べた味を。
魏へ持ってくる。
時雨しか知らないものを。
柳琳と栄華が知る。
そして。
いつか。
時雨がいなくても。
同じ料理を作れる者がいる。
それは。
単なる食事以上の意味を持っていた。
「分かった」
時雨は頷く。
「測れ」
「最初から、そのつもりですわ」
栄華は満足そうに笑った。
---
料理を作る場所として選ばれたのは。
柳琳の屋敷にある小さな台所だった。
王宮の厨房を使えば。
流琉や料理人たちが手伝う。
だが。
今回は。
三人だけで作ることになった。
栄華は。
衣の袖を丁寧にまとめ。
髪へ布をかける。
柳琳も。
動きやすい姿へ整える。
時雨は。
買ってきた材料を机へ並べた。
「肉は」
柳琳が尋ねる。
「先に焼く」
「なぜですか?」
「その方が臭みが減る」
「黒山では」
「新鮮じゃない肉も多かった」
「なるほど」
栄華は。
すぐに木札へ書く。
「何を書いてる」
「手順です」
「肉を焼く」
「表面へ色がつくまで」
「量は」
「適当」
「適当では記録になりませんわ!」
「肉の大きさで変わる」
「では」
栄華は肉を一つ持ち上げる。
「この大きさなら?」
時雨は見る。
「表と裏を」
「息を十回ずつ」
「息?」
柳琳が首を傾げる。
「時間を測る物がない時」
「呼吸で数える」
「火の強さでも変わる」
「でも目安にはなる」
栄華は。
少し驚いたように時雨を見る。
「黒山なりの記録方法が」
「あるではありませんの」
「記録じゃない」
「覚え方だ」
「同じです」
栄華は書き加える。
肉を焼く。
根菜を切る。
鍋へ水を入れる。
火へかける。
灰汁を取り。
山羊の乳を加える。
塩。
香草。
時雨の記憶を頼りに。
味を整えていく。
途中。
栄華が塩を量ろうとし。
時雨が手で入れようとして争いになった。
「一つまみでは分かりません!」
「指三本だ」
「指の大きさが違います!」
「栄華の手なら少し多くしろ」
「そういう問題ではありませんわ!」
柳琳が。
二人の間で笑いながら。
小さな匙を用意した。
「これで」
「一杯ずつ入れてみてはいかがでしょう」
「柳琳」
「はい」
「助かる」
「時雨!」
栄華が怒鳴る。
「なぜ柳琳へだけ、すぐ礼を言うのです!」
「助かったから」
「わたくしも手伝っていますわ!」
「栄華も助かってる」
「ついでのように言わないでくださいませ!」
台所へ。
三人の声が響く。
黒山で。
時雨は。
料理を作る時も。
周囲へ命令を出していた。
肉を切れ。
火を見ろ。
水を運べ。
自分も働く。
だが。
すべてを決めるのは時雨だった。
今は。
栄華が量を記録し。
柳琳が味を確かめ。
時雨が記憶を伝える。
三人で。
一つの鍋を作っている。
やがて。
白い湯気が立つ。
山羊の乳の柔らかな香り。
肉と根菜。
香草。
黒山の冬を思い出させる匂い。
時雨は。
鍋を見つめた。
山の砦。
冷たい風。
雪。
大鍋の周囲へ集まる者たち。
腹を空かせた子供。
傷を負った兵。
食事ができたと聞き。
顔を上げる人々。
その中心に。
自分がいた。
だが。
食べる時も。
次の配分を考えていた。
誰が多く必要か。
誰が病気か。
明日の分は残るか。
味を楽しむ余裕は。
ほとんどなかった。
「時雨」
柳琳の声が。
記憶から引き戻す。
「どうしました?」
「何でもない」
「嘘ですわね」
栄華が言う。
曹操と同じことを言う。
時雨は。
二人を見る。
柳琳は心配そうに。
栄華は鋭く。
それぞれ異なる目で見ている。
「黒山を思い出した」
時雨は正直に答えた。
「この匂いで」
「皆と食べたのですか?」
柳琳が尋ねる。
「ああ」
「だが」
「俺は」
「味を覚えてるだけで」
「うまいと思って食べたことは少ない」
栄華の表情が。
僅かに柔らかくなる。
「では」
彼女は器を三つ用意する。
「今日は」
「きちんと味わいなさいませ」
「誰かへ配る量も」
「明日の食料も」
「考えなくてよい」
「この鍋は」
「今日」
「わたくしたち三人で食べるために作ったものです」
柳琳も頷く。
「冷めないうちにいただきましょう」
三人は。
小さな卓を囲んだ。
時雨が。
最初の一口を食べる。
黒山で食べた味と。
完全には同じではない。
山羊の乳は。
少し濃い。
肉も柔らかい。
香草も違う。
それでも。
懐かしい。
そして。
過去より少しだけ。
穏やかな味がした。
「どうですの?」
栄華が尋ねる。
「うまい」
「それだけ?」
「何を言えばいい」
「昨日も曹操様へ同じことをおっしゃったのでしょう?」
「酒はうまかった」
「もう少し」
「感想を言いなさいませ」
時雨は。
もう一口食べる。
「黒山のより」
「柔らかい」
「悪い意味ですか?」
柳琳が尋ねる。
「違う」
「黒山では」
「腹を満たすための味だった」
「これは」
「食べるための味がする」
栄華と柳琳は。
その言葉を静かに受け取った。
飢えないため。
生きるため。
身体を動かすため。
それだけではない。
食べること自体を。
楽しむための味。
時雨が。
それを感じた。
「なら」
栄華が言う。
「お金を使った意味はありましたわね」
「ああ」
時雨は頷く。
「使わなければ」
「食べられなかった」
「当然です」
「金は」
「残すだけじゃ駄目なんだな」
栄華の目が。
僅かに細くなる。
「ようやく」
「少しお分かりになりましたのね」
「使いすぎても駄目」
「使わなくても駄目」
「そうです」
「難しいな」
「だから」
栄華は胸を張る。
「わたくしがおります」
時雨は。
栄華を見る。
自信に満ちた顔。
だが。
その自信の下へ。
間違えることへの恐怖を抱えている。
怖いから。
確かめる。
記録する。
誰かへ任せる。
栄華も。
時雨と同じだった。
重さを感じていないのではない。
感じているからこそ。
一人で背負わない仕組みを作っている。
「栄華」
「何ですの?」
「怖くなった時は」
栄華の手が止まる。
「俺か柳琳に言え」
栄華が目を見開く。
時雨は続ける。
「金のことは分からない」
「だが」
「一人で抱えるよりはましだろ」
柳琳が。
優しく微笑む。
栄華は。
すぐには答えなかった。
自分は。
魏軍の金庫番。
弱さを見せてはならない。
判断へ迷えば。
周囲を不安にさせる。
そう考えてきた。
だから。
怖くても。
自分の中で処理した。
記録。
再計算。
確認。
制度へ分けることで。
感情を表へ出さないようにしてきた。
だが。
時雨は。
自分が苦手なことを認め。
柳琳へ頼んだ。
華論へ任せた。
栄華へ教えを求めた。
ならば。
栄華も。
少しくらい。
預けてもよいのかもしれない。
「考えておきますわ」
小さな返事。
時雨は眉を寄せる。
「今、分かったと言え」
「なぜ曹操様のようなことをおっしゃるの!」
「言われたから」
「だから、わたくしへ同じことを?」
「ああ」
栄華は。
呆れたように時雨を見る。
そして。
ふと。
笑った。
「本当に」
「不器用な方ですわね」
「栄華に言われたくない」
「わたくしは器用です!」
「怖いと言えなかった」
栄華の笑みが止まる。
「……あなたもでしょう?」
「ああ」
時雨は認めた。
「だから」
「同じだな」
栄華は。
何も言えなくなった。
柳琳が。
二人の間へ穏やかな声を置く。
「では」
「二人とも」
「怖い時は」
「私へ話してください」
時雨と栄華が。
同時に柳琳を見る。
柳琳は微笑んでいる。
「私も」
「一人では支えきれない時は」
「お二人へ頼ります」
「柳琳もか」
「もちろんです」
「優しい人は」
「何でも一人で受け止められるわけではありません」
柳琳の声は。
静かだった。
だが。
その言葉には。
自分自身への戒めがあった。
魏軍の良心。
優しい。
穏やか。
誰かの弱さを預かる。
それを期待される。
だが。
柳琳も人間だ。
傷つく。
疲れる。
迷う。
すべてを受け止めれば。
いつか潰れる。
「時雨」
「栄華」
柳琳は二人を見る。
「私が」
「無理をしているように見えた時は」
「止めてください」
時雨は。
すぐに頷く。
「ああ」
栄華も。
少し遅れて答える。
「当然ですわ」
「あなたこそ」
「人の心配ばかりして」
「ご自分を後回しになさるのですから」
柳琳は困ったように笑う。
「そうでしょうか」
「そうです」
「そうだな」
時雨まで同意する。
柳琳は。
二人を見比べる。
「お二人に言われると」
「少し複雑ですね」
「なぜだ」
「どちらも」
「自分を後回しにする方ですから」
時雨と栄華が黙る。
三人は。
互いを見た。
そして。
誰からともなく。
小さく笑った。
似ていない。
柳琳は優しい。
栄華は厳しい。
時雨は不器用。
だが。
三人とも。
自分より先に。
誰かを支えようとする。
方法が違うだけ。
だからこそ。
足りない部分を。
互いに補える。
---
食事が終わった後。
栄華は。
記録した木札を確認した。
「肉の量」
「根菜」
「山羊の乳」
「塩」
「香草」
「手順も、おおよそ分かりました」
「次は」
「流琉へ見せます」
「なぜだ」
「大量に作れるよう」
「調整していただくためです」
時雨の目が僅かに開く。
「黒狼隊へ出せるのか」
「毎日は難しいでしょう」
「ですが」
「冬の訓練後」
「身体を温める食事として」
「月に何度かなら可能かもしれません」
「費用は?」
「今から計算します」
「高いならやめろ」
「すぐにやめろと言わない!」
栄華は怒鳴る。
「山羊の乳が高いなら」
「牛乳で代用する」
「肉を変える」
「一部だけ乾酪を使う」
「味を残しながら」
「費用を下げる方法を考えます」
「それが」
栄華は木札を持ち上げる。
「記録する意味ですわ」
一度作って終わりではない。
誰か一人の記憶だけで終わらせない。
残し。
変え。
広げる。
黒山の味が。
魏軍の食事へ変わるかもしれない。
時雨一人の過去が。
国の中へ残る。
「栄華」
「何ですの」
「頼む」
時雨は。
今度は。
それだけを言った。
だが。
栄華には。
十分だった。
「任せなさいませ」
彼女は胸を張る。
「無駄なく」
「美味しく」
「黒狼隊の皆さんへ届く形にしてみせますわ」
柳琳が微笑む。
「楽しみですね」
「ああ」
時雨は。
残った煮込みを見た。
「曹操にも」
「食わせるか」
栄華と柳琳が。
同時に時雨を見る。
「何だ」
「いえ」
柳琳が笑う。
「曹操様がお喜びになると思います」
栄華も。
扇で口元を隠す。
「ご自分から」
「何かを差し上げようとなさるのですね」
「昨日」
「機嫌を直せと言われた」
「まだ悪いのですか?」
「多分」
「では」
栄華は少し考える。
「ちょうどよろしいでしょう」
「時雨が」
「ご自分の給金で材料を買い」
「ご自分の過去の味を」
「曹操様へ差し上げる」
「きっと」
「何よりの贈り物になりますわ」
時雨は眉を寄せる。
「ただの煮込みだ」
「そう思っているのは」
「時雨だけです」
柳琳が言う。
「曹操様は」
「時雨が何を大切にしてきたか」
「知りたいのだと思います」
「黒山の味をお渡しすることは」
「時雨の過去を」
「少しお預けすることになります」
過去を預ける。
時雨は。
鍋を見る。
燕国。
黒山。
王だった頃。
頭領だった頃。
民と食べた物。
自分だけが覚えている味。
それを。
曹操へ食べさせる。
自分の中へ閉じ込めていたものを。
一つ。
渡す。
「そうか」
時雨は小さく答える。
「なら」
「持っていく」
栄華が頷く。
「器はこちらで用意します」
「柳琳」
「はい」
「味を見てくれ」
「もちろんです」
三人は。
残った煮込みを。
丁寧に器へ移した。
---
その夜。
曹操の部屋。
時雨が扉を開けると。
曹操は机へ向かい。
竹簡を読んでいた。
時雨が来たことに気づき。
顔を上げる。
「遅いわ」
「市場へ行ってた」
「誰と?」
「柳琳と栄華」
曹操の目が細くなる。
「二人と?」
「ああ」
「何をしていたの?」
「飯を作った」
「三人で?」
「ああ」
曹操は。
ゆっくりと竹簡を置く。
笑みはある。
だが。
昨日と同じ。
不機嫌な気配が。
僅かに漂い始める。
「随分と楽しそうね」
「栄華とは喧嘩した」
「柳琳とは?」
「話した」
「何を?」
「色々」
「詳しく話しなさい」
「その前に」
時雨は。
持ってきた器を机へ置く。
曹操の視線が。
器へ向く。
「何?」
「煮込み」
「見れば分かるわ」
「俺が買った」
曹操の目が。
僅かに見開かれる。
「あなたが?」
「ああ」
「自分の給金で?」
「栄華に使えと言われた」
曹操の眉が寄る。
「栄華に言われたから?」
「俺が食べたかった」
曹操の表情が止まる。
時雨は続ける。
「黒山で」
「冬に食べた料理だ」
「山羊の乳と」
「肉と根菜を煮る」
「柳琳と栄華に手伝ってもらった」
「残ったから」
「曹操にも持ってきた」
曹操は。
器を見つめた。
昨日。
時雨は。
華論。
栄華。
柳琳へ真名を許した。
それが。
気に入らなかった。
自分だけのものが。
減っていくように感じた。
だが。
今日。
時雨は。
彼女たちと過ごすことで。
新しい何かを得た。
そして。
得たものを。
曹操へ持ってきた。
真名を分けたから。
曹操のものが減ったわけではない。
むしろ。
時雨が魏の者たちと繋がるほど。
時雨の中にあるものが。
曹操のもとへも届く。
「食べるか」
時雨が尋ねる。
「もちろんよ」
曹操は。
器を自分の前へ引き寄せる。
匙を取る。
一口。
ゆっくりと味わう。
「どうだ」
「そうね」
曹操は少し考える。
「優しい味ね」
時雨の眉が僅かに動く。
「柳琳も入ってるからな」
「料理に人は入りません」
「そういう意味じゃない」
「分かってるわ」
曹操は。
もう一口食べる。
「でも」
「少し頑固な味もするわ」
「栄華か」
「あなたよ」
「なぜだ」
「何となく」
曹操は笑う。
「それと」
「温かい」
「煮込みだからな」
「そういう意味ではないわ」
「分かりにくいな」
「あなたが鈍いのよ」
いつものやり取り。
だが。
昨日までの不機嫌さは。
少しずつ消えていた。
「時雨」
「なんだ」
「ありがとう」
曹操が。
静かに言う。
時雨は。
僅かに目を細めた。
「栄華が記録した」
「次も作れる」
「そう」
「黒狼隊にも出せるかもしれない」
「そう」
「だから」
「俺しか知らない味じゃなくなる」
曹操は。
匙を置く。
「寂しい?」
時雨は。
少しだけ考える。
「少しな」
今日。
何度目かの。
正直な言葉。
「だが」
「悪くない」
「俺がいなくても」
「作れる奴がいる」
「それでも」
「俺と食べたことは」
「残るんだろ」
曹操の蒼い瞳が。
柔らかくなる。
「ええ」
「残るわ」
「味が同じでも」
「誰と食べたかは違う」
「あなたがいなくても作れる」
「でも」
曹操は。
時雨を見る。
「あなたと食べたいと思うことは」
「なくならない」
いなくても動ける。
それでも。
いてほしい。
同じ言葉が。
今日。
何度も時雨の前へ現れた。
華論。
栄華。
柳琳。
曹操。
皆が。
違う形で。
同じことを伝えている。
「少し分かった」
時雨が言う。
「何が?」
「俺がいなくてもよいことと」
「俺がいなくてよいことは」
「違う」
曹操は。
満足そうに微笑んだ。
「ようやく?」
「ああ」
「随分かかったわね」
「難しい」
「なら」
曹操は時雨の袖を掴む。
「忘れないよう」
「何度でも教えてあげる」
「面倒だな」
「でも」
曹操は。
時雨が持ってきた煮込みを。
もう一口食べる。
「今日は許してあげる」
「何を」
「華論たちへ真名を許したこと」
「まだ怒ってたのか」
「少しだけね」
「なら」
時雨は曹操を見る。
「柳琳と栄華にも」
「今日、色々預けた」
曹操の動きが止まる。
「何を?」
「柳琳には」
「人の気持ちを見ること」
「栄華には」
「俺の知識を残す方法と」
「金の使い方」
曹操の目が細くなる。
「随分と」
「たくさん預けたのね」
「ああ」
「でも」
時雨は続ける。
「二人からも預かった」
「柳琳が無理をしてたら止める」
「栄華が怖くなったら」
「話を聞く」
曹操の表情が。
僅かに変わる。
時雨は。
支えられるだけではない。
相手の重さも。
自分へ預けさせようとしている。
一方的な依存ではない。
互いに支える関係。
曹操が。
時雨へ望んでいたもの。
「そう」
曹操は静かに言った。
「よい一日だったのね」
「疲れた」
「でしょうね」
「書類を覚えた」
「栄華に?」
「ああ」
「人の気持ちも教えられた」
「柳琳に?」
「ああ」
曹操は笑う。
「二人とも」
「よい教師でしょう?」
「厳しい」
「栄華はね」
「柳琳も」
「優しいが」
「逃げられない」
「そこが柳琳の強さよ」
曹操は。
残った煮込みを。
ゆっくり食べる。
時雨は。
その隣へ座る。
今夜は。
曹操から命じられる前に。
自分から近い場所を選んだ。
曹操は。
それに気づいた。
だが。
口には出さない。
言えば。
時雨が離れるかもしれない。
代わりに。
時雨の杯へ。
酒を注ぐ。
「今夜は」
「昨日の続きはしないのか」
時雨が尋ねる。
「そうね」
曹操は微笑む。
「今日は」
「あなたが自分から持ってきたものを」
「ゆっくり味わうわ」
「煮込みは、もう食べ終わる」
「料理だけではないもの」
「何だ」
「今日の話」
曹操は時雨を見る。
「栄華に何を教えられ」
「柳琳と何を話し」
「黒狼隊の者へ」
「どんな居場所を作ったのか」
「最初から話しなさい」
時雨は小さく息を吐く。
「長くなるぞ」
「夜は長いわ」
昨日と同じ言葉。
だが。
今夜の声は。
不機嫌ではなかった。
時雨は杯を取り。
一口飲む。
そして。
朝。
栄華の仕事部屋へ行ったところから。
話し始めた。
---
その頃。
柳琳の屋敷では。
栄華が。
料理の記録をまとめていた。
肉の量。
根菜。
乳。
塩。
香草。
火へかける時間。
黒山での作り方。
許昌で手に入る材料。
費用。
大量に作る場合の変更案。
柳琳は。
隣で静かに茶を飲んでいる。
「栄華」
「何ですの?」
「楽しそうですね」
栄華の筆が止まる。
「仕事ですわ」
「そうですね」
「遊びではありません」
「はい」
柳琳は微笑む。
「でも」
「時雨に頼られたことが」
「嬉しかったのではありませんか?」
栄華の頬が。
僅かに赤くなる。
「違いますわ!」
「わたくしは」
「必要な仕事をしただけ!」
「そうですね」
「それ以上でも」
「それ以下でもありません!」
「はい」
柳琳の返事は。
あまりにも素直だった。
かえって。
栄華は落ち着かない。
「柳琳」
「はい」
「あなたこそ」
「時雨へ」
「随分と自然に頼られていたではありませんの」
「そうでしょうか」
「人の気持ちが分からない」
「だから教えてほしいと」
「ほとんど告白のようなものですわ」
「告白?」
柳琳が首を傾げる。
栄華は。
自分で言ってから。
何か違う気がして。
扇を広げた。
「忘れなさい!」
「はい」
「すぐ忘れないでくださいませ!」
「どちらですか?」
「もう!」
栄華の声が。
静かな屋敷へ響く。
柳琳は。
小さく笑った。
「でも」
「よかったと思います」
「何がですの?」
「時雨が」
「自分に見えないものを」
「認められたことです」
「そうですわね」
栄華も。
今度は否定しなかった。
「それに」
柳琳は続ける。
「栄華も」
「怖いとお話しできました」
栄華の手が止まる。
「あれは」
「話の流れです」
「それでも」
「時雨は覚えています」
「でしょうね」
栄華は。
少しだけ困ったように息を吐く。
「あの方は」
「妙なところで」
「人の言葉を忘れませんもの」
「だから」
柳琳は微笑む。
「怖い時は」
「本当に話してもよいと思います」
「あなたにも?」
「もちろんです」
「時雨にも?」
柳琳は頷く。
「はい」
栄華は。
しばらく。
手元の木札を見る。
魏軍の財。
兵の給金。
武具。
食料。
未来。
自分が守るべきもの。
その重さを。
誰かへ完全に渡すことはできない。
だが。
怖いと言うだけなら。
重さを少し。
分けられるのかもしれない。
「考えておきますわ」
栄華が言う。
柳琳は。
何も急かさなかった。
「はい」
それだけ答える。
部屋には。
筆の音が戻る。
黒山の料理が。
魏の記録へ変わっていく。
一人の記憶が。
皆のものへ変わっていく。
そして。
その記録の傍らで。
柳琳と栄華もまた。
時雨から預かった言葉を。
自分たちの中へ。
静かに残していた。
人を支えるということは。
代わりにすべてを背負うことではない。
金を守るということは。
使わせないことではない。
優しくするということは。
何でも許すことではない。
守る。
止める。
預ける。
頼る。
それらを。
一人で行う必要はない。
時雨。
柳琳。
栄華。
三人は。
あまりにも違う。
だからこそ。
同じものを。
別の方向から支えることができる。
黒山の狼は。
剣で守ることしか知らなかった。
だが魏には。
傷へ触れる手があり。
未来へ残す金がある。
そして。
そのどちらも。
剣と同じほど。
人を生かす力を持っていた。
時雨が。
そのことを本当の意味で知ったのは。
戦場ではなく。
一つの治療所と。
一つの市場と。
三人で囲んだ。
小さな鍋の前だった。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!
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